「蟷螂の斧となろうとも」 by 元外資系証券マン

クレディ・スイス証券集団申告漏れ事件(http://goo.gl/v0xQYP)において、国税局査察部告発、検察特捜部起訴の事案で史上初の無罪判決。 著書『勝率ゼロへの挑戦 史上初の無罪はいかにして生まれたか』(光文社)。 ツイッター(@thatta0529)で「#検察なう」の情報発信を続けます。

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フィルム・レビュー 『ワールド・ウォーZ』 マーク・フォスター監督 

フィルム・レビュー 『ワールド・ウォーZ』 マーク・フォスター監督

world war z

終末ホラー作品『ワールド・ウォーZ』観賞。

監督は『007慰めの報酬』を監督したマーク・フォスター。であれば、あまり期待できないところ。ただ映画予告がなかなか迫力があったので観てみた。タイトルの「Z」は最終戦争とゾンビのダブルミーニングか。

息子の解説では、ゾンビ物はブードゥー系(なぜ人間がアンデッドになるか説明していないもの)とウィルス系に分かれるが、ブードゥーだと世界的なアウトブレイクがストーリー的に難しいため、映画のプロットとしては「オワコン」(終わったコンテンツ)なんだと。

しかし、この映画の最初15分に緊張感があったのは、「なぜ」という謎解きなしに恐怖に叩きこまれただ単に逃げ惑うだけだったからなのではないだろうか。それが、主人公が国連職員のフィールド・エージェントで、ゾンビがウィルスによるものと解説されるに従って緊張感が失せた感がある。

感染はゾンビに噛まれた場合、という伝統的な設定を踏襲しているが、噛まれた手を切り落として大した止血もせずに生き長らえたり、飛行機が墜落して、重要な登場人物だけ生き残ることができたという設定は納得いかない。

また、ここで登場するゾンビは、最近のゾンビ物にある「走るゾンビ」であり、襲われる恐怖感が映像的に強調されるということなのだろうが、生きていた時より身体能力が上がることにはこれまた納得がいかない。

恐怖映画が、その緊張感を維持できずにコミカルになってしまうことはよくあるが、この映画もそうした感じを受ける。配役もブラッド・ピット以外では、『24』のチェイス役のジェイムズ・バッジ・デール、『LOST』のジャック役のマシュー・フォックスというテレビ中心の俳優を使い、ほかは無名。ブラピが浮いている感は否めない。

但し、ストーリー的に(ネタばれになるので書かないが)ゾンビに対抗する方法はなかなかひねりが効いていた。その方法自体、若干の無理はあるが、人間がアンデッドになる時点で無理はあるので、それはよしとしよう。

やはりゾンビ映画は、一般人が、世界から取り残され、絶望感の中でも何とか生き延びようと逃げ惑う孤独感・恐怖感が最高のモチーフであると思う。やはりこのジャンルではジョージ・A・ロメロ監督の『ゾンビ(Dawn of the Dead)』を越える作品はないと思われる。

ここをクリック→ 『ワールド・ウォーZ』予告編

(Facebook 6/25/2013より転載)
















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2013/06/30 Sun. 07:22 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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#検察なう (307) 「一審無罪判決文解題」 6/27/2013 

#検察なう (307) 「一審無罪判決文解題」 6/27/2013

(強制捜査から1654日、検察控訴趣意書提出期限まであと4日)

私の控訴審が近々始まります。その前に一審の判決文を振り返ってみます。

判決文は68ページに及びますが、これほど単純な事案でも、無罪判決ともなるとこれほどのボリュームになるのかと感じます。

まず、検察官の主張は「被告人がほ脱の故意を有していたことは明らかである」、弁護人の主張は「被告人は、ほ脱の故意を欠き、無罪である」とされ、その主張が真っ向から対立していることが明らかにされています。争点は、「本件の主たる争点は、過少申告のほ脱の故意の有無である」、その一点です。

過少申告は事実としてあるのですが、その過少申告の原因である株式報酬の申告漏れを、故意をもってわざとやったのかどうか、それだけということです。

ここで、過少申告をわざとやった、即ち、脱税をしたという検察官の主張を立証する責任は、検察側にあります。それは「合理的な疑いを越える程度に」確からしいことを証明する必要があります。誰が聞いても、「ははーん、なるほど、それであれば検察官が言ってることに間違いはないな」と思うように説明することが必要であり、「うーん、どっちかよく分からないな」という人がいれば、それは無罪とするというのが、刑事司法の大原則である推定無罪の原則です。

ただ、今回の事案では、「故意あり」とするには、悪意をもって脱税をしてやろうという意図まで必要ではなく、受け取った収入に比して、自分の納税額が見合わない程少ないという認識があれば足りるということにはご注意下さい。

判決文では、検察の主張に対し、弁護団の主張をぶつけ、どちらが「真実らしいか」を裁判官が判断していきます。過少申告の認識に関わる事情として、「ストック・オプションの行使状況」「メモランダム(株式報酬受取通知)、メール等の受領状況」「株式報酬の権利付与及び入庫時点の各株式数の関係」「税に関する被告人の知識」「『財産及び債務の明細書』の記載状況」「源泉徴収票の発行と株式報酬の入庫の先後関係」と細かく項目立てて、つぶさに検証しています。また、給与収入額及び申告額の差額の認識に関しても、各年の、年棒更改、株式報酬受取時、申告時といったタイミングでの私の認識を、総額、株式報酬、現金賞与と分けて検証しています。

そしてその検証の結果、検察の立証は合理的な疑いを越える程度には立証されておらず、被告人(私)、弁護側の主張が不合理とは言えないという結論の結果、無罪判決に至ったものです。

検察の主張の根拠となった同じ証拠を、弁護側も見ています。そして同じ証拠を検察側は、有罪方向に解釈し、弁護側は無罪方向に解釈しています。それは証拠の評価の問題ということです。ここで重要なことは、検察がその主張のための根拠とする証拠は全て「過失であっても矛盾のない証拠」であり、故意でなければ説明が不可能というものは一つとしてないということです。

公判中のブログ、特に検察論告及び弁護団最終弁論の解説でも述べたところですが、検察は、公判で明らかにされた私が脱税をしたとすると不合理な事実には全く言及していません。つまり、「この事実を元にすればむしろ故意ではなく過失だろう」ということには目をつむり、自分の主張に有利な事実のみを抽出して「これらの事実を解釈すると故意である」と一方的な決め付けをしているものです。

裁判官は、判決の中で検察提出の証拠の評価において「後記のとおり、被告人が過少申告の認識を有していなかったと解する方が自然と思われる事実関係が存在することなどに照らすと」と述べ、無罪方向の証拠も勘案していることを伺わせます。その部分を抜粋引用します。

「本件では、被告人が過少申告の認識を有していなかったと解する方が自然と思われる事実関係が複数存在する。

(1)確定申告の経緯

被告人は、依頼していた税理士から無申告の状態を告げられると、弁護士を通じて申告に必要な書類を取り戻し、平成14年から平成17年分までの分を別の税理士に依頼して過年度申告をしているが、この依頼の後に平成18年度分の申告を自ら行い、しかも、この平成18年分については申告期限後に確定申告書を提出している。被告人は、過年度申告による影響等を特に税理士に確認していなかった。

以上を前提に検討する。被告人は、平成17年には既に申告すべき株式報酬を得ていたものであり、この時点から過少申告の認識があったとすると、平成14年から平成17年までの巨額の無申告収入を過年度申告すると同時に平成17年の株式報酬について過少申告を行ったことになる上、概ね同じ頃、上記過年度申告と共に、平成18年分についても過少な期限後申告を行ったことになるのであって、被告人は税務署の関心を引きやすいと考えてもおかしくない行動をあえて取りながら平成18年分について過少申告をしていることになる。しかも平成18年分については、被告人が自ら確定申告書を作成しており、申告額を認識していなかったと弁明することがほとんど不可能な手段を選択していることになる。以上に加え①被告人が過年度申告に対する影響等について特段自ら確認していないこと、②過年度申告をせずに放置したままで税理士が懈怠したと弁明する方が過失による申告漏れを主張するには無難な手法であったともいえることなどにも照らすと、このような確定申告の経緯は、被告人に過少申告の認識がなかったと解する方が自然な事情といえる。

(2) 税務調査開始後の被告人と税理士のやり取りの状況

被告人は、平成20年11月5日、国税局による税務調査が開始したことを税理士からメールで知らされると「ストック・オプションは支給されていなかった」「全ての報酬は税務署に提出した給与明細で明らかなはずである」(なお、ここでいう「給与明細」とは、源泉徴収票の意味と解される)「付与されたファントム・ストックという株式に対する経理への指示は退職時(退職後)にメール又は電話で売却を指示した一度だったと思う」といった趣旨のメールを税理士に送っていることが認められる。

そこで当該メールの真意が問題となるが、①知人や税理士のメールには、被告人にとって一見不利益と思われるような内容もそのまま記載されていること、②被告人は、その後も税理士との間で長期間にわたって極めて多数のメールのやり取りをしていることが認められるが、被告人の過少申告の認識を窺わせる内容がほぼ皆無であり、むしろ被告人が供述する認識に沿った内容となっていること、③被告人がメールでの連絡にこだわっている様子も窺われないことなどの諸事情が認められる。これらに照らすと、被告人があえて虚偽の内容を証拠として残すためにメールに上記内容を記載したとは解し難く、基本的にはその時々の真意に基づいて記載したものと解するのが相当である。

