「蟷螂の斧となろうとも」 by 元外資系証券マン

クレディ・スイス証券集団申告漏れ事件(http://goo.gl/v0xQYP)において、国税局査察部告発、検察特捜部起訴の事案で史上初の無罪判決。 著書『勝率ゼロへの挑戦 史上初の無罪はいかにして生まれたか』(光文社)。 ツイッター(@thatta0529)で「#検察なう」の情報発信を続けます。

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「死刑制度について考える (18) ~ 多数決原理で死刑を選ぶことの是非」 

「死刑制度について考える (18) ~ 多数決原理で死刑を選ぶことの是非」

裁判員制度における審理は、裁判官3人と裁判員6人によって行われます。そして、裁判官1人以上を含むことを条件とする特別多数決によって有罪が決定します(例えば9人のうち5人が有罪を選んだ場合、それは過半数ですが、もしその5人が全て裁判員であった場合は、無罪になります)。それは死刑も同じです。

非常に微妙な事案で、4人が死刑にすべきではないという強い確信と信念を持って主張しても、多数決で5人が死刑に票を投じれば(その中の一人は裁判官であることを条件として)、被告人は死刑になります。たった1票の差で無期懲役刑と死刑とが分かれるという場合もあるということです。

人の命を多数決で決めることに違和感を覚える人は少なくないのではないでしょうか。

裁判官のみによる死刑の審理においては、原則全員一致とされていますが、そもそも反対意見を述べた裁判官がいたかどうかは明らかにされません。死刑判決は、最高裁まで審理されることが少なくないのですが、そこで反対意見が付されることはほとんどありません(光市母子殺害事件の最高裁第一小法廷判決に、宮川光治裁判官が反対意見を述べたことは、事件の特殊性を伺わせる例外中の例外のことです)。

しかし、横綱級冤罪の袴田事件でも、一審裁判体の一人の裁判官が無罪心証を抱きながらもほかの二人が有罪心証であったため、有罪判決、しかも死刑判決を書かなくてはいけなかったことを、彼が退官後明らかにしたことは有名な話です(注1)。

最近読んだ文献に永山則夫裁判に関するものがあります(注2)。1968年から1969年にかけて連続ピストル射殺事件で4人を射殺した永山死刑囚の裁判は、一審死刑判決を控訴審が破棄(無期懲役)、そして検察が事実上量刑不当として上告した歴史上初めての事件(それまでも一審死刑判決が控訴審で無期懲役となった例は約200件に上るが、検察が上告することはかつてなかった)です。そしてその最高裁判決は、その後の死刑の基準として「永山基準」と引用される有名な事件です。

その船田三雄裁判長による控訴審判決に次の一節があります。

「ある被告事件につき死刑を選択する場合があるとすれば、その事件については如何なる裁判所がその衝にあっても死刑を選択したであろう程度の情状がある場合に限定せらるべきものと考える」

死刑適用はあくまで例外として謙抑的に適用しようとする精神を表したものとして、腑に落ちるものです。

判決文はその後に次のように続きます。

「立法論として、死刑の宣告には裁判官全員一致の意見によるべきものとすべき意見があるけれども、その精神は現行法の運用にあっても考慮に値するものと考えるのである」

「死刑宣告は裁判官全員一致によってのみなされる」、即ち、地裁9人、高裁3人、最高裁5人の合わせて17人の全員が全員死刑で仕方がないという事案のみ死刑判決が適用されうるとするものですが、それは一考の価値があるのではないでしょうか。

自分は死刑にすべきではないと考えながら、多数決によって、人の命を奪うことを選択せざるを得ない者の心の傷は言葉以上に大きいものだと想像します。自分がもし裁判員に選ばれて、そうした状況に直面した場合のことを考えると、本当に恐ろしくなります。

死刑を適当でないとする意見が、(無期懲役や有期刑ではなく)無罪を支持する場合もあり得ます。例えば、責任能力が問題になる場合(あるいは冤罪だと思う場合も)です。死刑と無罪に票が分かれた場合、死刑が多数派の場合、無罪を支持する人が死刑を宣告しなければならない精神的苦痛はいかほどのものでしょうか。死刑判決は全員一致のみという場合、判決は無期懲役が相当となるはずですが、無罪だと思っている人にとっては、無期懲役であればまだましということになるのではないでしょうか。

しかし、全員一致でのみ死刑を選ぶことにはデメリットもあります。それは、裁判員一人にかかる責任が今以上に大きくなることです。

例えば、自分一人が死刑に反対という状況を考えてみます。ほかの8人が全て死刑を選択していると事案においては、世論がかなり死刑を後押ししていると想像されます。もし自分の一票で、裁判体全体の判断が死刑を選ばないという場合、メディア及び世論のバッシングが懸念されます(例えば、先に挙げた光市母子殺害事件での一審、控訴審無期懲役判決に対してのように)。判決に至る審理で、ほかの裁判官、裁判員の批判に耐えられるかどうかも微妙です。

全員一致の精神は正しいと思いますが、運用面では難しいこともありそうです。

今までは、死刑を支持したかどうか外部に分からなかった裁判員が、全員一致となれば死刑を支持したことが分かってしまうという問題もあります。

誰しもが死刑を求刑する立場になり得る以上、是非、一緒に考えてほしい問題です。

(注1)
ここをクリック→ ブック・レビュー 『美談の男 ― 冤罪袴田事件を裁いた元主任裁判官・熊本典道の秘密』 尾形誠規著

(注2)
『死刑の基準 「永山裁判」が遺したもの』 堀川惠子著
ここをクリック→ Amazon『死刑の基準 「永山裁判」が遺したもの』
非常に興味深く読みました。できれば、永山則夫著『無知の涙』を読んでからの方が心に響きます(但し、『無知の涙』は9割駄文なので少々読むのは辛いです。しかし、1割には素晴らしい輝きがあります)。

