「蟷螂の斧となろうとも」 by 元外資系証券マン

クレディ・スイス証券集団申告漏れ事件(http://goo.gl/v0xQYP)において、国税局査察部告発、検察特捜部起訴の事案で史上初の無罪判決。 著書『勝率ゼロへの挑戦 史上初の無罪はいかにして生まれたか』(光文社)。 ツイッター(@thatta0529)で「#検察なう」の情報発信を続けます。

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フィルム・レビュー 『6才のボクが、大人になるまで。』 リチャード・リンクレイター監督 

フィルム・レビュー 『6才のボクが、大人になるまで。』 リチャード・リンクレイター監督

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映画『6才のボクが、大人になるまで。(原題:Boyhood)』観賞。

Great, Great Movie.

非常に高い評価を得ているが、その評価に値する作品だった。今年観た洋画では一番かな。カナダでは公開4週目だが、土曜の昼間の回は超満員。

監督はインディーズ出身のリチャード・リンクレイター。『ウェイキング・ライフ』( 実写映像を撮影しそれをデジタルペインティングで加工したアニメーション映画)のような哲学的な作品を撮るかと思えば、『ビフォア・サンライズ 恋人たちまでの距離(ディスタンス)』といったぬるいラブ・ロマンスや、『スクール・オブ・ロック』といったファミリー作品も作る監督で、正直これまであまり評価してなかった。

これは6歳の少年が18歳になるまで、実際に12年かけて同じ俳優を使って製作されたことで話題になっている。

主役を演じるのはエラー・コルトレーン。これまで出演した作品数も少ないが、この映画では成長するメイソン・ジュニアを見事に演じきっている。あとリンクレイターの作品では常連のイーサン・ホークが離婚した父親役、『トゥルー・ロマンス』『エド・ウッド』『ロスト・ハイウェイ』のパトリシア・アークエットが母親役で、それぞれ素晴らしい演技を見せている。

何か特別な事件が起こるわけでもない。ただ人生のちょっとしたつまずきや困難を乗り越えて成長していく家族の姿を実にリアルに描き出している。感動に打ちひしがれるといった類の映画ではないが、他人の生き様を通して、自分の人生を振り返る機会となる作品。

日本では11月公開。お見逃しなく。

ここをクリック→ 『6才のボクが、大人になるまで。』予告編

(Facebook 8/17/2014より転載)












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2014/08/31 Sun. 02:11 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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無罪を勝ち得るために~冤罪と戦う方法 その8 「検察を敵視すべきか~起訴の見極め」 

無罪を勝ち得るために~冤罪と戦う方法 その8 「検察を敵視すべきか~起訴の見極め」

前回のこのシリーズで、検察の取調べは事情聴取ではなく、「起訴した場合に公判であなたを有罪にする証拠を作ること」であることを述べました。

そう理解すると、無実のあなたは検察を、無実の人を罪に陥れる邪悪な存在のように感じるかもしれません。心構えとしてはそれでも一向に構わないのですが、彼らを敵視した態度を取ることは、取調べのある時点までは厳しく慎まなければいけません。

そのある時点とは、検察が起訴の判断をするまでです。

検察が起訴の判断・決定をする以前と以後では、被疑者のあなたと弁護人の取るべきストラテジーは全く異なることを理解しなければなりません。

検察が起訴を判断するまで、被疑者のあなたが目指すものはただ一つ、不起訴です。起訴されてしまえば、99.9%以上の有罪率という非常に厳しい現実が待っています。

検察は、高い有罪率が自分たちの有能さを証明するものと大きな誤解をしているため(というよりは、一般国民がそう思っているであろうと信じていると言った方がより正しいニュアンスです)、公判が維持できそうにないものは積極的に不起訴にします。彼らが、起訴権を恣意的に行使している「起訴便宜主義」を被疑者段階では最大限に活用すべく、(嫌疑ありとされる起訴猶予であろうが)何とか不起訴に持ち込むということが取られるべきストラテジーです。

平成23年度では、(道交違反を除く)違反被疑者の起訴率は56.8%でした(平成24年版犯罪白書より)。つまり被疑事件の約半分が不起訴となっています(そのうち実に68.5%は、嫌疑が認められる起訴猶予)。

目的が規定されれば、全ての行動はその目的を達成するために合理的・効率的なものであるべきと考えられ、いかにすべきかは帰納的に導かれるはずです。

不起訴を得るためには、彼らに公判が維持できないという強烈な印象を与えることが必要です。勿論、客観的な事実だけでその印象を与えることができれば苦労はしないのですが、そうでないからこそあなたは取調べを受けています。

客観的な事実を論理的に構成し、あなたが無実である主張をすると同時に、あなたが信用に足る人物であることを印象付けることは、利することはあれども損になることはないはずです。人は、自分のことを敵視している相手のことを信用するでしょうか。検察官がどのように考えるかということに思い至れば、答えは自ずと出るものです。

いかに彼らの目的があなたの人生を破壊しうるものであっても、起訴の判断の時まで、彼らはあなたの生殺与奪の権利を持つ絶対者としてリスペクトすべきだというのが私の個人的意見です。

このことから、私は取調べでの黙秘を好ましく思わないものです。勿論、黙秘は被疑者・被告人の正当な権利であり、被疑者・被告人の資質次第では、次善の策である黙秘を行使するというのはありなのですが、取調べに非協力的だという印象を与え、不起訴の確率を下げるものだと思います(「被疑者・被告人の資質次第」と言ったのは、素直に取調べに応じると、とにかく不利な調書を取られまくると、弁護人が判断した時には、その判断に従った方がいいという場合もあるということです)。

公判を維持できないという印象を与える決定的な手段が、弁護人の効果的な意見書です。しかし、一旦起訴となれば、検察はその意見書に書かれた弁護側の主張を全てつぶすように策を講じてくるため、起訴の可能性が相当程度以上高い場合には、逆に意見書を出すことは全くナンセンスな手段となります。弁護人の意見書は、不起訴の可能性がある程度あった上でのダメ押し的な位置付けが正しいと思われます。

私の毎回の取調べの後で、主任弁護人の小松弁護士が真っ先に聞いてきたことは、「今日の取調べ検事の態度はどうでしたか。何か変化はありましたか」でした。常に我々の意識にあったのは起訴・不起訴の可能性を探ることでした。

検察特捜部が、国税局の私に対する告発を受けたという時点では、起訴は検察も了解事項でしたが、その後に起こった郵便不正事件は全ての状況を一変させました。そして私の取調べの時点では、常識的には考えられない不起訴の可能性もあると私も小松弁護士も考え、取調べには極めて真摯に臨んでいたものです。