そうすると、被告人は、税務調査の開始段階において、株式報酬の内容やその売却回数について失念していたことが認められることになる。被告人が海外口座に支給される株式報酬については発覚しないであろうという甘い考えを持っていたために、申告時に過少申告の認識を持ちつつ、その内容を忘れてしまったということを想定することも不可能とはいえないが、上記事情は、申告時において、過少申告の認識を有していなかったために印象に残らず失念してしまったと解する方が自然というべきである。」

以上が判決文からの引用ですが、これらの「過少申告の認識を有していなかったと解する方が自然と思われる事実」が無罪判決の根拠ではありません。

この判決文で一番注目すべき点は、弁護側が被告人質問や最終弁論の中で指摘してきた「過少申告が過失でなければ説明が困難あるいは説明不可能な事実」を敢えて排除していることです。

この事件がもし犯罪であるならば、その犯罪行為の様態は、「社内において海外口座に支給される株式報酬については税務署の調査が及ばないといった雰囲気があり、被告人が発覚しないであろうと甘い考えを持っていた」「他の従業員の無申告を知っていた等の事情から、せいぜい発覚した場合には他の者と同様に修正申告すれば足りる」という間抜けなものです。犯罪自体が間抜けなものなので、例え「脱税をしていたのであれば間抜けな行動」もそれほど不合理とは言えない、というのが排除の直接的な理由です。

しかし、その排除の真意は、判決の結論の「弁護人のその余の主張を検討するまでもなく」とあるように、弁護側に無罪立証の責任はなく、検察の有罪立証が足りていない、だから推定無罪の原則により無罪の言い渡しをするというものです。検察の採用した証拠の解釈そのものが必ずしも正しいとは言えないとするのが、無罪判決の根拠です。

判決文の結論を引用します。

「結論
以上の通り、過少申告の認識がなかったとする被告人の供述を否定することができず、その他全証拠を検討しても、被告人に所得税のほ脱の故意があったと認めるには合理的な疑いを入れる余地があるといわざるを得ない。

したがって、弁護人のその余の主張を検討するまでもなく、本件公訴事実について犯罪の証明がないことになるから、刑事訴訟法336条により被告人に対し無罪の言渡しをする。」

弁護側に無罪立証の責任はないことを確認した上で、検察の有罪立証は十分ではなく、その有罪には合理的な疑いが入る余地があるゆえ無罪である、とする推定無罪の原則に非常に忠実な味わい深い判決文です。

検察は、この判決文の完成を待つことなく、結果のみを不服として控訴しています。それは控訴すれば高裁裁判体は必ず検察の主張を受け入れてくれるという見込みに基づくものです。そうした阿吽の呼吸を地裁で否定された上での検察控訴を、高裁の裁判体がどう判断するか、是非ご注目下さい。

6/27/2013

















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category: 訴訟記録等

2013/06/27 Thu. 05:07 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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#検察なう (306) 「検察官控訴は認められるべきか」 6/24/2013 

#検察なう (306) 「検察官控訴は認められるべきか」 6/24/2013

(強制捜査から1651日、検察控訴趣意書提出期限まであと7日)

これから私の控訴審が始まります。7月1日がその控訴審のための検察控訴趣意書の提出期限です。

検察の上訴は英米では「二重の危険」に当たるとして法律上認められていません。この検察上訴に関し、木谷明氏(元東京高裁判事)と周防正行氏(映画監督)が対談を行っていますので、引用させて頂きます。

木谷明氏 x 周防正行氏徹底対談 『日本の刑事裁判はどうなっているのか』
「検察官控訴は認められるべきか」 

[周防]  刑事裁判の原則として、「疑わしきは被告人の利益に」ということがありますよね。だとするなら、少なくとも、一人の職業裁判官が一審で無罪を出したわけですから、「検察官控訴」は新たな証拠とか、一審ではありえなかったようなことがない限り、絶対に認められないと思うんです。

でも高裁では別に新証拠がなくても、一審の判決理由に不合理な点があるとして、簡単にひっくり返ったりもする。逆に被告人からの控訴だと、結局「基本的に、高裁は新たな証拠調べをするところではない。一審の判決文に誤りはない」と簡単に棄却する。そういう傾向があると思うんですよ。僕は「検察官控訴」をなくすだけで日本の裁判はまったく変わると思うのですが、これは過激な考え方なんでしょうか。

[木谷]  いや、おっしゃる意味はよくわかります。最初に言われた、新しい証拠がなくても覆せるかということ。これについては、新証拠とは言わないですけど、事件の核心的な部分について事実調べをしなければ、原判決を破棄して有罪の自判をすることはできないという最高裁の判例があります。だから、ほとんど書面審理やそれに近いような状態で、無罪判決を破棄して有罪判決を言い渡すということはできない。ただ、それは自判の場合であって、差し戻す場合には原判決の論理矛盾や、これはおかしいという点を指摘して「破棄差戻し」はできますね。それは一つの問題としてあります。

次に、検察官の控訴を認めるべきかどうかは、これまた重大問題でして、簡単には結論が出ないんです。ご存知の通り、英米法では「検察官控訴」はできないということになってますね。なぜかと言えば、第一審で「事実審理」にさらされたということ自体が「危険」であると考えられているんです。つまり、無罪判決に検察官の控訴を許すことは、憲法の禁止する「二重の危険」になる。これが英米法の伝統ですね。

ところが、日本の最高裁は第一審から最高裁までの審理全体が一つの危険だという考えなのです。最高裁までいって、一旦無罪になった事件についてはもういっぺん起訴することはできない。だけど、まだそこまでいっていない事件について、検察官の控訴を認めても憲法違反にはならない、というように考えているのです。英米法とは違う論理なんですね。どちらに説得力があるかはこれまた見解が分かれるところなんですが、英米法は「陪審制度」ですからね。「陪審」が無罪としたものをもういっぺんやり直すことはとてもできることではない。日本が今回「陪審制度」を選択したとすれば、そういう方向にいったかもしれないんですが、あくまで「裁判員制度」ですので、そうはならないでしょう。

で、問題の「検察官控訴」ですが、これをまったく認めないとどういうことが起こるかというと、ひとつは、第一審の裁判官が自分の責任の重さに恐れおののいて、萎縮してしまうということが考えられます。平たく言えば、こんな重大な事件について自分が無罪判決を下した場合に、これがもし真犯人であったとしたら世間の非難が自分に集中するぞ、これは大変だ、ということで委縮してしまう。むしろ、簡単には無罪を出さなくなる。

[周防]  逆に有罪率が高くなっちゃうと。

[木谷]  そういう可能性がないとは言えないということですね。それから、仮にですね、非常に杜撰な審理で無罪判決をした場合、世の中の人が誰も納得しないような理由で無罪判決にしてしまった場合にも、これはもう裁判所の判断だから絶対に動かせなくなるということだと、社会一般が納得しないでしょう。こういう二方向からの問題がありそうです。ですから「検察官控訴」を全部やめさせるという周防さんの議論は、やはり過激だと言われると思いますね。けれども、「検察官控訴」が、被告人の控訴以上に、容易に成立するというのも異様なことではあります。

[周防]  正確な数字を自分で確認したわけではないんですけど、僕が傍聴している事件で、一審無罪で高裁で逆転有罪になった事件のときに、担当弁護士じゃないある弁護士さんが言ったんですけど、「東京高裁では検察官控訴があった事件の七割はひっくり返る」と。「すごい高い率ですね」と言ったら、要するに「控訴したらひっくり返ると思うから控訴するんだ」ということなんですね。自分たちが集めた証拠をきちんと理解してもらえば絶対有罪になる、だから逆転して当たり前。要するに裁判所の傾向と対策をきちんと検察官は考えているんだと。やっぱり裁判というのは、証拠で判定するしかないものなのだから、本当に心情的に真犯人と思っているかどうかはとは別に、証拠で決定を下さなければいけないと思うんです。でも、それにしてもこれはやたらひっくり返っている。本当に七割ひっくり返るとしたら、東京高裁、恐ろしいなあと。

[木谷]  それは東京だけではないですね(笑)。検察官は、ある程度事件を選んで控訴するということも破棄率が高い原因ですね。被告人の場合は、被告人が不満ならどんどん控訴するのに対して、検察官の場合は、「事件記録」を十分検討してから態度を決めます。それは現場の検察官だけじゃなくて、「地検」全体、さらには高検まで巻き込んで検討します。地検が控訴したいと言っても、高検の決裁がなければ控訴できない。実際、検察官控訴する事件は、高検まであがるんですよ。

[周防]  あがるんですか。

[木谷]  私はかなりたくさんの無罪判決をしたけれども、若い頃の一件を除いては「検察官控訴」がなかった。それというのは現場の検察官としては不満たらたらなんだけども、高検が「こんな事件、恥ずかしくて控訴できるか」と止められた事件が結構あった、ということなんです。「控訴棄却」されるようなら検察は控訴しない。破棄されるような事件だけ選んでいる。だから「起訴便宜主義」と一緒。「控訴便宜主義」ですね(笑)。

だけど、それにしてもちょっと破棄率が高すぎるというのは事実でしょう。結局、これは高裁の意識の問題でもあるんですが、やっぱり検察官はアラを見つけるのがうまいですよ。原判決のアラ、審理のアラ。そういうものを拡大鏡で拡大して見せますから。「こんな杜撰な審理で無罪にしたのか」「こんな杜撰な論理で無罪にしたのか」と、検察官が主張しますと、それはある意味で非常に説得力があるんですよ。最初に「控訴趣意書」を読みますと、「ああこれはひどいもんだ」と思いますし、「この原裁判官は、一体何をやってたんだ」と思う事件はかなりありましたね。

