「蟷螂の斧となろうとも」 by 元外資系証券マン

クレディ・スイス証券集団申告漏れ事件(http://goo.gl/v0xQYP)において、国税局査察部告発、検察特捜部起訴の事案で史上初の無罪判決。 著書『勝率ゼロへの挑戦 史上初の無罪はいかにして生まれたか』(光文社)。 ツイッター(@thatta0529)で「#検察なう」の情報発信を続けます。

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フィルム・レビュー 『デビルズ・ノット』 アトム・エゴヤン監督 

フィルム・レビュー 『デビルズ・ノット』 アトム・エゴヤン監督

devils knot

映画『デビルズ・ノット』鑑賞。これはアメリカで有名な「ウェスト・メンフィス3事件」を扱ったもの。

「ウェスト・メンフィス3(ウェスト・メンフィス・スリー)」とは、1993年にアメリカ合衆国アーカンソー州ウェスト・メンフィスで起きた殺人事件について、3人の男児を殺害したとして有罪判決を受けた3人の少年の呼び名である。

実際の事件は、猟奇殺人と犯行の動機が悪魔崇拝の儀式であるとされたことから全米の注目を浴びた。また、地域の大衆がメディアの報道や普段からの偏見によって煽動されモラル・パニックを起こし、少年達を犯人に仕立て上げた冤罪ではなかったかとの批判も根強いもの。

私は、事件報道で違和感を感じることがある。それは、殺人事件で被告人が無罪となった場合に、遺族の怒りが往々にして間違った者を犯人にしようとした捜査当局ではなく、被告人を無罪とした裁判官に向けられることである。それはあたかも真犯人が誰であろうが、誰かに責任を押し付けることができればいいかのようである。

この映画での重要な登場人物である、殺された息子の母(リース・ウィザースプーン)はその逆。犯人とされた少年たちは有罪になるが、彼女の、判決に完全には納得せず、真実を求めようとする態度が印象的だった。

実際の事件を扱った映画ではあるが、冤罪であるというバイアスが強すぎる点が残念。その割には、なぜ冤罪と考えられるかという証拠の提示が少なすぎる。特に、真犯人と考えられている人物の動機の描写がほとんどないことが、もやもや感だけを残してしまった。

と、実際の裁判を経験した者だけに厳しい見方になってしまうが、一緒に観た息子は「結構、面白かったんじゃない」という(意外な)リアクションだったので、一般人が観れば十分に面白いのかもしれない。

ここをクリック→ 『デビルズ・ノット』予告編

(Facebook 11/23/14より転載)













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2014/11/30 Sun. 00:35 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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無罪を勝ち得るために~冤罪と戦う方法 その11 「早稲田大学大学院法務研究科授業より 『嘆願書を集める』」 

無罪を勝ち得るために~冤罪と戦う方法 その11 「早稲田大学大学院法務研究科授業より 『嘆願書を集める』」

このシリーズ前2回のブログでは、調書について論じました。調書の重要性は強調して強調し過ぎることはありません。是非とも肝に銘じておいて下さい。

ここをクリック→ 『調書を問答形式で逐語的に作成させる』

ここをクリック→ 『調書の署名を拒否する』

今回のお題は「嘆願書」に関してです。プロフェッショナルの児島先生(早稲田大学大学院法務研究科講師)が興味を持った嘆願書とはどういうものであったのでしょうか。

嘆願書と言えば、情状酌量を依願するイメージがありますが、私は無実を訴えていたため、それは何かを嘆願するためのものではありませんでした。

主任弁護人の小松弁護士は、署名は「百害あって一利なし」という考えを持っていますが、彼のアイデアで、私の人となりを直接の知り合いに書いてもらったものが嘆願書です。

犯罪の契機は、結局のところ動機と人品によるところが大きいと思います。私が、将来のキャリアを棒に振るリスクを取ってまで、経済的利益を追求する人間なのかどうかを、私の知り合いが描く人物像から判断してもらおうというものが嘆願書を依願した目的です。

児島先生の「効果があったと思いますか」の質問には、簡単な答えではありませんでした。

嘆願書の宛先は東京地検特捜部だったため、その直接的な目的である不起訴は達成できませんでした。しかし、嘆願書はそれだけではなかったと思っています。

裁判官が、嘆願書の一部が掲載された私のブログを読んでいたかどうかは知るべくもありませんが、その可能性はあります(注)。

裁判という物理的制約の大きい状況で、真実が明らかにされるというのは楽観的過ぎると思われます。結局のところ、無罪らしさ、有罪らしさを裁判官が判定するのみです。そして微妙な裁きの最後の最後には、被告人の人間性が問われると考えます。

嘆願書が私の無罪判決に直接的に効果がなかったとしても、146通の嘆願書は私の心の支えでした。孤独と絶望でくじけそうになる時に、嘆願書を読み返すことで前向きになることができました。しかし、それを集める過程は決して楽なものではありませんでした。

私の刑事告発が報道された直後、友人の一人が、「これで八田さんに近い人はもっと近くなるし、そうでない人は離れていくよ」と言ったことが、図らずも嘆願書を集める過程で確認されることとなりました。

少なからずの人が嘆願書の依頼に応えてくれなかったことは残念なことですが、彼らにしても、踏まなくてもいい踏み絵を踏まされたようなものだと考えています。彼らも不当な捜査権力の行使の犠牲者です。

私を支援してくれた人が書いてくれた嘆願書を是非読んでみて下さい。

ここをクリック→ 嘆願書まとめ

冤罪と戦うあなたの参考にして頂ければ、彼らにとっても喜ばしいことだと思います。

(注)
ブログの存在を裁判官に知らせたのは検察でした。
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category: 無罪を勝ち得るために

2014/11/27 Thu. 23:35 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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#検察なう (434) 「森炎氏著『教養としての冤罪論』解題(4)~冤罪ライン③ 「毒殺のアポリア」」 11/24/2014 

#検察なう (434) 「森炎氏著『教養としての冤罪論』解題(4)~冤罪ライン③ 「毒殺のアポリア」」 11/24/2014

一般に、毒殺事件は殺人事件の中でも、特に冤罪率が高いと言われています。「アポリア」(ギリシア語の「行き詰まり」「困惑」)は、哲学的難題または問題の中の一見解明できそうにない行き詰まりのことで、もっともらしいが実は矛盾している前提の結果として生じることが多いことを言います。

以下、(一部抜粋しつつ)引用します。

「一般的に毒殺事件に冤罪率が高いのは、それが特殊な証明論的構造を持っているからである。毒殺事件では、もともと、科学的には、事故と事件の区別はつけられない。

死体の司法解剖や薬学的理学的鑑定によって判明するのは、毒物を摂取したかどうか、それがどのような種類の毒物かということだけである。死亡が犯罪によるものかどうかは判別できない。その限りでは、科学的証拠も意味をなさない(なお、物理力の行使を伴う殺人の場合は、事故死か他殺か法医学鑑定で判明することも多い。たとえば、首吊り自殺かそれを装った絞殺かは法医学鑑定で判定し得る)。

次に、毒殺事件では、直接証拠が得にくい。それはなぜかと言えば、毒殺事件は、他の殺人事件と比べて、密かに秘密裏におこなわれるからである。陰に隠れて密かに毒を盛り、被害者が死亡した時には、もうその場から去っているというのが常である。そのため、犯行の直接的目撃者がいることはまずない。

物的痕跡も残りにくい。通常の殺人事件では、殺害のために物理力の行使や身体的接触を要するが、毒殺ではこれらなしで済ませることができる。それが毒殺の「利点」でもある。そのため、現場指紋や体組織DNAが残っていることも期待できない。つまりは、これらの最も重要な科学的証拠が得られない。

結局、状況証拠で判断するか、さもなくば、自白に頼ることになり、いずれにしても誤りを生みやすい。とくに後者の場合は、弊害が顕著である。」

この章で、森氏は、「状況証拠による立証」に関して、非常に重要な指摘をしています。それが「『中心証拠』及び『逆真証拠』の存在が必要とされる」というものです。

まず「中心証拠」に関して。

「状況証拠と言えば、決まり文句のように「状況証拠の積み重ねによる立証」などと言われる。どこか地道に懸命に努力したようなニュアンスの言い方であるが、その言説は、亡霊のような曖昧さと怖さを宿すアフォリズムでもある。