永山則夫事件に興味がある方は、こちらも是非ご覧になって下さい。
ここをクリック→ 「ETV特集 永山則夫 100時間の告白 ~封印された精神鑑定の真実~」













ここをクリック→ Amazon 『勝率ゼロへの挑戦 史上初の無罪はいかにして生まれたか』 カスタマーレビュー

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2017/01/30 Mon. 05:44 [edit]   TB: 0 | CM: 3

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「死刑制度について考える(17)~検察庁における死刑」 

「死刑制度について考える(17)~検察庁における死刑」

死刑制度が法的に認められている以上、そして罪科の求刑が検察官の職務である以上、必要相当と認められる場合、検察官は死刑を求刑することになります。彼らの心持ちはどのようなものでしょうか。

その状況に直面した検察官一人一人の心に去来するものは違うでしょうが、彼らも人間であり、いかに職務とはいえ、人の命を奪う責任の重さに複雑な心境になることは間違いないと思われます。

ところが、検察庁ではありませんが、先週、警察庁の金高雅仁長官が、記者クラブにおける会見で、特定危険指定暴力団工藤会への対策について「組織のトップを死刑や無期懲役にもっていき、二度と組に戻れない状態をつくり、恐怖による内部支配を崩していこうという戦略。徹底した捜査を遂げるということで臨んでいる」という発言をしたという報道を目にし、愕然としました。行政機関の一つである警察庁の長が、司法プロセスを全く無視し、極刑適用を企図して行動しているという感覚の鈍磨には国民の一人として危機感を覚えます。

ここをクリック→ 西日本新聞(6月30日付)「トップを死刑や無期懲役に」異例の極刑言及 警察庁長官、工藤会壊滅へ決意

検察庁が死刑求刑に関してどのように考えているか、そのヒントになるコメントを、元検察官の市川寛氏が、彼の著書『検事失格』余話として、「#検察なう」フェイスブック・コミュニティに書き込んでくれました。その一部を以下に引用します。

『検事失格』余話 「検察庁における死刑」

拙著にも書いたとおり、私は死刑にあたる事件の主任として捜査をした経験もなければ、公判で死刑を求刑したこともない。 同期や後輩には、早ければ任官3年目くらいで死刑求刑をした人もいる。

ただ、荒っぽくいうと、死刑求刑が予測されるのは多くが強盗殺人。なにしろ法定刑に死刑と無期懲役しかない。なので、この罪名にあたると死刑を視野に入れながらの仕事になる。もちろん、死刑は強盗殺人に限らない。放火が絡んだり、保険金が絡んだり、あるいは二人や三人ではすまない数の人を殺してしまった場合、単純殺人でも死刑求刑をすることはあり得る。
 
ところで、少なくとも私がいた頃の検察庁では、死刑と無期懲役を求刑する場合は、地検だけにとどまらず、高検の決裁も経なければならなかった。おそらく今もそうではないだろうか。

私は、先輩が高検に死刑求刑の決裁を受けに行くときに同行したことがある。控訴審議でも似たような場面があるが、この求刑決裁でも高検のヒラ検事が「あの証拠はあるのか、この事実は解明しているのか」とそれこそ私からすれば重箱の隅をつつくような指摘を矢継ぎ早にしてきた。その多くはこちらの予測を超えるものではなかったが、例によって私はうんざりした。うんざりしたのは私のいい加減な執務態度によるところが大きかったとは思うが(爆)、この事件は強盗殺人で、しかも殺された被害者が複数いたことにもよる。先に述べたとおり、この罪名で複数の人間が殺されていたら、「死刑以外に何がある?」というのが検事の感覚だ。

もっとも、この感覚に甘えて捜査の詰めを誤ってはならないのは高検の連中の言うとおりである。それでも私は内心「ぢゃ、無期懲役にするってんですか?」と苦々しく思っていた。私はこうした事件に限らず、検察庁、ひいては日本の刑事司法全体に対していったいどこまで細かい事実を調べ上げればいいんだ?という疑問を持ち続けていた。これは今でも変わらない。むろん、強盗殺人が認められ、さらに複数の人が殺されていたら自動的に死刑、というのは乱暴だろう。しかし、だからと言って不可能に近い立証を強いるのもおかしい。検事も生身の人間なのだから。
(中略)

検察庁を弁護するように思われるだろうが、死刑(または無期懲役)求刑をするときは、「石橋を叩いて渡る」姿勢が徹底されるのだ。「これ以上は証拠を集めることはできない、これ以上の事実を調べ上げることはできない」というところまで、それこそどぶ板をひっぺがすような立証、それも情状立証を尽くさないと、無期懲役、死刑の決裁が下りない。もちろん、これは検察庁の自己満足でもあろう。

逆に言うと、地検と高検の厳しい決裁を突破しての求刑であるからには、判決で死刑が無期懲役に、無期懲役が有期懲役に落とされたときは、「原則として」否「ほぼ」控訴である。少なくとも高検まで出向いての吐き気のするような控訴審議は必至だ。検察庁がまさしく組織をあげて徹底的に考え抜いた上での求刑であるからには、それを否定された場合に「あ、そうですか」と引き下がるわけにはいかないわけだ。