しかし、一方で、弁護人の「答弁書」を参照しながら記録をよくよく読んでみると「やっぱり原判決が言ってるのはもっともだ」ということになって、「公訴棄却」で終わる事件もかなりあるんです。ただ、最初に検察官の「控訴趣意書」に影響されてしまうと、被告人の言い分に十分に耳を傾けないまま破棄という方向にいってしまう可能性はありますね。だから「検察官控訴」の場合には「控訴趣意書」から読むということ自体に問題があるかとも思っています。検察官の「控訴趣意書」の書き方は、やっぱりうまいですよ。もう全庁あげてやってますからね。

[周防]  やっぱり検察の威信をかけて、みんなで考えてるんですかね。

[木谷]  よくよく記録を読んでみると、「引っ掛け」とか「詭弁」もあるとわかるんですが、最初に「控訴趣意書」をさらっと読んだ段階では本当に引き込まれますよ。そういう技術は大したものです(笑)。

[周防]  そうなると、弁護士の能力というのは本当に・・・・・。

[木谷]  大変なことでしょうね。それに対抗するんですから。

[周防]  そうですよね。国家対個人ですよ。弁護人は個人営業ですから。

[木谷]  私はある検察官に、「ともかく、我々は、重要な問題が起こった場合には、担当検事だけでなく、地検全体、場合によっては高検、さらには最高検まで入って検討するんだ。我々はそういう検討を経た上で主張しているんだから、地裁の裁判官が一人や三人で検察官の主張と違うことを言っても、最高裁までいけばそんなもの絶対破られます。変なことはしない方がいいですよ」と言われたことがありますけどね。これは一種の恫喝ですが、検察官全体はそういう意識だと思います。やっぱり組織力はすごいですよ(笑)。

[周防]  うーん。絶望的になるなあ・・・・・。

(2007年1月発行『それでもボクはやってない 日本の刑事裁判、まだまだ疑問あり!』収録)

6/24/2013
















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category: 刑事司法改革への道

2013/06/24 Mon. 00:32 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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フィルム・レビュー 『華麗なるギャツビー』 バズ・ラーマン監督 

フィルム・レビュー 『華麗なるギャツビー』 バズ・ラーマン監督

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バズ・ラーマン監督長編5作目の『華麗なるギャツビー』鑑賞。

バズ・ラーマンは好きな監督です。彼のスピード感あふれる展開とゴージャスな映像美は彼独特のスタイルがあると思っています。

『ロミオとジュリエット』で見事な本歌取りを見せたバズ・ラーマンですが、このフィッツジラルドの『華麗なるギャツビー』は個人的にはあまり評価できないものです。

実のところ『華麗なるギャツビー』の原作があまり好きではないので、バズ・ラーマンのリメイクでなければ観なかったと思います。『華麗なるギャツビー』は、身分の違う女性を慕い、虚栄の立身でその恋を成就しようとして結局破滅する悲恋の物語です。「愛があれば何もいらない」というピュア・ラブの方が恋愛物語の王道だと考える私は、結局身分の違いをヒロインが乗り越えないところになんだかなあと思ってしまいます。

それが私が原作の好きではないところですが、オリジナルの悲劇にバズ・ラーマンは喜劇的な要素を加えて、さらに主人公J・ギャツビーに哀れさを加えているところが切なくて。

ただバズ・ラーマンらしい、エンターテイメントさにあふれた作品になっていると思います。そしてなんといってもディカプリオ。ロミジュリに続いて2回目のバズ・ラーマン作品での主演ですが、この役は彼でなくてはできなかったのではと思わせるほどのキャラ立ちです。最初に花火をバックに登場するシーンは大ウケしました。そしてデイジー役のキャリー・マリガンは今、ハリウッドで一番好きな女優ですが(キルステン・ダンストに次いでかな)、この役はミス・キャストかな。エマ・ストーンとかアマンダ・サイフリッドあたりの方がはまっている感じがします。

観て損はないと思いますが、バズ・ラーマンならやはりロミジュリかと。

ここをクリック→ 『華麗なるギャツビー』予告編














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category: フィルム・レビュー

2013/06/23 Sun. 07:23 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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#検察なう (305) 「 検察審査会制度とその問題点 その2」 6/20/2013 

#検察なう (305) 「 検察審査会制度とその問題点 その2」 6/20/2013

(強制捜査から1647日、検察控訴趣意書提出期限まであと11日)

前回のブログで検察審査会の制度のあらましと問題点を指摘しました。検察審査会制度の本来の趣旨は、検察に公訴権の独占をさせることなく、彼らの過ち(起訴猶予の濫用による不当な不起訴)を正すものであり、検察とは対峙する機関です。

ここをクリック→ #検察なう (304) 「検察審査会制度とその問題点 その1」

最近のPC遠隔操作事件の取調べ全面可視化に徹底抗戦する検察の姿勢を見て、彼らは既得権益を手放すことには容易ではなく、公益の代表者とは到底言えないということは徐々に国民の理解するところとなっています。それを理解した上で、前回のブログの検察審査会制度の歴史的経緯を見て、違和感を感じたとしたら、あなたの「検察力」は相当なものです。

設立の際、検察審査会の議決に法的拘束力を頑として与えなかった法務・検察組織が、半世紀以上を経て、突然法改正に踏み切り、検察審査会の議決に法的拘束力を与えることを許したというのはどうも解せないと思われなかったでしょうか。しかも、この時の法改正の経緯を調べても、さしたる議論もされず、実に不可解な法改正の状況だったようです。

さすれば、この法改正は検察の角を矯めるものではなく、検察を利するものではないかという疑いが出ても当然だと思われます。その疑いとは、「検察審査会は、検察が起訴をしたい被疑者を検察によって起訴できない場合、検察審査会の起訴相当議決によって強制起訴させる検察の補完機関として機能しうる」というものです。

勿論、検察審査会がこれまで審査した約16万件の事件において全てそうした検察の意図が働いたというわけではありません。ごく一部、特に特捜部事案のハイ・プロファイルのものでそうしたことがあるということが推察されます。

ここまで言えば皆さんご理解頂けたと思います。その代表的なケースが、検察審査会で強制起訴された小沢一郎氏の陸山会事件です。検察審査会に検察が虚偽の報告書を提出し、小沢一郎氏の強制起訴相当議決に検察審査会を誘導したという、検察による最高レベルの制度の悪用、狡猾な手口が表れているものです。

どうしてこのようなことが可能となるのでしょうか。そのからくりを探ってみます。

検察審査会は裁判所の管理下におかれているため、その制度の概要説明は裁判所のHPにあります。「検察審査会の概要」と題されたページをご覧下さい。

「審査の方法は」という箇所には、「検察庁から取り寄せた事件の記録などを調べ」とあります。検察審査員は、国民の中からくじ引きで選ばれます。もしあなたが有権者であれば、あなたが選ばれる可能性もあります。検察が不起訴とした事案に関し、もう一度再審査してほしいという申立てがあったために検察審査会が招集されています。あなたが、その審査のテーブルについて審査をする際、手元にある事件の資料は誰が作ったものでしょうか。そうです、裁判所のHPにあるように検察が用意した資料ということです。

ここをクリック→ 裁判所HP 「検察審査会の概要」

検察は、彼らが当事者の一方である公判においても、彼らの収集した証拠のうち有罪方向の証拠のみを抽出して「ベスト・エビデンス」として公判に証拠調請求する問題点をこれまで何度も指摘してきました。検察審査会において、彼らが同様の操作をすることはいとも簡単なものです。

また、検察によるリークの問題もあります。

ここをクリック→ #検察なう (219) 「『風を吹かせる』=検察リークの実情」

検察はメディア・コントロールによって、事件を作ることができます。検察審査員が検察リークに基づいて作られた検察の意向に沿った報道にさらされることで、予断をもって審査に当たることが大きな懸念材料となります。

検察審査員は事件ごとに招集されるわけではなく、6ヶ月の任期制です。その間は、情報にアクセスする制限はなく、普通に生活できるものです。その間にも検察発信の情報を植え付けられれば、検察審査会の議決を検察がリモートコントロールできると推察することはそれほど困難なことではありません。

裁判所HPの「検察官の職務」のQ&Aで、「検察審査員に選ばれたら、事前の研修や説明などを受けるのですか」の答えはいかがなものでしょうか。「事前の研修はありません。検察審査員としての職務を行っていただく上で、特別な知識や経験は不要ですので、安心してご参加ください」とあります。

ここをクリック→ 裁判所HP 「検察官の職務」 Q&A

検察官の役割を果たすのに、特別な知識や経験は不要だと断じているのもなんだかなあ、という感じです。せめて「#検察なう」のブログを読んで司法制度の勉強をするようにくらいは言ってほしいものです。

裁判員裁判制度における裁判員でも同じことですが、国民が司法に参加する場合に、一番重要な問題点は、彼らが有罪方向のバイアスのかかった報道によって汚染され、予断をもって審理する可能性があるということです。彼らは、マスコミの情報と自分の思考を遮断して、証拠のみによって事実認定を行うということが必要とされます。法律的な知識や経験がない一般国民の司法参加が可能であるのは、事実認定の能力は法曹関係者でも一般人でも同じであるという発想に基づいています。しかし、やはり専門家はそれなりの訓練がされているもので、その最たるものがこの外部情報の遮断だと思います。

事件の報道を読み、裁判の結果が無罪となった場合、「なぜこの事件で被告人がシロ?!」と思われた方は、自分のメディア・リテラシーを疑った方がよいかもしれません。報道は少なからず有罪方向のバイアスがかかっていますので、逆は必ずしも真ならずであることにもご注意下さい。

