「蟷螂の斧となろうとも」 by 元外資系証券マン

クレディ・スイス証券集団申告漏れ事件(http://goo.gl/v0xQYP)において、国税局査察部告発、検察特捜部起訴の事案で史上初の無罪判決。 著書『勝率ゼロへの挑戦 史上初の無罪はいかにして生まれたか』(光文社)。 ツイッター(@thatta0529)で「#検察なう」の情報発信を続けます。

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#検察なう (359) 「2013年 日本全国の裁判官 最新お言葉集」 12/31/2013 

#検察なう (359) 「2013年 日本全国の裁判官 最新お言葉集」 12/31/2013

(強制捜査から1842日、控訴審判決まで30日)

2013年もあと一日です。いろいろなことがあった人にも何もなかった人にも、共通に年の瀬は訪れ、新年を迎えます。刑事裁判の当事者の方々にとっては大変な年だったと思います(私もその一人ですが)。

ある方のブログで、本年の「裁判官のお言葉」が紹介されていました。私の一審無罪判決の際の佐藤弘規裁判長の説諭も紹介されています。

ここをクリック→ 『発表! 2013年 日本全国の裁判官 最新お言葉集』

「初心を忘れず」のくだりは私の最終陳述に対するアンサーだと思っています。合わせてお読み頂ければ更に味わい深いと思います。

私の最終陳述より。
「最後に、検察の方々に一言だけ申し上げたいことがあります。それは、あなた方の初心を忘れてほしくないということです。あなた方が、法曹界を目指したのは何のためだったのでしょうか。社会正義の実現のためにほかならなかったのではないでしょうか。厳しい司法試験合格の後、まさに秋霜烈日の気概を持って、検事の道を選んだのではなかったのでしょうか。世の中の誰に対してより、その頃の自分に胸が張れるような仕事をするよう心がけて下さい。」

ここをクリック→ #検察なう (239) 「第十回公判最終陳述」  

本年の皆様の心温かいご支援本当にありがとうございました。また来年も是非ともよろしくお願いします。よいお年を。

12/31/2013
















法廷画が冊子化されました。正(第2回公判~第7回公判、400円)、続(第8回公判~第11回公判無罪判決、500円)の2冊です。代金(実費)は、無償で法廷画を描いてくれた漫画家にカンパされます。ご希望の方は sienhatta@gmail.com までご連絡下さい(送料9冊まで80円、10冊以上160円)。

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2013/12/31 Tue. 00:37 [edit]   TB: 0 | CM: 2

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#検察なう (358) 「刑事弁護に勝機あり~攻めに弱い検察」 12/26/2013 

#検察なう (358) 「刑事弁護に勝機あり~攻めに弱い検察」 12/26/2013

(強制捜査から1837日、控訴審判決まで35日)

刑事裁判の有罪率が99.9%を越えることは(少なくとも法曹関係者には)広く知られた事実です。それゆえ、刑事弁護と言えば「どうせ勝てない」と諦めがちなのではないでしょうか。公判は真実を見極める場ですが、もし勝ち負けのゲームだとしても、私は弁護側にも十分勝機はあると考えます。

私のケースでは、国税局査察部と検察特捜部は、そもそも見つかるはずのない私の故意性に関する決定的証拠を見つけるため、強制捜査から検察取り調べ開始まで3年近くを要しました。そして公判に提出してきたのは、箸にも棒にも掛からない証拠の山でした。その鼻クソのような証拠の中で、一応最ももっともらしいものが「ストックオプション行使書に引いた斜線」でした。

会社の給与の一部であった株式報酬を私が故意に申告しなかったというのが検察の主張です。株式報酬の大部分は現物株でしたが、一部ストックオプションも含まれていました。税務調査開始時には、私はストックオプションをもらったことすら忘れていました。

現物株と異なり、ストックオプションの場合には、「行使する」という意思表示の契約書が交わされることになります。そして問題とされたのは、次の文言を含む設問全体を斜線で消去していることでした。

"only applicable if there is a tax withholding obligation on the exercise of Options"

この英文を読んで、この文言を含む設問に斜線を引くことが、検察の主張する脱税の故意性の証拠であるとにわかに理解できる人はどれだけいるでしょうか。

検察のストーリーは、「『オプション行使に際し(会社が)源泉徴収をしている場合のみ』という文言が含まれた設問を斜線で消去している」→ 「会社が源泉徴収をしていないことを理解していた」→ 「故意の脱税」というものでした。

こんなものが一番有力な証拠であれば、そのほかの証拠がいかにショぼいものかお分かりになって頂けると思います。

このストックオプション行使書に関しては、実際には私は、シンガポールの株式報酬担当者に電話をして、彼女の指示通りに記入しました。設問に斜線を引くということも、誤記入を避けるためと思われる彼女の指示でした。

14ページの英文の契約書を読み解くには、優に30分はかかります。仕事と全く関係のない総務関係の書類を自分で読んで理解するより、顔見知りの担当者に電話をして、記入の仕方を聞く方がよほど効率的だと思います。そうすればものの3分で事は済みます。それは、仕事に忙しいサラリーマンであれば実に合理的な行動だと思います。そして私はその通りの行動を取りました。

そのシンガポールの株式報酬担当者は、中国系シンガポール人で日本語が話せません。彼女は来日して検察特捜部の取調べを受けました。そして彼女の供述調書が検察により証拠調請求されました。読めない日本語の調書に彼女は署名しています。

私の弁護人は、その調書を英訳して再度彼女に署名を求めることを検察に請求しましたが、それを検察は拒否しました。その時点で、調書は検察が作文し放題であったことは明らかです。その調書は弁護側一部不同意にも関わらず、彼女が証人として公判に出頭することを拒否したことで刑事訴訟法第321条1号2項の「供述不能」の規定によりいわゆる「二号書面」として証拠採用されています。

検察が作文した調書ですが、その作文の仕方に彼らのセンスのなさを感じます。じっくり検証してみたいと思います。

作文の選択肢としては次の3つが考えられます。どの選択肢が私を有罪に追い込むには有効でしょうか。

検察にとって一番望ましいストーリーは、私がそのシンガポールの株式報酬担当者と話していないというものです。そうすれば、私が自分で読んで内容を理解していることを主張できます。株式報酬担当者調書の作文の最初の選択肢は、「私は八田さんとは話していない」という供述内容です。

あるいは、会社は株式報酬の個人による確定申告を指導していたとする内容の供述もありえます。第2の選択肢は、「私は確かに八田さんと話した。そしてその際に、会社は株式報酬に関しては源泉徴収をしていないので、各人確定申告をするようにと説明した」とするものです。

そして第3の選択肢は、その両方を折衷して、「私が八田さんと話したかどうか記憶にはないが、もし話したとしたら個人の申告の説明をした」というものです。

その3つの選択肢のうち、どれを選択すれば私を有罪とするのに一番有効でしょうか。

検察特捜部が選択したのは3番目の選択肢でした。しかもご丁寧に、「説明をした」という点に関し「絶対に」という副詞までつけています。そしてなぜ説明をしなければならなかったのかの説明は全くありませんでした。

不正解です。検察特捜部が選択すべき正解は2番目の選択肢です。

1番目の選択肢は、私が「話した」とする供述と真っ向対立するものです。水掛け論となれば五分のようですが、あることを「経験した」という記憶と「経験していない」という記憶は、「した」とする記憶の方がより信憑性があります。経験したことをただ単に忘れている可能性があるからです。この主張をするのであれば、「個人税務のアドバイスはしないため、ストックオプションに関する問い合わせに関しては、一切受け付けていなかった」といったようなもっともらしい説明が必要になると思われます。そしてこの選択肢の最大のリスクは、私が彼女と話したことが立証されることです。それは針の穴ほどの可能性でしたが、弁護人は一審の公判でその針の穴を通しました。(注)