このように、死刑、無期懲役という刑罰は、求刑しようとするだけで桁外れのチェックを経ているので、たかが主任の義憤や正義感といった代物を根拠には絶対に科すことができない。考えようによっては、死刑と無期懲役に対しては、検察庁の中でも非常に謙抑的な姿勢が保たれているとも言えるかもしれない。あるいは、検察庁ですら、それなりに及び腰になって求刑する刑罰という意味では、語弊があるかもしれないが、死刑と無期懲役はそれだけ厳粛な刑罰と言ってもいいかもしれない。
(後略)

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「死刑と無期懲役に対しては、検察庁の中でも非常に謙抑的な姿勢が保たれている」というのが市川氏の検察内での感覚だったようで、先の警察庁長官の言葉とは随分と隔たりがあり、「そうでなくては」と安心させられます。

そして、これが普通の事件ではなく、世の中で話題となった事件、世論が死刑を望んでいるかのように報道で書き立てられている事件でもそうなのかどうか(具体的には「光市母子殺害事件」のようなケース)、世論に迎合して検察が死刑求刑に前のめりになることはないのかは興味深いところです。



















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2015/07/06 Mon. 00:01 [edit]   TB: 0 | CM: 2

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「死刑制度について考える (16) ~ 青木理氏「死刑制度の圧倒的容認に思う「情」と「理」」」 

「死刑制度について考える (16) ~ 青木理氏「死刑制度の圧倒的容認に思う「情」と「理」」」

このシリーズで、青木理氏著の『絞首刑』から死刑執行の状況の実態を引用しました(注1)。

その青木理氏の近著『青木理の抵抗の視線』に収録されたコラムに『絞首刑』出版の経緯に触れたものがあったので引用します。

青木理 抵抗

「死刑制度の圧倒的容認に思う「情」と「理」」 (『週刊現代』2010年3月13日掲載)

内閣府が2010年2月6日付で発表した世論調査によれば、死刑制度の存置を容認する回答が過去最高の85.6%に達したという。設問方法が恣意的だとの批判は強いし、これまでも「死刑存置」の世論はおおよそ8割」といわれてはいたのだが、それを上回って「過去最高を更新した」と突きつけられれば、あらためて嘆息するしかない。対して死刑廃止を求める声はわずか5.7%だというから、その差異はあまりに圧倒的である。

私は2009年の夏、さまざまな形で死刑と関わらざるを得なくなった人々を追跡したルポルタージュ集『絞首刑』(講談社)を発表した。その取材の過程では、国家の名の下に人間の生命を奪う究極かつ絶対不可逆の刑罰を前にし、想像を絶する苦悩と逡巡に喘ぐ数多くの人々に会った。つまるところそれは、「情」と「理」という相反する思念の激しきぶつかり合いだった。

被害者感情や犯罪行為への憤怒という「情」に寄り添って死刑容認に流れてしまう気持ちも、まったくわからぬではない。今回の内閣府調査でも、死刑を容認する理由のトップは「被害者や家族の気持ちがおさまらない」(54.1%)であり、2番目が「凶悪犯罪は死をもって償うべき」(52.2%)だったという。しかし、徹底して「理」に依って立つならば、死刑制度など即刻廃止すべきものだ。

世界的に見れば、死刑廃止は圧倒的な潮流となっている。すでに国連加盟国の7割が死刑を廃止、あるいは執行の停止に踏み切っているし、欧州連合(EU)は死刑廃止をEU加盟のための条件としている。死刑について「刑罰ではなく、復讐にすぎない」と断じた上で「暴力の連鎖を暴力で断ち切ることはできない」と唱えるEUの理念を読めば、人類社会が目指すべき崇高な理想の一つがそこにある、と心底から思う。

現在、いわゆる先進国で死刑制度を維持しているのは日本と米国のみであり、その米国でも全州の三分の一に近い15州が死刑を廃止し、判決や執行は減少している。日本の周辺では、韓国と台湾が執行を停止しており、明確な存置国は人権面で大きな問題を抱える一党独裁体制の中国と北朝鮮だけだ。

ひるがえって日本では、ここ数年、死刑判決も執行数も急増傾向を示してきた。殺人などの凶悪犯罪がまったく増えていない現実を踏まえれば、国際的にも極めて異常な厳罰化ムードが急拡散してきたといえるだろう。

その上に示された85.6%という数値。だが、これほどに「情」が「理」を圧倒してしまっている現況を前にすると、「ちょっと待ってくれ」と叫びたくなる。

前記した『絞首刑』の取材で私が会った死刑囚や死刑被告人の多くは、自らが犯してしまった罪の重さに押しつぶされそうになりながら、贖罪の方途を懸命に模索していた。被害者遺族にしても、やはり「情」と「理」の狭間で激しく逡巡していた。執行に直接関わった刑務官や教誨師は、一生癒せぬ心の傷に懊悩していた。

にもかかわらず、当事者でもない私たちが「理」を完全に投げ捨てて「情」にのみ寄り添ってしまうのは、あまりにも表層的で、あまりに安逸な偽善に過ぎないように思う。

この2月23日から鳥取地裁では、男女2人が殺害された強盗殺人事件の裁判が始まった。一般市民が参加する裁判員裁判で死刑適用の是非が問われる可能性のある初のケースとなり、今後も同様の裁判員裁判は数多く予定される(注2)。

裁判員裁判をめぐっては、人間の生命を奪う刑罰の宣告に一般市民を直接参加させることへの懐疑もあるほか、急増する死刑判決に歯止めをかけるのか、あるいは逆にそれを加速化させてしまうのか、といった議論もあった。しかし、内閣府調査を見ると絶望的な気分になる。日本社会はこのまま「情」が「理」を呑み込み続け、世界の潮流に背を向けた皮相な厳罰化へとさらに突き進んでいくのだろうか。