それでは、素人11人が集まって協議をして、全く問題なく法律的な判断ができるのかと思われる方もいらっしゃると思います。そこで重要なのが審査補助員です。

前回のブログでも示した「起訴議決制度のイメージ」をご覧下さい。「検察審再会の審査(第一段階)」のところで「審査補助員(弁護士)に法的助言を求めることができる」、及び「(第二段階)」のところで「審査補助員(弁護士)に法的助言を求めることが必要」とされている審査補助員です。

ここをクリック→ 裁判所HP 「起訴議決制度のイメージ」

この審査補助員には、弁護士会から任命された弁護士が一人だけ任に当たります。この一人だけ素人集団に紛れた法律の専門家の意見が、非常に重要視されるのは想像に難くないと思われます。弁護士会が任命した者であれば、不正に審査会を誘導することはないのでは?と思われるのが普通ですが、この審査補助員の任命に関しても実に不可解な現象が起こっています。陸山会事件に関わる検察審査会では、この審査補助員が検察に恩義を受けたヤメ検弁護士であったことが分かっています。

この問題に関し造詣が深い八木啓代氏の記事『田代元検事不起訴不当議決!その裏の大きな疑惑』をご覧下さい。

ここをクリック→ 八木啓代氏 『田代元検事不起訴不当議決!その裏の大きな疑惑』

こうなってくるとますます検察は悪の巣窟のようになってきますが、これだけ大掛かりなことが個人のアイデアでないことは容易に想像できます。陸山会事件に関わる虚偽報告書問題を、田代元検事の個人の仕業とし、それを検察は不起訴、そして検察審査会によって強制起訴を伴わない不起訴不相当で幕引きをしようとしているという壮大な検察の犯罪・隠蔽工作には歴史的断罪がなされるべきです。

上で述べた検察審査会の問題点を、山下幸夫弁護士も講演で指摘していますので、是非ご覧下さい。動画の44分当たりから60分のところまでの部分です。

山下幸夫弁護士 シンポジウム『検察、世論、冤罪III』より

ここをクリック→ Ustream動画 『検察、世論、冤罪III』

そしてこの問題に斬り込んでいるのが生活の党代表代行の森ゆうこ参議院議員です。先日、彼女の音頭で、生活の党、民主党、社民党の三党共同提案による検察審査会改正案が参議院に提出されました。

ここをクリック→ 森ゆうこ氏ブログ「「検察審査会法改正案」を参議院に提出しました」

検察審査会を法的に規制する検察審会法の改正案の要点は3つです。
1) 会議録は非公開ではあるが、その記載内容を具体的に規定する
2) 検察審査会が実際に開かれているかどうかを確認できるよう、一定事項の公開をする
3) 審査補助員を現行の一人から二人とする
というものです。

ここをクリック→ 検察審査会法改正案概要 

検察・司法改革で即効性があるのは、こうした議員立法で制度を整備することです。捜査権力の自浄作用が望めない以上、それしかないと言わざるを得ない状況です。

6/20/2013











法廷画が冊子化されました。正(第2回公判~第7回公判、400円)、続(第8回公判~第11回公判無罪判決、500円)の2冊です。ご希望の方は sienhatta@gmail.com までご連絡下さい(送料9冊まで80円、10冊以上160円)。

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2013/06/20 Thu. 03:15 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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#検察なう (304) 「検察審査会制度とその問題点 その1」 6/17/2013 

#検察なう (304) 「検察審査会制度とその問題点 その1」 6/17/2013

(強制捜査から1644日、検察控訴趣意書提出期限まであと14日)

国民の司法参加というと裁判員裁判制度を思い浮かべる人は多いと思います。裁判員裁判は2009年から施行されていますが、同じく国民の司法参加として、もっと古くから行われている制度があります。それが1948年(昭和23年)から行われている検察審査会制度です。

裁判員裁判制度は国民が裁判官となるものですが、検察審査会制度は国民が検察官となるものです。2011年末までに検察審査会では約16万件という審査が行われていますが、その内容は一般に広く知られていないのではないかと思います。それで今回「その1」と題して、検察審査会制度の説明、問題点の指摘をしたいと思います。

検察審査会の目的は、「公訴権の実行に関し、民意を反映させてその適性を図る」(検察審査会法第1条)ものです。

なぜその必要があるかという理解のためのキーワードは2つ。

「検察官による起訴独占主義」と「起訴便宜主義」です。

前者は、刑事訴訟法第247条に定められたところで、「公訴は検察官がこれを行う」とされています。「国家追訴主義」とも言われます。誰でも起訴できるわけではなく、原則として検察だけが起訴できるとしたものです。

後者は、刑事訴訟法第248条に定められたところで、検察官は起訴するに足る犯罪の嫌疑が認められる場合でも、「犯人の性格、年齢及び境遇、犯罪の軽重及び情状並びに犯罪後の状況により追訴を必要としないときは、公訴を提起しないことができる」とされています。条文では、公訴をしないことの理由が限定されていますが、不起訴の場合にその理由を開示する義務はないので、ただ単に「公判を維持できないから」という理由で起訴しないことも考えられます。つまり、検察が起訴をしたくないときはしなくてもいいとされているということです。

これらにより、公訴権の運用が官僚的になり、被害者や国民の法感覚から遊離した公訴権の行使がなされる危険も大きくなることから、それを防止するものとして検察審査会があるというわけです。

その歴史的経緯を振り返ってみます。

1947年(昭和22年)秋、GHQにおいて、検察を民主化するために検察官を公選制に改めるべきだとする意見が強く主張されました。歴史的背景などを理由として公選制に反対した日本側に対し、GHQは何らかの形で検事に対する国民のコントロールを考えることが必要となるとして「国民の代表よりなる委員会のごときものを作ること」及び「検事が起訴すべき事件を起訴しなかった時、検事をして起訴せしめる強制力を与えること」を検討するよう促しました。これを受けて、日本側がGHQと協議しながら立案したのが、検察審査会制度です。

日本側とGHQとの協議では、主に次の二点が焦点となりました。

第一点は、検察審査員の選定方法及び検察審査会の意見に法的拘束力を付与することの是非です。GHQは、検察審査員を一般の国民から選ぶこととともに、検察審査会の意見に法的拘束力を付与することを主張しました。日本側は、国民の法律的常識の水準の低さなどを理由に挙げて反対しつつも、検察審査員を一般の国民から選ぶことには同意しましたが、法的拘束力については全く付与しないことを選択しました。

第二点は、検察審査会をどの官庁の所轄とするかです。日本側は検察庁の所轄とすることを提案しましたが、GHQは、いかに形式的であっても検察庁の所轄とすることを認めず、結局、裁判所の所轄とすることに落ち着きました。

検察審査会法案は、1948年(昭和23年)の国会審議を経て同年可決されました。

2004年(平成16年)に起訴議決制度を導入する法改正が行われたことにより、制度創設から半世紀以上を経て、検察審査会の議決に法的拘束力が付与されることとなりました。

起訴議決制度の導入に至った要因としては、検察審査会が起訴相当、不起訴不当の議決をしても、検察官が多くのケースで起訴を行わない運用状況が続いたことが最も大きなものです。また、犯罪被害者の立場がより尊重されるようになってきたことも挙げられます。検察審査会は、被疑者が不起訴となったことを不服とする被害者にとって、救済機関としての意味を持ちます。このため、検察審会の議決に法的拘束力を付与し、その機能を強化することは、犯罪被害者の保護に資するとも言えるものです。

実際の運用を見てみます。

検察審査会は、全国の地方裁判所の所在地と主な地方裁判所支部の所在地に合計165置かれています。各審査会は、選挙権を有する国民の中からくじで選んだ候補者名簿を作成します。候補者名簿は一つの検察審査会で400人からなり、1/4ずつが3ヶ月毎に改選されます。

検察審査員(及び検察審査員が欠けた場合の補充員)は裁判員のように事件ごとに招集されるのではなく、候補者名簿から選ばれた11人(+補充員11人)による6ヶ月の任期制です。

検察審査会議は、毎年3月、6月、9月、12月に開くほか、検察審査会長(任期が改まる度に、検察審査員が互選)が必要ありと認めるときにいつでも招集することができます。東京の検察審査会の場合、原則として隔週で開かれ、状況によっては毎週開かれることもあるようです。

審査を終えた検察審査会議は、次のいずれかの議決をします。原則として過半数で決しますが、起訴相当の議決については8人以上の多数を要するという重要な例外があります。
(1) 起訴相当の議決
(2) 不起訴不当の議決
(3) 不起訴相当の議決

これまでの議決の割合は以下の通りです。起訴相当1.5%、不起訴不当9.6%、不起訴相当56.7%、その他(審査打ち切り、申立て却下、移送など)32.2%です(2011年12月31日まで)。

このうち起訴相当の議決がなされた場合、検察官は、速やかに、その議決を参考にして、起訴すべきかどうかを再検討した上で、起訴または不起訴の処分をしなければならないとされます。ここで不起訴処分が行われると、検察審査会による第二段階の審査が行われることになります。

第二回目の検察審査会でも11人のうちの8人以上の賛成により起訴が相当であると議決された場合、裁判所が指定した弁護士がその事件について速やかに起訴を行う、いわゆる強制起訴が行われます。

