「蟷螂の斧となろうとも」 by 元外資系証券マン

クレディ・スイス証券集団申告漏れ事件(http://goo.gl/v0xQYP)において、国税局査察部告発、検察特捜部起訴の事案で史上初の無罪判決。 著書『勝率ゼロへの挑戦 史上初の無罪はいかにして生まれたか』(光文社)。 ツイッター(@thatta0529)で「#検察なう」の情報発信を続けます。

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#検察なう (367) 「控訴審判決を前に」 1/30/2104 

#検察なう (367) 「控訴審判決を前に」 1/30/2104

(強制捜査から1871日、控訴審判決まであと1日!!)

昨年3月1日の一審無罪判決から既に11ヶ月が過ぎようとしています。検察控訴により一旦は振り出しに。そして明日、1月31日に私の控訴審判決が下ります。

一審判決を前にした気持ちを書いた#検察なう (268)「判決を前に」を読み返して、全く変わっていない部分もあれば、大きな心境の変化もあります。それを書き記したいと思います。

ここをクリック→ #検察なう (268)「判決を前に」

全く変わっていない部分は、私の内心ですが、判決の結果が私の人生に影響することはないという強い信念です。自分をみじめに思うのも、誇らしく思うのも各人の意思が導くものだと思います。私の幸・不幸を決めるのは、国税局でも検察でも裁判所でもなく、自分自身だというそれだけのことです。

しかし、大きく変わったこともあります。

一審無罪判決直後は、それを素直に喜べない自分がいました。何か腑に落ちないものを感じていました。今思い起こすと、それはサバイバーズ・ギルトに似たようなものだったと思います。私が無罪になったところで、刑事司法の矛盾がなくなるわけでもなく、もっと切実に苦しんでいる冤罪被害者がそれこそ数限りなくいる中で、私だけが無罪判決でよいのだろうかと思いました。

しかし、無罪判決後、多くの人が私の無罪判決を喜んでくれ、また私の無罪判決に希望を見出した人も少なからずいることを知り、是非ともこの無罪判決をその人たちのためにも守りたいと思うようになりました。それゆえ、検察控訴が決まった後は、「控訴審は勝ちにいく」と公言してはばからなかったものです。

控訴審の間、私を力づけたことには三つあります。

一つは言うまでもなく、より広範な支援者の方々のサポートです。5年もの間、自分よりはるかに強大な国家権力と対峙していると、何のためにこれだけの労力を払わなければならないのか、その結果一体何が残るのかと考えると非常に大きなストレスを感じました。そうした時いつも助けられたのは、支援者の方々のサポートによってでした。無罪判決後は、更にその支援の広がりを感じました。ブログのアクセス数も増え、応援メッセージを書き込んでくれる方もいます。

もう一つは、喜田村洋一弁護士が弁護人に加わってくれたことです。やはり、控訴審の戦い方を熟知した「無罪請負人」の弁護を得たことは、大船に乗ったような気にさせてくれました。主任弁護人小松正和弁護士とのツートップは、少数精鋭、一騎当千の弁護「団」でした。

そして最も大きなものは、佐藤弘規裁判長以下一審裁判体の判決文です。弁護人が主張する「脱税犯であれば矛盾が生じる証拠」の数々を全く採用せずとも、検察の主張はそれ自体不十分であり、推定無罪の原則に則り無罪であるという骨子の判決文は、無罪判決としては相当強固なものです。

私は一審無罪判決後、検察控訴を斥けるべく、陳情書を集めました。今では、それは自分の弱さであったと反省しています。やられたらやり返す。その強さが、まだまだ私には足りなかったように思います。

明日の判決で、検察控訴は棄却されると信じています。そしてその場合、是非とも検察には上告してほしいと思っています。それでは私が裁判所を信用しているのかと問われれば、私は「いや、違う」と答えます。私が信用しているのは、一審裁判体の判決文です。

国税局告発、検察特捜部起訴の事案で史上初の無罪判決は、検察無謬神話に風穴を開けました。その風穴は大きければ大きい程いいものです。検察控訴、そして検察上告を打ち破り三タテを食らわせることでどデカイ風穴を開けたいと思っています。検察無謬神話が虚構であることを世の中の多くの人が知ることは、刑事司法改革の大きな一歩だと思います。

私は、公判のあるべき姿は、裁判官、検察、被告人及び弁護人が真実の追求という同じ方向を向いているものだと思います。つまり検察と被告人・弁護人は対立するものではありません。しかし、検察は公判を勝ち負けのゲームだと思っているようです。私はその一方当事者として売られたケンカは買わざるを得ないものです。そしてそのケンカに勝つことで、検察にそれが間違っていることを教えたいと思っています。

明日、午後1時30分、雌雄が決します。是非、ご注目下さい。

1/30/2014











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category: 刑事裁判公判報告

2014/01/30 Thu. 02:04 [edit]   TB: 0 | CM: 1

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#検察なう Tシャツ・プロジェクト (92)  

#検察なう Tシャツ・プロジェクト (61) 「極寒マイナス22度の地からの熱い応援メッセージ!」 (by H.P ♀)

(強制捜査から1870日、控訴審判決まで2日)

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カナダでも私の住むバンクーバーは西海岸にあり、冬の寒さはマイルド(東京の冬の方が寒い)ですが、東海岸部の寒さはまさにbrutalです。特に今年の北米の寒さは歴史的なものと報道されています。オンタリオ湖も完全に凍っています。

定点観測で、以前送って頂いた写真はこちら。

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注目の控訴審判決はあさって!!




















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category: #検察なう Tシャツ・プロジェクト

2014/01/29 Wed. 10:07 [edit]   TB: 0 | CM: 1

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#検察なう (366) 「クレディ・スイス証券集団申告漏れ事件これまでの公判の流れ」 1/27/14 

#検察なう (366) 「クレディ・スイス証券集団申告漏れ事件これまでの公判の流れ」 1/27/14

(強制捜査から1868日、控訴審判決まで4日)

とうとう今週金曜日、1月31日に私の控訴審判決が下されます。

控訴審初公判前には、クレディ・スイス証券集団申告漏れ事件の概要を振り返りました。

ここをクリック→ #検察なう (327) 「「クレディ・スイス証券集団申告漏れ事件」とはどういうものであったか」

今回のブログでは、これまでの公判の流れをおさらいしてみようと思います。

一審第一回公判 (2012年2月22日)
待ち望んだ初公判の時には、強制捜査から既に3年2ヶ月が経過していました。

裁判長は野口佳子裁判官(現在前橋地・家裁判事)、右陪席は佐藤弘規裁判官(現在水戸地・家裁判事)でした。通常の合議審では、右陪席はあまり関与しないと聞いていたので、野口裁判長と佐藤裁判官が頻繁に話をしていたのが印象的でした。

私の罪状認否を途中で野口裁判長に遮られたことが少なからずショックでした。その罪状認否で言えなかったことを江川紹子氏が「封じられた八田陳述」としてツイートしてくれました。ツイッターは、これ以降の公判においても場外サポーターをつなぐ強力なツールとなりました。それを友人がまとめたトゥギャッタ―は、私の公判の「ライブ感」をパッケージしたタイムカプセルです。

通常初公判では検察冒頭陳述のみが行われるのですが、傍聴人への配慮として弁護側冒頭陳述を行い弁護側の主張を明らかにしました。その中では私の無罪主張のほか、公訴権濫用を争点として挙げました。検察は私の無実を知りながら起訴したというものです。

ここをクリック→ #検察なう (106) 「初公判報告」

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一審第二回公判 (2012年4月11日)
第二回公判以降、裁判長は初公判で右陪席を務めていた佐藤弘規裁判官、右陪席は渡辺美紀子裁判官となりました。この第二回公判以降においても、右陪席が随分関与していたことが私の一審公判を通しての一つの特徴でした。

この第二回公判で、イレギュラーなことですが裁判官の許可を得て、私の被告人陳述を行いました。まだ裁判体は私や弁護人に対して懐疑的だったと思いますが、言い分は言わせてやろうという訴訟指揮でした。

この第二回公判以降、私の友人のこれから売れる予定の漫画家が公判画を描いてくれ、以降毎回、中央最前列に陣取ってスケッチをする彼女の姿は私の公判の名物になりました。「開かれた裁判」の一つの試みと思って頂けると幸いです。