(注1)
ここをクリック→ 「死刑制度について考える (13) ~ 「憂鬱な儀式」青木理氏著『絞首刑』より (1) 」

ここをクリック→ 「死刑制度について考える (14) ~ 「憂鬱な儀式」青木理氏著『絞首刑』より (2) 」

ここをクリック→ 「死刑制度について考える (15) ~ 「憂鬱な儀式」青木理氏著『絞首刑』より (3) 」

(注2)
本文に引用された事件で、影山博司被告の裁判員裁判の判決は無期懲役(その後、控訴審でも一審判決維持、上告棄却で確定しています)。しかし、現在まで、裁判員裁判が言い渡した死刑判決は20件を越えています。














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category: 死刑制度について考える

2015/05/28 Thu. 00:01 [edit]   TB: 0 | CM: 1

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「死刑制度について考える (15) ~ 「憂鬱な儀式」青木理氏著『絞首刑』より (3)」 

「死刑制度について考える (15) ~ 「憂鬱な儀式」青木理氏著『絞首刑』より (3)」

ここをクリック→ 「死刑制度について考える (13) ~「憂鬱な儀式」 青木理氏著『絞首刑』より (1)」

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絞首刑

両脇を刑務官に抱えられた男が執行台へと近づいてくる。それを執行台の脇で待ち構えていた二人のベテラン刑務官のうちの一人は、つくづくと思った。

何度関わっても、本当に嫌な仕事だ・・・・。

連行されてきた死刑囚が1メートル四方の縁取りの中に立たされると、一人の刑務官がその両足を白い布で縛り、今度は自分が首に素早くロープをかけねばならない。

天井から垂れ下がった白いロープの太さは約2センチ。丸い輪になった部分には皮革が巻かれ、輪の根元には鉄製の鐶が取り付けられている。死刑囚の首にロープをかけ、鉄の鐶を首の後ろ側にきっちりとあて、ギュッと押し締めねばならない。落下の衝撃でロープが外れてしまうような失敗は、万が一にもあってはならない。

執行器具の点検と準備は、前日から入念に行った。絶対に失敗の許されぬ執行に不安を感じたのか、着任して間もない拘置所長の命令で、執行の手順をいちいち確認するリハーサルも行った。しかし、死刑囚が突然抵抗して暴れ出すこともある。不測の事態が起きることもある。だから自分のようなベテランが任務に当たる。それでも緊張で脚が少し震えている。

この刑務官がこれまで何度か関わった執行の際、暴れ出すような死刑囚は一人もいなかった。むしろ怯え切ったような表情で、抵抗する気配すらなく執行台に立ち、轟音とともに落下していった。

今回の死刑囚もやはり、静かに執行台の上に立たされた。ただ身体全体がガタガタとひどく震えている。それでも別の刑務官が両足首を縛るのとほぼ同時に、首にロープをかけ、鉄の鐶をしっかりと首の後ろで締めた。すべては定められた手順通りだった。アコーディオン・カーテンが開かれて男が刑場に足を踏み入れてきてから、ここまでに数分とかかっていないだろう。

すべての準備は整った。刑務官は、男の立たされた執行台から素早く離れ、1メートル四方の縁取りの中央に立つ男の姿をもう一度確認すると、執行ボタンのある部屋に向けて合図を送った。

「なむ・・・・あみだ・・・・ぶつ」

その瞬間、刑務官の耳には小さく、乾いた声が確かに聞こえた。男がこの世で最後に発した言葉―。教誨師の僧侶が懸命に唱える読経の声も、ひと際大きく刑場内に響いていた。

「押せっ!」

指揮官役の刑務官の低く鋭い指示が、薄暗い小部屋の静寂を破った。執行を告げるランプも、鮮やかな赤色に変わっている。壁に向かって屹立していた刑務官たちは、一斉に目の前の赤いボタンを押した。緊張が頂点に達していた若き刑務官も、無我夢中でボタンを押す。もう頭の中は真っ白だった。

プシューッ。

瞬間、空気の抜けるような音が耳に響いた。油圧装置の作動音だったのだろうか、刑場では同時に執行台の床が「バタンッ!!」という激しい音とともに開き、男は真っすぐ下へと落下していった。滑車が激しく回転し、白いロープが軋む。最後の経を大きな声で唱えていた僧侶の耳にも、男の足下の床が開く「バタンッ!!」という激しい音が届いた。

最後まで静かだったのは、検事の立会い席だった。男が首にロープをかけられている間も、男の身体が「舞台の下」へと落ちていく瞬間も、すべてが現実感のない流れ作業を見ているかのようだった。

「彼には今日の朝、直前に執行を言い渡したんですが、特に動揺した様子はありませんでした」
「そうですか」
「落下してからも、30分ほどは吊るしたままにしておかなければいけない決まりになっているのです」
「なるほど」
「検事さんは、初めての立ち会いですか」
「ええ」
「実は、私も所長としての立ち会いは初めてなんです」
「そうなんですか・・・・」

沈黙が堪え難かったのか、それとも気を遣っていたのか、拘置所長は検事と会話を交わし続けようとした。だが、所長の説明に相づちを打つ検事の目は、分厚いガラス越しの「舞台」の中央にポッカリ開いた四角い穴に吸い寄せられていた。その中心を貫くように白いロープが真っすぐ下へと伸びている。かすかに揺れ続けるロープの先を目で追うと、男の身体がダラリとぶら下がっていた。死刑の執行は、あっという間に終わっていた。