状況証拠は、もともと曖昧で弱い証拠であるから、いくつも積み重ねることが必要なのは、当然である。問題は、曖昧で弱い証拠の単なる寄せ集めで、いわば「塵も積もれば山となる」で有罪になるのかということである。実体があるかどうか定かでない亡霊のごとき曖昧な証拠にまとわりつかれて、いつしか有罪とされてしまうとすれば、そして、それで死刑にされることもあるとすれば、他人ごとでは済まされない。

積み重ねによる立証が出来たと言えるためには、まず核(中心)になる証拠がなければならない。この場合の積み重ねとは、単なる集積ではなく、中心証拠を起点にして他の状況証拠を有機的に積み重ね、全体立証を構成していくことを言う。

中心証拠がない事件は、所詮は、高度の冤罪性を免れない。だから状況証拠に関して重要なのは、「積み重ね」を可能にする中心証拠とは何なのか、それが明かされることである。」

状況証拠によっての立証を余儀なくされることが多い毒殺事件において、森氏が考える中心証拠の典型的なものとして、同一毒物の所持がその中心証拠となることが多いことを指摘しています。

「毒殺事件では、通常、用いられた毒物(と同じ成分のもの)を容疑者が所持していることが重要な物証になる。死体の司法解剖と薬学的理学的鑑定によって確定されたところと同じ毒物を所持しているかどうかである。もし、押収時に所持していない場合には、過去の入手歴を調べることになる。容疑者側の証拠隠滅工作によって押収できないことも考慮しなければならないが、最低限近い過去における入手の事実は確かめられることを要する。

毒物を所持していなければ、その者による犯行の現実的可能性が認められないのであるから、これは理屈上の当然のことである。

他方、毒物を所有している場合には、その毒物が特殊なものであればあるほど(水銀、鉛毒、ヒ素、青酸化合物、サリン・・・・)、犯人像との一致が明確になり、証拠としての重要性が増す。

結局、同一毒物の所持こそが、「状況証拠の積み重ね」を可能とする中心証拠となる。直接証拠や科学的証拠が期待できない毒殺事件の場合、それは必須条件と言ってもよい。」

同一毒物の所持という「中心証拠」が欠落した事件の例として、森氏は帝銀事件を挙げ、説明を加えています。

毒物の所持が確かめられたとしても、それが農薬や練炭などのありふれた物だったらどうでしょうか。その場合、森氏は、「逆真証拠」の存在が必要とされるとしています。

「名張毒ぶどう酒事件は、毒物の所有は一応確かめられていたが、対象物は農薬だった。木嶋裁判(婚活連続殺人事件)では、中毒死に用いられたとされたのは練炭だった。農家から農薬を押収し、あるいは一般家庭から練炭とコンロを押収して、「殺人の動かぬ物的証拠」と言うとすれば、それは半ば以上滑稽である。

厳密に言えば、中心証拠としての「毒物の所持」とは、容疑の範囲を「同種の毒物の所持者」という一定の人的集合に絞り込むものである。

ここではその集合の大きさが厳密にはわからないのだから(もしかしたら、それは巨大かもしれない)、逆方向の証拠が必要となる。つまり、「それ以外の者に犯行機会がない」(あるいは「その者が犯人でないとすれば説明がつかない」)ことが示される必要がある。

いわば「逆真」証拠(「逆もまた真なり」に関する証拠)が必要となる。

具体的な事件で見ていくとどうなるか。

前出の名張毒ぶどう酒事件では、毒物(農薬)の所持は、一応は確かめられていた。容疑者の元からは農薬自体は押収されなかったが、過去の近い時点において農薬を購入していた事実は明らかになっていた。しかし、他にも同一の農薬を所持していた人は地域農村には少なからずいたから、それだけでは極めて不十分だった。

そのため逆真証拠があるかどうかが問題になった。つまり、「他者に犯行動機がない」と言えるか、その証拠があるかどうかが検討されたが、無罪判決を言い渡した一審判決は、それを示す証拠はないとした(別の住人にも犯行の機会があったということ)。

他方、死刑判決を言い渡した二審は、関係者の証言から、問題のワインへの毒物混入機会は、被告人が公民館で一人になった約10分間のほかには考えがたいとした。他者の犯行機会は乏しいと判断したのである。

この事件については、これら以外にも、多々論点があった(歯で開けたとされるワインの瓶の王冠の歯型の鑑定結果、犯行時間の限定方法など)。また、再審段階では、そもそも、被告人が所持していた農薬とワインに混入された農薬がちがうのではないかとの懸念も出されている。ここで述べたのは、それらを捨象した、名張毒ぶどう酒事件の証明論的な基本構造である。」

教養としての冤罪論

11/24/2014













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category: 冤罪事件に関して

2014/11/24 Mon. 00:21 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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フィルム・レビュー 『紙の月』 吉田大八監督 

フィルム・レビュー 『紙の月』 吉田大八監督

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映画『紙の月』鑑賞。

これは結構ディープ。原作の良さ、そして映画の演出の良さを感じさせる作品。

ストーリーは、若い男に貢ぐために金を横領した銀行員の話。そこで普通想定するのは、刹那的かつ自己破滅的な役柄設定で、良識を持った人が観れば、「やっぱね。だからそんなことするもんじゃないよねえ」と思っちゃうのだが、この映画は、そうした常識や並みの倫理観を超越している。通常の罪悪感を突き抜けた価値観が潔く感じさせる。

横領を見つける先輩銀行員が、「もし全てのハードルを取っ払って、自分がしたいことを見つけようと考えたら、『徹夜』しかなかった。だっていつも次の日のことを考えていたから」というのは極端だが、良識の縛りを表象している。そして、主人公はその対極にある。しかも、育ちは悪くないどころか良家の子女で、クリスチャンの学校に通い慈愛の心に満ちているというのだから、薄っぺらな役柄でないことは確か。

お金があれば自由が買えるのか、お金があっても自由は買えないのか、また、自由なら幸せなのか、そもそも自由とは幸せとは何か。映画を観終わっても、余韻は長い。

映像に関して関心したのは、シーンの途中に挿入される、スローモーション+音楽のカット。これは、緊張感を観客にダイレクトに伝える効果があった。

宮沢りえの演技は必要十分。『サンタフェ』の頃は可愛かったけどねー、って感じ。濡れ場はかなり体当たりだったかな。ということで、観る価値ありの作品かと。

ここをクリック→ 『紙の月』予告編

(Facebook 11/19/14より転載)












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category: フィルム・レビュー

2014/11/23 Sun. 00:37 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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無罪を勝ち得るために~冤罪と戦う方法 その10  「早稲田大学大学院法務研究科授業より 『調書の署名を拒否する』」 

無罪を勝ち得るために~冤罪と戦う方法 その10  「早稲田大学大学院法務研究科授業より 『調書の署名を拒否する』」

このシリーズ前回のブログでは、調書を逐語的に問答形式で作成させることの是非を論じました。

ここをクリック→ 無罪を勝ち得るために~冤罪と戦う方法 その9  「早稲田大学大学院法務研究科授業より 『調書を問答形式で逐語的に作成させる』」

引き続き、早稲田大学大学院法務研究科の授業でディスカッションされた内容をまとめます。今回のお題は、『調書の署名を拒否する』ことは有効か。

以前述べたように、取調べは裁判となった場合に有罪立証の証拠となる調書を取るために行われます。つまり極論すれば、調書に取られない取調べは、捜査当局にとっては、やる意味がないものです。

取調官は、調書を作成した後で、その調書を被疑者に読み聞かせ、その内容が正しいと認められた場合には、署名を求めてきます。この署名がかなりトリッキーです。内容が正しくないと思われた場合、署名する義務はないということは比較的容易に理解できますが、その内容が正しかったとしても、署名することは必ずしも義務ではないと説明されることはありません。

調書に署名する、しないが非常に大きな意味を持つことを多くの被疑者は知らされることはありません。あなたが取調べを受ける場合には、この差を十分に意識して下さい。

日本の刑事司法の取り決めは非常に効率的にできています。その効率性とは、「いかに被疑者・被告人が巧妙に言い逃れしようとも、最後は必ず検察が勝つようにできている」というものであり、そうした刑事司法の取り決めが、検察は必ず正しいという前提に作られていることは言うまでもないと思います。

調書は「伝聞証拠」とされ、弁護側、検察の双方が同意しなければ、公判において証拠として採用されることがないことが原則です。しかし、原則には必ず例外があり、先の効率性がここでも威力を発揮します。弁護側が不同意にするということは、被告人にとって不利なものということですが、それが被告人本人の供述調書の場合、実務上はいかに弁護側が不同意としても、証拠採用されることが認められています(注)。