しかし、もし残念なことに、検察の判断が起訴となれば、それ以降は彼らに気を遣う必要は全くありません。無実の人間を冤罪に突き落とすクソ野郎集団と考えて全く差し支えありません。

私は、特捜部の取調べを毎回リアルタイムで外部発信していましたが、検察の起訴の判断までは、ブログで一般公開していませんでした。あくまで限られた数の支持者に向けたメールリストにメールで送っていたものです。それを、私が「あ、これはもう取調べ検事の手を離れたな。起訴やむなしだな」と感じた時点で、過去のメールを全てブログに転載したものです。

以上のことは任意の取調べを受けている場合にあてはまると考えて下さい。逮捕されている場合には、起訴の可能性は格段に高くなりますので、また違った考え方が必要だと思われます。

例えば、PC遠隔操作事件で片山被告人が被疑者段階で、取調べの可視化を取調べの条件として、結局、取調べを忌避したような形になったのは、彼が既に逮捕されていたからであり、あれが任意であれば、弁護団もそのような強硬手段は使わなかったと想像されます。

いずれにせよあなたの最大の擁護者である弁護人と意思の疎通を図り、あなたの人生の最大の難関を乗り切ることがあなたに課せられたタスクです。頑張って下さい。私は冤罪と戦うあなたを応援します。
















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2014/08/28 Thu. 07:23 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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外資系証券なるもの (15) 「9.11」 

外資系証券なるもの (15) 「9.11」

私の家にはテレビがありません。もともと広い家に住むことには憧れが全くなく、手狭な部屋ではスペースがもったいないという、実に消極的な理由でテレビを持っていませんでした。

ソロモン・ブラザーズ証券を辞めた2001年当時は、世田谷区用賀の六畳のワンルーム・マンションに住んでいました。部屋が少し広くなりビデオ観賞用のテレビを買ってもアンテナにつなげることはありませんでした。別にテレビが嫌いなわけではなく、子供の頃はドリフや『太陽にほえろ!』を毎週欠かさず見る普通のテレビっ子でした。今でも旅行で旅館の部屋にテレビがあると、テレビに見入ります。ただ、日常にテレビが介在することは全くありません。

仕事をしていた頃は、世界はニューヨークを中心に回っていたため、海外ニュースのアクセスはブルームバーグと言われる金融業界御用達のニュース端末やインターネットが重要なソースでした。日本の新聞は読む必要もなく、朝の通勤電車の中は、専ら小説を読む時間でした。

テレビがなくて唯一不便なことは、大きな事件が起こった時に、リアルタイムでフォローできないことです。私が、クレディ・スイス証券に入社して3ヶ月後に起こった9・11がまさにそうでした。

私はその頃は目黒区祐天寺に住んでいましたが、港区神谷町のオフィスまで、中目黒乗り換えの地下鉄日比谷線を使って通勤していました。ところが、月に一、二度朝寝坊をし、どうしても必要な時にはタクシーを使いました。タクシーだと車の中からニューヨークのトレーディング・デスクに電話ができるからです。

9・11の翌朝がたまたまそうでした。日本では夜のうちから大騒ぎになっていたようでしたが、私は全く知らず、朝寝坊をしてタクシーに飛び乗り、顧客の注文の状況を確認しようとニューヨーク・オフィスに電話をしました。

いつものように話し始める私に向かって、ニューヨークのトレーダーが言いました。
「何言ってるんだ。何が起こってるか分かってないのか。今どこだ」
「何かあったのか。今会社に向かってるところだけど」
「とにかく急いでオフィスに向かえ。そしたら分かるから」

朝の七時半頃オフィスに駆け込んで、ようやく状況が飲みこめました。かつてはソロモン・ブラザーズ証券の本社があり、ニューヨークに住んでいた頃は自分の部屋の窓から目の前にあったワールド・トレード・センターでした。その見なれたビルが崩壊する様は衝撃的でした。

市場は完全に機能を停止していました。それでもニューヨークのトレーダーは、顧客の注文の約定を執行しようと考えていました。電話でニューヨークと議論しながら、それは私にとっては大きなギャンブルとしか思えませんでした。

「客のリアクションを探ってから決めよう。もし彼らが緊急事態であることを理解して、我々がマーケットメークしないことに納得してくれたらこの取引はやるべきではない」

私は自分の考えをニューヨークのトレーダーに言いました。こうした状況で英雄になろうとすることは、大けがの元です。結局、顧客も事の重大さから、注文の執行ができなかったことに不満を唱えることはありませんでした。

この時ばかりは、テレビがあった方がいいかなと思ったものです。しかし、結局、それ以降も仕事や日常に忙殺される中、テレビをアンテナにつなげることはありませんでした。










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2014/08/24 Sun. 23:11 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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フィルム・レビュー 『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』 ジェームズ・ガン監督 

フィルム・レビュー 『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』 ジェームズ・ガン監督

gardians of the galaxy

映画『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』観賞(オリジナルタイトルは『Guardians of the Galaxy』ですが、邦題は"the"が抜けています。どうでもいいんですが)。

マーヴェル好きとしては要チェックだったのだけれど、うーん、今イチ。但し、問題はこのアメコミのストーリーを知らなかったこと。とにかく登場人物が多い割に説明が少ないので、誰がどういう背景なのか(例えば、主人公が地球人の母親とエイリアンの父から生まれたということすら映画の最後まで分からなかった。オリジナルのアメコミを読んでる人には常識なんだろうけど)。

ということで、途中ずーっと「うーん、ストーリーが飲み込めない」というアウェイ感が強くて楽しめず。

多分、日本語の字幕ではロケット・ラクーンを「このアライグマが」的なジョークが多くなりそうだけど、実際のセリフはアライグマ扱いしてなくて自然体。ぱっと見そこがポイントのキャラ設定なんだけどね(ちなみに声の出演はブラッドレイ・クーパー。日本での吹き替えはなぜか日テレ『スッキリ!!』の加藤浩次)。

ギャグはちょっと滑ってる感じが多く、劇場(カナダ)の笑いもそれほどでもなかったけど、本国アメリカの評価は上々。大ヒットの『アヴェンジャーズ』よりもimdb.comの評価は高く、私の大好きな『アイアンマン』よりも高評価とは。いずれ観直す必要あり。

観に行く方は、オリジナル・アメコミの設定を要確認かも。

ここをクリック→ 『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』予告編

(Facebook 8/16/2014より転載)












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2014/08/24 Sun. 00:01 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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無罪を勝ち得るために~冤罪と戦う方法 その7 「取調べに際して注意すべきこと」 