刑場の階下にあるコンクリート敷きの薄暗い部屋には、首に深々とロープを食い込ませた男の身体が宙に浮いていた。白衣姿の医務官が、それをじっと見上げている。

男の首にロープをかけたベテラン刑務官も、目の前のボタンを無我夢中で押した若き刑務官も、自分に与えられた任務を終えて階下の部屋に降りてきた時、男の身体をはっきりと見た。宙に浮かび、わずかに揺れる身体。しかし、若き刑務官はそれを正視し続けることができず、すぐに目をそらした。

強烈な力で一気に首が絞め付けられ、舌骨が圧迫されたためだろう。男の口からは舌の先端が飛び出し、全身は細かく痙攣を繰り返していた。伸び切った首は、異様なほど長く見えた。よだれなのか吐瀉物なのか、口元からは少量の液体が顎の辺りまでツーッと伝い落ちていた。

階下の部屋には、執行の瞬間に男の身体を受け止める役の刑務官もいた。男の身体を落下するままにまかせれば、反動で身体が跳ね上がり、上下左右に大きくバウンドしてしまう。だから、タイミングを見て抱きとめ、身体の揺れを止めねばならない。

「執行に携わる任務の中でも、もっとも嫌な役回りだ」
若き刑務官は、そんな話も先輩から聞かされていた。執行の前、受け止め役を命じられたベテラン刑務官が「勘弁して下さい。もう孫のできる齢なんです!」と幹部に懇願していたこともあったという。

男の身体はまだ痙攣しているが、次第にそれが収束していく。場合によっては、下半身から糞尿が漏れ出ているだろう。足元の排水溝は、その処理のためにある。

空中にぶらさがったままの男の足先から、決して届くことのない床までの距離は約30センチ。これもベテラン刑務官たちが事前に男の身長なども勘案してロープの長さを調整していた結果だった。すべては計算通りだった。

時の流れが、異様に遅く感じる。
1分。2分。3分・・・・。

医務官が空中にぶらさがる男の脈を取り始めた。その時、立ち合い席で執行を見守っていた拘置所長と検事も階下の部屋に姿を見せた。

所長に促されながら地階に降りてきた検事にも、宙に浮かぶ男の姿がはっきりと見えた。それは、もうほとんど痙攣も止まってダラリとぶら下がっているだけの屍体だった。

「おそらくは瞬間的に意識を失うはずです」
立ち会い席で拘置所長は、検事にそう強調していた。

数メートルもの急落下による加速度と男自身の体重。そのすべてが一瞬にして首に集中する。通常の首吊り自殺でも折れることのあるという甲状軟骨や舌骨は瞬間的に砕け、首を支える筋肉がぶち切れ、7つの頸部脊椎が離断する。同時に脳と身体の神経をつなぐ頸髄も断裂してしまう。だから、おそらくは瞬時に意識を失ってしまうはずだ―と。

しかし、真実など誰にも分からない。誰にも確かめようがない。

医務官は、まだ男の手首を取って脈をみていた。死刑囚が落下してから最終的に心臓が停止するまでの「平均時間」は、おおよそ13~15分。すでに痙攣はほとんど収まっている。だが、階下の部屋に集まった誰もが一言も発しようとしない。医務官が今度は男の胸に聴診器をあてて時計を睨む。首に深々とロープの食い込んだ男の身体を、刑務官も拘置所長も検事も、息を詰めて凝視し続けるしかない。

「心臓停止っ」

そんな医務官の一言が「絶命宣告」だった。しかし、それでもあと5分はこのままの状態にしておかなければならない。法の定めは、どこまでも冷酷に「確実なる死」を求めている。

5分が経過すると、医務官に促された刑務官たちが男の身体を降ろし、首のロープを外し、服を脱がせた。直ちに検視が始まった。

仰向け。横向き。うつ伏せ。医務官が身体の隅々までチェックするのを検事が黙ってじっと目視する。それが終われば、検事と拘置所長らは引き揚げていってしまう。身体はきれいだったが、首に太い索条痕がくっきりと残っていたのが、検事の脳裏にはいまも鮮やかに焼き付いている。

だが、刑務官たちの仕事はまだ残されている。男の身体をきれいに湯灌し、白装束を着せ、白木の寝棺に納めるのも刑務官たちの役目だからである。そうした作業がすべて終わると、若き刑務官は、あらかじめ準備してあったわずかばかりの花を棺の中に入れてやった。

これでようやく、すべてが終わる。死刑執行という“厳粛”な、しかし、限りなく“憂鬱”な作業のすべてが―。

執行後、任務にあたった刑務官たちがいつも使っている待機部屋に戻ると、仕出し屋から取り寄せたらしき弁当が置かれていた。執行に携わった刑務官の人数分が用意されているようだった。肉や魚が使われていない精進料理だったが、随分と高級な弁当なのは一目で分かった。

他の刑務官たちが椅子に座って弁当を食べ始めたのを見て、若き刑務官も箸を手に取って弁当を開けた。腹などまったく空いていなかったが、これを食べるのも任務の一つのように思え、一つ一つの食材を口の中に押し込むようにして顎を動かした。いつもは剽軽なことを言って笑わせてくれる先輩刑務官も、お喋りなことで知られる同輩の刑務官も、誰もが押し黙ったままだった。高級なはずの弁当なのに、いくら顎を動かしても味などせず、まるで砂でも噛んでいるようだった。

死刑執行に携わった刑務官には、わずかだが特別の手当が支払われる。現在はもう少し金額も増えているが、この時に若き刑務官が受け取ったのは数千円だった。弁当を食べ終わると、そのまま帰宅を許され、拘置所の近くにある官舎に戻ったものの、何も知らない妻や子供と顔を合わせているのが辛かった。