ところが、弁護側不同意であっても証拠採用されるための重要な条件が、その供述調書に被告人の署名があることです。逆に言えば、調書に署名がなければ、弁護側不同意の場合には、例外なく証拠採用されないことになります。この差は非常に重要です。

それでは、全ての調書に署名しなければいいじゃないか、と思われる方もいらっしゃるかもしれません。ケースバイケースですが、私は基本的にはそれには賛同しかねます。

端から署名しないとすることは、検察にとってみれば、取調べに非協力的であり、検察の大きな権限である不起訴の可能性を被疑者自ら狭めることにつながると、私は考えます。被疑者段階では、まず不起訴を目指すべきであり、そのためには、取調べには真摯かつ誠実にそして協力的であることが必要だと考えます。

また署名拒否は、逮捕されていない時点では、より逮捕の可能性を増すことも考えられます。

黙秘との比較はどうでしょうか。私は、署名を拒否することは、黙秘よりもスマートだと考えます。黙秘を貫くのはそれほど楽なことではありません。「黙秘します」「はい、そうですか」と捜査権力が納得する可能性はゼロです。また、法律的な建前は、黙秘権は被疑者・被告人の正当な権利ですが、「弁解できないから黙秘するんだ」という予断を招くリスクもあります(特に職業裁判官ではない裁判員にありがちかもしれません)。

辛い黙秘をするくらいなら、思い存分釈明をして、最後に署名だけ拒否することの方が、不同意することができる調書を作成するという弁護側の武器を増やすという観点からも、より有効だと思います。

私は、検察の取調べは終始真摯に対応し、納得した上で署名していましたが、一度だけ、取調べ内容があまりに揚げ足取りの下らないものであったため、激論に業を煮やして署名を拒否しました。その際も、一旦席を外すことを要求し、待機していた小松弁護士に連絡を入れた上で、署名を拒否しました。もし弁護士的にNGなら、その時点でそれは辞めた方がいいというアドバイスがあるだろうと考えたからです。

小松弁護士の返答は、「了解しました。検察官は相当抵抗すると思いますが、頑張って下さい」でした。そして彼の言う通り、署名を拒否した後の、検察官の圧力は相当のものでした。

その際に、検察官が言った言葉は、「調書に署名しないとなると、これからの取調べの意味がないということにもなりますが、今後も調書には署名しないということでしょうか」でした。

その言葉を聞いた時に、取調べとは調書を作るためのものであり、署名をしないということは非常に効果的であると理解しました。また同時に、「今後も調書に署名しない」と答えたならば、逮捕されるのだろうと感じました。

どのようなケース、いかなるタイミングで調書の署名を拒否するかという、この伝家の宝刀の使い方は、もっと議論されてもいいと思います。冤罪と戦う場合の、強力な武器だと私は考えます。

(注)
刑事訴訟法第322条1項(前段)
「被告人が作成した供述書又は被告人の供述を録取した書面で被告人の署名若しくは押印のあるものは、その供述が被告人に不利益な事実の承認を内容とするものであるとき、又は特に信用すべき情況の下にされたものであるときに限り、これを証拠とすることができる。」
















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2014/11/20 Thu. 00:00 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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#検察なう (433) 「『戦う弁護人』はいいのか Part2 ~我々のケース『戦う被告人』」 11/17/2014 

#検察なう (433) 「『戦う弁護人』はいいのか Part2 ~我々のケース『戦う被告人』」 11/17/2014

前回のブログで「戦う弁護人」について述べました。冤罪被害者の一人として、冤罪と戦う弁護士の方々への尊敬の念は、私自身並々ならぬものを持っており、彼らを貶めるつもりは毛頭ないことを断っておきたいと思います。もし私が、彼らをほんの1mmでもdisっていると感じられたのであれば、それは私の文章力の足りなさであることを恥じたいと思います。

一方、私の刑事裁判において、私と我々弁護団が選択したのは「戦わない弁護人」という戦略でした。それは最初から意図したものではなく、半ば自然発生的に生まれたものでした。

一審の弁護活動で、主任弁護人の小松正和弁護士が一番心を砕いていたのは、「いかに裁判官の心証を得るか」の一点だったと感じます。全ては裁判官の胸先三寸です。彼らの心証を得ることは、論理的に無罪立証をすることを前提としながらも、それだけでは終わらないものです。あるいは、「それだけでは何も始まらない」とも言えます。そして、裁判官の心証を得るには、「戦う弁護人」のイメージは必ずしも得策ではないと小松弁護士は考えていたと私は感じました。しかし、誰かは戦わなければなりません。そうでなければ、圧倒的な権力を持つ検察組織に踏み潰されて終わりです。

「第4の弁護人(一審弁護団は3人の弁護士でした)」を自認する私の出たがり、仕切り屋の性格から、自然と「戦わない弁護人+戦う被告人」の役割分担が我々の間に生まれました。

拙著『勝率ゼロへの挑戦 史上初の無罪はいかにして生まれたか』には、主任弁護人の小松正和弁護士との出会いを書いていますが、なぜ私が、刑事弁護に経験値の低い彼の可能性に賭けることに踏み切ったかという勘には、彼との最初の会話からその後の弁護戦略での「戦わない弁護人」と「戦う被告人」のぼんやりとしたイメージが感じられたからだと今になって思います。

「戦う被告人」である私の最大の武器は、ブログ及びツイッターほかのSNSです。そして、その主戦力のブログが強力な武器となったのは偶然の産物でした。

私は、(次回のこのシリーズのブログで紹介する)「嘆願書」を支持者の方々に依頼していました。お願いした以上、彼らにその後の経過を報告することは私の義務であると考え、支持者の方々には、メールで「経過報告」を逐次送っていました。

それは、刑事司法に全く無知だった私が実状を知るにつれて、あまりに一般人の常識では測れない現実を知り、そうした実状を一人でも多くの人が知るべきだという問題意識をシェアするツールでもありました。そして、自分の苦しい心境を一方的にグチることで慰めとしていた事情もあります。

私と我々弁護人は、検察の不起訴を期待していました。国税局の告発を受理した以上、検察は必ず起訴をするというのが世の中の常識でしたが、私の刑事告発後に起こった郵便不正事件を経て、検察も襟を正すであろうと我々は期待しました。しかし、その期待は無念にも裏切られることとなりました。

誘拐事件で、ソフトランディングを意図しているときは非公開捜査でありながら、交渉決裂の時点からハードボールで攻める公開捜査に踏み切るように、私も、起訴を覚悟した時点から、それまで閉じられたグループに送っていた経過報告を、無制限に公開するブログに転載し、以降、ブログとして書き綴りました。

そのブログの重要性が著しく増したのは、検察が私のブログを嫌がり、裁判所に上申書をもって非難してからです。

検察の主張は、私が甲号証(関係者の供述調書)をブログに引用したことをもってして、今流行りの「証拠の目的外使用」だと、難癖をつけてきたことです(過去の一部のブログで伏せ字になっているのはそうした事情です)。

我々にしてみれば、それはまさに検察によるオウンゴールの状況でした。裁判官が私のブログの存在を知るきっかけを、検察自らが橋渡ししてくれたものです。

以降私は、裁判官がブログを読んでくれることを期待し、また同時に、世の中に広く自分の主張を訴えるべく、ブログの内容をブラッシュアップしました。私自身法律的な考えができるよう法律実務書を読み漁り、それでも分からないことは弁護団の小松正和弁護士、佐野綾子弁護士、村松頼信弁護士に何度も尋ねました。それは私にしてみれば、個人チューター付きの英才教育でした。

一審裁判体の佐藤弘規裁判長や渡辺美紀子裁判官が、私のブログを読んでくれていたかどうかは、知るべくもありませんが、私は、彼らへのメッセージとしてブログを書き続けました。

検察は、私のブログに関して、相当イラついていました。裁判所への上申書以外にも、小松弁護士にも直接クレームしたようです。その時彼は、「いやあ、私も困ってるんですよ。でも被告人本人の意思でやってることですから、こちらとしてもどうしようもなくて」と言い訳し、私を法曹三者(裁判官、検察官、弁護人)の蚊帳の外に置くことで、弁護人が裁判官からも、そして検察官からも信頼を得るように努めました。