無罪を勝ち得るために~冤罪と戦う方法 その7 「取調べに際して注意すべきこと」

筆記試験に臨んで、まず何を注意すべきでしょうか。私が考えるのは出題者の意図です。例えば、その試験の性格が、受験者の知識が一定レベルを越えているかどうかを確認するものなのか、あるいは受験者の順列をつけるものなのかによって答え方が違うからです。具体的には、前者においては、奇をてらう必要はなく、確信が持てない質問には、皆が答えるであろう回答をすればいいのに対し、後者では、なるべくほかの受験者と差をつけるべく、リスクを取って行くことが必要となります。

取調べにおいては、出題者は勿論取調官ですが、彼らの意図を十分に理解する必要があります。そして、取調べが「事情聴取」であると思った時点で、あなたはその試験に不合格です。

彼らが取調べをする目的はただ一つ。それは、「起訴となった場合、公判で被告人を有罪に追い込むための証拠となる供述調書を作ること」です。

あなたがシロかクロかを判断するのは、あなたが面前にする取調官ではありません。それを判断するのは、その取調官が作成した調書を読む上司です。そして、その上司のマインドは、真実を見極めようとするのではなく、「この調書で公判が維持できるか」という観点です。

非常に極端な言い方かもしれませんが、彼らの行動原理に照らし合わせれば、恣意的な判断をはさまず、「公判で有罪とできるか」を唯一の物差しとして機械的に行動することが一番効率的であり、合理的だと理解できるはずです。そのようにして起訴をしたものが無罪となれば、彼らは「負けた」と考え、無理にでも有罪にしようとする彼らの思考回路が十分理解できると思います。

それでは、取調べが事情聴取ではなく有罪にするための調書作りだと理解した上で、どのようなことに注意すべきでしょうか。

私が一番重要だと考えるのは、「嘘をつかない」ことです。

実際に取調べを受けた経験がなければ、何を当たり前のことを言っているのだと思われるかもしれません。そう思われた方は、私が「取調官は嘘をついて欲しいと考えている」と言ってもそう感じるでしょうか。

説明します。

取調官の聞くことのほとんどに、彼らは既に答えを持っています。彼らは正解を理解していながら、あなたが何と答えるかを確かめるために聞いています。つまり、あなたが嘘をつくことは彼らの思う壺です。あなたが嘘をついていることを取調べの最中に指摘して動揺を誘った上で一気に自白に持ち込むか、あるいは調書に書き取った上で、後からそれと違うことを言わせて調書に取り、供述の変遷として裁判官にあなたは嘘をつく人間だと印象付けようとするか、それは取調官の戦略次第です。(注)

そして嘘をつくという場合、積極的に嘘をつくことでない場合があることも要注意です。取調官があなたに有利なことを示唆した場合、「まあそう思ってるんならそれでもいいや」と敢えてそれを訂正しないことは、取調べを受ける側が陥りやすい罠です。

繰り返して言いますが、彼らはほとんどの事実を理解しています。そうした上で、事実と異なる、そしてあなたに有利になるように彼らが水を向けるということは明らかな赤信号です。

取調べは、常に取調官が先手です。そして彼らは質問を事前に準備しているということは、それに対するあなたの回答もある程度想定しています。その場合必要なのは、あなたが回答する場合に、その回答の次に、それを受けて取調官が何と聞いてくるかを考えなくてはいけないということです。

私も、検察の取調べでは、「この質問の意図するところは?」と考え、それが理解できない場合には、容易に答えることができないという局面が多々ありました。

あなたが自己弁護をするということを前提すれば、あなたの言うことをそのまま調書にしていたのでは、彼らが有罪にできる証拠を作ることができるはずがありません。つまり逆の立場に立って、いかに有罪にするための調書を作るかということを考えた場合、どのような意図を持って質問をするかということを常に意識して取調べに臨む必要があることを十分に理解して下さい。

それが、被告人ができうるわずかなことの一つである、完全な否認調書を作るための一つの鍵になります。取調べ室の中では取調べを受ける側は圧倒的に不利な状況です。それを逆転できるのはあなたが取調べという頭脳ゲームに勝てるかどうかにかかっています。そしてあなたの最大の味方は真実です。いつも真実に寄り添っていれば勝機はあります。

取調べに際しては誰しも不安になります。そして相手があなたを有罪に絡め取ろうという意図でしか取調べを考えていないと思えば、更にその不安は増すということは理解しています。しかし、その不安を克服することが取調べを乗り切る絶対条件です。是非とも頑張って下さい。

(注)
具体的な例として、私の特捜部による取調べのケースを挙げます。

国税局査察部の強制捜査で、私は家にあった一切合財の書類、記録媒体(プライベートなビデオ含む)、友人からの手紙、写真が押収されました。その中に会社(クレディ・スイス証券)からの給与明細もありました。給与明細はある時点まで、毎月分あったのですが、私はある時点から給与明細を保管していませんでした。

特捜部の取調べにおいて、取調べ検事から「なぜあなたはある時点から給与明細を保管していなかったのですか」と聞かれました。私は、保管していなかったという記憶もなかったため、はっきりとした理由も分からず「その時期は丁度仕事が超多忙になった時点だと思われるので、忙しくて給与明細を開くこともなく捨てたのではないか。自分はA型で、シリーズ物の途中が抜けると非常に不愉快なので、その後は一貫して保管しないことにしたのではないか」という推測で答えました。私に散々説明させた挙句に、取調べ検事が言ったことは次のことでした。

「その時点で、会社は給与明細をペーパーレス化してオンラインでしか提示しなくなったんです。あなたはそれを知りながら、給与明細を見ないかのような虚偽の主張をするためにそのような説明をしたのではないですか。」

私は、その取調べのその日まで、会社が給与明細をペーパーレス化して配布しなくなったことすら知りませんでした。それが事実なのですが、それが事実であると認められると、給与関係の書類の内容を理解しないどころか、全く意識しないということになり、検察の有罪立証にとっては不利な要素となります。その日のその後の取調べは、それを意図的な虚偽の主張にしたい検事とのバトルになりました。

そもそも調べればすぐに分かるような(会社が給与明細をペーパーレス化した)ことに嘘をつくことのナンセンスは、考えればすぐに理解できるはずですが、とにかく「真実と違う供述をした」という一点から突破口を開こうとした、検事の取調べの実態が明らかになったできごとでした。










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2014/08/20 Wed. 22:58 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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「死刑制度について考える(2)~日本における終身刑」 