かといってじっとしている気分にもなれず、刑務官は黙って再び自宅を出ると、普段はやらないパチンコ屋に入った。数千円の手当は、あっという間に消えてなくなった。それでも家に帰る気がせず、駅近くの安居酒屋に入ると、ろくにつまみも食べぬままビールや焼酎を呷った。しかし、いくら呑んでもまったく酔えなかった。

この時、一緒に執行に携わった先輩や同輩の刑務官たちとは、さまざまな形で職場での付き合いが続いた。もちろん何度か酒を飲みに行ったこともあったし、所内の行事などで遊びに行ったことだってある。だが、執行のことが話題になったことは、一度もない。まるで「なかったこと」であるかのように、誰もが決して触れようとしなかった。

男の母は、執行直後に拘置所からの電話連絡を受け、息子の刑死を知らされた。

「拘置所ですが、今朝、刑を執行いたしました・・・・」

いつか必ずくるだろうと覚悟していた連絡だった。しかし、できることならきてほしくないと思っていた連絡だった。いくら世間では凶悪犯でも、被害者と遺族には心から申し訳ないと思っても、母にとってはかけがえのない息子なのである。

事件直後は夥しい数のマスコミの記者たちが自宅に押し掛け、深夜まで幾度も幾度も呼び鈴を押されておののいた。その後の何年間も、イタズラ電話や脅迫まがいの手紙に悩まされ続けた。しかし、息子のやってしまったことを思えば、それも仕方ないことなのだと自分に言い聞かせ、必死に耐えた。

女手一つで育てた息子の凶行に、自身の責任も逃れられぬと思い詰めた。自ら死んでしまおうと考えたのも、一度や二度ではない。しかし、国選でついてくれた弁護士は若く熱心な先生で、「親御さんにも見捨てられてしまう死刑囚が圧倒的に多いんです。お辛いでしょうが、最後まで支えてあげてください」と幾度もアドバイスされた。地元の公立図書館に行って死刑関連の書籍を何冊か読んでみると、親兄弟や親族との縁が切れた死刑囚は、執行後に無縁墓地へ葬られるらしいことも分かった。

ならば、いくら辛くとも支え続けるしかない。そう思って必死に耐えてきた。そんな息子の刑死を告げる連絡。受話器を握りしめながら、膝がガクガクするほどの衝撃で崩れ落ちそうになった。しかし、とにかく息子の遺体を引き取りにいかねばならない。激しく動揺する気持ちを何とか抑えつけ、随分前から痛みで不自由になってしまった脚を懸命に動かし、電車で3時間はかかる拘置所へと向かった。

夕方になってようやく拘置所に着くと、古びた応接室に通され、制服姿の二人の刑務官が対応してくれた。息子との面会のため月に一度は訪れるようにしていた拘置所だったが、この二人は初めて見る顔だった。しかし、親切で丁寧な言葉遣いで対応してくれたことに、母は心の底から「ありがたいことだ」と思った。

二人の話から察するに、執行後に息子の身体を納棺してくれたのは、この二人の刑務官のようだった。息子の身体を湯灌してくれた、とも言っていたから、おそらく刑の執行にも関わったのではないだろうか。

拘置所内の一室で対面した息子の遺体は、真新しい白木の寝棺に納められていた。その様子を一目見ただけで、拘置所が遺体を丁寧に扱ってくれたのがよくわかった。母は溢れる涙を拭いながら、ふたたび「ありがたいことだ」と思って二人の刑務官に礼を言った。

ただ、息子の首元は布で覆い隠されていた。その布をめくってみると、首筋には青黒い痣がくっきりと残り、口は歯を剥き出すように開いたままだった。このままでは可哀想だ。そう思って母は、時間をかけて息子の口を閉じさせてやった。いくら拭っても、涙がとめどなく溢れてきた。

遺体を引き取るすべての手続きが終わり、そろそろ拘置所を後にしようとした時、二人の刑務官のうちの一人がこう漏らすのを母は聞いた。

「本当に嫌な仕事です。私たちもつらいんです。何か祟りのようなものでもあるんじゃないか、なんて思ってしまうこともありましてね・・・・」

思わず母は「祟りだなんて、そんなことはありませんっ!」と強い声で言い返し、「本当に・・・・、ありがとうございました。長い間、お世話をかけました」と最後の礼を述べた。息子と同じ年くらいの二人の刑務官は、痛む脚を引きずりながら拘置所をあとにする母を、会釈をして見送ってくれた。その表情は、最後まで沈鬱だった。

(了)
















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category: 死刑制度について考える

2015/05/18 Mon. 00:28 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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「死刑制度について考える (14) ~「憂鬱な儀式」 青木理氏著『絞首刑』より (2)」 

「死刑制度について考える (14) ~「憂鬱な儀式」 青木理氏著『絞首刑』より (2)」

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絞首刑

いま、僧侶の前では、法務大臣の発した死刑執行命令書を拘置所長が読み上げ、その紙を男の目の前に掲げて文面を確認させている。所長の形式張った動作と口調は、僧侶の目に「まるで重要な証文を突きつけるかのような儀式だな」と映った。しかし、間もなく自分が最後の説教を行わねばならない。夜遅くまで気持ちを込めて綴った最後の説教を、精一杯の別れの言葉を、男に語りかけるのである。

そう気持ちを固めた矢先、全身を小刻みに震わせた男は、僧侶の方に向かってよろよろ歩み寄ると、法衣にしがみついてきた。喉の奥から絞り出すような声を漏らしながら、そして嗚咽しながら。