2番目の選択肢は、私の「話した」という供述内容と一致するため、その点では全く争うところがないことになります。それゆえ供述の信用性が上がることになります。そして、説明をしたという論理的な理由を加えればかなり説得力ある供述になります。例えば、「東京オフィスの従業員から問い合わせが多い内容だったので、申告漏れがないよう留意して説明することを自分のマニュアルとしていた」とかといった理由付けです。

2段構えであるかのような第3の選択肢は、かなり弱々しい主張です。「なぜ話したことすら記憶していないのに、「絶対に」説明したと言えるのか」とは、誰しもがもつ印象ではないでしょうか。「二兎を追う者は一兎を得ず」の好例です。また「絶対に」と言いながら、説明しなければならない理由を全く説明していないのも、杜撰な作文の印象が強くなるものです。「あー、やりすぎちゃってるなあ」と検察の作文によく見られる悪例です。

証拠の評価ですらこの杜撰さですが、そもそもの証拠の収集の仕方もかなりセンスがありません。

検察は過失であっても何ら矛盾のない些末な間接事実や、そもそも何ら関連性のない事実を証拠として山のように請求しています。決定的な証拠がないからといって、なんでもかんでも証拠として請求すればいいというものではありません。こんなものしか証拠として出せないのか、という心証が強くなるからです。

具体的には、20年近い以前の証券会社入社時の資格試験のテキストブック(『外務員必携』)に「証券税務」という項目があるからといって、そのテキストブックを証拠請求することは、その後の日常業務でその税務知識が必要とされないことを示唆します。証券外務員試験の証券税務は個人の税務を対象とし、私の顧客は全て機関投資家でした。そして、証券税務と給与の確定申告はそもそも関連はありません。

また、告発報道後の私の部下や近い友人から「なぜばれちゃったの」といった冗談メールを彼らの取調べをすることなく証拠調べ請求すれば、メールという重要な証拠の中には、こんな冗談メールしか有罪方向にこじつけるものがなかったという印象を強めます。

「グレーな証拠をいくら積み重ねても所詮グレー」とはよく言われますが、私はそれは正しくないと思います。グレーな証拠でも、互いに白い部分を塗りつぶすように立証に使えれば黒く、即ち有罪方向の証拠となりえると思います。しかし、それぞれの証拠そのものがあまりに薄いグレーであれば、そのグレーを重ねれば重ねるほど、どんどん白くなっていきます。有力な証拠が全くない印象を強めるからです。

検察の立証は、このように非常に薄いグレーの証拠を積み上げて、自ら私の無罪を印象づけるようなものでした。

更に、最もセンスがないのが、控訴趣意書で一審裁判体を愚弄したことです。いかに控訴審で新たに審理を開始するためには、原審判決が「経験則・倫理即違背である」という高いハードルを越えなければいけないとしても、経済犯を集中審理する裁判体をもってして、「確定申告制度が何たるかを理解していない」と言ってのけることは、あまりにも愚かな行為です。自爆テロ犯が、自分のアジトで仲間を巻き添えにして誤爆して、組織を自ら壊滅させたくらいセンスがない行動だと思われます。

日本の最強捜査権力である検察特捜部にして、なぜこのように素人にダメ出しされるほどの作文や立証しかできないのでしょうか。これは彼らが常に勝ち戦しか戦ってこなかったことによるものだと思われます。甘い立証でも裁判官は認めてくれるという環境下ではやはり能力の向上は見込めないものです。厳しい戦いを戦わないと、逆に攻められたときには弱さを露呈してしまいます。この状況は、基本負け試合を何とかひっくり返そうといつも知恵を絞る意識の高い弁護士には勝機ありと言えるものです。是非とも刑事弁護をする弁護人は諦めることなく、攻めの姿勢で弁護活動をして欲しいと思います。武器には相当なハンデはあっても、検察の基本戦闘能力は相当低く怖れずに足らずと自信を持って臨んで下さい。

(注)
ここをクリック→ #検察なう (215) 「ストック・オプション行使指示書の日付のミステリー」

12/26/2013















法廷画が冊子化されました。正(第2回公判~第7回公判、400円)、続(第8回公判~第11回公判無罪判決、500円)の2冊です。代金(実費)は、無償で法廷画を描いてくれた漫画家にカンパされます。ご希望の方は sienhatta@gmail.com までご連絡下さい(送料9冊まで80円、10冊以上160円)。

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2013/12/26 Thu. 01:05 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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#検察なう (357) 「『凡庸な悪』が冤罪を造り出す」 12/23/2013 

#検察なう (357) 「『凡庸な悪』が冤罪を造り出す」 12/23/2013

(強制捜査から1833日、控訴審判決まで39日)

人は誰しも「冤罪」がありうるということは頭では理解していると思います。捜査当局や司法当局もパーフェクトではなく、人間である以上間違いを犯すということもそれほど常識外れということではないと思います。

しかし、彼らが自らの間違いに気付きながらも、確信犯的に無辜の人を罪に陥れるということは一般の方はなかなか信じ難いと思います。

私も、査察部の強制捜査では「十分に調べてもらえば真実は明らかにされる。彼らもプロなのだから、私が嘘をついているかどうかは分かるはずだ」と思っていました。

それから刑事告発報道までの1年2か月は、「彼らは私が無実であることを知りながら罪に陥れようとしているのでは」という不安を押し殺して、「まさかそんなことはあるはずがない」と信じたい気持ちでした。

それゆえ国税局による刑事告発は少なからず驚きましたが、「やはり」という思いも同時にあり、やっとゲームのルールを飲み込んだ気がしました。

検察特捜部の取調べが始まった時は、「検察特捜部は国税局査察部とは違う。彼らは真実を見出してくれる」という期待を完全には捨てきれませんでした。しかし、特捜部の取調べが進むにつれ、そうした期待が裏切られることを覚悟しました。

無能であればまだしも、真実にたどりつくだけの能力のある彼らがなぜ私の無実を知りながらも告発や起訴ができるのか、この5年間考えてきました。最初は、私の理解を越えたことであったため、「彼らの頭はおかしいんじゃないか」としか思えなかったのですが、時間を掛けて考えるうちに、「彼らも家に帰れば、家族のいる普通の人間であり、仕事だから仕方ないと考えているのだ」と思い至りました。

そこまではなんとか理解したものの、「仕事の義務感と自分の良心との折り合いはどうやってつけているのだろう」という疑問は難題でした。5年間考えた結果、ようやくその答えに到達したような気がします。

その答えは「思考停止」です。

目の前の被疑者・被告人が無実であるという可能性を考えず、組織の決めた方針に忠実に従うことだけを意識すれば、自分の良心との葛藤は生まれません。彼らは、被疑者・被告人を「それぞれの人生を送る生身の人間」であるとさえ考えていないと思います。余計なことを考えず、役人として与えられた責務を淡々とこなしているという感覚だと思います。