これが我々弁護団の取った「戦わない弁護人+戦う被告人」の戦略です。

結果的にこれは吉と出ましたが、オーソドックスな戦略ではないため、必ずしもこれがいかなるケースでも功を奏するかどうかは分かりません。

弁護人は、冤罪と戦うあなたの最強の味方です。是非ともそのパートナーと最善の戦略を練り、納得した上で冤罪と戦ってほしいと思います。私は、努力する冤罪被害者を全面的に応援したいと思います。

11/17/2014















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category: 刑事司法改革への道

2014/11/17 Mon. 01:39 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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フィルム・レビュー 『美女と野獣』 クリストフ・ガンズ監督 

フィルム・レビュー 『美女と野獣』 クリストフ・ガンズ監督

レア・セドゥ

フランスの説話『美女と野獣』が映画化。

ホラー映画は人によって作品の好みが分かれるが、ゲームにインスパイアされた作品に面白いものがあるように思う。『バイオハザード』しかり、『サイレント・ヒル』しかり。その『サイレント・ヒル』を監督したクリストフ・ガンズが、この有名な作品を監督。

CGを多用した映像は幻想的で美しい。夜のシーンや蝋燭を照明とする城の中のシーンが多く、全体にダークなトーンだが、水や鏡といった透明感のある物質が蠱惑的に光る演出は効果的。

『マリー・アントワネットに別れをつげて』のレア・セドゥが美女役。野獣役は、マチュー・カソヴィッツ監督『憎しみ』、ヤン・ク
ーネン監督『ドーベルマン』、最近ではダーレン・アロノフスキー監督『ブラック・スワン』といった作品で印象的な演技をしていたヴァンサン・カッセル。非常に魅力的な配役と言える。

映画の出来としては上々。しかし、「子供から大人まで楽しめる」としたのであろう、ターゲット層の絞り込みの甘さが若干演出に子供っぽさがあるのが残念。ハリポタやナルニアのようなファンタジーと変わらぬ印象。美女が少女から大人になる処女喪失という、物語に存在しているテーマをもっとうまく題材化できなかったのかと思う。

そしてこの映画では、王子が野獣となる呪いがオリジナルとは異なっているが(オリジナルは魔女の恨みを買う、映画では愛する森の精を殺す)、それは野獣が美女に恋をする恋愛物としては納得いかない。

あまりうるさいことを言わなければ楽しめるのだろうが、それならディズニー作品で十分。惜しい感じ。

ここをクリック→ 『美女と野獣』予告編

(Facebook 11/14より転載)











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2014/11/16 Sun. 00:00 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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#検察なう (432) 「『戦う弁護人』はいいのか Part1」 11/13/2014 

#検察なう (432) 「『戦う弁護人』はいいのか Part1」 11/13/2014

私がある刑事裁判を傍聴した時のことです。被告人は痴漢冤罪を訴えていました。弁護人は、被告人の権利を守るため、敢然と検察の主張に立ち向かい、「異議あり!」を連発し、闘争心丸出しでした。

傍聴席には、被告人の関係者も大勢詰めかけていました。彼らの目にはその「戦う弁護人」はさぞかし頼もしく写ったと思います。しかし、同じ傍聴席に座っていた私は、内心「あちゃー、こりゃいかんわ」と感じていました。それは、その弁護人が場の雰囲気を全く読めていなかったからです。

傍聴席の正面には裁判官が座っています。その裁判官の困惑している様子は、彼の視線の動きを見れば明らかでした。訴訟指揮をする度にちらちらと送る視線の先には、公判検事がいました。

若い公判検事でしたが、背を椅子の背もたれにもたせ掛け、眼鏡の奥の目は半分つむっているかのよう(ただ単に目が細かったのかもしれませんが)、腕組みをして泰然自若といった感じでした。

暴走気味に熱くなっている弁護人、迷惑そうな裁判官、どっしりと構える検察官というのがその場の状況でした。

刑事裁判では、99.9%という有罪率が示すように、弁護側は圧倒的に不利な立場です。それを覆すのは、あたかも「ストーカーと思われている人が、恋い焦がれる相手を自分に振り向かせる」くらい大変です。

B男の意中の人はJ子ですが、彼はどうもストーカーだと思われているようです。そのB男の恋のライバルはP男です。恋のレースのスタート時には、J子は意を決しているわけではありませんが、最初からP男には「ほんのりとした好意」を持っています。その状況下で、B男はどのようにJ子のハートをつかむべくアプローチすべきでしょうか。

被告人が無罪を主張する刑事裁判の弁護において、素人目には、闇雲に戦う弁護人が多いように感じます。また冤罪と戦うというと、のぼりを立てて裁判所の外で拡声器にがなり、シュプレヒコールを上げるイメージがあるように思います。そこには「闘争」という言葉がぴったりくるように感じるのは私だけでしょうか。

情報の伝達がこれほどまでにグローバル化、即時的になった今日、技術革新による人々の意識の変化が目覚ましい中で、冤罪闘争だけが「昭和な感じ」なのは実に残念です。

結局は、裁判官も人間であり、その人間のハートをつかむのに、もう少しクレバーなアプローチがあるように感じます。

冤罪という災厄に毅然と立ち向かう姿勢は必要です。そしてそこには「戦う」という要素も不可欠です。しかし、戦うことそれ自体が目的ならまだしも、結果を求めれば求めるほど、「戦うための戦い」は戒める必要があるのではないかと感じます。

私と私の弁護団が刑事裁判で取った戦略は「戦わない弁護人」でした。それでは誰が悪の軍団と戦うのか。私たちが選択したのは、「戦う被告人」との役割分担でした。次回はPart2として「我々のケース『戦う被告人』」を論じたいと思います。

11/13/2014













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2014/11/13 Thu. 06:30 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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無罪を勝ち得るために~冤罪と戦う方法 その9  「早稲田大学大学院法務研究科授業より 『調書を問答形式で逐語的に作成させる』」 

無罪を勝ち得るために~冤罪と戦う方法 その9  「早稲田大学大学院法務研究科授業より 『調書を問答形式で逐語的に作成させる』」

先日、早稲田大学大学院法務研究科での授業に招かれました。授業の講師は、私の刑事裁判の主任弁護人小松正和弁護士の元所属していた事務所の先輩弁護士の児島幸良先生です。

児島
(小松先生と司会・進行をする児島先生)

その授業に先立ち、彼らは拙著『勝率ゼロへの挑戦』をテキストとして事前に一度授業をしており、生徒は私の本を読んだ上で参加していました。

その日の授業で、児島先生は、私が無罪を勝ち得た鍵として重要なポイントをいくつか指摘しました。さすがプロフェッショナルらしい着眼点です。それを以下に列挙します。

1) 検察官調書が問答形式で逐語的に作成されたこと
2) 検察官調書の署名を一度拒否したこと
3) 嘆願書を集めたこと
4) 有能な弁護士に依頼したこと

これらに関し、授業で解説を求められました。これまでにブログで書いてきたことと重複する部分もありますが、改めてそれをまとめてみたいと思います。

まず、今回は「検察官調書が問答形式で逐語的に作成されたこと」に関して。

無罪を勝ち得た鍵として上に挙げた4点のうち、2点が調書に関するものであるように、刑事裁判において調書の重要性は強調しても、し過ぎることはありません。

裁判においては、調書(特に検察官作成の検面調書)は最重要証拠の一つであり、捜査機関の取調べは、真実解明のためではなく、有罪立証のための調書を作成することが目的だと言い切ってもいいと思います。少なくとも、被疑者として取調べを受ける場合、それだけの緊張感を持って、調書には細心の注意を払うことが必要です。

一般的に調書は、その日の取調べが一通り終わった後で、捜査官が一人称で文章を作成しまとめます。我々一般人の感覚からすれば、調書は取調べの内容を客観的に反映したものであるべきだと考えがちですが、後に裁判で証拠として使われ、「無罪になれば負け」と捜査機関が考えている以上、調書の内容が中立的に書かれるというのは、あまりにお人好しな感覚だと理解できます。

つまり、被疑者の言っていることをそのまま書いていたのでは、取調官の仕事にならないという発想が彼らにはあります。そして、被疑者の言っていることとあからさまに全く違ったことを書けば訂正を求められてしまうため、間違ってはいないけれども、裁判官の心証が取れるように、微妙にニュアンスを変えて「作文」することが、取調官の技術として求められます。一人称形式は、読む者にあたかも本人がそのまま陳述したように感じさせるため、信憑性が増すと考えられているのだと思います。

そして一人称で書かれた調書に、突如として問いと答えが挿入されることがあります。これは、取調官が怪しいと思っている部分を示す符牒で、「ここでの被疑者の答えは眉唾だと考えているので、裁判官もそのつもりで読んで下さい」というメッセージです。