「死刑制度について考える(2)~日本における終身刑」

罪を犯した者に対して科せられる刑罰の意義として、将来の犯罪を抑止する性格を持つということが挙げられます。これは、過去の犯罪行為に対する応報として刑罰を捉える「応報刑論」に対して「目的刑論」と呼ばれます。

刑罰をただ単に罪に対するカウンターアクションとして考え、刑罰によって犯罪を相殺しようとする「絶対的応報刑論」は、現代においては廃れた考え方です(これを主張したのは18世紀の哲学者カント)。現代において主流なのは、刑罰が応報であることを認めつつも、刑罰は同時に犯罪防止にとって必要かつ有効でなくてはならないとする「相対的応報刑論」です。

犯罪に対する抑止力を期待する目的刑論は、「一般予防論」と「特別予防論」に分けることができます。一言で言えば、一般予防とは一般市民に対する抑止効果、特別予防とは犯罪者自身に対する抑止効果を期待するものです。刑罰には、その両方の側面の意義を認めることができます。

一般予防論では、刑罰は、犯罪を計画する一般市民に直接的な威嚇をなし、その抑止効果をもって法への信頼を形成する効果を認めるものです。特別予防論は、犯罪者を教育して再犯をさせないようにする教育的効果と、犯罪傾向の強い者を社会から一定期間隔離して一般社会に悪影響が生じないようにする無力化効果に分類されます。

死刑における特別予防とは、死刑が犯罪者の命を奪う刑罰であるため、更生を目的とした教育効果について考えることは、死刑の本来的な性質上意味を持たず、一般社会から犯罪者を永久に隔離するための無力化効果を指すことになります。

この犯罪者を一般社会から永久に隔離する方法には、死刑以外に終身刑がありますが、法制度として日本に終身刑はなく、死刑の存置・廃止を議論する際、そのことが重要な前提となります。

しかし、実際の運用では日本においても終身刑がありえることを最近知りました。死刑制度を考察する前提の知識として知っておくべきだと思い、ここに掲載します。

森炎著『なぜ日本人は世界の中で死刑を是とするのか』(幻冬舎新書、2011年刊)第四章「死刑判決と正義」より

(以下引用)
日本の刑法では、死刑の次に重いのは無期懲役で、終身刑は存在しません。

日本の無期懲役には仮釈放が認められていて、統計上は、二十数年で仮釈放となっています(仮釈放者の在所年数平均)。「死ぬまで刑務所」となる終身刑とは大きく異なるわけです。

終身刑があるかないかは、死刑をめぐる議論に大きな影響を与えます。

死刑か無期懲役かという二者択一で考えなければならないとすれば、終身刑がある場合と比べて、いきおい、死刑にしなければならない範囲は広がるでしょう。

たとえば、死刑の次に重い刑が無期懲役ということになると、死刑にしないことは、同時に社会復帰の可能性を意味することになります。これは、どのような社会であるべきかという観点に大きく影響します。法制度として終身刑を持たず、いずれ社会に出てくる無期懲役しかないということになると、あるべき社会を実現させるために、重罪人の扱いとして死刑を用いざるを得ないということが考えられます。再び殺人を犯すかもしれない重罪人が無期懲役で将来社会に出てきてもよいと割り切ることは、とてもできないでしょう。

こうして、わが国の法制上も終身刑が必要ではないかということが大議論となるわけです。

たった今、わが国では終身刑は存在しないと述べたばかりですが、実は、実際の日本の司法は、これとはかなりニュアンスの違う形で動いています。

これまで、わが国の裁判実務には、事実上の終身刑とも言うべき特殊な判決の仕方がありました。それは、仮釈放を許すべきではないという条件を付けて無期懲役の判決を下すものです。仮釈放がない無期懲役というのは、結局、終身刑と同じことになります。

これは、もう少し厳密に言うと、次のようなことです。

日本の裁判実務では、例外的な取り扱いとして、無期懲役の判決を言い渡す際に、判決文の中で、仮釈放を許すべきではないという注文をつけることがあります。このような場合、仮釈放はどうなるかというと、この「仮釈放なし」の条件付き判決も、厳密に法的には、普通の無期懲役の判決と同じで、「仮釈放なし」の部分には勧告的意味しかないということになっています。しかし、実際上は、その趣旨は仮釈放の決定を行う行刑(ぎょうけい)当局によって例外なく尊重されています。

つまり、結局のところ、この「仮釈放なし」の条件付き判決の場合には、その法的性質にもかかわらず、仮釈放は事実上なくなり、その刑は終身刑と同じなるのです。

このような無期懲役判決の実例としては、オウム真理教事件の元教団幹部の一人に対する判決があります(東京高裁平成一五年九月二五日判決)。オウム真理教をめぐっては、地下鉄サリン事件などで教団幹部一四名に死刑が求刑されましたが、これは、そのうち唯一死刑にならなかったもので、その判決では「仮釈放を認めない終身に近い無期懲役、事実上の終身刑が相当」と述べられています。

もともと、日本の刑法には、条文上、終身刑の規定はなく、法制度としては、正規の刑罰は、死刑、無期懲役ということになっています。ところが、現状は違うのです。わが国では、ここ二〇年来の裁判の実務を通して、本来の刑罰体系に事実上の変更を加え、法律ではなく裁判で一種の終身刑を作り出しているわけです。
(引用以上)

なぜ日本人は

森炎氏
東京地裁、大阪地裁などの裁判官を経て、現在、弁護士(東京弁護士会所属)。著書に『教養としての冤罪論』『司法権力の内幕』『司法殺人』『死刑と正義』『量刑相場』『裁く技術』『裁判員のためのかみくだき刑法』など。
私の国賠審代理人ドリームチームの一人です。








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フィルム・レビュー 『LUCY』 リュック・ベッソン監督 

フィルム・レビュー 『LUCY』 リュック・ベッソン監督

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SF映画はフィクションである以上、科学的な裏付けが必ずしも必要ではないが、これまで観た数多くの(コメディーを除く一応シリアスな)SF映画の中でも最もアホらしい映画。

大体、人間の脳の10%しか活用されていないって、その手のインチキセミナーの売り文句でしょ。そしてそれが100%活用されたからといって、これはなあという奇想天外ストーリー。

それにしてもリュック・ベッソンの才能の枯渇たるやどうしちゃったの?って感じ。『サブウェイ』~『ル・グラン・ブルー』~『ニキータ』の輝きはその後の『レオン』から急速に失われ、『アンジェラ』を最後にもう観なくていいやと思ってました。この映画はトレーラーが面白そうで、ついつい観てしまったのが間違い。