その答えを確認するいい機会がありました。それは映画『ハンナ・ハーレント』を観たことです。10月末に封切り以来、連日満員の話題作です。

ハンナ・ハーレントは1900年代に生きた、ハイデッガーやヤスパースに師事するドイツ系ユダヤ人の哲学者です。彼女はナチスのユダヤ人迫害により収容所を経験し、脱走後アメリカに亡命しました。1960年代初頭、ナチス戦犯の一人アドルフ・アイヒマンが逃亡先で逮捕。彼女はイスラエルで行われた歴史的裁判を傍聴し、その傍聴記を雑誌『ザ・ニューヨーカー』に掲載します。

ナチス保安警察(ゲシュタポ)のユダヤ人課課長であったアイヒマンはユダヤ人の移送先の責任者でした。ホロコーストの最大級の犯罪者に人々はメフィストフェレス像を期待しますが、アーレントはアイヒマンの犯した罪を「凡庸な(あるいは「陳腐な」)悪」 “Banality of Evil”として根源的・悪魔的な悪ではないと主張し、世間の大批判を浴びました。

ちなみにアイヒマンが公判で語った「一人の死は悲劇だが、集団の死は統計上の数字に過ぎない」という言葉はあまりに有名です。

アーレントの寄稿した『ザ・ニューヨーカー』誌の記事は、『イェルサレムのアイヒマン~悪の陳腐さについての報告』で読むことができます。

ここをクリック→ Amazon 『イェルサレムのアイヒマン~悪の陳腐さについての報告』

私も一読しましたが、さすがに哲学者の文章とあって骨が折れました。それに比して映画はそのエッセンスをよくまとめ、明快にその主張を映像化しています。

そのシナリオから主題部分を拾ってみます。

(アイヒマンの公判のシーン)
裁判官 「葛藤は感じましたか?義務と良心の間で迷ったことは?」
アイヒマン 「両極に分かれていました」
裁判官 「両極?」
アイヒマン 「つまり、意識的な両極状態です。義務感と良心の間を行ったり来たりで」
裁判官 「個人の良心をやむなく捨てたと?」
アイヒマン 「そう言えます」
裁判官 「『市民の勇気』があれば違ったのでは?」
アイヒマン 「ヒエラルキー内にあれば違ったでしょう」

(アーレントがユダヤ人旧友のクルトと議論するシーン)
アーレント 「移送先など関心ないのよ。人を死に送り込んだけど、責任はないと考えてる。貨車が発車したら任務終了」
クルト 「奴によって移送された人間に、何が起きても無関係だと?」
アーレント 「そう、彼は役人なのよ」

(哲学者友人ハンスと議論するシーン)
ハンス 「アイヒマンは怪物だ。悪魔とは言わないよ。でも平凡な人間だって怪物になりえる」
アーレント 「そう単純じゃない。今回分かったわ。彼はどこにでもいる人よ。怖いほど凡人なの」
ハンス 「国家保安本部ではユダヤ人課のトップだ。ただの凡人に務まるのか?」
アーレント 「確かにね。でも彼は自分を国家の忠実な下僕と見てたの。『忠誠こそ名誉』。総統の命令は法律よ。彼に罪の意識は全くない。法に従ったからよ」

(『ザ・ニューヨーカー』誌に寄稿された一文)
『彼は思考不能だった。これは愚鈍とは違う。彼が20世紀最悪の犯罪者になったのは、思考不能だったからだ』

(大学講師としての講演のシーン)
アーレント 「世界最大の悪は、平凡な人間が行う悪なのです。そんな人には動機もなく、信念も邪心も悪魔的な意図もない、人間であることを拒絶した者なのです。そしてこの現象を私は『悪の凡庸さ』と名付けました」

「ソクラテスやプラトン以来私たちは『思考』をこう考えます。自分自身の静かな対話だと。人間であることを拒否したアイヒマンは、人間の大切な質を放棄しました。それは思考する能力です。その結果、モラルまで判断不能となりました。思考ができなくなると、平凡な人間が残虐行為に走るのです」

「『思考の嵐』がもたらすのは、知識ではありません。善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける力です。私が望むのは、考えることで人間が強くなることです。危機的状況にあっても、考え抜くことで破滅に至らぬよう」

ナチス親衛隊を国税局査察部、検察特捜部に、アイヒマンは一人一人の査察官、検察官だと読み替えれば、冤罪がいかに生み出されるかということも理解できるのではないでしょうか。人間は歴史から学ぶことができます。

アーレントも言っていることですが、思考停止した人間は人間の大切な質を放棄しています。是非とも彼らには思考することで、人間としての自分、人間の良心を取り戻してほしいと思います。そして我々、被疑者・被告人も一人の人間だと理解してほしいと思います。

ここをクリック→ 『ハンナ・アーレント』予告編

12/23/2013
















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2013/12/23 Mon. 00:04 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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フィルム・レビュー 『セッションズ』 ベン・リューイン監督 

フィルム・レビュー 『セッションズ』 ベン・リューイン監督

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身体障害者が性的興味を持った場合どうするか。これは身障者とセックス・サロゲートの実話に基づく映画です。セックス・サロゲートはサイコ・セラピストなんですが、性交渉を持ちます。身障者に対しての理解が格段に我が国より深いアメリカにも25人しか(「25人も」かな)いないと言われているセックス・サロゲートです。

身障者をターゲットにした売春との大きな違いは利用回数に制限があること。売春だったら、ご贔屓にしてくれれば何度でもですが。というのは、セックス・サロゲートの目的が、身障者のセックスに対するバリアを除いて、一般人(健常者&身障者)と普通にセックスができることを目指すというものだからです。ただ単にその場の性欲を満たすだけではありません。こんな仕事もあるんだと、深く考えさせられました。

これはディープな映画です。健常者としては、この映画の訴えるものを身障者の問題として捉えるもよし、あるいは純粋に愛とセックスの問題として捉えるもよし。

非常にまじめな映画ですが、必要以上にシリアスではありません。それは主人公のキャラによるところが大きいです。自らを詩人という彼は、ウィットに富みまっすぐに生きています。

主人公の告解を聞く神父が友人になるという設定で出てきますが、宗教とセックスって結構近いんだなと感じます。

そして何といってもやはり女性の慈愛ってのはすごいなあと思います。男のセックス・サロゲートってのはいないんだろうし。

『ツイスター』『恋愛小説家』『スコルピオンの恋まじない』のヘレン・ハントがまさに体当たり演技。オスカーの助演女優賞にノミネートされてるみたいだけど、ほかの候補者は知らないベースでも、彼女にやるべきだと言える演技でした。

これは観ても損はないと思われます。

ここをクリック→ 『セッションズ』予告編

(Facebook 12/8/2013より転載)






















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2013/12/22 Sun. 11:40 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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#検察なう (356) 「調書主義と対抗する方法」 12/19/2013 

#検察なう (356) 「調書主義と対抗する方法」 12/19/2013

(強制捜査から1829日、控訴審判決まで43日)

裁判官と掛けて、ヤギと解く。そのココロは。

「どちらも紙が好き」

私はヤギに餌をやった経験がないので、彼らが本当に紙を食べるのかは分かりませんが、裁判官は相当に紙、即ち書証(書面による証拠)が好きです。

一般人の私が刑事司法の世界を覗き見ると不可思議なことが多いのですが、控訴審直前にも驚かされることがありました。それは期日前協議(公判の前に行われる裁判官、検察官、弁護人による三者協議)がないと知った時の、私と主任弁護人の小松正和弁護士とのやり取りでした。

私「全く弁護人や検察官から話を聞かないというのは、勿論、その必要がないくらい明らかということなんでしょうが、それでも膨大な資料を読むより直接当事者の話を聞いた方が早いでしょ」