私は、国税局に告発されるまでは、話せば分かると思い込んでいたため、弁護士を付けていませんでしたが、刑事告発されて初めて、無理にでも有罪にしなければならないという捜査権力の意図を理解し、プロフェッショナルのサポートが必要だと考えました。それで出会ったのが小松弁護士です。

彼から、一人称形式に挿入される問答の符牒のことを教えられていました。私の検察取調べでは、初回からいきなり調書が作成されたのですが、その調書で、まさに一人称形式に問答が挟まれたため、私は強硬に抵抗しました。

私としては、一人称形式に問答を挟むことをやめてくれというつもりだったのですが、検察官が選んだのは、驚くなかれ「全て一人称形式」ではなく「全て問答形式」の調書でした。これは実に異例なことです。

取調べ検事の説明は、「我々が調書を作文しているという批判には辟易している。取調べ可視化の流れもあり、今回の取調べでは、より客観的な逐語的に問答形式で調書を作成することを選択する」というものでした。取調べの録音・録画に代わる、通常の調書より客観性を高める手法ということでのテストケースだったのだと思われます。比較的すんなりと「全て問答形式」という異例な選択をしたことから、ある程度準備していたことだったのかもしれません。

これにより調書の客観性を著しく高めることができます。そして逐語的に書かれることの最大のメリットは、被疑者に有利な証拠を残すことができることです。

捜査権力の最大の優位性は、恣意的に調書を作成できることです。一人称で取調官が調書を作成する場合、取調べの際に語られた被疑者に有利な証拠が調書に書かれることはありません。それに対し、逐語的に調書が作成された場合には、被疑者が述べる被疑者に有利な供述がそのまま書かれることになります。これは非常に大きな差です。

しかし、問答形式の調書は、被疑者にとって必ずしも有利とは言えない問題点があります。授業でも、児島先生に、「問答形式の調書を取らせることは勧められると思いますか」と聞かれましたが、私の答えは、「ケースバイケース。一般的にはどちらかといえばノー」でした。

問答形式の調書は、検察官と被疑者のハンデキャップの差を更に大きくするからです。検事は、事前に質問を用意しています。そして、彼の言葉を事務官がパソコンに打ち込むと同時にディスプレイで目にすることができます。そしてそれを見ながら、修正することが可能です(キムタク主演のドラマ『HERO』の取調べのシーンを思い浮かべて頂ければイメージしやすいと思います)。

それに対して被疑者は、その場で聞かれた質問の答えを頭の中考え、それを一旦口にしてそれが調書に取られると、その訂正は極めて困難です。一人称形式の調書であれば、自分の言葉でない以上、訂正を求めて記述内容の変更を求めることが可能ですが、逐語的に書かれた問答形式では、検事は「我々はあなたの言った通りに書き取ったんですよ。あなたは自分の言葉に責任を持たないということですか」と頑として訂正を受け付けないという状況になります。

制限時間内に小論文を書くテストで、片や題材が事前に分かっていて、ワープロで解答を作成するのに対し、片やその場で題材を知らされ、原稿用紙にボールペンで書いて一切書き直しは認められないというくらいのハンデキャップだと考えて頂ければよいかと思います。

後から調書を読み聞かされると、自分の真意が表れていないということはままあります。私の取調べでは、初日の調書で、訂正を求めるだけのことに2時間も怒鳴り合ったため、次回の取調べから私は極端に慎重になりました。

検事の質問を聞いてから、完全に頭の中で答えを反芻し、文章に落としても問題ないと確認してから回答しました。また、検事の質問の意図を読み、自分の答えにどのように切り返してくるかを想定しなければ答えない、怖くて答えられないという状況でした。

私の取調べは録音・録画されていませんでしたが、もしされていたとすれば相当奇異な情景だったと思います。検事が質問して、私が口を開くまで2ー3分、じっと考え込むというシーンが何度もありました。この作業は、相当神経をすり減らします。ただでさえ長時間の取調べで集中力を維持することが困難な上に、常に緊張を強いられるというのが、逐語的に作成される問答形式の調書です。

このハンデキャップを覆すだけの精神力や集中力がなければ、容易に言質を取られてしまうのが問答形式の調書だと言えます。そのことは検察も理解しているため、優秀な検事であればあるほど問答形式の調書作成には抵抗が少ないと思われます。

自分に絶対的な自信がある被疑者の方は、是非問答形式の調書を作成することを要求してみて下さい。私がまた再び取調べを受ける機会があれば、私は勿論、問答形式の調書の作成を要求します。













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2014/11/10 Mon. 09:33 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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フィルム・レビュー 『舞妓はレディ』 周防正行監督 

フィルム・レビュー 『舞妓はレディ』 周防正行監督

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そもそも水商売にはあまりパッションがなく、更に粋からは程遠い私なので、この映画のテーマになっているお茶屋文化には興味がなかったが、知らない世界を垣間見る機会と思って観てみた。

この映画が、オードリー・ヘップバーン主演の『マイ・フェア・レディ』のパロディであることは、そのタイトルや、挿入歌の歌詞「京都の雨はたいがい盆地に降るんやろか」が"The rain in Spain stays mainly in the plain."をパクっていることからも明らかだが、私には正直、その試みが成功しているとは思えなかった。

ヘップバーン・ムービーの中でも私にとって『マイ・フェア・レディ』が特に好きな作品であるのは、センスあるユーモアにあふれていることにある。ところが、この映画で笑えるシーンはそれほど多くなかった。また本家をまねて、ミュージカル仕立てになっているのだが、歌って踊るシーンが弱く(唯一よかったのは、置屋のおかみさんの若かりし頃の思い出で、ブッキーがあこがれの映画俳優として出てくるシーン)、無理にミュージカルを意識しなくてもよかったのではないかと感じた。

それでは、この映画は全く面白くないかといえばそうではない。この映画の魅力は、お茶屋文化の暗部をちらりと見せて、そうした部分も分かっているんだよとしながらもからっと明るく仕上げていることである。例えば、花街の妾の子供という濱田岳の役設定は興味深い。彼に「舞妓も芸妓も所詮水商売だ」と言わせていることや、元芸妓のおかみに、好きでもない旦那に水揚げの指名をされるのは嫌でたまらなかったと言わせていることである。そうしたインサイダーの気持ちも交えることで、ただ単にお茶屋文化を「伝統芸能」という化石にせず、人の心が通ったものであるとしているのはさすが周防監督と言うべきだろう。

出演は、主演の上白石萌音以外は、周防映画の常連。正直、若干飽きてきた感じ。よかったのは、29歳でいまだに舞妓という役の田畑智子。彼女は現実に祇園の老舗料亭の娘ということもあって、演技が伸び伸びしていた(ちょっと踊りは固かったが)。

ということで、受け手にとって様々な見方ができる映画だと感じた。周防監督のエンターテイメント系ベストは、やはり『シコふんじゃった』かなあ。

ここをクリック→ 『舞妓はレディ』予告編

(Facebook 11/7/2014より転載)













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2014/11/09 Sun. 07:52 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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#検察なう (431) 「雑誌『冤罪File』無期休刊と幻の記事』 11/6/2014 

#検察なう (431) 「雑誌『冤罪File』無期休刊と幻の記事』 11/6/2014

冤罪の宝庫である我が国ですが、その冤罪を専門に取り上げる雑誌が『冤罪File』です。私はかつてその存在さえ知りませんでしたが、冤罪当事者となってこうした雑誌があることを知り、私の愛読誌となりました。私のブログで、冤罪を紹介するシリーズに「冤罪ファイル」と銘打っているのも、この雑誌のオマージュです。

「冤罪ネタの本は売れない」と言われますが、それは一般市民の冤罪に対する関心の低さを物語っています。まさにその影響かと思われますが、『冤罪File』は5月末発売の7月号をもって無期休刊となりました。非常に残念なことです。

休刊の報道(『週刊金曜日』)です。

ここをクリック→ 週刊金曜日ニュース「市民向け専門誌『冤罪File』――休刊惜しむ声も多く」

この報道の前に、私の元には『冤罪File』記者の今井恭平氏の手紙が届いていました。

ここをクリック→ 今井恭平氏「『冤罪File』でお世話になった皆さまへ」

非常に残念に思ったことの理由の一つに、9月末に発売予定であった次号に、今井氏をインタビュアーとした私のロングインタビューが掲載予定だったからです。

今井氏の許可を得て、その全文をここに掲載します。

(以下、記事原稿)

シリーズ 著者に聞く 第2回

八田 隆氏 『勝率ゼロへの挑戦 史上初の無罪はいかにして生まれたか』

マルサ(国税局査察部)と東京地検特捜部に睨まれたら、絶体絶命。有罪率は99.9%(一般刑事事件の平均値)どころか、これまで100%の「実績」を誇ってきた。勝率ゼロというこの神話に風穴を開けたのは、1人の元外資系証券マンだった。

【300名もの給与所得が申告漏れ】

------まず、八田さんが巻き込まれた事件の経緯を振り返っておきたいのですが、2008年11月、クレディ・スイス証券の社員や元社員約300人に、給与所得の申告漏れがあり、追徴課税されました。これは寝耳に水の出来事だったのですか?