映像の面白みはあるけれど、これを文章で読んだ場合に、あまりのナンセンスさに誰が最後まで興味を持って読むだろうかというレベル。よかったのは、最初の10分(何も知らないルーシーが事件に巻き込まれ囚われるまで)だけ。あとはカーチェイス・シーン(さすがにCGだろうけど)くらいかなあ。

スカーレット・ヨハンソンもまあ悪くはなかったけど、『マッチポイント』や『ロスト・イン・トランスレーション』の方がはるかにいい。

ということで、観る価値はありませんが、それでも観たい方はどうぞ。

ここをクリック→ 『LUCY』予告編

(Facebook 8/16/2014より転載)













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2014/08/17 Sun. 13:54 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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#検察なう (415) 「国賠審における論点を整理する」 8/14/2014 

#検察なう (415) 「国賠審における論点を整理する」 8/14/2014

私が、国税局及び検察庁の不法行為をもって国家賠償請求訴訟を起こしていることは、もうご存知のことと思います。その不法行為とは、これまで私がことある度に主張してきた「私が無実であることを知りながら、国税局、検察は『告発することが仕事』『起訴することが仕事』という誤った職務理念により個人の人権を顧みない告発、起訴をした」ということです。

私の思うところはそうしたものですが、訴訟ともなるともう少し精緻な議論が必要となります。

論点は4つあります。まず、「国税局による告発」がとんでもなかったこと、そして「検察による起訴」がデタラメだったこと、更に「検察による控訴」はありえなかったこと、そして最後に「国税局によるリーク」は言語道断だったことです。

これらの論点を私の代理人ドリームチームが訴状として、今年の5月に裁判所に提出しています(写真の一番下、請求金額5億円の下に私が払った印紙代が見えます)。

訴状コピー

先の4つの論点を、訴状から抜粋し、整理します。

まず国税局の告発に関し。

「徹底的な調査を行ったにもかかわらず、東京国税局は、原告に所得税法違反が成立するという高度の蓋然性があるという証拠を得ることはできなかった。逆に、東京国税局の職員は、原告(注:私です)に対し、「(八田が有罪となる)証拠がない。証拠があれば、ほらやっただろとあなたにつきつけられる」、「私たちの仕事はあなたを告発することだ。証拠がない以上、時間がかかるのはお許し頂きたい」と述べていたのであり、有罪となる高度の蓋然性はおろか、有罪となる可能性も存在していないことを明確に認識していた。」

「このような認識の下になされた原告に対する告発が、税務職員の職務義務に違反する違法なものであることは明らかである。」

次に検察の起訴に関し。

「本件では、原告の収入状況や各年の申告状況については殆ど争いがなく、被疑者とされていた原告にほ脱の故意が存するかがほぼ唯一の争点であった。そして、このような場合に、「積極方向の事情のみならず、消極方向の事情をも踏まえて総合判断すべきは当然のこと」(高裁判決)であり、特に、「本件の特徴」である「被告人[原告]が積極的な所得秘匿工作を行った事実が認められないこと」(高裁判決)が重視されなければならない。具体的には「所得秘匿工作を全く行っておらず、いったん税務当局が調査に入れば多額の脱税の事実が直ちに判明する状況にあったことは、ほ脱の故意を推認するに当たり消極方向に働く事情であることは留意すべき点である」(高裁判決)にもかかわらず、検察官は、この点について適切妥当な考慮をすることはなかった。」

「本件の起訴が、検察官の職務義務に違反する違法なものであることは明らかである。」

次に検察の控訴に関し。

「現在の日本の刑事訴訟制度では、控訴審は事後審査審とされているのであり、地方裁判所の判決に対する控訴は、刑事訴訟法が規定する控訴理由が存するか否かが判断される。

そして刑事訴訟法382条の事実誤認については、最高裁判決により「刑訴法382条の事実誤認とは第一審判決の事実誤認が論理則、経験則等に照らして不合理であることをいう」とされ、さらに、「控訴審が第一審判決に事実誤認があるというためには、第一審判決の事実誤認が論理則、経験則に照らして不合理であることを具体的に示す必要がある」とされる。

検察官控訴は、上記の最高裁判決の趣旨を踏まえ、一審と同一の証拠関係のまま、単に控訴審裁判所に一審裁判所の判断を覆してもらうために控訴することは許されず、新規の証拠を高等裁判所に提出することができる合理的な可能性がある場合に限るという「不文律」の下で、極めて抑制的な運用がされているのが実情であり、このような運用実態は検察官にとっての職務基準となっている。

一審に引き続いて、控訴審も(何らの証拠調べを行わず第一回期日に結審して)検察官の控訴を棄却した場合には、検察官の現実の職務基準である「抑制的な検事控訴」に違反するということが顕著というべきである。」

「このような検察官の控訴が、法律の専門家として検察官の職務義務に違反してなされた違法なものであることは明らかである。」

最後に国税局のリークに関し。

「東京国税局の職員は国家公務員として秘密保持義務を負っている。そして、税務に関する情報は、対象者の個人のプライバシーに属する事柄であり、特に告発されたとの事実は対象者にとって不名誉なものであるから、これらの情報を国家公務員が正当な理由なく部外者に明らかにするならば、対象者の名誉が毀損されるとともに、そのプライバシーが侵害される。

したがって、税務職員は、単に公法上の義務として守秘義務を負うだけでなく、当該税務情報の対象者との関係でも守秘義務を負うものであり、これに違反してなされた情報漏洩(リーク)は、当該対象者との関係でも違法である。」

「東京国税局によるこのようなリークが、税務行政に携わる税務職員の職務義務に違反する違法なものであることは明らかである。」

実に明快かつ力強い訴状内容だと思っています。やはり真実を背景とした主張はこのように説得力があるものです。

先日行われた第一回口頭弁論に先立ち、国は、請求を棄却する判決を求める旨、答弁書を提出していますが、それはほんの数行の形式答弁だけで、反論の理由等を記した準備書面がこの9月末までに裁判所に提出されることになっています。

国は自らの不法行為を絶対に認めないため、勝つことはほぼ不可能と言われている国賠審でも歴史を変えることができるか。今後も私の国賠審に是非ご注目頂き、ご支援のほどよろしくお願いします。

8/14/2014












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category: 国家賠償請求訴訟

2014/08/14 Thu. 02:10 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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「死刑制度について考える(1)~森達也氏著『死刑 人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う』」 

「死刑制度について考える(1)~森達也氏著『死刑 人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う』」

普段生活している上で、自分が人を殺すことをイメージしている人は間違いなくいないと思います。しかし、有権者である以上、その可能性はあります。それは、重罪のみを対象とする裁判員裁判制度の裁判員になりうるからです。