小松先生「八田さん、裁判官にその感覚は全くありませんよ。それでなくても「書面で提出するように」と言いますから」

仕事をしていて山ほどの書類を前にすると、それを読むより、自分よりよく事情を知る者に聞いたり、担当者に直接聞いたりする方がよほど効率的だと思うのが一般的な感覚なのではないでしょうか。ところがそうした感覚は裁判官には一切ないようです。

上訴となれば、証拠は全て記録上残されて引き渡さないといけないという事情は理解します。しかし、書面の方が本人の言葉より信頼できるという理屈は全く理解できません。その根拠は、「公開の法廷より密室での検察官との取調べの方が本当のことを言い易い」というものです。「なんだかなあ」です。

調書を重視することは「調書主義」と呼ばれますが、それに対する概念は「口頭主義」です。

「あんたはそう言ってるけど、ここにはこう書いてあるんだよ」というのが調書主義で、「ここにはこう書いてあるけど、本当のところはどうなの」というのが口頭主義です。

調書主義を理解する検察は、被告人を有罪にするという目的を達成するためにそれを最大限に利用します。起訴となれば公判で被告人を有罪とするための調書作りが、検察の取調べの目的と言っていいものです。

笠間元検事総長が就任当時に、検察の調書至上主義に対し警鐘を鳴らしましたが、それは実態がそうであることの証左であり、検察が公判を勝ち負けのゲームと考えている以上変わるものではありません。

ここをクリック→ NHKニュース『笠間検事総長「調書至上主義改めよ」』

密室の中で弁護士のアシストもなく強権的な取調べが行われ、検察の恣意的な作文によって公判での最重要証拠が作られるという状況をいかに克服するべきでしょうか。

さらに弁護側にとって飛び越えなければならないハードルがあります。それが「伝聞例外」の問題です。

被告人や証人の供述調書は「伝聞証拠」とされています。そこでは見間違い、記憶違い、言い間違いや嘘をついている可能性があるため、原則これを証拠とすることはできません(刑事訴訟法第320条)。調書が証拠採用されるには対立当事者の「同意」が必要であるのは、それが原則的には証拠にできないからです。

そのことから調書が「不同意」とされれば、公判で被告人質問や証人尋問を行って調書の内容を再現することを試みることになり、調書は公判に証拠採用されることはないはずです。しかし、実際はそうではありません。刑事訴訟法第322条に定められた「伝聞例外」のケースでは、「不同意」とされた検面調書が証拠採用されることになります。

その「伝聞例外」のケースとは

1 被告人に不利益な事実の承認を内容とするものであるとき。

または

2 特に信用すべき状況の下にされたものであるとき。

というものです。

「または」で結ばれているのが曲者で、普通の感覚であれば調書が証拠となるには「特に信用できる状況」で作成されたものだと思われますが、この条文の意味するところは、「被告人に不利益な事実」が調書に記載されてしまうと、「特に信用できる状況」で作成されたものでなくとも、公判で証拠採用されるというものです。

つまり調書が「伝聞証拠」であり、原則証拠採用されないというのは法律論の建前に過ぎず、被告人に不利な事実が記載される検面調書は証拠採用されるというのが実態です。

これは非常にゆゆしいものです。検察の取り調べで一旦自白調書を取られると、いかに弁護側がそれを不同意にしても証拠採用され、かつ公判で被告人が否認しても、調書の方がより信用され「一旦認めたんだから有罪」という状況になるという事態を招きます。

それほど被告人取調べ調書の影響はパワフルです。

それなら検察に調書を作らせなければいいと黙秘を勧めることが弁護戦略として考えられます。私はそれにはあまり感心しません。黙秘を貫くことは、それほど簡単ではありません。やはり人間は間違った嫌疑をかけられると弁明したくなるものです。そして何より裁判官の心証が悪くなるリスクがあると思います。「どうせ自分に都合が悪いから反論できないのだろう」と邪推されかねないものです(黙秘権は被疑者・被告人の正当な権利であり、黙秘に対する予断は排除されるべきという建前論はあるとは思いますが)。

是非弁護士の方々に考えて頂きたいのが「署名拒否作戦」です。被疑者・被告人に黙秘をさせるのではなく、思う存分取調べを受けさせ、その供述を調書として証拠化した上で、署名だけをさせないというものです。調書に署名、押印さえしなければ、その調書が「伝聞例外」の適用を受ける「被告人の署名若しくは押印のあるもの」とならず、いかに不利益な事実が記載されても、弁護人の同意なしに公判で証拠提出とされることはありません。そしてその調書は「一部不同意」にして存分に弁護人が一部墨塗りによる作文をするとことができます。検察官の作文には弁護人の作文で対抗です。そのためには調書に署名をさせないことが必要です。

関係者証言の甲号証の(弁護側「不同意」でも証拠として採用される)いわゆる「二号書面」化を防ぐことは(関係者に署名拒否をさせるのは相当至難の業だと思われますので)無理としても、被告人の乙号証の「伝聞例外」化をこれにより防ぐことができます。

この作戦は相当効くはずです。私も検察特捜部の取調べで一度だけ署名を拒否したことがあります(注)。その時の検察官の「署名をしないとなると、取調べをする必要があるかどうかともなりますが」という言葉は、調書に署名をしなければ取調べをする意味がないとまで彼らは考えているということです。そのため検察官は相当執拗に署名を迫ってくるはずです。その脅迫・恫喝に被告人が耐えることができるかどうか、弁護人は被告人をいかにサポートできるかがこの作戦の成功の鍵です。

また、逮捕をされると弁護活動が著しく困難になります。そして、否認しながら逮捕されないようにするということは相当難しいものです。もし逮捕前の弁護で被疑者が否認する場合には「逮捕されたら調書には署名させない」と書面で申し入れるのもいいかもしれません。

私は完全否認+無職+海外居住でありながら、奇跡的に逮捕されることはありませんでした。それは記者の方に「戦後初めてではないですか」と言われたくらい稀有なことです。その理由にはいろいろな要素がからんでいると思われますが、検察取調べ開始時に、小松弁護人が「逮捕されたら署名させない」と示唆していたこともその一因かもしれません。

刑事弁護をされる弁護士の方々はこの「署名拒否作戦」を是非御一考下さい。

(注)
ここをクリック→ #経過報告 (60) 「検察取調べ第十五回で大バトル」

12/19/2013














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2013/12/19 Thu. 00:04 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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#検察なう (355) 「経験を社会にフィードバックしたいと思っています」 12/16/2013 

#検察なう (355) 「経験を社会にフィードバックしたいと思っています」 12/16/2013

(強制捜査から1826日、控訴審判決まで46日)

先日のブログ が、とある弁護士ブログに引用されました。

『有罪に導く検察官の供述調書ライティング技術』

ここをクリック→ 兼六坂ランダムウォーク ~ 弁護士 山岸陽平 Weblog ~

素人の私に言われるのは不本意かと思いますが、かなりしっかり勉強なさっている印象です。

刑事被告人という立場や、まして検察特捜部に取調べを受けて起訴され一審無罪であるという人間は相当稀有だと思われますので、できる限り自分の経験したところ、考えるところを社会にフィードバックしたいと思っています。

そしてこのような形で、法曹関係者に見所ありと思われることが一番の喜びです。

刑事裁判は弁護側にとっては大きなハンディキャップを背負って戦わなくてはなりません。もし私が大学時代に弁護士を目指していたならば、自虐的な刑事弁護よりは、相手も弁護士でガチンコで戦える民事弁護を志向していただろうなと思います。