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一審第三回公判 (2012年6月8日)
公判の流れにおける大きな分水嶺がこの第三回公判でした。検察側証人としてクレディ・スイス証券法務・コンプライアンス本部長の証人尋問が行われました。この証人尋問で、検察の主張の大きな柱が崩れることになります。「税務指導は会社の責任ではなく、会社は株式報酬に関する税務指導はしていなかった」ということが明らかになったからです。

その証言内容を知りツイッター上でも、「検察側証人ではなかったのか」という驚きの声が上がりました。検察側証人を相互申請して証人テストを行った弁護人の高度な戦略が功を奏したものです。公判の流れは、以降大きく有利に展開していくことになります。弁護人も期日間協議での裁判官とのやり取りを通じてそれを感じていたようです。

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一審第四回公判 (2012年8月22日)
これまでの公判では検察による証拠調請求が行われ、弁護側はほぼ全ての証拠を同意。それに対し、この第四回公判で請求された弁号証(弁護側証拠)を検察はほとんどを不同意としました。

相手側請求の証拠の「同意」「不同意」は訴訟戦略としては非常に重要であり、駆け引きや高度なストラテジーが必要とされます。弁護人は、自らは控訴審も戦えるだけの余力を残しつつ、検察側にはその余裕を与えないよう、ほとんど全ての検察側証拠を同意する戦略を取りました。それにより、一審を「検察側は些末な証拠しか提出できない」という心証を裁判官に与えて有利に進めるとともに、控訴審において検察は出涸らしの証拠をもってでしか戦えないという結果となっています。

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一審第五回公判 (2012年9月14日)
二人目の証人尋問が弁護側請求により行われました。私の確定申告をしていた税理士です。彼は、税務調査の開始当初から全てのやり取りを知る私以外の唯一の者です。また私以外で唯一強制捜査を受けた者でもあります。それだけ重要な人間でありながら、彼と私の間で交わされた200通近いメールを検察は証拠調請求せず、そのメールは弁護側から証拠調請求されています。

取調べでは検察の聞きたいことしか聞かれず、調書には被告人に有利なことが書かれることは基本ありません(それを証拠として最優先する「調書主義」で真実に到達するという幻想を裁判官は即刻捨てるべきだと思います)。それゆえ弁護側証人の尋問は、被告人に有利な情報を裁判官に知ってもらう非常に重要な機会となります。

彼の証言で、客観的事実に裏付けられた私の税務に関する知識や関心が明らかになりました。また、「源泉徴収票に会社支給の給与が全て反映されていることは社会通念である」「源泉徴収という社会的制度に会社の都合で例外を設けることは適当ではない」といった税務に精通する者の知識・感覚に裏打ちされた意見も出されました。

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一審第六回公判 (2012年9月28日)
公判の流れは佳境に入ります。この第六回公判から被告人質問が行われました。第六回公判では弁護人主尋問3時間、検察官反対尋問2時間の計5時間の被告人質問が行われました。

今回の弁護人主尋問では、時系列に沿って、様々な状況下で私の思考パターンを追体験してもらうような質問を重ねました。同じ状況に置かれたなら、私の取った行動が合理的であることを理解してもらうためです。それは傍聴に来てくれた方々にも理解してもらえたようです。

それに対して、検察官反対尋問の噛み合わないこと。頭からこちらが嘘をついていると決めつけている態度には真実を追求するという意欲は全く見られませんでした。裁判官も検察官も弁護人も真実追求という同じ目的意識を共有しているのが公判の本来あるべき姿だと思います。公判検事の「ほんとですか~?」の連発に私がいらっとして「その「ほんとですか~?」をやめてもらえませんか。ここは真実を追求する場ですから」と発言する一幕も。

ここをクリック→ #検察なう (189) 「第六回公判報告 検事自ら公訴権濫用暴露」

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一審第七回公判 (2012年10月26日)
前回に引き続き、計3時間半に及ぶ被告人質問。弁護人主尋問の質問内容は、故意性の有無という核心に迫る濃い内容に。対する検察官反対尋問は、終始彼らのストーリーの押し付けでした。過失でも矛盾のない事実をこじつけて推認を独白する、尋問の体をなしていない反対尋問でした。

そして裁判官による補充尋問が開始。言うまでもなく最重要の公判手続きです。非常に細かい論点を突いてくるため、答えるのに四苦八苦。なんとか答えを記憶の中から掘り出そうとするのですが、後から「記憶にありません」とはっきり言うことも必要だったなと反省することしきり。

私としては、うまく答えられたという実感のない補充尋問でしたが、弁護人はこの補充尋問の内容をもって無罪を確信したとのことでした。「有罪判決を書くつもりならあのような質問はしませんよ」でしたが、私には今一つそうした実感は得られませんでした。そして、予想外の補充尋問延長の追加公判が次回期日となりました。

ここをクリック→ #検察なう (204) 「第七回公判報告、被告人質問終了…..と思いきや延長戦突入」

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一審第八回公判 (2012年11月7日)
前回に引き続き裁判官による補充尋問が1時間半行われました。相変わらず実に細かい論点をつぶしてくる裁判官は、相当証拠を読み込んでいることが伺えました。

そして前回の反省も功を奏さない私の不器用な応対が続きました。ただ「分かりません」とか「記憶にありません」と言うだけだと、言い逃れをしているようで気持ちが悪いので「記憶にあるわけではありませんが、~ではないかと思います」というような答えが多くなってしまいました。そもそも関心が低いからこそ、あるいはそのことに注意力が散漫だからこその申告漏れなので、はっきり記憶しているわけもないのですが。

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一審第九回公判 (2012年11月26日)
検察論告求刑。1時間半に亘って朗読されたその内容は、これが国家の最強捜査権力の論告なのかと思わせるほど空疎なものでした。それまでの公判で明らかになったことは全て私に利する事実であったため、論告は内容的には冒頭陳述から一歩も出ないどころか数歩後退し、ただ単にボリュームだけ倍に希釈させたような推認・推論の連続でした。

「脱税は、国家の税収を減少させ、市民社会、ひいては国家を根底から揺るがす結果を招く反社会的性格の強い重大な犯罪類型だ」とする紋切り型の主張に対し、私は当日のブログで「(そうした)講釈を垂れるのであれば、「役所のメンツのために冤罪をものともせず、公権力を振りかざす行為こそ、より重大な犯罪類型に相当する」と、のしをつけて返したいものです」と書きました。

論告求刑、懲役2年罰金4000万円。

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一審第十回公判 (2012年12月21日)
大詰めの最終弁論及び被告人最終陳述が行われました。

通常、二言三言の最終陳述に私は20分時間を頂き、自分の主張をすることができました。是非全文をご参照頂ければ幸いです。それが佐藤弘規裁判長の判決後の説諭の伏線になっています。

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一審第十一回公判 (2013年3月1日)
判決。「主文、被告人は無罪。もう一度言います。被告人は無罪」

しびれました。その後、一斉に席を立つ記者のざわめき。その喧騒、傍聴席の熱気に小さな一歩かもしれませんが、刑事司法に確かな楔を打ち込んだ手応えを感じました。

多くの友人・知人が傍聴に来てくれましたが、彼らにとっては佐藤裁判長の説諭は最大級の贈り物だったと思います。

判決直前のブログでも書きましたが、判決には全くこだわっていませんでした。刑事司法の現実を知れば知るほど、一般人の常識とはかけ離れたことが刑事司法の世界では起こっていることを理解し、自分では当たり前のことが当然に起こっただけの無罪判決が、今振り返っても奇跡のようなふわふわした感じです。

その後、佐藤裁判長の真摯な言葉を踏みにじるかのように検察は控訴をします。更に検察控訴趣意書で、「一審裁判体は確定申告が何たるかも理解していない」という侮辱的な主張を展開したことには驚かされました。

ここをクリック→ #検察なう (269) 「第十一回公判報告~無罪判決」

ここをクリック→ 第十一回公判無罪判決法廷画

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控訴審第一回公判 (2013年11月15日)
一審初公判や一審判決よりも緊張したのがこの控訴審初公判でした。裁判長は角田正紀裁判官。法制審議会「新時代の刑事司法制度特別部会」のメンバーにもなっている方です。