(八田) いえ、その前から、個人的に税務調査が入っていました。当時すでにバンクーバー(カナダ)に移住していたので、日本国内の税理士に対応を頼んでいましたが、以前の同僚や部下にも同様の調査が入っていることを聞いていたので、クレディ・スイスが一斉調査の対象になっているな、とは分かっていました。

しかし給与所得なんてガラス張りですから、脱税しようと思ってもできるものではないと思い込んでいましたから、最初はピンと来なくて、のんびり構えていたのは事実です。

------たしかに給与所得の脱税というと、誰しも首を傾げますね。会社員の所得税等は、給与から源泉徴収されているというのが常識ですから。

(八田) そうなんです。私も税金は給与から天引きされていると思い込んで、疑ってみたこともありませんでした。しかし、給与の一部が現金ではなく自社株やストック・オプションで支払われていた。その分が源泉徴収されていなかったのです。

------実際、300名もの社員が申告漏れとなったわけですから、株式報酬の正しい申告方法を、会社が社員に周知していなかったことは明らかですね。それにしても、他の人は修正申告だけで済んだのに、八田さんだけが起訴された理由が判然としません。

(八田) 当初は私の申告漏れがいちばん高額だから、一罰百戒で狙われたと思っていました。しかし後から分かったところでは、私が最高額ということでもなかったようです。私より金額が多かった者は故意を認めたのに対し、私はそれを否認したことが、私だけが起訴された理由だと思われます。

------にもかかわらず08年末には国税局による家宅捜索が入り、1年以上におよぶ事情聴取が繰り返された。その間、呼び出しに応じて何度もバンクーバーから日本に戻って、事情聴取に応じていたのですね。それだけでも大変な負担だと思いますが、あげく10年12月に国税当局から東京地検特捜部に告発され、特捜の取調べを受けることになりますね。

(八田) 国税庁の調査を受けている間は、弁護士も雇っておらず、税理士の先生と相談しつつ1人で対応していました。しかし特捜が相手となると弁護士が必要です。メディア関係者から「特捜事案となると、弁護士はヤメ検でなければ」と言われ、ある先生を紹介され、会いに行きました。そもそも「ヤメ検」というのが、検察官を辞めて弁護士になった人を指す「業界用語」だということさえ、このとき初めて知ったのですが、一通り私の説明を聞いた後のその弁護士の言葉が、私には信じられないものでした。

「国税局が告発したとなると、ほぼ確実に起訴される。刑事裁判で無罪をとることは非常に難しい。(争うよりも)納得することも必要です。痴漢の場合と同じです」と言われたのです。経験豊富なプロの弁護士が、いきなりたたかわずして白旗を掲げた方が良い、と言い出したのです。「あぁ、こうして冤罪は生まれるのか」と初めて理解した瞬間でした。

------ところが検察は、それから起訴までに1年9ヶ月を要しています。名だたる「マルサ」(国税局査察部)が1年も捜査して告発した事案を、さらに検察がこれだけの時間をかけて捜査し直さなければ起訴できなかったのは、彼らにも躊躇があったのではないか、と思わないでもないのですが。

(八田) この事件は、そんなに複雑な事件ではない。株式でもらった給与も、現金でもらった給与も、私にとって区別はありません。同じように源泉徴収されていると思い込んでいただけのことです。そもそも脱税というのは、所得を隠さないことには不可能です。私は国税当局が知らなかった海外口座ももっていましたが、株式報酬売却金の送金先に使ったのは、国税当局が把握していた口座です。これ以外にも、私が所得を隠すような行為は一切していなかったことは、裁判で明らかになる以前から分かっていた筈のことです。振り返ってみれば、こうした簡単な事実に気づいて、検察も立件をやめ、引き返すことのできるポイントは、いくつもあったと思うのです。しかし、その引き返す勇気がないところから、冤罪づくりに突っ走る結果になってしまった。

自分が巻き込まれてから、なぜこうも簡単に冤罪が生まれるのか、考えざるをえませんでした。日本の刑事司法システムは、ある意味ではきわめて効率的にできています。つまり、よほど下手なことをしない限り、必ず捜査権力が勝つシステムになっている。そうなるように被疑者・被告人に不利な要素がたくさんあることに気づいたのです。

システムの改革が必要ですが、今すぐに変えることは難しい。では、実際に何ができるか代替手段を考えなければ、勝つことはできない。それを弁護士といっしょにやっていこうと工夫を重ねたことが、自分がやったことの全てだと思います。

------この本でも、その工夫されたノウハウがいくつも描かれていますね。「もし依頼人が法律的な思考さえできれば、検察にはない最大の武器を弁護人は手にすることができる。私は法律的な思考回路の習得として法律関係の書籍、特に事実認定の仕方や弁護技術の専門書を読み漁り・・・・・・検察関連の情報収集に努めた」(P52)とあります。短期間によくここまでのたたかうスキルを身につけられたと感嘆しました。示されている具体的なノウハウも示唆的です。たとえば調書のことを、少し聞かせてください。

【Q&A方式の調書で、疑似可視化】

(八田) 取調べは、最初は小手調べのようなありきたりの人定質問や経歴などの話から入って、調書もとらず、雑談風に始まるものだと聞いていました。ところが私に対する特捜検事の取調べは、ジャブもなしに、いきなり本気で打ち込んでくるようなものでした。調書も最初からとり始めました。

検察官が作成する調書は、被疑者(被告人)が独白のように一人称で語る形式で書かれるのが普通です。

------「何々とお尋ねですので、お答えします。私は、そのとき・・・・」といった形式ですね。

(八田) そういう中に突然、問答形式の部分が混ざり込んでくることがある。

------「本職はここで、被疑者と以下のような問答を行った」などと入って、そこだけQ&A形式になるものですね。

(八田) そうです。これは、この部分について、検察官は被疑者(被告人)の言葉を特に疑っていますよ、とりわけ注意して読んでくださいね、と裁判官に伝えるための一種の符牒だと弁護人から聞いていました。だから、検察官がそういう調書を作成しようとしたとき、やめてくれ、と強く主張しました。調書の書き方を、一人称形式か問答形式のどちらかに統一して欲しい、一人称形式の中に問答形式を紛れ込ませることはやめてくれ、と強硬に頼みました。検察官も私も、どちらも譲らず、かなり執拗に、しかしながら互いに敬語だけは崩さず怒鳴り合う、という光景が続きました。

その結果、検察官はそれ以降の調書は全て問答形式に統一し、QとAを逐語的に記録するとしたのです。これは少し意外でした。一人称形式を選ぶのではないかと思っていたからです。

------それで、どのような問いに対して、どう答えているか、対応関係が明瞭になり、取調べの録音に似た効果をもつようになったと思って良いですか?

(八田) そういう側面があるのは事実です。しかし同時に、言葉が文字として書き留められると、本当に言いたかったニュアンスと異なってしまう場合もありました。そういうときに調書の訂正を申し出ても、検察官は頑強に修正しようとしない。「八田さん、あなたの言ったとおりにそのまま書いたんですよ。自分の言葉に責任がもてないのですか?」といった具合に逆手にとられてしまうこともあり、正しく記録させることが難しくなった面もありました。しかし総じて、一人称にありがちな、検察官の主観を被疑者の言葉のように粉飾する描写は防げたと思います。また、最後の手段として、納得のいかない調書には署名しないと宣言しました。署名のない調書は、検察官がどう言おうと証拠となることはありませんから。

【弁護士に待機してもらう】

------ほかにも、工夫されたことがありますか?