そのような環境下で、刑事弁護に関心を持つ弁護士の方々を応援したいと思います。

私の控訴審の弁護を担当した喜田村洋一弁護士も小松正和弁護士も企業法務をメインとしながらも、「趣味で」刑事弁護をされています。「好きこそ物の上手なれ」で、「趣味で」弁護ができれば最大限の能力が発揮できると依頼人である私は思っています。能力ある企業法務弁護士には、是非とも彼らのように「趣味で」刑事弁護をして欲しいと思っています。

12/16/2013










法廷画が冊子化されました。正(第2回公判~第7回公判、400円)、続(第8回公判~第11回公判無罪判決、500円)の2冊です。代金(実費)は、無償で法廷画を描いてくれた漫画家にカンパされます。ご希望の方は sienhatta@gmail.com までご連絡下さい(送料9冊まで80円、10冊以上160円)。

#検察なう


ここをクリック→ Wikipedia クレディ・スイス証券集団申告漏れ事件

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2013/12/16 Mon. 01:14 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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フィルム・レビュー 『永遠の0』 山崎貴監督 

フィルム・レビュー 『永遠の0』 山崎貴監督

永遠の0

映画『永遠の0』観賞。

ベタな映画が嫌いなわけでは全くないです。泣く気まんまんで観ました。前半はすごく盛り上がっていたのですが、途中で「あれ、これってこうなるの」とストーリーが読めてからは全然入れませんでした(原作は未読)。

ネタばれになるといけないので多くは書きませんが、戦時という異常な状況でも、愛や命の尊さを強く持ち続けるってのがテーマだったんじゃないの?あれれ?でした。

話は結局、ヒーローを作って「なんだよ、かっこよすぎんじゃん」でした。放映前に繰り返し流されていたサザンの主題歌も、始まるまでは「いいじゃん」と思っていたのですが、エンディングでは、「おいおい、なんでそこで笑み浮かべるわけ!あー、サザンかよー」って感じでした。

監督は『ALWAYS 三丁目の夕日』の山崎貴。『ALWAYS』は好きで、正・続はDVD持ってるんですけどね。

よかったのは戦争賛美になっていないこと。特攻が常軌を逸した戦略だったというのはよく伝わりました。

微妙なのは合コンで、「特攻なんて外人から見れば自爆テロと同じだよ」っていうくだり。ここで観客は「いらっ」とくる計算のシーンなんですが、結局この映画は外人には理解しずらい「日本映画」なんです(それがいけないというわけでは全然ないです。『ALWAYS』は外人には多分理解されないけれどいい映画です)。

ということでお好きな人はどうぞ。

R.I.P.夏八木勲。

ここをクリック→ 『永遠の0』予告編

(Facebook 12/13/2013より転載)


















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2013/12/15 Sun. 10:26 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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#検察なう (354) 「当事者主義と武器対等の原則」 12/12/2012  

#検察なう (354) 「当事者主義と武器対等の原則」 12/12/2012

(強制捜査から1822日、控訴審判決まで50日)

捜査当局が冤罪を作り出してしまう理由に、彼らがあまりに職務に真面目だということがありえると思います。

国税局査察部の取調べにおいて、私が強硬に要求してかなった統括官(担当査察官の上司で現場の責任者)との面談において、私は彼に「あなた方は、仕事には大変真面目だが、人間としては実に不真面目だ」と言いました。彼がその意味を理解したかどうかは不明ですが、国税局査察部査察官や検察特捜部検察官に対して、今でも同じ感想を持っています。

彼らが、「告発することが仕事」、「起訴・有罪にすることが仕事」であると間違った認識を持っていれば、その目的に邁進することによって、結果的に冤罪を生み出す可能性があります。

村木厚子氏の郵便不正事件でもこの「仕事観」が背景にあると江川紹子氏も問題視しています。

ここをクリック→ 江川紹子氏ツイート
(注)

捜査当局はあくまで厳正公平であり、積極・消極を問わず証拠の収集・評価を行い、被疑者・被告人の主張に耳を傾けることが我々国民の期待するところであることは間違いありません。しかし、実態は、あたかも常に有罪そのものを目的としてより重い処分の実現自体を成果とみなしているように思えます。

それを正当化することは到底できませんが、もしかするとこのように言ってくるかもしれません。

「あーん?分かっちゃないな。当事者主義知らねえのか。俺たちは一方当事者なんだから、被疑者・被告人が何が何でも無罪を取ろうとするのに対抗してナンボなんだよ。」

「当事者主義」とは、裁判官が積極的に主導的役割を担うのであれば(これを対して「職権主義」と言います)、自ら証拠を収集し事実を追求する者が、同じ判断者を兼ねることになり、自己の追求した線に沿った判断をしてしまう危険も否めないと考えることから導かれる考え方です。そして、裁判官はあくまで中立のレフリーに徹し、訴訟追行の主導権を当事者、即ち被告人+弁護人と検察官に委ねるものが「当事者主義」です。

両当事者が、法廷というリングでガチンコで争って初めて真実があぶり出されるというものが「当事者主義」の基本理念にあると思います。

その一方当事者として、一生懸命に結果を求めて仕事をする結果が、今の捜査権力の問題点として問われているのではないでしょうか。

そして、当事者主義の大きな問題点は、その理念そのものよりも、戦う双方が持つことのできる武器の著しい不均衡にあると思われます。

決闘のシーンで、振り返ったところ、こちらが手に持っているものは果物ナイフであるのに対し、相手はバズーカ砲をもっていたくらいの差があります。

何しろ、裁判では検察官の作る調書が最重要視され、その調書は検察官が勝手に作文することができるのですから。「それじゃ、取調べを可視化したくはないわなあ。」と誰しもが思うところです。

当事者主義を用いるのであれば、当然その当事者には「武器対等の原則」が必要です。

そもそも証拠の収集能力が国家と個人では格段の差がある上、その収集した証拠から、捜査当局が自分たちに都合のいいものだけを開示することが許されているであるとか、密室での取調べでの調書が最優先される中で、取調べの可視化も行われず、弁護士の同席も許されていないという、「武器対等の原則」が著しくないがしろにされている現状では、当事者主義は非常に危険なルールです。

捜査権力の仕事観をどのようにして変えればよいか。それは彼らのインセンティブ付けの問題です。正しいインセンティブを与えれば、仕事には真面目な彼らのことですから、正しい方向に驀進することは間違いありません。そして仕事において正しいインセンティブを与えるためには、評価方法を変えるのが一番有効です。

どうすればいいか。一案です。

例えば、検察の評価の尺度を、有罪率などという現状の制度の上では危険極まりないものにするのではなく、検面調書がいかに取り調べの内容をニュアンスまで正しく客観的に作成されているか(皮肉なことに、現行制度においてはこれが検察官の一番重要な仕事だと思います)を第三者が評価するといったものに変えれば、世の中は180度転換すると思います。取り調べを録音・録画して、無作為抽出で検面調書と突き合わせ、いかに供述内容を正しく伝えているかを検証します。