一審と控訴審では全くそのスタイルが違います。一審では裁判体の感触を伺いながら、検察の出方次第で防御や攻撃のストラテジーを立案・修正することができますが、控訴審は事前の証拠検討で勝負が決まり、公判はまさに一発勝負。それは居合い切りのような感じです。弁護人に喜田村洋一先生を迎え、一審主任弁護人の小松正和先生とのツートップの新体制をもって必勝の構えで臨んだ控訴審でした。

支援者の方には、「勝負は5分で決まるから」と告知していましたが、実際には6分。その6分の間にも凝縮したドラマがありました。

注目は検察証拠請求が認められるか否か。それが認められれば新たに審理が再開することを意味し、歴史的なデータは7-8割逆転有罪というものです。認められなければ、ほぼ「ゲームセット」。

そして裁判長は、書証及び2回に分けて請求された人証(被告人質問)をそれぞれ却下。そのわずか30秒の間にも随分気を持たされたものです。

これで完全勝利のお膳立ては整いました。注目の控訴審判決は今週金曜日1月31日です。

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1/27/14













法廷画が冊子化されました。正(第2回公判~第7回公判、400円)、続(第8回公判~第11回公判無罪判決、500円)の2冊です。代金(実費)は、無償で法廷画を描いてくれた漫画家にカンパされます。ご希望の方は「#検察なう」フェイスブック・コミュニティのメッセージでご連絡下さい(送料9冊まで80円、10冊以上160円)。

#検察なう


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category: 刑事裁判公判報告

2014/01/27 Mon. 00:28 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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フィルム・レビュー 『ウルフ・オブ・ウォールストリート』 マーティン・スコセッシ監督 

フィルム・レビュー 『ウルフ・オブ・ウォールストリート』 マーティン・スコセッシ監督

wolf of wallst

ブラボー!主演男優賞はディカプリオで決まりでしょ。彼の演技は高く評価していますが、この作品での彼の演技は『ギルバート・グレイプ』以来の出来かと。この映画はたっぷり3時間ありますが、それを持たせたのは彼の演技以外の何物でもありません。"Lemmon714"(メタカロン、バルビツレートの一種)を服用してぶっ飛んでランボルギーニを運転するシーンなぞは抱腹絶倒です。ちぇきら!

この金融不況のご時世、今更、ウォールストリートもないでしょと全然期待していませんでした。やはり映画のストーリー自体はインサイダーの目から観るといかにものステレオタイプで新奇性はありませんでした。そんなにお金儲けるのは簡単ではないし(笑)。ウォールストリートの成功者がセックスとドラッグにまみれるってのもねえ。

映画のストーリーと直接関係のない会話を延々続けるのはタランティーノの影響でしょうか。時々冗長に過ぎるのと、セックスの描写がちょっと長いかな。ちょちょっと編集して20分ほど短くすると、もっといい作品になるのにと思いました。

エンディングも悪くないし。あとディカプリオが着ているピークト・ラペルのチェックやストライプのシングルスーツのデザイナーは、やはりあの頃ウォールストリートで流行っていたアルマーニ。懐かしいですねえ。かっこいいです。

まあ金融関係者にとってはバカげたコメディですが、悪くなかったと思います。20Kgやせたり(マシュー・マコノヒ―)太ったり(クリスチャン・ベール)しても主演男優賞は獲れないというのをディカプリオには見せてほしいんですが。3回目のノミネート(『アビエイター』『ブラッド・ダイヤモンド』)でまだ獲ってないしね。

ここをクリック→ 『ウルフ・オブ・ウォールストリート』予告編

(Facebook 1/23/214より転載)

















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ここをクリック→ 経緯説明 「真実は一つである」

ここをクリック→ 被告人最終陳述

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category: フィルム・レビュー

2014/01/26 Sun. 20:49 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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#検察なう (365) 「検察の見せかけだけの完璧主義、あるいは「検察無謬神話の虚構性」」 1/23/2014 

#検察なう (365) 「検察の見せかけだけの完璧主義、あるいは「検察無謬神話の虚構性」」 1/23/2014

(強制捜査から1864日、控訴審判決まで8日)

冤罪が生まれる一因を捜査・司法当局の「必罰主義」に求めることがあります。それは一面正しいのですが、検察が「必罰主義」であるということには若干の違和感を覚えます。

「必罰主義」は「無辜の不処罰」に対する概念と捉えることができ、「無辜の不処罰」が「十人の罪人を逃すとも一人の無辜を罰するなかれ」であるのに対し、「必罰主義」は「一人の無辜を罰するとも十人の罪人を逃すなかれ」というものです(「必罰主義」をただ単に「犯罪者は必ず処罰する」と解するのは、犯罪者を間違いなく特定できるという前提がない以上、片手落ちなものだと思います)。

推定無罪原則は刑事司法の鉄則ですが、世の中には少なからずの人が捜査当局の言う「それで治安が悪くなってもいいのか」という扇動に迷わされるのではないかと思います。そして「どうせ自分は冤罪とは関係ないから」と「必罰主義」を擁護するかもしれません。

まずこの「必罰主義」に惑わされてはいけない一つのトリックは、犯人がつかまったとしても、その犯人が真犯人ではなければ、真犯人は罰せられずに却って無罪放免になっているということにあります。犯人検挙の功を焦るばかり、誰でもいいとばかりに「犯人らしい人」を捕まえるという歴史を捜査当局は繰り返しています。これは「必罰主義」の弊害でもあります。冤罪は、冤罪被害者にとっての悲劇であるとともに、事件被害者の悲劇でもあるということを理解するべきです。典型的な例では、殺人事件の裁判で被告人が無罪となった時に、事件被害者遺族が裁判官に怒りを露わにするのを見て、なぜその怒りが捜査当局に向かわないのかと不思議に感じることがあります。真犯人以外を罰しても何ら解決にならないことは、冷静に考えれば明らかなことです。

しかし、私の違和感はそこにあるのではありません。私の違和感は起訴猶予率の異常な高さにあります。起訴猶予とは「被疑事実が明白な場合に、情状により訴追を必要としないと検察が判断し不起訴にすること」です。

『平成25年版犯罪白書のあらまし』(p.13)によれば、それは55.5%にも達します。
ここをクリック→ 『平成25年版犯罪白書のあらまし』

勿論、被疑事実が明らかであっても全て起訴しなければならないというものではありませんが、この起訴猶予率の異常なまでの高さは、検察は公判を勝ち負けのゲームと考え、少しでも負ける可能性があるものは全て不起訴にしていると思われても仕方がない数字ではないでしょうか。つまりここでは、罪人を敢えて処罰せずに、事件被害者の人権を踏みにじる「逆冤罪」が少なからず生じていると言えます。「これで必罰主義はないだろう」というのが私の違和感です。

推定無罪原則を「罪人かもしれない者を逃すとはけしからん」と非難する人は、まず検察の異常な起訴猶予率を非難すべきです。

検察が「必罰主義」でないとすれば彼らの拠るところはなんでしょうか。『検察の理念』を参照してみます。
ここをクリック→ 『検察の理念』

第3項に「無実の者を罰し、あるいは、真犯人を逃して処罰を免れさせることにならないよう」とあります。つまり彼らの目指すところは、いかなる場合も間違いを許さない完璧主義です。

これを『アメリカ人のみた日本の検察制度』の著者D・T・ジョンソン氏は「パーフェクトな司法」と評しました。
ここをクリック→ #検察なう (333) 「日米の検察制度の比較」

彼の指摘は非常に正しいと思いますが、私はその完璧主義はあくまで見せかけのものだと思っています。

神でもなければ達成できない「無実の者を罰しない」と「真犯人を逃して処罰を免れさせることにならない」という二律背反の命題を両立させるにはどうすればよいか。それが今の検察の行動規範となっている「少しでも公判で負ける可能性のあるものは起訴せず、起訴したからには手段を選ばず有罪に追い込む」というものです。そうすることで、見かけ上は彼らの完璧主義を達成できることになります。そこには正義はなく、ただ単に彼らがよく見られたいだけという薄汚い保身の論理です。

検察の無謬神話は、そのような虚構の上に成り立っているものです。

郵便不正事件以降、その無謬神話には大きなほころびが生じ、彼らの虚構が明らかになってきています。その状況を招いたのは、ほかならぬ検察、特に特捜部の奢りによる暴走からです。真実を追求する公僕である立場を見失い、正義は自分たちが作り出すという「検察官司法」の傲慢さがその背景にあります。一部の意識の高い裁判官は、既にその虚構に気付いているのではないでしょうか。