(八田) メモをとることを認めさせました。取調べ中、検察官は事務官が記録していくダイアログを、パソコンの画面で逐一確認し、過去の問答も参照しながら質問を続けることができます。それに対してこちらは、全てを頭の中で処理しなければなりません。過去に言ったことと少しでも矛盾すれば、そこを突かれる恐れもあります。というか、相手はそれを狙っている。真実を調べるための取調べではなく、有罪にする証拠固めのための取調べなのですから。従ってきちんと防御するには、最低限メモをとる権利は認めさせなければ、と思ったのです。メモをとることで、考える時間を稼ぐ効果もありました。

もう一つ、先進国では取調べに弁護士が同席することが認められていますが、日本ではできません。これに代わるものとして、私が検察庁に呼び出されている間、弁護士に事務所で待機してもらい、取調べの休憩時間に電話をかけ、そのつど状況を報告したり、助言を求めました。心理的にも心強いもので、たたかう意欲を維持するのにも役立ちました。

【#検察なう】

------逮捕される危険性については、頭にあったと思うのですが?

(八田) 否認すれば必ず逮捕される、と言われていました。だから、いつの段階で身柄拘束されるか、ということはつねに考えていました。調書を巡っての検察官とのせめぎ合いも、逮捕されると局面が大きく変わってしまいますから。

------巻末にジャーナリストの江川紹子さんによる「解説」があります。その中で「犯人扱いされる不運の中でも、八田さんにはまだ幸運だった側面がある」と指摘されていて「身柄拘束をされなかったこと。検察官と対峙して供述通りの調書を作らせる能力があったこと。経済的な余裕があったこと。優秀な弁護人と出会えたこと。まっとうな裁判官に巡り会ったこと」を挙げておられます。他のことは別にしても、逮捕の危険性については、ご自分や弁護人の能力や努力だけではどうしようもない。やはり身柄を人質にする司法だけはやめさせなければ、と改めて思います。

(八田) そうですね。検察との駆け引き、攻防の中で、逮捕をまぬがれたことは大きいと思いますが、何が功を奏したのかは微妙な問題だと思います。
 
たとえば「#検察なう」というハッシュタグ(注1)を付けたツイッターにしても、諸刃の剣という側面があります。検察を必要以上に刺激してしまう恐れもありました。弁護人も、最初からいい顔はしませんでした。しかし、より多くの人たちの関心を惹きつけられれば、彼らも下手なことはできなくなる。私だけでなく、裁判を傍聴した人たちもツイートしてくれるようになり、いわば取調べや公判が人々の監視下におかれることになっていきました。

刑事裁判の99.9%という有罪率は、当たり前のことをやっていては勝てない、ということです。だから、皆がタブーと思っていることをやってやろう、という気持ちはありました。

(注1) ハッシュタグ:#と特定の文字列をツイッターに書き込むと、その文字列で検索することで、共通の話題やトピックスを閲覧できる。

【裁判官、検察官の意識を変えていくこと】

------そうして勝ち取った勝訴ですが、検察の控訴が棄却されたとき、八田さんは本気で「検察は上告しろ」とおっしゃっていましたね。

(八田) 私はプロフェッショナルとしての国税庁や検察に対しては、むしろ敬意をもっています。彼らは職務でやっているんですから。だからこそ、裁判所に主張を退けられたくらいで、簡単にあきらめて欲しくない。正しいと思って私を訴追したのなら、最高裁まで正々堂々とたたかって欲しいという気持ちは、本当にありました。

国家賠償請求訴訟を起こしたのも、この本を書いたのも、検察に恨みつらみを言うためではありません。冤罪を少しでもなくするために、できることをやりたい、という思いしかありません。

そのためには、遠回りに見えても、裁判官や検察官の意識を変えていくことがもっとも早道ではないかと思います。彼らに恨みを言っても何も変わらない。それよりも、彼らの組織の論理や彼らの苦労も理解してやった上で、それを変えよう、という努力をするしかない。

そのために自分の経験が役立てばいいと思うし、今後は、冤罪をなくしていくためのコーディネータみたいなことがやれればいいな、と考えています。

------国賠訴訟は、そうした今後への第一歩とお考えですか?

(八田) 国賠では逸失利益として5億円請求しています。半沢直樹ばりに「倍返し」と行きたいところだったのですが、ネックになるのが「印紙代」です。請求額に応じて、訴状に貼る印紙代が高額になるので、請求額を抑えざるを得ない壁になります。そうでなくとも、日本では賠償額がきわめて低く抑えられています。

米国のセントラルパーク・ジョガー事件(注2)で無罪となった5人への賠償金は、4000万ドル(約40億円)でした。拘束1年につき、1人1億円ずつの計算です。日本(の刑事補償金)は、1年につきたかだか450万円(注3)です。

私は、過去のことを金銭で償ってもらう気はありません。そうではなく、二度とこうした冤罪が起きないよう、未来に向かって力にしたいのです。国家が犯した過ちに対して、個人への金銭補償が権利として認められれば、将来の国家権力に対する抑止力になる。それには、国家がびびるくらいの額でなければ意味がない。そのために国賠制度が使えることを、積極的に世に訴えたいと思います。

(注2) セントラルパーク・ジョガー事件:1989年、ニューヨーク市のセントラルパークでジョギングしていた女性が襲撃され、重傷をおってレイプされた。被害者は事件当時の記憶を失い、長く後遺症に苦しめられた。
14歳から16歳の5人の少年(いずれも黒人やヒスパニック)が犯人とされ、7年から11年の実刑判決を受けて服役。後に真犯人が判明し、5人全員の無罪が確定した。彼らには4000万ドルの賠償金が支払われた。

(注3) 刑事補償金:日本では、無罪判決を受けた者は、刑事補償法に従って、拘束された日数に応じて補償金を支払われる。それは最高額でも、1日12,500円つまり年間456万円程度。ちなみに死刑執行後に無実が判明した場合の補償額は3,000万円とされている。

【もし一つだけ、制度を改めることができるとしたら】

------最後に、八田さんの目から見て、現在の日本の司法制度の最大の欠陥は何だと思いますか?

(八田) 当事者主義(注4)という名目の下で、検察が自分に好都合な証拠だけを開示すれば良い、とされていることは、大きな問題です。この間いろんな事件で明らかになっている無罪証拠隠しなどが、それを示しています。しかし、もしも何かを一つだけ変えることができるとしたら、検察官の控訴を廃止することが、もっとも効果が大きいと思います。

よく「ヒラメ裁判官(注5)」という呼び方がされ、下級審の裁判官たちは、最高裁の意向ばかり気にして、無罪が書けないと言われます。だが私は、出世しか頭にない裁判官ばかりだとは思いません。それ以上に裁判官を萎縮させているのは、検察による控訴で、上級審で自分の判決がひっくり返され、誤判のレッテルを貼られることではないかと思うのです。無罪判決に対する検察官の控訴を認めなければ、地裁の裁判官は、安心して無罪が書ける筈です。

検察が変わるのはなかなか難しいと思いますが、裁判官が変われば、検察は変わるのではないか、いや変わらざるを得ないと思います。

企業が粗悪な商品を市場に出して批判を浴びれば、原因を追究して直さない限り、市場で淘汰されます。検察の立証がいくら粗悪でも、裁判所が簡単に有罪にしてくれるから、粗悪品でも市場から淘汰されないのです。裁判所がきちんと審理し、粗悪な立証では簡単に有罪にしてくれないとなれば、検察も変わらざるを得なくなる。

冤罪の根っこは、裁判所が検察を追認しているからです。いま、批判が主に検察に向いていますが、それが裁判所にも向けば、変化が起きるのではないかと思います。

もちろん取調べの可視化や証拠開示も大事なことですが、検察の上訴権を廃止し、裁判所の意識を変えることも必要ではないでしょうか。

(注4) 当事者主義:検察と被告・弁護人は対等な当事者として、互いに証拠を提示して成否を争う、という考え方。公益の代表者として真実を見つけることが検察の役目ではなく、有罪を得ること自体を目的とするような歪んだ理解のされ方をしている場合がある。

(注5) ヒラメ裁判官:最高裁の意向ばかりを気にかけ、立身出世にしか興味のない裁判官を、上にしか目のついていないヒラメに例える呼び方。

(記事原稿、以上)

私の記事が掲載されることなく雑誌が休刊したことは残念ですが、同じ号に掲載予定であった冤罪被害者の方々は私以上に残念に思っていることと思います。冤罪被害者の自然な欲求は、一人でも多くの人に自分の置かれた状況を知ってほしいというものであり、『冤罪File』はそうした人たちにとってかけがえのない存在であったはずだからです。