変化を求めず、むしろ既得権擁護に汲々とする法務官僚にそうした発想はないとは思いますが。

(注)
村木厚子氏著、聞き手・構成江川紹子氏
『私は負けない「郵便不正事件」はこうして作られた」

ここをクリック→ #検察なう (344) 「郵便不正事件の真相は今も隠されたまま~村木厚子氏著『私は負けない「郵便不正事件」はこうして作られた』を読んで」

p.22
「勾留第一日目の取り調べで、遠藤検事からいきなりこう聞かれました。
「勾留期間は10日、1回だけ延長ができるので20日間です。そのうえで、起訴するかどうか決めますが、あなたの場合は起訴されることになるでしょう。裁判のことは考えていますか」
それなら何のために20日間も取り調べをするのだろうと思いました。よく話を聞き、事実を調べて、本当に犯罪の嫌疑があるのかどうか確認するのではなく、もう結論は決まっている、というわけです。
遠藤検事は、こうも言いました。
「私の仕事は、あなたの供述を変えさせることです」
それなら、真実はどうやったら明らかになるんだろう、と思いました。その手段を持っている検察がそういう姿勢なら、いったい真相解明は誰がやってくれるのか、と。」

12/12/2013

















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2013/12/12 Thu. 00:54 [edit]   TB: 0 | CM: 2

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#検察なう (353) 「刑事司法における秩序感覚」 12/9/2013 

#検察なう (353) 「刑事司法における秩序感覚」 12/9/2013

(強制捜査から1819日、控訴審判決まで53日)

私が経験した国税局査察部による取調べでは、担当査察官の心証はシロだと感じました。一人の査察官からは、「こういうところでお会いするのでなければ、もう少しお近づきにもなれるのですが」と言われ、もう一人の査察官に「どうしてこんなに時間がかかっているのですか」と尋ねると、「上司がどうしても納得してくれないんです」と言われました。その上司と面談かなった際には「証拠はありません。しかし私たちの仕事はあなたを告発することです。ですから時間がかかっていることはご理解下さい」と言われました。

特捜部取調べは、全文「問答形式」という特異な調書であったため、調書に録取された以外の無駄口、世間話は一切せず、検察官の心証を伺い知ることはできませんでした。しかし、彼らの卓越した捜査能力を正しい方向に行使さえすれば、真実に到達することはいとも容易だと思われます。

国家権力がなぜ無辜の者を罪に陥れなければならないのか、その理由を知りたいとこの5年間考えてきました。

また、名張毒ぶどう酒事件(注1)、福井女子中学生殺人事件(注2)、大崎事件(注3)といった冤罪事件では、職業裁判官によって一旦は無罪(相当)の判断がされていることから、彼らの有罪判決には合理的な疑いが入るのは明らかです。「疑わしきは被告人の利益に」という刑事司法の大原則を遵守するだけで、彼らに無罪を言い渡すことは簡単であるかのように思えます。

何が何でも有罪にしなければならないとする理由には、単なる役所のメンツを守るといった低次元の論理ではない何かがあるように思えます。

それが何か、やはりインサイダーでなければ知り得ることはできませんが、私がぼんやり見えてきたものを言い表せば、「何らかの治安維持・秩序感覚」というものだと思います。

宮台真司氏によるコメント(1分4秒動画)をご覧下さい。私も宮台氏と同じ疑問を常に持っています。そしてそれに関する答えをいまだ見つけられずにいます。

ここをクリック→ 検察官の特殊な秩序感覚

一般市民感覚から遊離したこの感覚は、捜査当局のみならず、(一部)裁判官もシェアしているものかもしれません。

先日、元判事の石松武雄氏の講演集を読みました。石松氏は約40年間の裁判官生活のうち、約30年を刑事裁判実務に関わった判事であり、定年退官時は大阪高裁判事であった方です。

彼の『わが国の刑事被告人は裁判官による裁判を本当に受けているか』と題する講演は、精密司法・調書裁判が公判を形骸化させているという内容のものですが、章建てされた一つの章の表題が『治安維持より無罪の発見』であり、「治安維持」と「無罪」を対比させていることに興味をひかれました。その章から引用します。

「刑事裁判官の使命は、治安の維持よりも被告人の人権の保障にあるという考え方、換言すれば、犯罪の嫌疑を受けている被告人の中から無実の者またはより軽い罪によって処罰されるべき者を選び出し、これを速やかに救済する点に刑事裁判の主たる意義を見出し、その治安維持機能を二次的なものとみようという考え方がかなり広く主張された……私も……第一審裁判官としてこのような傾向を刑事裁判の正しい方向であると考え、たとえば、逮捕の必要性・勾留の理由・権利保釈の除外事由としての罪証隠滅のおそれという要件の判断がルーズに流れないようにしぼりをかけ、あるいは、刑訴法321条2号の要件や自白の証拠能力の要件を法の規定するとおり厳格に判断しようと腐心したことでありました。しかし、このような裁判実務の傾向は……強大な捜査体制を背景とする従前の捜査裁判実務に真っ向から衝突するものであり、逆に充実した捜査によって裁判をリードしようとする考え方、調書裁判・精密司法の優位性を強調する考え方をとる側からの強い反撃に遭遇することは当然予想されたことであります。」

講演の行われた1989年当時よりも現在では、捜査に対する司法的抑制と公判中心主義を徹底する裁判官が減っているのではないかと危惧します。明示的ではありませんが、表面的に捉えると、あたかも無罪を出すと治安維持ができないかのように感じます。

冤罪をなくすためには、我々一般市民の感覚とは明らかにずれた刑事司法インサイダーの「特殊な秩序感覚」を理解し、我々がそのギャップを埋めるべく努力をする必要があるのではないでしょうか。「何でこんなことも分からないのか」と言っていたのではそのギャップは永遠に埋まらないでしょう。なぜなら彼らは十分に分かっているからです。それでも我々の期待する結果となっていないその根源的な理由を探る必要があります。しかし私も具体的方策のイメージがあるわけではありません。考え続けたいと思っています。

(注1)
「名張毒ぶどう酒事件」
一審無罪(二審逆転有罪)、再審開始決定(再審開始決定取消)
ここをクリック→ 冤罪ファイル その1「名張毒ぶどう酒殺人事件」

(注2)
「福井女子中学生殺人事件」
一審無罪(二審逆転有罪)、再審開始決定(再審開始決定取消)
ここをクリック→ 冤罪ファイル その9 「福井女子中学生殺人事件」

(注3)
「大崎事件」
再審開始決定(再審開始決定取消)
ここをクリック→ 冤罪ファイル その8 「大崎事件」

12/9/2013















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2013/12/09 Mon. 00:33 [edit]   TB: 0 | CM: 1

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フィルム・レビュー 『キャプテン・フィリップス』 ポール・グリーングラス監督 

フィルム・レビュー 『キャプテン・フィリップス』 ポール・グリーングラス監督

captain phillips

映画『キャプテン・フィリップス』観賞。

こ、れ、は、そーとー面白いです。やはり実話に基づくリアリティーがこの映画の命です。全編手に汗握る展開。

トム・ハンクスの演技は素晴らしく、特にラスト5分は感動。これでダニエル・デイ・ルイスに並ぶ3度目のオスカー主演男優賞は決まりかと。

また映画の深みを増しているのは、ソマリア海賊の描き方。単に残虐なモンスターではなく、やはり彼らも生身の人間として描かれています。貧しく腐敗した国の絶望的な状況の中で、彼らが武器を持つことの危険性を考えさせられました。

US Navyの協力もしっかり得られていることを伺わせる迫力。しかも役者の中に本物の軍人が入って、彼らの演技でない演技が光っていました。

ちなみに両親を連れていったのですが、大層感動していました(年寄りはつまんないとすぐ寝ちゃうからね)。お勧めの一本ですね。

ここをクリック→ 『キャプテン・フィリップス』予告編

(Facebook 12/3/2013より転載)



