「先生・・・・。せん、せぃぃ・・・・」

瞬間、僧侶が頭の中に諳んじていたはずの言葉など、跡形もなく消し飛んでしまった。男は間もなく強制的な死を迎える。縊り殺されるのである。僧侶の心に同じ自問が再び、だが今度は激しく湧き上がってきた。

この男にいま、何と語りかけたらいいのだろう。僧侶として、宗教を奉ずる者として、いったい何を説くことができるというのだろう・・・・。

もはや言葉など見つからなかった。法衣にしがみついて嗚咽する男の背を、ゆっくりとさすってやることしかできなかった。執行前に食べることを許される菓子や果物も用意されていたが、男は手をつけようともしなかった。

震える男の背をさすりながら、僧侶は心の中で詫びた。

最後にこうして触れ合う人間が、体の温もりを感じさせてやる人間が、私などになってすまないな・・・・。

僧侶の腕の中で、男は嗚咽し続けた。

「では、そろそろ」
数分ほど経ったろうか。いや、数十秒程度だったかもしれない。拘置所長が事務的な口調でそう告げると、執行にあたる刑務官が素早く作業に取りかかった。

一人の刑務官が細長い白布で男の顔に目隠しをし、別の刑務官が両手に手錠をかける。作業終了を確認すると、片側の壁に設置された巨大なアコーディオン・カーテンがほとんど音も立てずに中央から左右に割れた。その先に、刑場が広がっていた。

こちら側と同じベージュ色のカーペットを敷き詰めた空間。広さは十五畳ほどだろうか。意外に広いと僧侶は感じた。天井の中央には滑車が取り付けられ、先端が丸い輪になった真っ白いロープが真っすぐに垂れ下がっていた。

ロープの真下の床は、約1メートル四方だけカーペットが四角く切り取られ、周囲が赤色で縁どられていた。中央には小さな四角い目印も赤色で描かれている。男はそこに立たされ、最期の瞬間を迎える。しかし、すでに目隠しをされてしまった男は、その光景を目にすることができない。

刑場の壁はやはり無機質な木目調パネルで統一されていたが、正面だけは一面がガラス張りになっていた。透明なガラスの向こう側には、バルコニーか観客席のような監視台。こちら向きに並べて据えられた椅子には、しかつめらしい顔をしたスーツ姿の男たちが座っていた。刑事訴訟法の定めに従い、死刑執行に立ち会う検察官と検察事務官であろう。

すでに着席していた検察官らしき人物の隣の椅子に、先ほど男に執行を言い渡したばかりの拘置所長も遅れて着席した。これですべての準備は整った。

刑場では、目隠しをされた男が両脇を再び刑務官に抱えられ、数メートル先にある四角い縁取りに向けて歩かされていった。男の全身の震えがさらにひどくなったように見えた。

僧侶は意を決し、刑場の片隅で経を唱え始めた。男の背に向け、刑場中に響くほど大きな声で―。

男のために僧侶ができるのは、もはやそれだけだった。

刑場の隣には、もう一つの小さな部屋があった。わずか数畳ほどの薄暗い小部屋。制服と制帽に身を包んだ若き刑務官も、胃液が逆流してきそうなほどの緊張に耐えながら、小部屋の壁に向かって立っていた。

隣に並んでいる同僚の刑務官たちも、どうやら同じ心境のようだった。みな一様顔が極度にこわばり、緊張と静寂に支配された室内は咳払いの音一つ聞こえない。

刑務官たちの目の前の壁には、複数のボタンが横一列に並んでいた。5センチ四方の枠に囲まれた大型のボタン。古い拘置所の刑場なら5つ、新しい拘置所の刑場なら3つ。このボタンのうちどれか一つが、死刑囚の立たされる1メートル四方の床を開閉する油圧装置に連結されている。

バタンコ―。死刑執行装置のことを、先輩の刑務官たちはそう呼んでいた。1メートル四方の床が開く瞬間に発する激しい音に由来する言葉だという。その装置に誰のボタンがつながっているのかは分からない。だが、誰か一人のボタンは間違いなくつながっている。

ボタンから少し離れた位置の壁には、金庫のダイヤルのようなものが見えた。どのボタンを油圧装置に連結するかは、そのダイヤルによって決められる。事前にベテランの刑務官がセットしておくのだという。しかし、ボタンの前に立つ刑務官たちは、ダイヤルが導き出した結果を永久に知らされることはない。

ボタンの前で緊張に耐えながら直立していた若き刑務官は心の底からこう思った。
いったい誰が、こんな装置を考え出したのだろう―。

死刑の執行といっても、すべては命ぜられた職務に過ぎない。しかし、自らの手で一人の人間の命を絶ちたいと思う刑務官などいるはずがない。そんな心情を慰めようと考案された装置。人間の命を「殺めたかもしれない」と思ってしまっても、「殺めていないかもしれない」と思い直すことを可能にするシステム。しかし、「殺めてしまったのではないか」という気持ちが消えることなどない。

かつては、刑場の床から突き出た一本の手動式レバーが死刑囚の足元の床を開く唯一の装置だった、と先輩刑務官から聞かされたことがある。刑場の片隅には、今も同じようなレバーが備えられてはいる。だが、それはもはや、ボタンによって油圧装置が作動しなかった際に使う「緊急用の予備」に過ぎない。

若き刑務官は、拝命からまだ数年しか経っていない新米だった。もちろん拘置所に配属された以上、死刑の執行に関わらざるを得ない日々がくる可能性は、いつも頭の片隅にあった。しかし今朝、夜勤明けの疲れ切った状態で命令を告げられた際は、目の前が真っ暗になった。