検察制度は、国民の信頼を拠り所として、彼らにフリーハンドの権力を与えて成り立っています。彼らがこれからも自浄作用を見出せないのであれば、その権力にたがをはめ、「いかなる権力も間違いを犯す」ということを前提にした制度作りが必要だと思います。

今が刑事司法の歴史の転換点です。我々国民も刑事司法リテラシーを高めることが必要だと思います。

1/23/2013













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category: 刑事司法改革への道

2014/01/23 Thu. 03:15 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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#検察なう (364) 「なぜ冤罪はなくならないか」 1/20/2014 

#検察なう (364) 「なぜ冤罪はなくならないか」 1/20/2014

(強制捜査から1861日、控訴審判決まで11日)

木谷明氏をして「冤罪は本当に数限りなくある」、一部の冤罪の無罪判決は「あれはあくまで氷山の一角」と言わしめながら、なぜ冤罪はなくならないのでしょうか。

その問題を考える前に、飛行機事故を例にとって、どのようにして飛行機事故の再発防止が図られるかを検討してみます。

飛行機事故が起こった場合、真っ先になされなければならないのは被害者救済です。生存者の確認を急ぎ、存在者がいればただちに負傷の手当てが必要です。

次に行われるべきことは、事故の原因究明です。再発防止策を講じるためには、なぜその事故が起こったかの原因が分からなければ対処できないからです。そしてその事故調査は航空会社自らではなく、第三者が行うことが重要です。例えば飛行機事故の場合には、国土交通省管轄の運輸安全委員会がその任に当たります。第三者が行う理由は、当事者が事故調査を行った場合、責任逃れの隠蔽や事故原因の矮小化につながり易いからです。

そして事故原因が明らかとなって初めて、効果的な防止策を講じることが可能になります。事故が全く悪意なく引き起こされたものであったとしても、当事者である航空会社の真摯な反省と善処が求められ、彼らはその責任に誠実に対応するものと思われます。

このように事故の再発を防止するためには、「被害者救済」→「原因究明」→「再発防止」というステップのプロセスが必要になります。

刑事司法における事故とも言うべき冤罪にこのプロセスを当てはめると、再発防止の対策がどのステップにおいても全く講じられていないことがよく分かります。それは憂慮すべき状況を通り越して暗澹とならざるを得ない程のものです。

順を追って説明します。

まず被害者救済ですが、加害者が捜査当局の場合、救済者は裁判所です。冤罪被害者が一審無罪となれば、裁判所が救済者として機能したことを意味します。しかし、その救済者は往々にして加害者にもなります。冤罪であるにもかかわらず、一審有罪となった場合です。その場合には、三審制及び再審制度により上級裁判所(再審の場合は確定判決裁判所)がその救済者として機能されることが期待されます。しかし、99.98%という刑事裁判の有罪率は、上級審が救済者として機能せず、裁判所すらその冤罪の加害者となっていることを物語っています。

国家権力に比して、個人の力は非常に非力です。被告人という弱い立場の者を救済するために上訴というシステムがあり、そのために三審制が採られていると考えたいところですが、日本の刑事訴訟法の建て付けはそうではないように思えます。それは検察にも上訴が認められているからです。上訴制度は、被告人保護というよりは、法令解釈の統一を図るためのものといえます。一審無罪判決の実に7割から8割が高裁で逆転有罪となっていること、最高裁で被告人上告が逆転無罪となることはほとんどないことから、三審制での上級審が冤罪救済に機能しているとは残念ながら言い難いものです。

確定判決をひっくり返す再審となると更にハードルは高くなります。その大きな理由は、再審が確定判決を出した裁判所でなされるためだと思われます。最高裁まで審理された事案の誤判認定の責任を下級審が負うというのでは、再審制度がうまく機能しないのもむべなるかなという印象です。再審は裁判所の権限の外に置かれた第三者機関がその任に当たるべきであるのは至極当然のことのように思えます。

被害者救済ですらその状況であるのに、次のステップの冤罪の原因究明となるとそれは一層悲惨な状況です。

裁判所の無罪判決により捜査当局の過ちが明らかになっても、その原因究明がなされたという話は寡聞にして聞いたことがありません。それは彼らにペナルティーが科されることはないからです。捜査当局は無罪判決に対しても、対外的には裁判所が理不尽であるかのような態度を取り、反省するという態度は微塵も見られないのが通例です。

私の控訴審判決が今月31日にあり、検察控訴は棄却されると信じていますが、その後の検察特捜部及び国税局査察部の動向に是非ご注目下さい。彼らは黙殺するだけであることを私は確約します。これでは、反則のホイッスルを鳴らされても「次はもっと巧妙にやればいい」と言っている反則常習犯のようなものです。

そして裁判所の過ちを裁判所自らが正す三審制及び再審制度には、そもそも原因究明の機能はありません。彼らは判決を出して終わりです。

再審において無罪判決となればどこに出しても間違いがない程オフィシャルに冤罪であることが認定されたことを意味しますが、裁判所はただ冤罪被害者に無罪を言い渡すだけで、何がその誤判の原因であったかの追求は全くしません。現行制度において彼らにその機能は求められていないからです。

冤罪の原因は結局のところ、闇に葬られて終わりということがほとんどです。メディアに社会の木鐸としての責務を求めたいところですが、そのメディアですら原因を追求するどころか、事件の矮小化に加担するケースも見られます。東電OL殺人事件のような超ド級冤罪でも、ゴビンダ氏を冤罪被害者とした最大の原因は検察による悪質な証拠隠し(被害者体表に残留していた唾液の血液型久保田鑑定)であるにも関わらず、「事件当初にDNA鑑定がなされなかった悪意のないミスのため」と国民の多くが報道で刷り込まれているケースが典型です。(注1)

冤罪の原因究明には、国家賠償審に訴えるしかないというのが現状であり(国家賠償審の審理過程で、捜査当局の不当な行為が認定された場合のみ賠償が認められるため)、非常にちぐはぐな印象を受けます。布川事件の冤罪被害者桜井昌司氏は、現在国家賠償請求訴訟を起こしていますが、彼は経済的補償を求めてその請求を起こしているのではありません。国家賠償審の審理において、警察・検察の不当な捜査が行われたことの究明をしたいだけです。

冤罪の原因究明を行う第三者機関が存在せず、原因究明の努力が全く行われていないということが冤罪を巡る実情です。そして原因究明がなされなければ、有効な防止策が講じられないことは言うまでもないことです。

数限りない冤罪が造り出され、そのほとんどが闇に葬り去られ、ごくごく一部が救済されても、原因究明すら行われていないという現状を多くの人に知って頂きたいと思います。

制度的な問題も大きいのですが、加害者ともいうべき当事者(捜査当局及び司法当局)が全く反省しないことが冤罪のなくならない根本原因だとも思います。組織の論理に塗れて思考停止した「凡庸な悪」は反省すらできないということでしょうか。この状況を正すのは我々国民の理解しかありません。そしてあなた自身やあなたの愛する人が冤罪被害者となることが非常に現実味を帯びた問題であることを知るべきです。是非考えてみて下さい。

参考文献
指宿信 『“えん罪原因究明第三者機関”を考える―その必要性と要件をめぐって』
木谷明 『「無罪」を見抜く 裁判官・木谷明の生き方』

(注1)
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P.S.
先日、「取調べの可視化を求める市民団体連絡会」主催の市民集会『可視化を止めるな!~全事件・例外なき取調べの録画を~』が開催されました。適正な捜査取調べを担保する手段の一つでしかない取調べの可視化は、捜査当局が頑迷に拒否することで国民の不信感を煽っているという世界に類を見ない異常な状況です。

パネリストとして参加されていた三鷹バス痴漢冤罪事件(注2)の冤罪被害者津山正義氏の訴えは、まさに冤罪被害者の心の叫びでした。

また、検察在り方検討会議のメンバーであった江川紹子氏と法制審議会のメンバーである周防正行氏のパネルディスカッションは、刑事司法の問題点の現在位置を知るために有益なかなりディープな内容だったと思います。