ここまでの流れをイメージ化したものが裁判所のHPに掲載されています。

ここをクリック→ 裁判所HP 「検察審査会起訴議決制度のイメージ」

検察審査会制度の問題点を挙げます。

まず根幹的な問題として、検察審査会が検察当局と異なる基準によって起訴の相当性を判断することへの懸念が挙げられます。

起訴の基準は、法律で明文規定されているものではありません。検察の実務では、「的確な証拠によって有罪判決が得られる高度の見込みのある場合、即ち、法廷において合理的な疑いを越えて立証できると判断した場合」とされます。この「合理的な疑いを越えて立証できる」というハードルは本来非常に高いものです(そのハードルを特定の事案で、特に特捜部案件で、恣意的に下げることが冤罪を生んでいることの指摘はこれまでしてきたところです)。

無罪判決を回避しようとしてあまりに慎重に起訴を行うことには、訴訟の実質が捜査手続に移り、裁判所が「有罪であることを確認するところ」になってしまう、被害者の立場を無視することにつながる、社会的関心事について裁判所の公的判断が示される機会が失われる、捜査における自白重視の傾向が改まらない等の問題があるとして、起訴の基準を緩和することが望ましいとする意見も少なくはありません。

これに対し判例は、裁判で無罪が確定した事件について検察官の起訴の違法性が問われた事案において、起訴は「裁判所に対して犯罪の成否、刑罰権の存否につき審判を求める意思表示」であるから、起訴時における検察官の心証は「各種の証拠資料を総合勘案して合理的な判断過程により有罪と認められる嫌疑があれば足りる」としています(昭和53年10月20日最高裁第二小法廷判決)。これは起訴の基準の取り得る下限を示したものと言えます。

公訴権の行使が適正であるためには、全国的になるべく統一的に、かつ、公平に行使される必要があることは言うまでもありません。つまり、検察官が起訴をする基準も、検察審査会が起訴をする基準も基本的に同一であることが適正な公訴権の行使と言えるものですが、そうすると、そもそも検察が不起訴としたものを審査対象とする検察審査会の趣旨と自己撞着となる難しさがあります。

現在、検察審査員が起訴の基準について着任時にどのような説明を受けているかは定かではありません(選定された検察審査員等向けの資料として、『検察審査会ハンドブック』最高裁判所2009がありますが、起訴の基準に関する記述は見当たりません)。

次の問題点として、被疑者に自己の権利を主張する機会が十分に与えられていないことが挙げられます。

現在の制度では、被疑者は検察審査会の判断によって証人として呼び出され、尋問を受けることはありますが、必ずその機会が与えられる訳ではありません。また、そうした意見を述べる機会が保障されていないほか、意見書や資料を提出できることを明文で認めた規定もありません。

検察官の不起訴処分の当否を審査するというのが検察審査会制度の構造であるため、そうした被疑者の権利保護に対して考慮されていないものです。起訴の判断をする検察審査員が、被疑者の尋問をしない場合、被疑者と全く会うことなく起訴が決定することもありえます。起訴の判断に際して、被疑者が直接自己弁護の機会を与えられていないというのは、少なからず問題があると思われます。

最後に、審査の不透明性が挙げられます。

検察審査会は、審査を終えて議決をすると、議決書を作成し、議決の要旨を公表します。審査内容に関し公開されているのは、その議決の要旨のみで、そのほかは一切非公開原則となっています。

検察審査会議が非公開で行われる理由としては、被疑者その他の関係者のプライバシー保護、捜査の秘密の保護、公開すると自由な討論が妨げられたり他から不当な影響を受けるおそれがあること等が挙げられています。そして、その趣旨から、検察審査会議の会議録も公開することは許されないと解されています。

現在では、検察審査会議の開催回数も公表されない場合がありますが(各検察審査会の判断に委ねられている)、それでは検察審査員がどの程度証拠に目を通し、議論をしたのかが外部に分からないものです。

審査の透明性を高めるため、少なくとも、検察審査会議における検察官の説明や審査補助員の助言、証拠・証人の標目を公表することは必要であると思われます。また、検察審査委員の平均年齢が発表されていますが、透明性を高めるためには、個人の特定に至らない検察審査員の年齢・職業等の情報の公表は必要だと思われます。

国民の司法参加を目的とする検察審査会において、その活動の模様をなるべく広く国民に伝えることは、制度の本来的な要請であるとも言えるものです。

6/17/2013
















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2013/06/17 Mon. 05:37 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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ブック・レビュー 『人権読本』 鎌田慧編著 

ブック・レビュー 『人権読本』 鎌田慧編著

人権読本

「基本的人権の尊重」は日本国憲法において、「国民主権」及び「平和主義」と並ぶ3本の柱の一つであることは学校で学んだ。勿論、憲法に規定されていなくても、「人間が人間らしく平等にある権利」は守られるべきであることは概念的には分かる。それを問われて否定する者はいないだろう。

しかし実際にはどうであろうか。人権侵害は為政者の専売特許ではない。差別することは、被差別者の人間としての尊厳を奪う行為だからである。

この本では、人権が抑圧されやすい事例として15項目に分けて、その状況と課題を15人の論者が論じている。
子供
高齢者福祉
家庭内暴力
障害者
女性労働
過労死・過労自殺
コミュニティ・ユニオン
沖縄米軍基地
外国人差別
戦後補償
部落差別
ハンセン病
事件報道
死刑制度
陪審制

その15項目を並べてみて、私が本を読む前にある程度理解があったものもあれば、全く知らなかったこともあった。そこで考えたことは、もし全く知らなかったとしたら差別は起こらないのだろうかということだった。

例えば、私はハンセン病に関しての知識はそれがかつてらい病と言われた病気であり、隔離政策が取られたという程度しかなかった。目の前にハンセン病患者が現れて、握手を求められたら、以前の私であれば、躊躇したであろう。今は、喜んで握手をして「大変でしたね。頑張ったのでしょう。お疲れ様」と声を掛けることができる。やはり知らないということは差別につながるのだと理解したものである。

また差別意識は時代と共に変化する。極端な例だが、例えば戦前は不敬罪があったから、天皇を我々と同じ人間だとすることは犯罪に当たる行為だった。今は、同じ人間だと思わない人はいないだろう。そうした時代によって意識が変化するということは、我々は考えることによって、よりよい方向へ変えていくことが可能であることの証左だと考える。


社会的弱者や被差別者を擁護することを「きれいごとを言っている」と敬遠する向きも散見される。それはあくまで「強者の論理」であり、常に自分も反対側に回る可能性があることを意識し、またそうではなくても、人権の擁護は努力なくしては得られないことを理解すべきだと思う。

刑事被告人として差別される側に立って、自戒も込めて、人権を尊重する意義を考えてほしいと思う。そのきっかけとして、この本はコンサイスであり、スタート地点としての好書だと思う。

ここをクリック→ ブクレコ 『人権読本』

















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2013/06/16 Sun. 10:01 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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#検察なう (303) 「国連拷問禁止委員会での日本に対する批判に関し」 6/13/2013 

#検察なう (303) 「国連拷問禁止委員会での日本に対する批判に関し」 6/13/2013

(強制捜査から1640日、検察控訴から93日)

先日来、5/22の国連拷問禁止委員会での上田秀明人権人道担当大使の発言が物議をかもしています。

ここをクリック→ 6/5 東京新聞『国連で日本政府代表「笑うな、黙れ」』

たしかにこの発言そのものはほめられたものではありませんが、そこにばかり注目していると、彼にその発言をさせた伏線である「日本の刑事司法は中世のように旧式(”medieval”)である」という国際批判の評価が軽視されるのではないかと危惧します。

国連拷問禁止委員会(Committee against Torture)は、1984年国連総会で採択された拷問等禁止条約(Convention against Torture and Other Cruel, Inhuman or Degrading Treatment or Punishment)の批准国における実施状況を監視するために設けられています。この拷問等禁止条約には日本も1999年に加入しています。

ここをクリック→ 外務省HP 拷問等禁止条約

そして加入国は、いかに問題に対処しているかのレポートを順番に年2回開かれる国連拷問禁止委員会に提出する義務があります。日本は2007年に一回目の報告を行い、今回が二回目の報告だったものです。

日本は以前から、国連拷問委員会から数々の勧告を受けていました。しかし、今回の報告に際しても改善が見られていないとして委員会委員の「中世的だ」との批判になったものです。

そして今回の日本の報告を受けて、国連拷問禁止委員会から次の勧告を受けることになりました。これらの勧告のほとんどが以前から受けていたものです。

ここをクリック→ 拷問禁止委員会 日本政府に対する第2回勧告

勧告の内容は、24項目(通し番号7番~30番)に及びますが、その主たるもの17項目(7番~23番)に関しては、問題点及び改善指示が併記されています。太字で書かれたものが国連拷問禁止委員会からの改善指示です。

その24項目には「代用監獄(10番)」「取調べ及び自白の取扱い(11番)」「従軍慰安婦問題(19番)」「体罰(23番)」などがあります。

特に英語の”Daiyo Kangoku”にもなっている代用監獄問題は、拷問そのものであると国連拷問禁止委員会が厳しく非難しているところです。

改善指示を引用します。
“Consider abolishing the Daiyo Kangoku system in order to bring the State party’s legislation and practices fully into line with international standards.”
(「国レベルの法的措置を実施すべく代用監獄制度を廃止し、国際的な基準に則った運用をしなければならない」)

代用監獄に関しては、以前にもブログで書いていますのでご参照下さい。

ここをクリック→ #検察なう (249) 「Daiyo Kangoku」

「取調べ及び自白の取扱い」の項目では、弁護士が同席しない状況で、先に挙げた代用監獄のような環境下で取調べが行われることの懸念が繰り返し述べられています。また自白の信用性を担保するために、様々な手段を講じることを勧告され、特に、取調べ可視化の改善指示もなされています。