いかに凶悪な罪を犯した死刑囚とはいえ、公判時から数えれば何年間も、場合によっては10年以上も、拘置所の刑務官達は死刑囚と顔を突き合わせ、日々の世話をする。「情」が湧いたからといって、何の不思議があろう。

「随分前の話だけどな、死刑の執行に携わった時、死刑囚が泣きながら『お世話になりました』って握手を求めてきたことがあってな。あん時は、こっちも涙が止まらなかったなぁ・・・・」
そんな話を先輩刑務官から聞かされたこともあった。

執行に関わる刑務官の選抜に際しては、拘置所長も「それなりの配慮」をしてくれる。幹部だけが持つ特殊な職員名簿を開き、当日が誕生日にあたる者や妻が出産を控えている者、あるいは近親者が重い病を患っていたり、親族の喪中である者などを除外し、最終的に10人ほどのメンバーを慎重に選ぶ。

冷静に考えてみれば、ほとんど迷信のような話である。しかし、それが死刑という刑罰の特殊性と異様性を浮き彫りにしているようにも思う。それでも、一般の刑務官と同様、命令に従うしかない拘置所長としても、部下たちに示してやることのできる最大限の「配慮」ではあるのだろう。

執行に携わるよう命じた直後、拘置所の幹部は、選抜された刑務官たちを集め、男の判決謄本をあらためて読み聞かせた。男の犯した罪の大きさを再認識させようとしたに違いない。確かにその犯行は陰惨で凶悪そのものだったが、いずれにしても指名された刑務官に「拒否」という選択肢などない。そして失敗は、絶対に許されない。

薄暗い小部屋で眼前のボタンを見つめていた若き刑務官は、男が引き起こした犯罪の凶悪さを心の中で反芻し、必死に気持ちを奮い立たせた。

ここからは刑場が見えない。室内の赤いランプが点灯し、刑場と小部屋をつなぐ戸口に立つ指揮官役の刑務員が合図をしたら、一斉にボタンを押す。胃液が逆流するような緊張が再び襲ってきた。すべての神経がボタンを押す指先に集中していく。いったい誰のボタンが男の足元の床につながっているのか。若き刑務官はもう一度、目の前のボタンをじっと見つめた。

まるで「能の舞台」でも眺めているみたいだな・・・・。
分厚いガラス越しに刑場全体を見渡すことのできる立ち合い席に座った時、その検事は奇妙なほどの“清浄”を感じさせる情景に軽い驚きを覚えた。

それに、意外なほど静かだった。防音工事でも施されているのだろうか、拘置所内はもちろん、刑場からの音もまったく聞こえてこない。どこからか低く流れてくる読経の音色は、恐らくテープか何かの音だろう。

拘置所長や検察事務官らと並んで椅子に座った検事にとっても、死刑の執行に立ち会うのは初めての経験だった。

刑事訴訟法には次のような定めがある。
<第477条 死刑は、検察官、検察事務官及び刑事施設の長又はその代理者の立会いの上、これを執行しなければならない>

法務大臣による死刑執行命令書は、当該死刑囚の刑が地方裁判所の段階で確定した場合はその地の地方検察庁(地検)に、高等裁判所か最高裁判所で確定したならば当該地の高等検察庁(高検)の長に向けて発せられ、最終的に死刑囚を収容する拘置所長に伝えられる。

立ち会い検事は当該の検察庁から選ばれるわけだが、死刑に関わるような重要事件の判決が地裁の一審段階で確定してしまうことはほとんどない。だから大抵の場合、高検に所属する検事が立ち会いの任に当たることになる。

この日の執行に立ち会うこととなった検事が高検幹部から執行予定を知らされたのは、前日のことだった。幹部は恐らく何日か前までには法務省から執行予定を伝えられていたはずだが、前日になって立ち会い検事をどうするか、幹部から相談されたのである。

執行への立ち会い検事をどのように決めるかは、各地の高検によってさまざまだという。着任順に若手検事を選ぶケースが多いようだが、この高検ではこれまで「あみだくじ」で決めてきたと、幹部からはそう教えられた。

死刑執行に立ち会う検事は、いわば執行の“見届け役”といえる。まして死刑は、人間の生命を奪い去る究極の刑罰である。事の持つ重大さと、「あみだくじ」の軽さ。随分いい加減な話だと思って呆れたが、誰もが嫌がるであろう役目を自分より若い検事にやらせることはない。

それに「死刑の執行というものを、この目で一度は見てみたい」という気持ちも、この検事には確かにあった。だから「明日執行があるんだが、今回の立ち会い検事はどうしようか?」と幹部から相談された時、「いや、私が行きますよ」と、とっさに答えてしまった。

その話を後輩の検事にすると、信じ難いというような顔をされた。しかし、検事という仕事柄、これまで陰惨な事件の現場や死体は何度も目にしてきている。それに、見たくないと思えば目をつぶってしまえばいいし、下を向いていたって構わない。そう思いながら朝、相方の検察事務官とともに公用車で拘置所にやってきた。

着席した立ち合い席からは、まさに刑場の全体を見渡すことができた。男が首にロープをかけられる場所も、これから男が落下していくであろう階下の部屋も、上下左右すべてが見渡せる。

いま、白い布で目隠しをされた男が「舞台の上」に現れた。屈強な刑務官に両脇を抱えられ、「舞台の中央」に向かって歩いている。間もなく首にロープをかけられ「舞台の下」へと落下していくはずだ。しかしどうだろう、このあまりに現実感のない情景は・・・・。

きれいなもんだな。

分厚いガラスの向こう側の「舞台」を眺めながら、検事の心中にはそんな感慨すら浮かんでいた。

(続く)










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2015/05/14 Thu. 00:01 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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