(注)三鷹バス痴漢冤罪事件
2011年末の夜、吉祥寺駅から仙川に向かうバスの中で起こった中学校教諭の津山正義氏が冤罪被害者となった痴漢冤罪事件。バス内の車載カメラには、津山氏が右手で携帯電話を操作しこれから会う恋人にメールをしながら、左手で吊革につかまっている映像が撮影されていました。両手がふさがった状態での痴漢行為を一審判決は「容易ではないが、不可能とか著しく困難とまではいえない」と認定し、有罪判決。現在、控訴審係争中。

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1/20/2014













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2014/01/20 Mon. 03:05 [edit]   TB: 0 | CM: 3

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フィルム・レビュー 『7番房の奇跡』 イ・ファンギョン監督 

フィルム・レビュー 『7番房の奇跡』 イ・ファンギョン監督

7番房

韓国映画動員数歴代3位(ちなみに1位は『グエムル』、2位は『10人の泥棒たち』)の映画なんだけど、設定がとんでもなくニッチ。幼女暴行殺人の冤罪で死刑にされる知的障害者の父と娘の話。そして司法修習生になった娘が、実際の事例を扱った模擬裁判の場で、父の冤罪を晴らすという設定。そういうヘビーな題材を、なんとコメディーに仕立ててます(予告編はちょっとまじめ)。

とにかくディテールの設定がドリフ並みにゆるゆる。さすがに刑務所でそれはないだろうというシーンが満載。その適当なところがそれほど問題にならないのがコメディー仕立てにした最大のメリットかも。

で、これは泣きました。やはり子供がかわいそうな映画と動物がかわいそうな映画は反則ですね。とにかく子役の演技がすごい。

多くの韓国ドラマ同様、とにかく単純、ベタなんですが、その単純さが日本や欧米の映像文化と違う感じです。で、そのベタな感じが嫌いじゃない人は多いんじゃないかな。

題材は一般受けしないけれど、メインテーマは父と娘の愛という普遍的テーマです。

冤罪ウォッチャーとしては、「そうそう知的障害者の冤罪問題って根深いんだよなあ」と考えさせられるものもありましたが、そういうことは全く関係なしに観ることができる映画です。でも、ビデオでいいかなあ。あ、『永遠の0』よりはよほどよかったかな。あれは泣けなかったし。これで泣けない人はいないでしょ。

ここをクリック→ 『7番房の奇跡』予告編

(Facebook 1/12/14より転載)


















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2014/01/19 Sun. 02:45 [edit]   TB: 0 | CM: 5

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#検察なう (363) 「『「無罪」を見抜く 裁判官・木谷明の生き方』を読んで」 1/16/2014 

#検察なう (363) 「『「無罪」を見抜く 裁判官・木谷明の生き方』を読んで」 1/16/2014

(強制捜査から1857日、控訴審判決まで15日)

ダウンロード (1)

昨年11月末に上梓された木谷明氏の最新刊『「無罪」を見抜く 裁判官・木谷明の生き方』を読みました。

木谷氏は、最高裁調査官、大阪高裁判事、水戸家裁・地裁所長、東京高裁部総括判事などを歴任、退官後は公証人を経て法政大学法科大学教授、現在は弁護士として活躍しています。この書は、彼の一生を記したオーラル・ヒストリーです。

私にとっては『刑事裁判の心』に続く、2冊目の木谷明体験でした。

前半部分でのハイライトは最高裁調査官としての活動を記したものです。

裁判所組織の頂点に位置する最高裁は極めて多数の上告事件を扱いますが、15人の裁判官(長官1人、最高裁判事14人)だけでは審理しきれないため、約40人の調査官が粗選別します。調査官は、キャリア15年程度の判事がなるエリートコースですが、木谷氏も修習終了後、裁判官となって丁度16年目に最高裁調査官に着任しています。

彼ら調査官が黒衣(くろご)となり上告趣意書を元に、事実誤認しか主張していない事件には「×」、量刑不当しか主張していない事件には「△」、判例になりそうな事件、あるいは事実認定でもかなり微妙と思われる事件には「○」、超特大の事件や極めて難しい法律問題を含んだ事件には「◎」をつけて選別していきます。

木谷氏が調査官として関わった中から憲法判例を作る実例が多く語られていますが、あまり事件の背景に詳しくない私には、かなり敷居が高く感じられました。そこでは「四畳半襖の下張」事件、『月刊ペン』事件、エンタープライズ寄港阻止佐世保闘争事件といった事件が扱われており、調査官がどのような仕事ぶりであるのかなかなか知る機会もないので、興味は引かれたものの、かなり玄人受けオンリーの内容でした。

それに比して、大阪高裁判事着任以降の後半部分は、裁判官としての事実認定や判決に至る裁判官の心理、苦労が語られ、素人の私も俄然面白く感じました。

そこでは彼の死刑、少年事件、再審制度に関する考えも述べられ、非常に興味深かったものです。また彼は、東電OL事件において一審無罪直後の検察によるゴビンダ氏勾留請求を却下したことで知られていますが、東電OL事件に関しても検察の証拠隠しという非常に重要なポイントが語られています。

その後半部分から、いくつか印象的な部分を引用します。

― 先生の無罪の“目利き”の仕方と言いますか、無罪を見抜く“極意”といいますか、どういうことを心がけようと?

木谷「見抜き方なんて特にあるわけではないですけど、ともかく、さっき言ったように、被告人に十分、弁解させることが大事です。弁解を一笑に付さないで、「本当は被告人の言っている通りなのではないか」という観点から検事の提出した証拠を厳しく見て、疑問があれば徹底的に事実を調べる、と。これに尽きます。」

― 私みたいな者からすると、先生のお話がすごく納得できるのですけども、先生みたいな方が少数で、一般の裁判官の方は、そういうふうに耳を傾けられないのでしょうか。

木谷「私にも、それは分かりません。私は、これまで多くの裁判官と付き合って、裁判官にも色んなタイプがあると思います。

これについて私は、三分類しています。一つは「迷信型」です。つまり、捜査官はウソをつかない、被告人はウソをつく、と。頭からそういう考えに凝り固まっていて、そう思いこんでいる人です。何か被告人が弁解をすると、「またあんなウソをついて」というふうに、最初から問題にしないタイプです。私は、これが三割ぐらいいるのではないか、と思います。

二つめはその対極で「熟慮断行型」です。被告人のためによくよく考えて、そして最後は「疑わしきは」の原則に忠実に自分の考えでやる、という人です。これが多めに見積もって一割いるかいないか。

その中間の六割強は「優柔不断・右顧左眄型」です。この人たちは、真面目にやろうという気がない訳ではない。三割の頑固な人たちとは違うので、場合によっては、「やろう」という気持ちはあるのだけど、「本当にこれでやっていいのかな」とか迷ってしまうのです。私だって迷いますよ。迷いますけど、最後は決断します。でも、この六割の人は、「こんな事件でこういう判決をしたら物笑いになるのではないか」「警察・検察官から、ひどいことを言われるのではないか」「上級審の評判が悪くなるのではないか」などと気にして、右顧左眄しているうちに、優柔不断だから決断できなくなって検事のいう通りにしてしまう。(中略)裁判官には、こういう体質的な問題がかなりあります。」

― 無罪判決の意義についてのご見解は?