“The State party should take all necessary steps to in practice ensure inadmissibility in court of confessions obtained under torture and ill-treatment in all cases, inter alia”
“Implementing safeguards such as electronic recordings of the entire interrogation process and ensuring that recordings are made available for use in trials.”
(「批准国は、いかなる場合でも、拷問や不当な扱いで得られた自白が、裁判所に証拠調請求されることがないよう、実効的な手段を講じる必要がある、なかんずく」
「取調べの全過程の電子的な記録といった予防手段を実施し、その記録が公判で用いることができるよう保証しなければならない」)

また、従軍慰安婦問題に関しては、
“Educate the general public about the issue and include the events in all history textbooks, as a means of preventing further violations of the State party’s obligations under the Convention.”
(「この協定に基づく批准国としての義務を今以上に違反することないよう、一般市民をこの問題に関し教育し、全ての歴史の教科書にこのできごとを含まなければならない」)

体罰に関しては、
“The State party should explicitly prohibit corporal punishment and all forms of degrading treatment of children in all settings by law.”
(「国は、全ての環境において子供の体罰及びいかなる不当な扱いも明示的に禁止、法制化しなければならない」)

とあります。至極真っ当な指摘だと思います。

またこの条約の補足として、刑事施設に独立した国際的ないし国内機関が視察し、条約に定める拷問やその他の残酷、非人間的或いは品位を傷つける扱いや刑罰が行われていないかを調査することのできる選択議定書(OPCAT: Optional Protocol to the Convention against Torture、72カ国署名、68カ国批准済み)が2002年に国連で採択されていますが、日本は現時点で依然これを認めていません。

こうした国際的な批判に関し、国内で「官僚・政治家の失言」レベルとは違う次元で議論されることが必要なのではないかと思います。

6/13/2013











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2013/06/13 Thu. 08:00 [edit]   TB: 0 | CM: 2

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#検察なう (302) 「検察が正しくなければいけないという共同幻想を捨ててみるというのはどうでしょうか」 6/10/2013 

#検察なう (302) 「検察が正しくなければいけないという共同幻想を捨ててみるというのはどうでしょうか」 6/10/2013

(強制捜査から1637日、検察控訴から90日)

2011年9月に最高検察庁が策定し公表した検察の基本規定であるところの「検察の理念」。一度じっくり読んでみて下さい。

ここをクリック→ 「検察の理念」

具体的な運用が担保されていない(「取調べの全面可視化」「証拠の全面開示」「取調べに弁護士の同席許可」といった施策が言及すらされていない)といった批判もありますが、これはあくまで理念であり、もしこの理念が正しく遂行されれば、そうしたテクニカルなことは問題にならないと言えます。

これがあるべき姿だとして、実際にはどうでしょうか。ツイッターで「検察」を検索ワードに検索してみて下さい。悲しいことに、検察が「人権を脅かす恐怖集団」であるかのような非難に満ち溢れています。

このギャップはどうしたら埋めることができるのでしょうか。

もう一度「検察の理念」に戻ってみます。

例えば「あたかも常に有罪そのものを目的とし、より重い処分の実現自体を成果とみなすかのごとき姿勢となってはならない」とあります。最高検察庁が高らかに謳う「検察の理念」で、我々国民にとっては当たり前のことを敢えて書かなければならないということは、現実では検察の意識がそうではないということの表れです。

非難はそうしたギャップを、我々国民の論理に合わせるべきだということが前提になっています。「検察は正しくないから、正しくあるべきだ」ということです。

なぜ非難が検察に届かないかを問い直す視点がこれまで欠けていたのではないかと思います。あるいはその「正しい」という定義が、我々国民と検察ではそもそも違うと考えることも必要かと思います。「検察は我々国民の考える尺度からすると正しくないから、我々国民の考える尺度に合わせて正しくあるべきだ」という非難が届いていないと考えると違った視点も生まれるのではないでしょうか。

検察は、彼らが正しくないとは思っていないからこそ聞く耳を持たないのではないでしょうか。先の例で言えば、「あたかも常に有罪そのものを目的とし、より重い処分の実現自体を成果とみなすかのごとき姿勢」であっても、彼らがそれでいいと思っていれば、非難も彼らにとってみれば「何を言ってるんだ。全く分かってないな」とされて終わりだということです。

どうしてこうしたことが起こるのでしょうか。例を挙げます。

利潤追求型のモーレツ企業があったとします。それがある日突然、「利潤ばかり追求していては、将来生き残っていけない。これからは消費者優先型の企業モデルが必要だ。我々は顧客第一をモットーにしなければならない」と社訓が出されたとします。対外的には実に心地よく響くメッセージですが、現場の社員はそれをどう受け止めるでしょうか。そして顧客の求めていることが「もしあなたの会社の製品がほかの会社の製品に劣るのであれば、それを言うことが顧客の利益だ」とすれば、社員はそれを受け入れることはないと思います。自社の製品を売ることで会社が儲からなければ、自分たちの給料が出ないということを彼らが思い続けている限り、何も変わらないということがお分かり頂けるかと思います。

「検察の理念」は検察官にとってはまさにそういったものではないでしょうか。

検察官は検察組織のことを「うちの会社」と呼びますが、その社訓は「起訴してナンボ、有罪にしてナンボ」というもので、その社訓の下、長年粉骨砕身働いてきました。それが彼らにとっての正義であり、国是だと信じてきたものです。それをいきなり180度変えられて、対応しろという方が無理なのかもしれません。

少なからずの国民が依然、「検察は常に正しい」と信じています。それは「検察は正しくあるべき」であり、そうである以上、「国家権力が誤っているはずがない」から、「検察は常に正しい」という三段論法の下に成り立っているものです。

そうした人たちに、いかに現実がそうではないと説いても理解できないと思います。前提から180度変え、一旦その是非を置いて「検察は起訴してナンボ、有罪にしてナンボの組織でも仕方ない」としてみると、より現実的な理解ができるのではないでしょうか。「検察は正しくあるべき」とは単なる共同幻想であり、それを捨ててみることで新たな視点も生まれてくると思われます。

「検察の理念」は理想論だが、その実現は難しいと認めると、実際の運用が随分と変わってきます。

まず裁判官の意識がそれに則したものにならなければいけないということが言えます。あくまで検察は当事者の一方であり、被告人と相対する存在だということを理解する必要があるということです。それは「検察が常に正しくなくてもいい」ということの当然の帰結です。

また「検察が常に正しくなくてもいい」とすれば、「取調べの全面可視化」「証拠の全面開示」「取調べに弁護士の同席許可」の導入に疑問を挟む余地も全くないということになります。それらは「検察が常に正しい」からこそ不要なものであり、検察が常に正しくなくてもいいのであれば、ない方がおかしいという当然の帰結です。

国民の検察に対する非難も、「検察が常に正しくなくてもいい」ということを前提にすれば全て的外れなわけですから、検察もプレッシャーを感じなくていいはずです。メディア・コントロールによって自分たちの不正を隠蔽する必要もなくなります。メディアが報じても、それは「検察が常に正しくなくてもいい」ということからすれば、特に指弾されるべきことではないからです。

国民の意識も、盲信型多数派と非難型少数派とのギャップが埋められ、同じ立ち位置からより建設的な議論ができるのではないでしょうか。現状は、盲信型の人々に実態を伝えることに相当エネルギーを取られ、そこから先になかなか議論を進めることができていないのではないでしょうか。

こうした発想の転換がより現実的な解決につながることもあるのではないかという一つの提案です。勿論、理想を追求することも大切です。しかし、検察がそれを受け入れることがなければ、永遠に平行線です。検察の定義する正義が必ずしも我々国民の考える正義と同じとは限らない、そしてそれでも仕方ないと考える柔軟性が、硬直化した状況を打破するスタートになるかもしれません。

6/10/2013














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2013/06/10 Mon. 03:48 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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フィルム・レビュー 『グランド・イリュージョン』 ルイ・レテリエ監督 

フィルム・レビュー 『グランド・イリュージョン』 ルイ・レテリエ監督

グランド・イリュージョン

日本では10月公開の映画『グランド・イリュージョン』(原題: "Now You See Me")鑑賞。

ここをクリック→ 『グランド・イリュージョン』

イリュージョン好き、マジック好きにはこたえられないかと。とにかくショーアップされたまさにグランド・イリュージョン!って感じです。

話は結構バカバカしいです。マジシャンがあの手この手でお金を奪って、観客にばらまくって話ですから(ま、それだけじゃないんですが)。

最後の大どんでん返しに騙されない人はいないんじゃないかなあ。その大掛かりなトリックを「おーっ!」と思うのか、「ありえねー!」って思うのかで楽しめるかどうかの差になるでしょう。

特に最後のイリュージョンでは、去年のクリスマスに東京駅をパニックにしたプロジェクションマッピング全開で、かなりかっこいいです。

あとカーチェイスのカメラワークは進化してますね。カメラが小型化して性能が上がってるってことなんでしょうが、ハリウッドはこうしたディテールはさすがです。

俳優陣では、『ソーシャルネットワーク』主演のジェシー・アイゼンバーグが相変わらずいい演技してますが、それ以上に『ハルク』のマーク・ラファロは渋いです。『イングロリアス・バスターズ』でハリウッド・デビューした女優メラニー・ロランも、普通にいそうでいない美人という感じでよかったです。

とにかくあまり難しいこと考えずに、だまされてみて下さい。

ここをクリック→ 『グランド・イリュージョン』予告編

(Facebook 6/3/2013より転載)