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2013/12/08 Sun. 09:03 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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#検察なう (352) 「起訴前弁護の重要性」 12/5/2013  

#検察なう (352) 「起訴前弁護の重要性」 12/5/2013


(強制捜査から1815日、控訴審判決まで57日)

災害時には"Critical (First) 72 Hours" (生死を分ける72時間)と言われます。被災者救済には初動が非常に重要であり、72時間を過ぎると生存率が著しく低下するという 意味です。災害救済に限らず、初動が大切な局面というのは危機的状況に見られるものです。例えば、火事の初期消火、あるいはガンの早期発見等々。

刑事弁護も同じです。

冤罪事件でよくあるのが「検察取調べで自白、公判で一転して否認」というパターンです。そして日本の刑事司法では、公開の場の供述よりも密室での調書の方が信頼されるという我々の一般的感覚とは真逆のことが原則であるため、検察取調べでの自白調書はまさに致命的です。

捜査当局も調書の重要さを理解し、彼らに有利な調書を取る技術を究めています。PC遠隔操作事件における4人の誤認逮捕でも、実にその5割の2人が虚偽自白させられていることは重視すべき事実です。

もう一度考えてみましょう。誰しも裁判で弁護人をつけずに戦うことは考えないと思います。しかし、5割に満たない起訴率と99.9%の有罪率は、検察取調べが事実上第一審であることを物語っています。その第一審に弁護人をつけないということが、被疑者にとってどれだけ不利であるかを強調してし過ぎることはないと思います。

私は奇跡的に一審無罪判決を得ることができましたが、その勝因の大きな一つが、完全な否認調書を作ることができたことだと思っています。それも起訴前弁護があったからです。

私は、国税局査察部取調べの段階では弁護人をつけていませんでした。話せば分かると思っていたからです。そして彼らの刑事告発によって、捜査当局は無実の者でも彼らが有罪にしたいと思えばそれに追い込むという意図を理解し、弁護人をつけてその対策を講じました。

検察特捜部の取調べが始まる前に、主任弁護人の小松正和弁護士に説明されたのは、調書における符牒でした。通常、調書は一人称で書かれます。第三者の検察官が作成しながら、文章は「私は」で始まる文体になっています。しかし、検察官が「この被疑者は嘘をついているな」と思われる部分は問答形式になります。

一人称の文章の中に突然、
検察官「~ではないのですか」
被疑者「いえ、それは~です」
という問答形式の会話が挿入されます。これが検察官による符牒です。

私はそれを聞いていたため、案の定、検察官がそのような問答形式の文章をはさんで検面調書を作成し始めた時に、徹底的に抵抗しました。

かなりの長時間、検面調書の様式に関し怒鳴り合いが続き、その中では「どうして我々が怪しいと思っていることを裁判官に伝えることがいけないんだ!」という検察官の言葉もありました。

結局、根負けした検察官の選択は、裁判官も見たことがないであろう、全て問答形式の調書でした。小松弁護士の事前の情報インプットがなければ、そうした調書は生まれなかったものです。

また、特捜部取調べは毎回長時間で、19回に及びましたが、小松弁護士はその都度私からの連絡にスタンバっていました。

休憩時間の度に、私はガリガリ君を食べながら、彼の事務所に電話し、「先生、検事がこういう質問をしてきたのですが、彼らの意図はどこにあるんでしょうか」とか、「先生、あまりに取調べがひどいので、今日の調書には署名しないつもりですが、それでいいですか」といった相談をしていました。

毎回の取調べに当たっては逮捕を覚悟して、小松弁護士にいざという時の連絡先リストを渡してあったことも後顧の憂いがなかったものです。検察特捜部の取調べは、毎回「来るなら来い!」と戦地に向かう気分でした。

結局、一旦テイクオフした検察が引き返すことはなく起訴はされましたが、取調べを乗り切り完全な否認調書を作ることができたのは、弁護人のサポートがあったからです。

素人ボクサーがプロのセコンドなしにリングに上がることは、リンチを受ける以外の何物でもありません。それは絶対避けるべきです。

刑事事件においても、初動で大勢が決するがゆえに起訴前弁護が重要であるということはもっと喧伝されるべきことだと思います。

もしホーム・ドクターならぬ、ホーム・ロイヤーがいない場合は、日弁連が駆け込み寺になります。

逮捕された場合は、当番弁護士制度を利用することになります。

ここをクリック→ 日弁連刑事弁護センター 当番弁護士連絡先

逮捕されていない場合には、まずは法律相談センターに問い合わせをすることです。

ここをクリック→ 法律相談センター


調書を作成される前に「弁護士と話したい」ということがあなたを冤罪から救うことになるはずです。是非、肝に銘じておいて下さい。

12/5/2013





















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2013/12/05 Thu. 02:20 [edit]   TB: 6 | CM: 0

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#検察なう (351) 「冤罪の定義」 12/2/2013 

#検察なう (351) 「冤罪の定義」 12/2/2013

(強制捜査から1812日、控訴審判決まで60日)

多くの人にとって縁遠いと思われる「冤罪」。その言葉の定義も人によって微妙な差があるようです。最近偶然にも、複数(3人)の友人・知人から「あなたのケースはいわゆる冤罪とは違うんじゃない」と立て続けに言われ驚きました。彼らは私の無実を信じてくれているので、「本当はやってんじゃないの」的なレベルの発言ではありません。少し考えてみたいと思います。

まず広辞苑を紐解くと(電子辞書ですが)、「冤罪」の説明はいたってシンプルです。

「無実の罪。ぬれぎぬ。」

それ以上でもなく、それ以下でもない、まさにその通りです。

無実であるにもかかわらず裁判所の判断が有罪であったものだけを「冤罪」と狭く定義している人もいるかもしれません。そのように考える人でも、例えば「(まだ公判すら始まっていない)PC遠隔操作事件は冤罪だと思う」と聞いて、その言葉の使い方に違和感は持たないのではないでしょうか(あの事件が冤罪かどうかは分かりませんが)。

Wikipediaの説明はもう少し詳しくなっています。

「捜査や裁判の過程に問題が指摘されている刑事事件を表現するために用いられることが多い。無実の者が裁判において有罪とされその判決が確定した場合や、再審で証拠不十分(「疑わしきは被告の利益に」)により無罪となった場合のほか、無実の者が逮捕され被疑者として扱われたり、起訴され刑事裁判を受けたりした場合も冤罪事件と呼ばれる。」

私のケースはまさに最後の「起訴され刑事裁判を受けたりした場合」です。説明の後半部分は、社会の実態が「推定有罪」をディフォルトとしていることを表しています。「推定無罪」とか「推定有罪」と言うと、法律用語のような気がしますが、何のことはありません。私たちも普通の感覚として持っています。

例えば、私のケースで言えば、内定していた就職を国税局告発後に取り消されたり、無実を訴えても関わり合いになりたくないと人が遠ざかっていくことはまさに彼らが有罪を前提にしていることを意味しています。それが「推定有罪」です。

もし「推定無罪」の本来意味する「刑事上の罪に問われているすべての者は、法律に基づいて有罪とされるまでは、無罪と推定される権利を有する(国際人権規約B規約14条2項)」ことが遵守されていれば、私が就職を取り消されることや、友人を失うことはないはずです。