木谷「それは、「無実の人を処罰してはいけない」ということに尽きます。そのためには、「絶対に無実だ」というところまで心証をとらなければ無罪判決しない、ということではいけません。そこまでは行かないけれども実際は無実だという人は沢山いる訳です。要するにグレーゾーンです。そういう人たちをできるだけ無罪のほうに持っていく、ということにしないと、無実の人を処罰する結果になってしまう、と。そうやって無罪判決をすれば、無実の人が処罰されることは少なくなる。これが最大の意義です。

また、私は、裁判所は捜査官の捜査を厳しく批判するべきだ、と思っています。そういうことに裁判所が甘くなると捜査官を増長させるのです。どんなことをやったって最後は裁判所が救ってくれる、というように思わせてしまえば、捜査は良くなりません。捜査はあくまで適正に行われなければなりません。適正な手続に基づいて有罪の立証をするというのは、捜査官(警察、検察官)に課せられた義務です。裁判所は、捜査機関にその義務を尽くさせるように最大限の努力をしなければいけない、と思っています。」

― しかし、先ほどの三分類にもあったように、先生みたいなタイプの裁判官に当たると、被告人は主張を容れてもらって調べてもらえる。その方はすごく幸せだと思いますが、多数の被告人は、本当はもしかしたら無実、あるいは無罪のグレーゾーンなのにもかかわらず、省みられず・・・。

木谷「だから、その点が問題なのです。それは困った問題ですが、今後、皆が力を合わせて「熟慮断行型」の裁判官を増やすように努力するしかありません。私は、冤罪は本当に数限りなくある、と思います。最近、いくつかの有名な冤罪事件の無罪判決が報道されていますが、あれはあくまで氷山の一角ですよ。私は弁護士として事件を扱うようになってますます痛感しますけど、「なぜ、こんな証拠で有罪になるのだ」と怒りたくなる判決がたくさんあります。「相談に乗ってくれ」と言って私のところに持ち込まれる事件は、大抵そうです。本当に驚いています。「後輩たちよ、君たちはこんな判決をしているのか」と一喝したくなります。せっかく再審で無罪になる人がいても、次々と新しい冤罪が生まれていますからね。刑務所の中には冤罪者が一杯いると思わないといけません。」

木谷「冤罪というものが本人にとっていかに苦しいものかということを、裁判官は自分をその立場に置いてシミュレーションしてみてほしいと思います。(中略)裁判官は、他人事だと思うから気楽に言うけれども、自分がやってもいない罪で処罰されたり死刑にされたりする時にどう思いますか。そんな恐ろしいことは絶対になくさなければいけない、と本当に思います。」

― 裁判所の問題点です。有罪率が99.9%という・・・これは、なぜか。先生のお考えをお聞かせください。

木谷「いくつかあります。まずは、裁判官が有罪の事件ばかり扱って、有罪に慣れてしまっているという問題がある。また、証拠開示の問題など制度的な不備もあります。」

― 具体的には?

木谷「だから、証拠開示の問題は、従前最大の問題点だったのです。検事が強制力を使って集めた証拠を独占してしまって、被告人側に見せない、取調べ請求する証拠以外は見せなくてよいということになっていたのですから、これで冤罪が発生しなければ不思議です。

あとは取調べが可視化されていないから、実際の裁判で、捜査官の言い分が鵜呑みにされてしまう、自白の任意性がどんどん肯定されてしまう、という問題があります。それは制度を動かさなくても、実際の運用を厳格にすればすむわけなのですけど、どうも任意性を否定して無罪判決をしようと思うと大変な労力が必要なのです。仮に無罪判決をしても、検事に控訴されると七割くらいは破棄されてしまう。そうすると、やっているうちにバカらしくなってしまうんですね。「こんなふうにやったって、どうせ高裁で取り消されるのではないか」と考えてしまって。それで検察の控訴が多かったり、高裁の破棄が多かったりすると、勤務評定にも影響するのではないか、というような心配もあるんでしょう。まあ、それが実際どこまで影響するか私も知らないけども、一般の裁判官はそう思うのでしょうね。」

― 最後の質問です。ご著書のタイトルにもある「刑事裁判の心」。これが先生の、最も重要な言葉だと思うのですけど、最後にそのお思いを語ってくださるとありがたいです。

木谷「刑事裁判というのは被告人が言っていることを、ちゃんと聞いて理解して、そしてその上で判断しなければダメだということですね。聞く耳を持たない人、調べる気がない人。これはもう全然話になりません。そういう人は、刑事裁判官をやる資格がないと思っています。被告人の話を虚心坦懐によく聞いて、本当はこの人が言っていることが真実なのではないかという目で証拠を再検討して、疑問があれば徹底的に調べる。その上で下す判断でなければ、被告人は絶対に納得しません。それだけでなく、間違った判断をしてしまいます。間違って有罪判決をするくらい恐ろしいことはないので、そういうことは絶対にあってはならないと思いますね。

「間違って真犯人を取り逃していいのか」という反論がありますけど、それはある程度やむを得ないと割りきらなければ、刑事裁判はできません。取り逃がす不正義と冤罪者を処罰する不正義とでは、全然質が違うのです。弁護士になって、ますますその思いを強めています。」

以上、法曹界で一目も二目も置かれている木谷明氏の言葉をピックアップしましたが、この言葉を聞いて一般人の感覚からすると「これがあるべき普通の裁判官なんじゃないの?」と思った人は多いのではないでしょうか。異常な刑事司法の世界が、我々一般市民の「ノーマルな状態」に少しでも近づく日を私は望みます。

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1/16/2014















法廷画が冊子化されました。正(第2回公判~第7回公判、400円)、続(第8回公判~第11回公判無罪判決、500円)の2冊です。代金(実費)は、無償で法廷画を描いてくれた漫画家にカンパされます。ご希望の方は sienhatta@gmail.com までご連絡下さい(送料9冊まで80円、10冊以上160円)。

#検察なう


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2014/01/16 Thu. 00:38 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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#検察なう (362) 「検察「証人テスト」の問題点と対抗策」 1/13/2014 

#検察なう (362) 「検察「証人テスト」の問題点と対抗策」 1/13/2014

(強制捜査から1854日、控訴審判決まで18日)

1月5日付朝日新聞の1面に掲載された『検事、公判前に証言誘導か』と題された記事掲載以降、巷で盛り上がっている「証人テスト」の話題です。

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この記事の内容は、ある裁判員裁判の一審で死刑判決となった事件で、その一審で証言をした証人が控訴審で「検察の証人テストで被告人の犯行が計画的であったと証言するよう強要された」と告白したというものです

「証人テスト」とは、公判に出廷する証人と、証人請求した検察官ないし弁護人が行う事前打ち合わせのことです。一般人であるほとんどの証人は裁判に出た経験のない人ですから、スムーズに審理を進めるため、事前にそれなりの準備をすることは必要不可欠です。

なぜ検察の行う証人テストに問題があるのか。検討したいと思います。

まず公判における証言の背景から考えてみます。

検察作成の調書(これを「検面調書」と言います)が彼らの作文であると批判されることは少なくありません。勿論、それは許されるべきことではありませんが、現行刑事司法の建て付けではそうなっても仕方ない事情もあると思います。

公判ともなれば最重要証拠となる調書を、ほかの誰も見ていない密室で検察官自身の言葉で書いていいとされており、被告人をいかに有罪に追い込むかが組織の目標であれば、自分たちに都合よく作文するのも「それも仕事だ」と考えるのが人間だと思います。

起訴前の被疑者の取調べにおける取調官の考えるところは、「起訴の判断はこの調書だけではなく、全ての証拠を総合判断して上司が決定するのだから、現場の兵隊の自分がするべきことは『公判になれば最大限有効な武器を今から仕込むこと』だ」といったものでしょう。そして、起訴決定後、再逮捕されたような場合の被告人の取調べともなれば、彼らからすれば容赦の必要はありません。

検察に(有罪にできなければ起訴猶予という概念はあっても)「疑わしきは罰せず」という概念はなく、「自分たちがある程度無理をしてもシロになるものだけが本物のシロだ」という感覚なのではないでしょうか。

検面調書が「盛られている」ことは裁判官も重々承知のことだと思います。それは調書をいくつも読めば自ずと明らかだからです。

私が巻き込まれた事件でも、クレディ・スイス証券の同僚の調書の中には、「私は彼を直接知りませんが、絶対やったと思います。会社の誰もが、会社は源泉徴収していないことを知っていたからです。ちなみに私はうっかり申告漏れでした」という、かなり素っ頓狂なものまでありました。検察作文を伺わせるものとして、こちらが喜んで証拠調請求したい程「盛られた」不利益供述でした。

第三者の心証による証明力は非常に低いものですが、いかに印象点を稼ぐだけのものであったにしても、「私は彼がやったとしても不思議はないと思います。多くの人がそうであったと聞いていますから。ちなみに私はうっかり申告漏れでした」程度に抑えておいた方がよほど説得力のある作文です。

そういった「やり過ぎ感」のある作文をいつも目にしていれば、裁判官も検面調書を割り引いて読むのではないかと(私ならそうであると)考えます。

そうは言っても最重要証拠の検面調書ですから、彼らの作文に対する何らかの対抗策が必要となります。それが書証の「同意」「不同意」です。

検面調書は伝聞証拠として、原則的には弁護側「同意」がある場合しか証拠採用されないことになっています(注1)。

そして不同意とされた供述内容を公判期日で再現する試みが証人尋問であり、その事前準備が「証人テスト」というわけです。

検察請求の証人ですから、期待される証言は「被告人に不利となる」ものです。そうした証言をさせるインセンティブを一方当事者である検察が持っていることはお分かりかと思います。