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category: フィルム・レビュー

2013/06/09 Sun. 02:16 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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#検察なう (301) 「証拠は誰のものか」 6/6/2013 

#検察なう (301) 「証拠は誰のものか」 6/6/2013

(強制捜査から1633日、検察控訴から86日)

冤罪と向き合うと、刑事司法の多くの矛盾を知ることになります。一般人の感覚だと驚くことの連続ですが、その中でも一番大きいものが

「検察は、自分に不利な無罪方向の証拠を公判に提出しないし、そもそもする必要がないと考えている」ということです。

ここをクリック→ #検察なう (111) 「証拠開示 Part 2 『当事者主義』」

無罪方向の証拠を公判に出さないということは、有罪方向の証拠を捏造することと何ら変わるところがないと感じるのは私だけでしょうか。そして悪質な証拠隠しは、布川事件や東電OL殺人事件といった有名な冤罪事件だけに限らず、日常的・恒常的に行われており、それを検察は当然と思っている以上、日本に正しい司法はありえないと言えます。

皆さんは、判決確定後に、裁判記録を誰が保管しているかご存知でしょうか。

一部の判決文は、裁判所HPの「裁判例情報」で検索できます。
ここをクリック→ 裁判所HPの「裁判例情報」

事件番号が分かると早いのですが(例えば、私の事案は特(わ)第2321号です)、普通分からないので、検索も大変です。そしてほとんどの判決はここには入っていません。(注1)

それでは、裁判所HPで検索できない判決文、あるいは公判で証拠調請求され、採用された物証、同意書証はどこに行けば閲覧できるのでしょうか。

常識的には裁判所に行って閲覧すると思いますよね。ところが違います。刑事裁判の証拠記録は検察庁が保管しています。

これは法律で定められているところです(その歴史的経緯は後述します)。その刑事確定訴訟記録法では、「保管検察官は、請求があつたときは、保管記録を閲覧させなければならない」とあるものの、実際の運用では、その閲覧は容易ではないようです。

弁護士が、過去の確定事例での調書を閲覧しようとしても「(プライバシー保護のために個人を確定する部分を墨塗りする必要があり)3ヶ月かかる」と言われます。メディアを含む一般人が閲覧申請をした場合には、更にハードルが高いものと思われます。

刑事裁判記録をなぜ検察庁が保管することになったのかの歴史的経緯を振り返ってみます。

かつて裁判所と検察が一体であった時には、刑事裁判記録は第一審裁判所に附置された刑事局において保管されていました。そして裁判所と検察庁が組織上分離された際、その新司法制度の下における刑事確定訴訟記録の保管機関を誰とするかの議論が起こります。

どうも裁判所は「べき論」で裁判所が保管機関となるべきだと主張していたようですが、検察が一方の当事者であるのに対し、裁判所は利害関係の当事者ではないため、積極的には主張していなかったものと思われます。そのため実際の運用上、なし崩し的に検察庁が保管機関となっていました。そして昭和24年2月23日の最高裁通達(第2067号)で、「刑事確定記録の保管は裁判所でなすべきか、検察庁においてなすべきか」との質問に対し「一応従来通り取り扱われたい」と答えています。

その後、昭和45年11月に法務省刑事局長通達(「検務関係文書等保存事務暫定要領」刑事第42号)により、検察庁保管が追認されます。法務省は(権限官庁でありながら)実質検察の下部組織ですから、彼らの決定が検察の意向に沿うことは驚くことではありません。

そして昭和62年6月2日制定の刑事確定訴訟記録法により法制化されます。その第二条には、
「刑事被告事件に係る訴訟の記録は、訴訟終結後は、当該被告事件について第一審の裁判をした裁判所に対応する検察庁の検察官が保管するものとする」
と定められています。

このように、歴史を振り返ると、実にあいまいな状況から、なし崩し的に検察庁の保管が認められ、既成事実化された様子がよく分かります。そして今では法律にまでなっているという状況です。

そして資料を読むと、その根拠が「裁判の執行のため」となっていますが、それでは執行済みの判決に関わる裁判記録や、執行が伴わない無罪判決に関わる裁判記録を検察庁が保管しているのは正当な理由がないと思われます。また恩赦があることもその「裁判の執行のため」という理由付けの補強となっていますが、実際の運用では恩赦はもうなくなっていることを検察は十分承知しているはずです(日本で最後に恩赦が行われたのはサンフランシスコ講和条約締結時)。(注2)

そしてそれはあくまで刑事事件に関しての場合で、刑事事件以外の裁判記録はすべて裁判所に保管されています。何も裁判所が裁判記録を保管できないという能力的な問題ではなく、刑事事件だけが例外的に検察庁保管となっているものです。(注3)

検察があたかも証拠を自分の独占物のように扱うことは既に弊害となって表れています。

ここをクリック→ #検察なう (300) 「『クローズアップ現代』「取調べ可視化」番組放送延期事件について」

また余り語られることではありませんが、検察による証拠の一人占めの弊害は、不起訴事案でより顕著かもしれません。日本においては、起訴便宜主義によって、検察による起訴率は非常に低くなっています。そして不起訴となった事件における検察収集証拠の開示義務はありません。

例えば、交通事故で子供を失った親が、検察の起訴を期待しても、検察が運転手を起訴しなかった場合に、その証拠にアクセスできないことの障壁はとてつもなく大きいものです。検察審査会がそのためにあるはずですが、その実態が全く不透明であり、検察の単なる外郭団体に過ぎないのではないかと思われる事象が相次いでいることは皆さんご存知だと思います。

こうした検察の姿勢は「検察の理念」に謳われた「権限行使の在り方が、独善に陥ることなく、真に国民の利益にかなうものとなっているかを常に内省し行動する、謙虚な姿勢を保つべきである」というものにもとることは明らかです。

6月4日付の読売新聞社説に関連した話題が掲載されていました。全文引用します。

「取材協力者の萎縮を招きかねない。検察の対応は問題である。裁判の証拠として開示された取り調べの録画映像をNHKに提供した弁護士について、大阪地検が大阪弁護士会に懲戒請求した。刑事訴訟法が禁じる証拠の目的外使用にあたるとの理由からだ。

この禁止規定は、2004年の法改正で、検察から弁護側への証拠開示の範囲を広げた際に新設された。証拠流出により、証人への威迫や事件関係者のプライバシー侵害が起きるのを防ぐためだ。公正な司法手続きを担保する上で、必要な規定とは言える。だが、今回のケースにこの規定をあてはめることには疑問がある。
 
映像には、傷害致死罪に問われた元被告が“自供”した供述調書の内容と矛盾するようなやりとりが記録されていた。無罪判決の根拠の一つとなった。弁護士が映像を提供したのは、判決が確定した後だった。映像は公開の法廷で既に再生され、傍聴人も目にすることができた。弁護士は提供にあたり、元被告の承諾を得ていたという。NHKは番組で放映する際、顔をぼかしたり、音声を変えたりするなど、プライバシーに配慮する措置をとっていた。映像の提供と放映によって、裁判への影響や関係者の名誉侵害が生じたとは考えられない。
 
弁護士は「検察の取り調べの実態を社会に伝えたかった」と説明している。捜査の在り方を検証するという提供目的には、十分な公益性があると言えよう。目的外使用の禁止を巡っては、法改正時に、日本弁護士連合会が正当な理由があれば禁止対象から外すよう求めた。日本新聞協会も「取材の制限につながる危惧が大きい」との見解を表明した。国会でも議論となり、違反が疑われる場合にも、「行為の目的や態様、関係者の名誉侵害の有無などを考慮する」との条文が追加された経緯がある。大阪地検はこうした観点からの精査を十分行ったのだろうか。
 
3月には、被害者が写っている実況見分写真などの開示証拠を動画サイトに投稿したとされる男が起訴された。悪質なケースについては厳しく対処すべきだ。しかし、公益目的の情報提供まで検察が殊更に問題視するのであれば、取材・報道の自由を侵害することにつながろう。
 
公権力を使って収集した証拠は検察の独占物ではなく、公共財であることも忘れてはならない。」

(注1)
試しに、裁判所を「最高」として、全文に「カレー」を入れて検索してみて下さい。最高裁判例でカレーが関係してくるのは和歌山毒物カレー事件くらいなものかと思えば、結構出てきました。その中で容疑が「殺人」の二件のうち一件が、和歌山毒物カレー事件の最高裁判決文です。ちなみにもう一件は狭山事件のもので、被害者女子高生の胃内残留物に関わる記述でヒットしたものです。

(注2)
『注釈刑事確定訴訟記録法』
ここをクリック→ 『注釈刑事確定訴訟記録法』

(注3)
最高裁判所事務総局資料「裁判所における文書管理」
ここをクリック→ 最高裁判所事務総局資料「裁判所における文書管理」

6/6/2013


















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category: 刑事司法改革への道

2013/06/06 Thu. 04:44 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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#検察なう (300) 「『クローズアップ現代』「取調べ可視化」番組放送延期問題について」 6/3/2013 

#検察なう (300) 「『クローズアップ現代』「取調べ可視化」番組放送延期問題について」 6/3/2013

(強制捜査から1630日、検察控訴から83日)

無題

最近、にわかに熱気を帯びている証拠の目的外使用に関わる問題に触れたいと思います。背景をご存じない方のために概略からご説明します。

発端は、NHKの関西ローカル番組『かんさい熱視線』でした。4/8に関西地区で、映画監督の周防正行氏を迎え『”虚偽自白”取調室で何が』と題した番組が放映されました。この番組では、取調べを可視化したDVDが公判で公開された結果、検面調書に信用性がないとされた実際にあった事件を扱い、番組でもそのDVDの映像を放送したものです。