裁判員になることは、市民が司法に参加する権利ですが、その権利を遂行するために、死刑制度を理解することは義務といえます。しかし、死刑制度についての情報開示は限定的で、なんとなくあった方がいいとか、ない方がいいという感覚的な選好はあっても、深く考えたことがない人がほとんどではないでしょうか。

裁判員になって「人を殺す」立場となってから慌てないように、死刑制度に関する「food for thought」を提供したいと思います。非常に重要なテーマだと思いますので、「死刑制度について考える」という新たなシリーズとして論じたいと思います。

その第一回は、森達也氏著『死刑 人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う』の私のブックレビューを再掲します。

(以下、ブックレビューより)
裁判員裁判制度における裁判員になる可能性がある以上、誰しもが人の命を奪う可能性がある。命を粗末にしたくないと考えれば、死刑制度についてはよほど慎重に日頃から考察する必要があろう。

私は「死刑制度について存置派か廃止派か」という尋ね方は正しくないと思っている。死刑制度に対する姿勢を問う正しい尋ね方は「冤罪で罪を犯していない人を殺してしまうことと引き換えにしてでも死刑制度を維持する必要があると考えるか」であるべきだ。しかも、今日の刑事司法の状況が冤罪の「可能性がある」などと生易しいものでないことは、冤罪被害者の当事者である私は身をもって感じている。

死刑囚はいつも大体100人程度であるが(100人を越えると「在庫整理」のように立て続けに死刑が執行されるのが傾向として顕著である)、今日現在の死刑囚でも、私が冤罪死刑囚と考える人の名前は3人挙げられる。そして私がその100件内外の死刑事件の全てに精通しているわけではない。それだけ冤罪で死刑になる人は多いのである。つまり、冤罪で人が死刑になっていることは可能性論ではなく厳然たる事実である。

それでは私は死刑制度廃止派かと言うと、実はそうではない。制度としてはむしろあった方がいいのではと考えている。しかし、今日の刑事司法のシステムでは、構造的に冤罪が生み出され、とてもではないが、死刑制度をまともに論じることはできないというのが私の考えるところである。冤罪を生み出さないシステム構築までは、一切の死刑執行を停止すべきである。つまり、私の死刑制度に対する姿勢は「制度存置、執行停止派」である。

しかし、死刑の執行を停止すべきということに関しては、全くの揺るぎもないが、制度として存置すべきかどうかに関しては、常に逡巡しているのが正直なところである。そのため、何とかその逡巡の霧を晴らしてくれはしまいかと、死刑制度に関する書を渉猟するのだが、依然、深い森の中に踏み込むばかりという気分である。

この森達也氏の『死刑 人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいと思う』を読んだのも、死刑制度に対する世の中の風潮を一変させたオウム事件のドキュメンタリーを撮り続けた映画監督であれば、何らか方向性を示唆してくれるのではないかという期待感があったからである。しかし読み終えて、ほっとした自分があった。死刑に関して深く洞察したであろう森氏も、逡巡の中にあり、論理的な結論に至ることを自ら放棄していることを知ったからである。

森氏は廃止派であるが、結局のところ、その理由は情緒である以外のものを見つけられなかったことをこの書で吐露している。

「仕事柄おおぜいの悪人と言われる人たちと僕は会ってきた。短気な人はいる。思慮が浅い人もいる。他人の痛みを想像することが下手な人はいる。自己中心的な人もいる。粗野な人はいる。失敗を他者になすりつける人もいる。

でも生きる価値がない人などいない。生きる価値がないと思えるような人はひとりもいない。死んで当然の命などない。どんなに汚れようと、歪んでいようと、殺されて当然の命などない。僕は彼に会った。そして救いたいと思った。そこに理由はない。今現在の確定死刑囚の数は109人(2007年11月28日現在)。この109人すべてにもしも会ったとしたら、きっと僕は全員を救いたいと思うだろう。そしてきっとそれは僕だけじゃない。目の前にいる人がもしも死にかけているのなら、人はその人を救いたいと思う。あるいは思う前に身体が動くはずだ。その気持ちが湧いてこない理由は、今は目の前にいないからだ。知らないからだ。でも知れば、話せば、誰だってそうなる。それは本能であり摂理である。

ぼくらはそういうふうに生れついている。」

最終章に書かれたこの文章が結論といえば結論(但し、森氏も死刑制度是非の論議には終着駅はないことを自覚している)であり、タイトルの意味である。

死刑廃止派の「そもそも人が他人(たとえそれが殺人犯であっても)の命を奪うことは許されない」とする主張は、私個人には相当の説得力を持っている。しかし、毎日のように地球上のどこかで民族紛争や宗教紛争で人が人を殺している現状があり、それに対して全くプロテストしないで、死刑制度に対してだけそうした論理を持ち出すのも自分で納得がいかない部分がある。

逆に死刑存置派の被害者感情論=国家による仇討論は、全く心に響かない。単純に「ある人が誰かを殺せというだけで、その誰かを殺していいのか」と感じるからである。「ある人」が殺人事件被害者遺族であり、「誰か」が殺人犯であったとしても。

「それなら、自分の愛する人が殺されても、死刑にしたいと思わないのか」という問いに対しても、そうした経験はないため、「そう思いたくないと考えるだろう」と想像するのみである。

自分が死刑制度に関して考える時のスタンスは、加害者の人権や被害者の人権も一旦は置いて、当事者以外の絶対多数である社会の成員の利益はどこにあるかということを前提にしたいというものである。

当事者以外の我々の利益とは、「殺人のような凶悪犯罪がなくなる」ことに尽きる。そのために我々が考えることは、死刑制度はそのメリットに供することができるのか、という命題である。そして私はまだその答えを見出せずにいる。

死刑制度に関して、日本は先進国の中では突出して存置派が多いとされる。それは死刑制度について語ることがタブーであり、世の中の少なからずの人が深く考えていないからということはあるであろう。そしてその存置派の多くの理由は、この書に引用された本村洋氏(光市母子殺害事件の被害者遺族)の手紙の次の一文に端的に表されているであろう。

「犯罪被害者が声高に死刑を求めている」からではなく、「社会全体が漠然と不安である」から死刑は廃止できないのだと思います。

死刑がなくなることは「何となく不安だ」と感じることが存置派の本音ではないだろうか。そしてその不安を煽っているのが、法務・検察官僚と、彼らの意向を忖度して被害者感情を常に大きく報道するメディアであることは論を待たない。なぜ法務・検察官僚がそこまで死刑制度存続にこだわるのか、そして、それならばそれを利用して刑事司法改革のバーターの材料として使えないであろうかと想像を巡らせるのである。