証人といえば、弁護側証人もいて、そこでも弁護人と証人テストは行われます。しかし、想像してもらえば、その状況は著しく異なることが分かってもらえると思います。

片や、逮捕権、起訴権をもった権力です。もし自分のすねに傷がなくても(あれば勿論)、彼らとの押し問答を1時間以上耐えられる人は稀有だと思われます。

裁判ではよく「被告人と利害関係のない証人が、敢えて嘘をついてまで被告人に不利な証言をするはずがない」と言われますが、「被告人と利害関係がないからこそ被告人にとって有利な証言をするはずがなく、事実とは異なる不利な証言をさせられかねない」と考えるべきです。

弁護人がどれだけ事実と(ニュアンスだけでも)異なる供述を依願しても、「え、でも事実と異なる証言すると偽証罪になりますよね」というのが普通の感覚だと思われます。検察側証人がいくら事実と異なる証言をしても偽証罪に問われないのとは大違いです(テクニカルには検察側証人の偽証罪もあり得ますが、その告発を受けて検察が起訴するわけがありません。「記憶の混同」で終わりです)。

権力を背景とした検察が、自分に有利な証言を引き出そうと、意識的にあるいは無意識のうちに偽証を教唆する可能性があることが、検察「証人テスト」の大きな問題点です。

日本では司法取引は法的に認められていませんが、期待を抱かせる証言の誘導はよく行われているのではないかと思われます(注2)

この検察「証人テスト」を是正化するにはどうすればいいでしょうか。

ここでも全面可視化が謳われることが多いようですが、私にはあまりしっくりきません。取調べはそれ自体が証拠ですから、証拠の保全という意味で可視化には非常に重要な意味があると思います。しかし証人との打ち合わせ自体は証拠ではないため、それを全面可視化するというのもあまりにも検察を馬鹿にしているような気がします(彼らが証人テストのスキルアップの資料として録音・録画し、その中で行き過ぎたことがあれば内部でブレーキをかけるということはありえますが)。

現時点で考えられるのは、やはり弁護人の反対尋問の能力に依存するしかないのではないでしょうか。

「あなたは事前に検察官に会いになりましたか(これに「ノー」であればかなり楽しめます。いきなり嘘をついている可能性が高いですから)」
「その時、書面で質問内容を渡されましたか」
「そこには既に答えは書いてありましたか」
「読み合わせは何度くらいしましたか」
「あなたは被告人と共犯関係ですが、事前打ち合わせの際、検察官はそれを示唆しましたか」
といったような質問をして、いかにも証言が検察官の教唆によるものだという心証を取ることです。

更にハイリスクな戦略として、その証人を相互申請して、弁護側でも証人テストするという手も考えられます。証人が証人テストに応じる義務はありませんし、証人テストでの尋問内容が検察に筒抜けになることも考えられますが、一考の価値ありです。

私の公判でも、クレディ・スイス証券の法務・コンプライアンス本部長が検察請求により証人申請された際、私の弁護人が相互申請をして、証人テストを行いました。高度な戦略です。

検察は組織で公判のノウハウを高めることができるのに対し、弁護士は個人でスキルアップを図る必要があります。弁護士会も、検察「証人テスト」対策を組織で考えてもいいのではないでしょうか。

(注1)
実際には第三者の検面調書が不同意となった場合でも、刑事訴訟法第321条第1項第2号の規定により、供述者が公判期日で供述できない供述不能の場合、あるいは、公判期日での異なる供述よりも検面調書の内容の方が信用できるという「特信状況」がある場合は、不同意とされた検面調書が証拠採用されます。これがいわゆる「二号書面」です。

私の公判でも、弁護側不同意とした株式報酬担当者のシンガポール人の検面調書が供述不能として二号書面となりました。

しかし、私の印象では、被告人の検面調書が刑事訴訟法第322条第1項の不利益供述の事由により証拠採用されるよりは、よほど「二号書面」化に対して検察は抑制的なものです。

特に、第三者の供述が公判の証言と調書で異なる場合、調書の方がより重視されるというのは一般人の感覚からするとかなりずれているため、特に裁判員裁判の場合は、検察は二号書面化にはそれほどこだわらないと思われます。

そのため、今回の報道でもあった、裁判員裁判においては、より「証人テスト」の問題が顕在化しやすいのだと思います。

功罪合わせ持つ裁判員裁判制度ではありますが、思いがけない功績と言えそうです。

(注2)
証人テストのケースではありませんが、私の国税局査察部の取調べにおいて、修正申告の数字に関して次のようなことがありました。

修正申告となった時に、私は担当税理士と一緒に査察部に行きました。そこで提示された数字が税理士の考えていた数字と著しく異なっていたため、税理士は計算根拠を求めました。

査察官は「計算根拠を示すことはできない」の一点張り。それでも計算根拠を求める税理士と私に査察官が言った言葉は、「この数字に従った方が、八田さんの身のためです」でした。

その数字に従わなければ告発するし、従えばこれで手打ちだと「誤解」した私は、「先生、これでいいですよ。彼らの数字のまま払います」と言いました。

結局、その後告発されることになったため、今では「身のため」という言葉は単なる脅しであったとしか思えません。

権力を背景にすれば、こんなことも簡単に起こり得ます。

クレディ・スイス証券集団申告漏れ事件でも「お前も告発されたいか」と一言言えば、会社同僚からいかなる調書を取ることも可能だったと思います。

1/13/2014



















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2014/01/13 Mon. 06:51 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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フィルム・レビュー 『少女は自転車にのって』 ハイファ・アル=マンスール監督 

フィルム・レビュー 『少女は自転車にのって』 ハイファ・アル=マンスール監督

少女は自転車に乗って

映画の主人公は、おてんばな10歳の女の子ワジダ。自転車を手に入れて、男の子の友達と競走したいと思っています。彼女は自転車購入資金調達のため、賞金目当てで学校のコーラン暗唱コンテストに挑戦することに。女性の自動車運転を禁ずるサウジアラビアで、女の子が自転車に乗るなどもってのほかなのですが、ワジダは気にかけてません。目標に向かって真っすぐ進む少女の姿がたくましく描かれています。

女性蔑視が甚だしい父性文化やコーランの教義等々、「へええ~」ということが一杯で、新鮮な発見がありました。「生理中はコーランを触る場合、ティッシュを使うよう」(へええ~)、「女性の声は肌と一緒。男性に聞かせてはいけない」(へええ~)等々。

ワジダの元気さには力をもらえます。陰の主人公が彼女の母親。この対照がイスラム教圏の未来と現在を表象しています。女性は母親に共感するところが大いにあるんじゃないかなあ。

この映画は女性にお勧めです。彼女たちの苦労を知ると、日本男子にも優しくなれるかも(笑)。

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2014/01/12 Sun. 11:28 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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#検察なう (361) 「『知らなかったではすまされない』~故意と過失」 1/9/2014 

#検察なう (361) 「『知らなかったではすまされない』~故意と過失」 1/9/2014

(強制捜査から1851日、控訴審判決まで21日)

「知らなかったではすまされない」と非難されることがあります。

人を非難する場合、感情に流されてあまり論理的でないことはままありますが、やはりその真意を問い質したいものです。

もしそれが「お前は嘘をついている。裁判官はだませても、俺はだまされない」ということであれば、私は憤慨し「あなたは裁判官と同じだけ証拠を精査したのですか。言い逃れが通用するほど有罪率99.98%の刑事司法は甘いものではないということを御存じないのですか」と言いたくなります。

もしそれが「税金を払うのは国民の大切な義務だ。その義務を怠ったからには責任を取らなければならない」ということであれば、「その通りですね。しかし、私は既に相応のペナルティーを払ってます」と説明することになります。

税金を払っていなかったことが故意でないと認定され、結果裁判で無罪となっても「修正申告してお咎めなし」というわけではありません。過失により税金の支払いが遅れたことに対する罰則が科せられます。私は既に、億単位の本税に対する10%の過少申告加算税と年14.6%(期限後申告分)もの延滞税を支払っています。