社会が「推定有罪」をディフォルトとしていることはかなり根深い問題だと言えます。

ケンカをしている二人の一方だけの言い分を聞いて、もう一方の者に「お前が悪い」と言うことは間違っているとは誰もが認めるところだと思います。しかし、事件報道では、捜査当局のリークに基づく一方の当事者の言い分だけを取り入れて、被疑者を犯人視することが常態化しているようです。捜査当局のリークは、立派な違法行為であるにも関わらず(国家公務員法第100条、地方公務員法第34条「職員は、職務上知ることのできた秘密を漏らしてはならない」)、法を順守すべき捜査当局が厚顔無恥にもリークを日常的に行っていることはゆゆしい問題です。

重大な冤罪事件を非難する際に、「被告人の言い分を裁判官は真摯に聞くべき」とはよく耳にします。それは、通常の事件報道の我々の理解の仕方にも当てはまります。事件報道では、メディアが被疑者の主張を報道しているかどうかにも十分注意してほしいものです。それによって我々のメディア・リテラシーが高められるのではないでしょうか。

一歩進んで「量刑不当」は冤罪でしょうか。私は、ケース・バイ・ケースで冤罪と言ってもいい場合もあると思っています。

本来、罰は罪に相応してあるべきです。その罪に比して罰が著しく苛烈であれば、それは人権を不当に侵害・抑圧していると言えます。ケース・バイ・ケースと言ったのは、その状況が国家権力の恣意的な行使に基づく場合、冤罪と言ってもいい状況が生まれていると思っています。

私のブログをお読みの方はご存知の佐藤真言氏・朝倉亨氏の粉飾決算の事案がそれに当たると私は感じてます。彼らは実刑判決を受け、現在収監中です。

私が、朝倉氏の収監前に新宿の喫茶店ルノワールでお会いした時、ひとしきり話した後で、彼が「八田さんのお気持ちよく分かります」と言った後、「あ、すみません。八田さんは冤罪で、私とは違いますね」と申し訳なさそうに言いました。私は、「いえ、私は、朝倉さんも佐藤さんも冤罪被害者だと思っています。国家権力が作った犯罪で、本来受けるべきでない扱いをされているわけですから」と言いました。その時の彼のほっとした様子が私の記憶に残っています。

逆に、いかに言葉の定義のテクニカルな議論だったとしても、「冤罪ではない」と言われることが、「なぜこのような仕打ちを受けなければいけないのか」と思っている者に与える精神的ダメージを是非考えてほしいと思います。それは当事者にとっては「それは因果応報でしょ。そうした状況を招いた責任の一端はあなたにあるでしょ」と聞こえるからです。言っている者の真意はそうではないと分かっていても、疑心暗鬼になり、不安感をいつも抱えているのが冤罪被害者だと思います。

私は、「国家権力の恣意的な行使により、著しく不当な刑罰を与えられた場合」も特殊な「冤罪」の一類型であると考えます。

但し、全ての捜査の過ち、例えば全ての「誤認逮捕」がいけないわけではないという点は強調したいと思います。捜査当局も過ちを犯すこともあります。そしてそれが適法かつ人道的であれば、それは許容されるべきです。それを何でもいけないとすれば、彼らはそれを隠蔽するようになります。過ちを認めず、「引く勇気」を失うことにつながります。

私のケースでも、国税局査察部の取調べは(異様な程、長期間に亘ったことを除けば)問題なかったと思っています。そして彼らが私の無実を知りながら私を刑事告発した時点で、既に私は冤罪被害者になったと思っています。

私は、自分が冤罪被害者であると訴えて憐れみを乞うつもりは一切ありません。私が挑戦しているのは、推定有罪をディフォルトとする社会構造です。冤罪はそうした社会の構造的問題が背景であると思っています。その挑戦者の立場を表明するために、胸を張って「私は冤罪被害者である」と言っています。是非、考えてみて下さい。

12/2/2013
















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category: 冤罪事件に関して

2013/12/02 Mon. 09:57 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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フィルム・レビュー 『ハンナ・アーレント』 マルガレーテ・フォン・トロッタ監督 

フィルム・レビュー 『ハンナ・アーレント』 マルガレーテ・フォン・トロッタ監督

ハンナアーレント

今、一番話題の映画『ハンナ・アーレント』。東京では10月末の公開以来、毎回満席と聞いていて、混んでる映画館が苦手な私はここまで待っていました。

国家権力が悪魔的な行為をする際、手を下す者は義務感と良心をいかに自分の中でバランスするのかを私は考えてきました。そして彼らは「思考停止」状態なのではと思い至るまでに5年かかりました。そう考える私にとっては、まさに我が意を得たりというテーマだったのでこの映画は楽しみにしていました。

主人公のハンナ・アーレントは収容所を経験し、アメリカに亡命したドイツ系ユダヤ人の哲学者。彼女がナチスの戦犯アドルフ・アイヒマンの裁判を傍聴し、その傍聴記を『ザ・ニューヨーカー』誌に掲載します。アウシュビッツの最大級の犯罪者に人々はメフィストフェレス像を期待しますが、アーレントは「陳腐な(あるいは凡庸な)悪」として根源的な悪ではないとし、世間の大批判を浴びます。

ちなみにアイヒマンは、ゲシュタポのユダヤ人課課長で、ユダヤ人収容者の収容先を決めていた人物です。アーレント自身も、収容所から逃れることができなければ、アイヒマンその人にアウシュビッツに送られていたはずです(同じ収容所の多くの女性が夫の助けを待って結局アウシュビッツ行きになった)。アイヒマンが公判で語った「一人の死は悲劇だが、集団の死は統計上の数字に過ぎない」という言葉はあまりに有名です。処刑前に「最後の望みは」と聞かれ、「ユダヤ教徒になる」と答え、なぜかと尋ねられると「これでまた一人ユダヤ人を殺せる」と言ったという逸話も残っています。

ハンナ・アーレントに自分を投影してあっという間の113分でした。ところがテーマがテーマだけに、終わりのエンド・クレジット直前に立つ人が1割くらいいたかな。やはりホロコーストがテーマといえば、弾圧されたユダヤ人が強く生き抜くお涙頂戴系の方が分かりやすいとは思いますが。

哲学者を主人公とする映画ですが、せりふは実に分かりやすく噛み砕かれて書かれているように思えました。

せりふを引用します(最後のハイライトの8分間のスピーチより)。

「世界最大の悪は、平凡な人間が行う悪なのです。そんな人には動機もなく、信念も邪心も悪魔的な意図もない。人間であることを拒絶した者なのです。そしてこの現象を、私は『悪の凡庸さ』となづけました」

とてもいい作品なのですが、敢えて難を言えば、ハイデッガー(アーレントはかつて不倫の関係にあった)との再会のシーンはいらないかな。存在の意味を問うたハイデッガーを登場させることで、思考しないアイヒマンの「非」人間性を対比させたというのも考え過ぎだろうし。あと、アーレントを演じたバルバラ・スコヴァ(クローネンバーグの『エム・バタフライ』に出てたらしいが、記憶になし)は哲学者、女性、友人をよく演じているけれど、傲慢さ(映画では何度も人から言われている)が弱かったかな。よき理解者(そして批判にさらされている時は数少ない理解者)の夫を愛する非常にチャーミングな女性でした。

もう一度是非観たい作品です。興味のある人はお見逃しなく。

ここをクリック→ 『ハンナ・アーレント』予告編

(Facebook 11/24/2013より転載)
















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category: フィルム・レビュー

2013/12/01 Sun. 06:03 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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