この番組はもともと全国ネットの『クローズアップ現代』に編成し直すことを前提に作られた番組でしたが、「検察取調べの可視化」を扱った4/15放映予定の『クローズアップ現代』の番組は直前に延期されます。私も同番組の放送予定のページで、この番組をクリックすると、実際に放映された『北朝鮮相次ぐ挑発の謎』の番組案内が出てくるという混乱状態を目の当たりにしました(現在はHPから消されています)。

現在発売中の雑誌『週間ポスト』に「NHKが検察に屈した「取調べ可視化」番組放送延期事件」として記事が掲載されています。NHK関係者の言葉として次のようなコメントがあります。

「NHK東京本社の記者が検察の激怒を知って、上層部に進言したそうです。『証拠DVDを再度放送すれば番組関係者が検察に捜査される可能性もある』として、番組中止を訴えた。当局にすり寄る記者連中と、それに反発するディレクターの対立というのはNHKではよくある構図ですが、今回はあまりにもひどい」

つまり、検察からの圧力は少なからずあったものの、番組延期に関しては検察の意向を忖度したNHK自身の決定ということのようです。

そして問題は、このDVDをNHKに提供した弁護士の懲戒請求に発展します。大阪地検が、刑事訴訟法で禁じられた「証拠の目的外使用」に当たるとしたものです。

この刑事訴訟法の証拠の目的外使用に関する規定は比較的新しく制定されたもので、2004年5月28日の刑事訴訟法改正によって定められたものです。

刑事訴訟法第281条の3では「弁護人は、検察官において被告事件の審理の準備のために閲覧又は謄写の機会を与えた証拠に係る複製等を適正に管理し、その保管をみだりに他人にゆだねてはならない」と規定し、このような証拠を、目的外、すなわち、当該刑事裁判の準備以外の目的で他人に交付することは禁じられ(刑事訴訟法第281条の4)、罰則が科せられます。

この刑事訴訟法の「改悪」は、公判前整理手続導入に際し、検察官が開示すべき証拠の範囲が決められたことに伴って行われたものです。証拠を開示した際の弊害とされる罪障隠滅、証人威迫や、証拠に現れた第三者のプライバシーの保護などの問題を防止するために、新しく制定されたのが、刑事訴訟法第281条の3以下です。

そこに見られるのは、検察官が持っている訴訟記録は検察官の支配下にあるもので、それを裁判以外の目的で自由に使用することを許さないという極めて古い発想であり、情報公開の流れに逆行する内容です。

この刑事訴訟法「改悪」に関しては、日本弁護士連合会長が「刑訴法改正法案から証拠の目的外使用条項の削除を求める会長声明」を出しています。

ここをクリック→ 刑訴法改正法案から証拠の目的外使用条項の削除を求める日弁連会長声明

ここで指摘されているように、「供述調書などを対価を得る目的で第三者に売却したり、被害者や第三者のプライバシーを含む証拠をインターネット上で公開する」弊害を阻止するという立法趣旨に則した適用であれば、こうした規定もなんら問題がないものです。

しかし、今回のケースのように、取調べの全面可視化に対し抵抗する捜査権力が、まさにその有効であった事案を報道機関が報道した場合、その関係者を指弾しようとしているというように、恣意的に悪用されてしまう危険性があるものです。

ちなみに番組で放映された映像にはモザイクがかけられ、被告人の了承も得た上でNHK大阪は放送しています。既に公判には提出され、無罪が確定した事件の証拠です。そして何よりも、この番組の制作の趣旨から、検察の主張が自分たちの保身を図るものであることは明らかです。これが、検察をほめたたえる番組であれば、そこで証拠の目的外使用が認められようが、検察は何ら問題にしなかったと思います。

NHK大阪の番組で取り扱った事件は、兄弟げんかの末に弟の首を絞めて窒息死させたとして兄が逮捕・起訴された事件です。調書には、「手加減しなかった」などと書かれていましたが取調べの模様を録画したDVDには「結果的にそうなってしまった」と話すシーンが録画されており、そのDVDが裁判員裁判で公開され、検察のストーリーは崩壊しました。結局、兄は無罪判決、大阪地検は控訴を断念して、無罪が確定しています。まさに取調べの全面可視化が冤罪を未然に防いだという好例でした。

『週間ポスト』の取材に答えた大手紙記者はこう語ります。「番組を見れば検察の”誘導”は一目瞭然です。DVDは既に公判で公開されていましたが、見たのは裁判員だけ。それをオンエアすることは、報道として大いに意義があると思います」

懲戒請求された弁護士は全国紙の取材に応じてこう語っています。

「取り調べの全面可視化を訴える番組の趣旨に賛同した。多くの国民は捜査当局の取り調べを受けたことがない。国民全体で可視化を議論するには、多くの人に現場の映像を見てもらう必要があると考えた」

検察による懲戒請求について、「放送で実害を受けた人は誰もいない。結局、検察から弁護士へのけん制の意味しかない」と分析する。そして「検察が税金を使って集めた刑事裁判の記録は国民の共有財産。自由に報道できないのはおかしい。言論の自由にかかわる問題だ」と指摘した。

結局、この一件は
「検察が犯罪を捏造しようとした」
「取調べの全面可視化がそれを未然に防いだ」
「それを報道機関が番組として取り上げてローカルで放送した」
「それに検察が激怒した」
「検察の激怒を知った報道機関が全国ネットでの放映を取りやめた」
「検察は難癖をつけて、検察の犯罪を暴く手助けをした弁護士を懲戒請求した」
というのが全体像です。

ここですべきは「証拠は検察のもの」という発想自体を問題視し、更に取調べの全面可視化の議論を深めると共に、メディアには社会の木鐸としての矜持を求めるものです。

6/3/2013















法廷画が冊子化されました。正(第2回公判~第7回公判、400円)、続(第8回公判~第11回公判無罪判決、500円)の2冊です。ご希望の方は sienhatta@gmail.com までご連絡下さい(送料9冊まで80円、10冊以上160円)。

#検察なう


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category: 刑事事件一般

2013/06/03 Mon. 03:48 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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ブック・レビュー 『五体不満足 完全版』 乙武洋匡著 

ブック・レビュー 『五体不満足 完全版』 乙武洋匡著

五体不満足 完全版

遅ればせながら乙武氏の大ベストセラー『五体不満足』の完全版を読了。本棚に積ん読だったのだが、例の一件を機に読んでみた。

オリジナル版が世に出たのは1998年、完全版は2001年に出版されている。しかし私が購入したのは、比較的最近、乙武氏のツイートを目にしてからである。彼のタフさの背景を知りたかったというのがその動機であった。

イタリア・レストラン入店拒否の一件に関しては、友人とフェイスブックで大激論となった。アメリカやカナダに住んでいる私としては、あり得ない話だからだ。理由はシンプル。店が訴えられれば、確実に敗訴となり、そうしたリスクを店が取らないからである。

どっちもどっちという友人を相手に、「社会的弱者に優しいのが先進国の条件」と私は乙武氏を支持した。但し、私も店の実名を明かしたことに関しては、社会的影響力があるだけに「美しくない」とは思ったのだが。

「店の予約をする時に一言身体障害者であることを言えばいいだけのこと。むしろそれがマナー」とする友人の言葉に、「健常者が予約をする時に、自分が健常者であることを告げる必要がないのに、なぜ身体障害者がそれを告げなければならないのか」と、強い違和感を感じた。

しかし、冷静になって考えると、日本はバリアフリー後進国である以上、不便を強いられる側からの歩み寄りも必要なのだと理解した。乙武氏言うところの「心のバリアフリー」を健常者の側からだけではなく、身体障害者の側からも実現する努力が必要であるということであろう。つまり「心のバリアフリー」の配慮が乙武氏にも足りなかったということである。

カナダでは、街を電動車椅子に乗った身体障害者が走行しているのを見るのはごく当たり前である。バスも車椅子で乗り込む場合には、自動でタラップが降り、バス全体が傾く機能がついていて乗りやすくなる。そういうことが普通である国と、日本とでは事情が違うと言える。

完全版では、オリジナル版が出てからの2年半の苦悩を最終章に加えている。この章があるのとないのでは、随分と印象が違う。彼の苦悩は、有名になり、人々が彼を幾分なりとも美化して、彼に「身体障害者の代表」を求めることに窒息しそうになることであった。

これが体の機能であれば、欠けた部分をほかの部分が強くなって補うということがあるであろう。人々の彼に対する期待は、あたかも彼の体が不完全な分、心がそれを補ってあまりあると期待したというものである。しかし、彼は自分の心も不完全であることを自覚していた。それゆえそのギャップに悩んだのである。


彼は、子供の時から自分が障害者であると意識したことはなく、ハンデキャップを感じることはなかったと繰り返し述べている。私はそれを額面通り受け取ることはできない。辛く苦しい思いをしないわけはないではないか。そしてそれを乗り越え、かつ自分の不完全さを認める彼に人間としての興味を感じた。

彼は、大学卒業後、スポーツキャスターを目指し、雑誌『Number』の連載やテレビのスポーツ番組ナビゲーターを経て、今は教育の現場に興味があるという。彼のような者が子供の教育の現場に寄り添うことは実に喜ばしいことである。今後の彼の動向を見守りたいと思った。

ここをクリック→ ブクレコ 『五体不満足 完全版』 乙武洋匡著

















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2013/06/02 Sun. 07:20 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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