私は、税務調査の当初より過失による責任に関しては全く争っていません。私が争っているのは故意によるペナルティーです。それは35%(過少申告加算税と差し引き25%)の重加算税と私を前科者とする刑事罰です。

勿論、無罪放免となってもこの5年間に刑事被告人として失ったものが戻ってくるわけではありません。それでも「知らなかったではすまされない」と言われるのであれば、「分かっちゃいないなあ」と残念に思うばかりです。

刑法では、犯罪を行う故意がない場合の行為は罰せられないと規定されています。

刑法第38条第1項
「罪を犯す意思がない行為は、罰しない」

しかし、その後段で「知らなかったではすまされない」という場合があることも規定されています。

「法律に特段の規定がある場合は、この限りではない」

即ち、特別の規定がある場合は過失でも罰せられることになります。過失であれば罰せられないということを原則としながら、過失でも罰せられる場合があることが決められています。

より重大な結果をもたらす行為に対しては、故意によるものと過失によるものを分け、それぞれに異なる罰則を規定しています。例えば人を殺した場合、故意であれば殺人罪(刑法第199条)、過失であれば過失致死罪(刑法第210条)や業務上過失致死罪(刑法第211条)となります。即ち、「知らなかったではすまされない」過失による行為にも罰則が決められています。

税金を払わないということに関しても、重大な結果をもたらすものとして、過失でも罰則があります。それが過少申告加算税(国税通則法第65条)や延滞税(国税通則法第60条)です。そしていわゆる「脱税」である所得税法違反に関しては、条文で「偽りその他不正な行為により」(所得税法第238条)と故意が要件であることが規定されています。

「知らなかったではすまされない」ということはごもっともですが、「それ相応のペナルティーは払っているのになあ」というのが私の気持ちです。

また道路交通法のようないわゆる軽犯罪では、故意であろうが過失であろうが一様に罰せられることが定められています。「うっかり赤信号を見落とした」といった「うっかりミス」の言い訳ができないようになっています。

また、過失の主張をするハードルが非常に高いことには、法律を知らなかったという言い訳は全く通用しないということがあります。ルールを知らなかったという言い訳が通用すれば、法律に詳しい者がより罰せられるという不公平な状況ができるからです。

例えば狩猟法(現在の鳥獣保護法)では「タヌキを捕獲してはいけない」と定められていました。この規定を知らなかったとしても、それは言い訳になりません。これを「法の不知」といいます。

この「法の不知」と間違われやすいのが「事実の錯誤」です。ある猟師の住む地域では、タヌキがムジナと呼ばれていて、彼はそのムジナを獲ったと思っていたという場合です。「タヌキを捕獲してはいけない」という規定を知りながら、自分が獲ったものはムジナであると思い込んでいたものです。これは実際にあった事例で、判例で無罪となっています。

ここをクリック→ Wikipedia たぬき・むじな事件

ここで重要なことは、彼に「ムジナはタヌキではない」という明確な認識があったことです。

私の場合も、私は株式報酬に対する所得税を払う必要がないと思っていたわけではなく、株式報酬も給与・賞与・退職金の一部である以上、税金は当然払うべきであり、給与天引きで払っていると思っていました。

誤解を受けるそもそもの発端が自分にあったことは反省しつつ、その誤解を解いていくよう努めたいと思っています。

1/9/2014












ここをクリック→ Wikipedia クレディ・スイス証券集団申告漏れ事件

ここをクリック→ 経緯説明 「真実は一つである」

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category: クレディ・スイス証券集団申告漏れ事件

2014/01/09 Thu. 07:18 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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#検察なう (360) 「朝倉氏/佐藤氏への手紙」 1/6/2014 

#検察なう (360) 「朝倉氏/佐藤氏への手紙」 1/6/2014

(強制捜査から1848日、控訴審判決まで24日)

朝倉さん/佐藤さん、あけましておめでとうございます。と、書きだしたものの、単なる時間の一区切りに過ぎないとはいえ、年明けを塀の中で迎えるということに今更ながら衝撃を感じています。

寒さも厳しさを加え、不自由な思いをなさっているのではないでしょうか。それでも、多くの応援してくれる人たちの思いが朝倉さん/佐藤さんの心を温めてくれていると信じています。

直接話すことがかなわないので、どのようなお心持であるかは測りかねますが、やはりご自分が巻き込まれた状況を繰り返し思い起こしていらっしゃるのではないでしょうか。私もなぜ朝倉さん/佐藤さんが自由を奪われなければならないかを度々考えています。

私は絶対的存在を信ずる者ではないので、「神は乗り越えられない試練は与えない」とは言いませんが、やはり朝倉さん/佐藤さんがそこにいるには何らかの目的があると思っています。そして人は、意識をもって行動を目的化することはできます。

刑務所の社会的意義は、受刑者の更生にあると思っています。それは受刑者本人にとってより、社会にとっての利益だからです。ところが最近の犯罪の減少傾向の中でも再犯者は初犯者ほど減らずに再犯率が高くなっていたり、深刻な累犯者が増えていたりという状況に鑑みるに、刑務所が受刑者の更生装置としてはうまく機能していないようです。それは刑務所が単に罰を与える場所としてしか機能していないからだと思います。その変革を促す一助として朝倉さん/佐藤さんがその場にいると考えることはできないでしょうか。

話が一足飛びになりました。説明します。

朝倉さん/佐藤さんはさぞかし不公平に感じていると思います。世の中には私腹を肥やすために不法行為を行う者がおり、彼らが罰せられていないにも関わらず、彼らと同じ行為ではあっても私利私欲に基づかずに行ったご自分が罰せられているという状況であれば、人間、そういう気持ちにならない方がおかしいと思います。

しかし、不公平であると考えることは何の利益にもならないどころか、ご自分を卑しめるものだと思います。世の中はそもそも不公平なものだと受け止めることです。そうした上で、表面的な反省を取り繕うのではなく、心から模範囚を目指して下さい。

本来、不平不満を持っても仕方がないであろう朝倉さん/佐藤さんが、現実を受け止め、点数稼ぎではなく模範囚でいようとする姿にほかの受刑者の方々が心を動かされないはずはありません。

強制ではなく自発的に本当の反省を促すということは刑務官・刑務所にはなかなかできないことです。それがほかの受刑者の方々の再生につながると私は信じます。

模範囚でいようと取り繕う必要は全くありません。朝倉さん/佐藤さんの善人格は、誰であれ理解できるものです。むしろ、心にもない反省はすべきではありません。それは後のあなたの人生にとって悪影響すらあると思います。繰り返しになりますが、現実をそのまま受け止めることです。そして前向きに生きることを心掛けて下さい。

朝倉さん/佐藤さんと接するほかの受刑者によい影響を与えることで、刑務所を彼らにとっての更生装置として機能させることができると私は信じています。そしてそれが、あなたがそこにいる目的だと考えています。

最後にマザー・テレサの言葉を贈ります(マザー・テレサと私のキャラは全くかぶりませんが、笑)。

「人は不合理、非論理、利己的です。気にすることなく、人を愛しなさい。

あなたが親切であれば、人々はよからぬ思いを秘めてあなたを非難するかもしれません。気にすることなく、親切であり続けなさい。

あなたが正直で誠実であれば、あなたを騙そうとする人が現れるでしょう。気にすることなく正直で誠実であり続けなさい。

あなたが幸せを見つけたら、人々が嫉妬するかもしれません。気にすることなく、幸せでいなさい。

あなたが善い行いをしても、おそらく次の日には忘れられるでしょう。気にすることなく、善を行い続けなさい。

あなたの中の最良のものを世に与え続けなさい。全く足りないかもしれません。気にすることなく、最良のものを与え続けなさい。」

くれぐれもお体に気をつけて、ご自分に正直に頑張って下さい。応援しています。

2014年新年を迎えて

(一昨日彼らに投函した手紙を転載しました。彼らが巻き込まれた事件を知るには以下の2冊の書籍をご参照下さい。

ここをクリック→ #検察なう (209) 「何が社会正義かを問う 『四〇〇万企業が哭いている 検察が会社を踏み潰した日』を読んで」

ここをクリック→ #検察なう (341) 「法律守って法を守らず~佐藤真言著『粉飾 特捜に狙われた元銀行員の告白』再読」 )

1/6/2014



















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category: 佐藤真言氏 『粉飾』

2014/01/06 Mon. 00:20 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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