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category: 死刑制度について考える

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ブック・レビュー 『死刑 人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う。』 森達也著 

ブック・レビュー 『死刑 人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う。』 森達也著

死刑

裁判員裁判制度における裁判員になる可能性がある以上、誰しもが人の命を奪う可能性がある。命を粗末にしたくないと考えれば、死刑制度についてはよほど慎重に日頃から考察する必要があろう。

私は「死刑制度について存置派か廃止派か」という尋ね方は正しくないと思っている。死刑制度に対する姿勢を問う正しい尋ね方は「冤罪で罪を犯していない人を殺してしまうことと引き換えにしてでも死刑制度を維持する必要があると考えるか」であるべきだ。しかも、今日の刑事司法の状況が冤罪の「可能性がある」などと生易しいものでないことは、冤罪被害者の当事者である私は身をもって感じている。

死刑囚はいつも大体100人程度であるが(100人を越えると「在庫整理」のように立て続けに死刑が執行されるのが傾向として顕著である)、今日現在の死刑囚でも、私が冤罪死刑囚と考える人の名前は3人挙げられる。そして私がその100件内外の死刑事件の全てに精通しているわけではない。それだけ冤罪で死刑になる人は多いのである。つまり、冤罪で人が死刑になっていることは可能性論ではなく厳然たる事実である。

それでは私は死刑制度廃止派かと言うと、実はそうではない。制度としてはむしろあった方がいいのではと考えている。しかし、今日の刑事司法のシステムでは、構造的に冤罪が生み出され、とてもではないが、死刑制度をまともに論じることはできないというのが私の考えるところである。冤罪を生み出さないシステム構築までは、一切の死刑執行を停止すべきである。つまり、私の死刑制度に対する姿勢は「制度存置、執行停止派」である。

しかし、死刑の執行を停止すべきということに関しては、全くの揺るぎもないが、制度として存置すべきかどうかに関しては、常に逡巡しているのが正直なところである。そのため、何とかその逡巡の霧を晴らしてくれはしまいかと、死刑制度に関する書を渉猟するのだが、依然、深い森の中に踏み込むばかりという気分である。

この森達也氏の『死刑 人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいと思う』を読んだのも、死刑制度に対する世の中の風潮を一変させたオウム事件のドキュメンタリーを撮り続けた映画監督であれば、何らか方向性を示唆してくれるのではないかという期待感があったからである。しかし読み終えて、ほっとした自分があった。死刑に関して深く洞察したであろう森氏も、逡巡の中にあり、論理的な結論に至ることを自ら放棄していることを知ったからである。

森氏は廃止派であるが、結局のところ、その理由は情緒である以外のものを見つけられなかったことをこの書で吐露している。

「仕事柄おおぜいの悪人と言われる人たちと僕は会ってきた。短気な人はいる。思慮が浅い人もいる。他人の痛みを想像することが下手な人はいる。自己中心的な人もいる。粗野な人はいる。失敗を他者になすりつける人もいる。

でも生きる価値がない人などいない。生きる価値がないと思えるような人はひとりもいない。死んで当然の命などない。どんなに汚れようと、歪んでいようと、殺されて当然の命などない。僕は彼に会った。そして救いたいと思った。そこに理由はない。今現在の確定死刑囚の数は109人(2007年11月28日現在)。この109人すべてにもしも会ったとしたら、きっと僕は全員を救いたいと思うだろう。そしてきっとそれは僕だけじゃない。目の前にいる人がもしも死にかけているのなら、人はその人を救いたいと思う。あるいは思う前に身体が動くはずだ。その気持ちが湧いてこない理由は、今は目の前にいないからだ。知らないからだ。でも知れば、話せば、誰だってそうなる。それは本能であり摂理である。

ぼくらはそういうふうに生れついている。」

最終章に書かれたこの文章が結論といえば結論(但し、森氏も死刑制度是非の論議には終着駅はないことを自覚している)であり、タイトルの意味である。

死刑廃止派の「そもそも人が他人(たとえそれが殺人犯であっても)の命を奪うことは許されない」とする主張は、私個人には相当の説得力を持っている。しかし、毎日のように地球上のどこかで民族紛争や宗教紛争で人が人を殺している現状があり、それに対して全くプロテストしないで、死刑制度に対してだけそうした論理を持ち出すのも自分で納得がいかない部分がある。

逆に死刑存置派の被害者感情論=国家による仇討論は、全く心に響かない。単純に「ある人が誰かを殺せというだけで、その誰かを殺していいのか」と感じるからである。「ある人」が殺人事件被害者遺族であり、「誰か」が殺人犯であったとしても。

「それなら、自分の愛する人が殺されても、死刑にしたいと思わないのか」という問いに対しても、そうした経験はないため、「そう思いたくないと考えるだろう」と想像するのみである。

自分が死刑制度に関して考える時のスタンスは、加害者の人権や被害者の人権も一旦は置いて、当事者以外の絶対多数である社会の成員の利益はどこにあるかということを前提にしたいというものである。

当事者以外の我々の利益とは、「殺人のような凶悪犯罪がなくなる」ことに尽きる。そのために我々が考えることは、死刑制度はそのメリットに供することができるのか、という命題である。そして私はまだその答えを見出せずにいる。

死刑制度に関して、日本は先進国の中では突出して存置派が多いとされる。それは死刑制度について語ることがタブーであり、世の中の少なからずの人が深く考えていないからということはあるであろう。そしてその存置派の多くの理由は、この書に引用された本村洋氏(光市母子殺害事件の被害者遺族)の手紙の次の一文に端的に表されているであろう。

「犯罪被害者が声高に死刑を求めている」からではなく、「社会全体が漠然と不安である」から死刑は廃止できないのだと思います。

死刑がなくなることは「何となく不安だ」と感じることが存置派の本音ではないだろうか。そしてその不安を煽っているのが、法務・検察官僚と、彼らの意向を忖度して被害者感情を常に大きく報道するメディアであることは論を待たない。なぜ法務・検察官僚がそこまで死刑制度存続にこだわるのか、そして、それならばそれを利用して刑事司法改革のバーターの材料として使えないであろうかと想像を巡らせるのである。

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2014/08/10 Sun. 00:01 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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#検察なう (414) 「金銭補償という抑止力~セントラル・パーク・ジョガー事件」 8/7/2014  