私は国賠審に勝って賠償金を得た暁には、訴訟費用を除き一銭も懐に入れるつもりはありません。そしてその資金をもって将来の刑事司法改革のために使いたいと思っています。その一つのプロジェクトとして、『冤罪File』の版権を買い取って、復刊を目指したいと思います。『冤罪File』の愛読者の方々は、是非とも私の国賠審の行方を見守り、応援お願いします。

11/6/2014















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2014/11/06 Thu. 00:35 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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#検察なう (430) 「森炎氏著『教養としての冤罪論』解題(3)~冤罪ライン② 「被害者家族が犯人とされる悲劇はなぜ起こる」」 11/3/2014 

#検察なう (430) 「森炎氏著『教養としての冤罪論』解題(3)~冤罪ライン② 「被害者家族が犯人とされる悲劇はなぜ起こる」」 11/3/2014

刑事裁判では「誰が、いつ、どこで、誰に対して、どのような(犯罪)行為をしたのか」が立証される必要があることは、このシリーズ前回のブログで述べたところです。

そして、その立証の労力が少なくなる場合に、冤罪のリスクが高まると言えます(究極的なのは、その全てを同時にカバーする一つの証拠、即ち自白が作られる場合です)。

内部犯行説も、外部犯行の可能性が完全に潰せていない場合、その事件に含まれる冤罪性は高まるものです。それは、内部犯行説を取れば、「誰が、いつ、どこで」という立証をすることが不必要になるからです。

家族である以上、犯行時間帯にそこに居たのは当たり前のことなのに、それを犯罪視することで、被害者家族が犯人とされる悲劇が起こり得ます。

森氏は内部犯行という冤罪ラインに関して、捜査の過程に注目しなければならないという非常に重要な指摘をしています。以下に引用します。

「捜査する側からすれば、内部犯行説を取ることで、一挙に解決(世に言う「事件解決」)に持ち込めるということでもある。

捜査機関が途中から内部犯行説を採用するというのは、一挙解決の特別手段に踏み切ったにほかならない。だから、捜査の行き詰まりを打開するために、内部犯行説という最後の、そして安易な方法に頼ったのではないかと、裁く者は捜査のやり方を疑ってみなければならない。

その意味では、法廷に出された証拠を眺めているだけではなく、捜査の過程に注目する必要がある。」

このパターンに該当する実例として、オフィシャルに冤罪と認定された徳島ラジオ商事件(1953年、注1)が『教養としての冤罪論』の中で挙げられています。

また、森氏は「内部犯行説のもう一つの落とし穴」という表題で、事故死と内部犯行の違いもはっきりつかないことを述べています。

事故死であれば、そもそも犯罪性はないはずですが、捜査機関がそれを犯罪視することによって事故死があたかも犯罪のように演出され、その犯人として内部犯行説が取られる構図は、外部犯行を内部犯行とする錯誤に酷似しています。

『教養としての冤罪論』では、このパターンに該当する実例として因島毒まんじゅう事件(1961年、注2)と大崎事件(1979年、注3)を挙げています。それ以外にも、東住吉放火殺人事件(1995年、注4)や、北陵クリニック/仙台筋弛緩剤えん罪事件(2000年、注5)も思い出されるものです。

(注1)
徳島ラジオ商事件 (『教養としての冤罪論』より)

「ラジオ商」とは電気店のことで、当時はそういう呼び方をしていた。

明け方の午前5時ころ、電気店の主人が店舗兼居宅の寝室で殺害され、同居の内妻も負傷した事件だったが、検察は、内部犯行説を取って、怪我をしていた内妻を殺人犯とみた。この事件では、部屋の中に靴跡らしき痕跡があり、内妻自身も重傷を負っていたが、それでも検察の見方は内部犯行だった。

内妻は、夫ともども侵入者に襲われたと訴えるが、裁判でも顧みられることなく、有罪判決(懲役13年)が確定する。

徳島ラジオ商事件で有罪の決め手になったのは、住み込み店員2名の証言で、「当夜、夫婦が喧嘩をして争っているのを見た」「奥さんから凶器の包丁の投棄を頼まれた」と述べていた。

ところが、内妻の有罪判決が確定した後になって、2人は、証言は嘘だったと告白した。この事件は、何度もの再審請求を経た末に再審無罪となったが、それは事件発生から32年後のことだった。そのときには、すでに内妻は死去していた。

この事件では、警察は当初は、まったく別の者2名(暴力団関係者)を逮捕して取り調べていた。明らかに、当初は外部犯行を疑っていたのである。検察の内部犯行説によって内妻が逮捕されたのは、事件から9ヵ月以上も経ってからである(この事件では捜査側の見立てが時間的に変化しただけでなく、警察と検察の見解に内部対立とも言うべき相違があった)。

内妻の犯行を証言した住み込み店員は、2人ともまだ十代で(16歳と17歳)、彼ら自身が別件で逮捕されて取り調べを受けた結果、前記の供述をするに至っていた。

(注2)
因島毒まんじゅう事件
一審懲役15年判決、二審無罪判決後無罪確定。

(注3)
大崎事件
懲役10年確定後、再審請求。第一次再審請求により鹿児島地裁が一旦開始決定するも、検察即時抗告、福岡高裁開始決定取消、弁護側特別抗告、最高裁で棄却。第二次再審開始請求は、鹿児島地裁により棄却、弁護側即時抗告、福岡高裁棄却の後、弁護側特別抗告の方針。

(注4)
東住吉放火殺人事件
ここをクリック→ #検察なう (112) 「東住吉放火殺人事件に思うこと」

(注5)
北陵クリニック/仙台筋弛緩剤えん罪事件
ここをクリック→ 冤罪ファイル その11 「北稜クリニック事件 / 仙台筋弛緩剤えん罪事件」

教養としての冤罪論

11/3/2014













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2014/11/03 Mon. 02:00 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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フィルム・レビュー 『グレース・オブ・モナコ 公妃の切り札』 オリヴィエ・ダアン監督 

フィルム・レビュー 『グレース・オブ・モナコ 公妃の切り札』 オリヴィエ・ダアン監督

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女性にとって、いつか王子様が現れてお姫様になるというのは永遠の夢なのだろう。それをリアルな世界で実現したのがグレース・ケリー。

華やかな表舞台とは異なり、ハリウッド大女優とはいえ一般人がロイヤル・ファミリーの一員になることの苦労話が描かれているんだろうな....と思いきや、いい意味でその期待は裏切られた。

ヒッチ・コックがグレースを訪れ、新作映画の主演女優の役をオファーする。それを演じてみたいとする彼女と周囲との軋轢。という場面までは、想定内。ところがその後、モナコを経済封鎖しようとするフランスからの圧力がモナコを政治的、外交的に窮地に陥れ、グレースの環境も一変するといったところから、映画は急展開し、俄然面白くなる。

結局、ハリウッドに戻ることを断念するグレースだが、それは女優を辞めるということを意味するのではなく、彼女は、政治というおとぎ話の中で、自分の役を演じ切ったのではないだろうか。映画にこそ出演しなかったものの、生涯女優を貫き通したのだと私は感じた。

ハリウッド稀代のクール・ビューティー、グレース・ケリーを演じたのは、現代のクール・ビューティー、ニコール・キッドマン。彼女の作品では、スタンリー・キューブリック監督『アイズ・ワイド・シャット』とラース・フォン・トリアー監督『ドッグヴィル』の演技を高く評価しているが、この映画での彼女も、圧倒的な存在感をもって、先輩大女優の役を見事に演じている。

そのほかの見どころは、言うまでもなくグレースの衣装。本作の中で最も印象的な衣装の一つである白ドレスは、グレースが実際に 1956 年に着たランバンのドレスをもとに作られたもの。ティアラと3連ネックレスは実際にグレースに贈られたものを、カルティエがこの映画のために複現している。そのほかスカーフやバッグはエルメス、靴はフェラガモのアーカイブから、ドレスのデザインはディオールが担当とまばゆいばかりである。

グレースが若干美化され過ぎの感はあるが(レーニエ3世が「指導者としてての資質に欠け、妻を束縛する男」として描かれているのは史実と異なるとして、モナコ公室はカンヌ映画祭オープニング上映の出席を拒否している)それはフィクションとしてよしとし、女子必見!の映画ではないだろうか。

ここをクリック→ 『グレース・オブ・モナコ 公妃の切り札』予告編

(Facebook 10/27/2014より転載)










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2014/11/02 Sun. 16:45 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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