#検察なう (414) 「金銭補償という抑止力~セントラル・パーク・ジョガー事件」 8/7/2014

私の国賠審第一回口頭弁論で、私が行った陳述の一番のポイントは、私の目は将来に向けられているという点です。

私の陳述から、一部引用します。
「国家賠償請求訴訟は、過去の事象に関して賠償を求めるものであることは理解しています。しかし、私がこの訴訟を起こす意義として考えているのは、もっと将来に向けられたものです。国家の不法行為に関し、国家賠償という金銭的な補償制度があるということが有効に活用されるならば、それが引いては国家の不法行為に対する抑止力になると考えています。民主主義国家としてあるためには、国家賠償制度が効率的、効果的に機能することが不可欠であると考えます。」

(全文はこちら。)

ここをクリック→ 第一回口頭弁論原告陳述全文

私がイメージしていたのはセントラル・パーク・ジョガー事件(注)です。1989年に起こったこの事件のレイプ被害者は、当時私が働いていたソロモン・ブラザーズ証券の社員だったため、私は事件当時のことを克明に記憶しています。しかし、この事件が冤罪事件だったことは、今年6月に、5人の犯人とされた冤罪被害者とニューヨーク市が約40億円の和解金をもって和解したという報道まで知りませんでした。

私が感じたのは、国家の不法行為に対する国の謝罪の姿勢の差です。

例えば、足利事件の冤罪被害者菅谷利和氏に対して、国は約8千万円の刑事補償を行いましたが(1日の刑事補償額上限12500円x17年)、この彼我の差は歴然としています。

セントラル・パーク・ジョガー事件の冤罪被害者の「セントラル・パーク・ファイヴ」に対する和解金は、冤罪で投獄されていた期間換算で、一人1年当たり約1億円です。それに対し、日本ではたかだか12500円x365=約450万円です。

国が間違いを犯した場合、個人に対する影響は激烈なものであり、それを抑止するためのペナルティは、国がビビるほどのものでなくてはいけないと思います。それが、私が訴訟費用の150万円の印紙代を払ってでも、国賠審での請求額を5億円という高額にした最大の理由です。そして私の代理人チームはそれを満額取りにいくため、気合を入れています。

是非とも私の国賠審にはご注目頂き、ご支援のほどよろしくお願いします。

(注)
セントラル・パーク・ジョガー事件:1989年、ニューヨーク市のセントラル・パークでジョギングしていた女性が襲撃され、重傷をおってレイプされた。被害者は事件当時の記憶を失い、長く後遺症に苦しめられた。
14歳から16歳の5人の少年(いずれも黒人やヒスパニック)が犯人とされ、7年から11年の実刑判決を受けて服役。後に真犯人が判明し、5人全員の無罪が確定した。彼らには4000万ドルの賠償金が支払われた。
彼らは「セントラ・パーク・ファイヴ」と呼ばれ、彼らを扱ったドキュメンタリー映画『The Central Park Five』は2012年カンヌ映画祭に特別招待作品として出品された。

ここをクリック→ 『The Central Park Five』予告編

8/7/2014











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2014/08/07 Thu. 00:09 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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#検察なう (413) 「国賠審第一回口頭弁論法廷マンガ by 高杉ナツメ」 8/4/2014 

#検察なう (413) 「国賠審第一回口頭弁論法廷マンガ by 高杉ナツメ」 8/4/2014

長らくお待たせしました。皆さまお待ちかねの法廷マンガです。いってみよー!

第1階口頭弁論(1)

第1回口頭弁論(2)

第1回口頭弁論(3)

第1回口頭弁論 (4)

第1回口頭弁論 (5)

第1回口頭弁論 (6)

第1回口頭弁論 (7)

第1回口頭弁論 (8)

第1回口頭弁論 (9)

第1回口頭弁論 (10)

第1回口頭弁論 (11)

第1回口頭弁論 (12)

第1回口頭弁論(13)

8/4/2014












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2014/08/04 Mon. 00:21 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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フィルム・レビュー 『ジゴロ・イン・ニューヨーク』 ジョン・タトゥーロ監督 

フィルム・レビュー 『ジゴロ・イン・ニューヨーク』 ジョン・タトゥーロ監督

fading gigolo 1

映画『ジゴロ・イン・ニューヨーク』観賞。ジョン・タトゥーロ監督・脚本・主演。ウディ・アレンが14年振りに自作以外に主演。

自分ではあまりあまのじゃくのつもりはないけれど、こういういかにも小洒落て、少なからずの人が分かった風に「いい作品」と評しそうな映画は好きじゃない。

(以下ネタばれ注意)
まず子供が6人もいながら、素肌を(愛情をもって)触られたことは長らくなかった高名なラビの未亡人というヒロイン(ヴァネッサ・パラディ)という設定は、かなり複雑。性奴隷的に隷属した女性像と、結局ジョン・タトゥール演じる主人公と別れる原因が宗教的なハードルを越えられなかったであろうという背景も、ユダヤ教の宗教観を理解しない日本人にはほぼ理解不能。

というディープな副旋律を全く感じさせないくらい軽妙に話は展開していく。すると、それ以外の部分があまりにも浅薄でこれまた共感しずらい。

なんで生活に窮するダメ男が高級男娼になれんねんとか、絶倫ぶりを発揮しときながら好きな女性ができたらいきなり萎えるとか、ほとんどストーカーの幼なじみに結局は心を寄せるとか、結構無茶かつ少女マンガちっくな設定が納得いかない。

そして一番この映画がイケてないのは、あまりにウディ・アレン風であること。多分、個人的に付き合いの深いウディ・アレンが製作にも深く関わりながら、一役者としての立場に引いているという事情なのだろうが、それにしてもちょっとね、というくらいウディ・アレン調(ウディ・アレンは大好きだけれど、それなら彼の作品を観ればいいという感じ)。

唯一よかったのはシャロン・ストーンの金持ち有閑マダム振り。迫力ある姐御の演技でした。

平日昼間でもかなりの入りだったので、受けているようだが、いかにも映画好きですというじいさん、ばあさんが多い観客層。私の苦手な『ニュー・シネマ・パラダイス』とか『ライフ・イズ・ビューティフル』とか『海の上のピアニスト』とか、最近なら『最強のふたり』とか『25年目の四重奏』とか『鑑定士と顔のない依頼人』とかが好きな人にはお勧めの映画。

(字幕に誤訳(超訳?)散見。"That's one way to put it."の"one way"を「一方通行」と訳すなど)

ここをクリック→ 『ジゴロ・イン・ニューヨーク』予告編

(Facebook 7/30/2014より転載)

8/3/2014












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2014/08/03 Sun. 00:29 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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