「蟷螂の斧となろうとも」 by 元外資系証券マン

クレディ・スイス証券集団申告漏れ事件(http://goo.gl/v0xQYP)において、国税局査察部告発、検察特捜部起訴の事案で史上初の無罪判決。 著書『勝率ゼロへの挑戦 史上初の無罪はいかにして生まれたか』(光文社)。 ツイッター(@thatta0529)で「#検察なう」の情報発信を続けます。

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冤罪ファイル その12 「鶴見事件」 

冤罪ファイル その12 「鶴見事件」

もしあなたが殺されている人を発見したら、どのような行動に出るでしょうか。勿論、ほとんどの人が警察にただちに通報すると思います。しかし、人によっては、巻き添えになることが怖くなって立ち去ることもあるかもしれません。そのタイミングが、被害者が殺害されたとされる時間に近接していた場合、もし後になってあなたがその場に居合わせたことが分かったとしたら、あなたが犯人と疑われることは間違いなく、身の潔白を示すことは容易ではないかもしれません。

その場合でも「巻き添えになることが怖くなって立ち去った」ということはある程度、納得できる言い分だと思われます。しかし、もし現場にあった相当額の現金を持ち去っていたことが分かったならば、「殺人に関して自分は関与していない。お金は自分が盗ったが、殺したのはほかの者だ」という言い分が通ることは絶望的だと思われます。

これは森炎氏の『教養としての冤罪論』の中で、冤罪ラインの一つの類型として挙げられているものです。

ここをクリック→ #検察なう (421) 「森炎氏著『教養としての冤罪論』解題 (2) ~冤罪ライン① 「犯人と第一発見者はどうやって区別するか」」

それが実際に起こったのが、ここで紹介する鶴見事件です。被告人の高橋和利氏の死刑判決は確定し、現在収監され再審請求中です。

この事件で特徴的なのは、高橋和利氏と主任弁護人の大河内秀明氏がいずれもこの事件に関する本を出版し、高橋氏の無実を訴えていることです。

高橋和利氏著『「鶴見事件」抹殺された真実 私は冤罪で死刑判決を受けた』

高橋和利

大河内秀明氏著『無実でも死刑、真犯人はどこに』

大河内秀明

<事件経緯>
1988年6月20日午後2時半頃、神奈川県横浜市鶴見区で、金融業と不動産業を営む朴氏(仮名、当時65歳)と妻(当時60歳)が、事務所奥の和室で頭から血を流して殺害されているのを、訪ねてきた知人のタクシー運転手が発見し警察に通報した。

通報を受けた鶴見署が現場検証を開始すると、現場には争った跡や物色した跡がなかった。また夫婦の遺体は、鈍器で頭部を殴打され、刺し傷も50ヶ所もあったことから、怨恨による犯行を視野に入れて捜査を始めた。

その後警察は、当日に夫が銀行から引き出した現金1200万円を入れていた黒鞄と、通帳及び印鑑を入れていつも押し入れに保管していた布袋が無くなっていることをつきとめた。そこで怨恨と強盗の両面で捜査を行うとともに、夫の仕事関係や交友関係の身辺調査を始めた。

すると、犯行当日の午前中に電気工事業の高橋和利氏(当時54歳)が夫の事務所に訪ねてくる予定だったことが判明。警察は、高橋氏に事情聴取すると、「午前11時前に、資金融資の件で事務所を訪ねたところ、夫婦が血を流して死んでいた。傍らに、現金が入っていた袋があったので出来心で奪って逃げた。当時、事業が芳しくなかったので、つい魔がさした」と供述した。このため警察は7月1日に高橋氏を逮捕。だが、高橋氏は殺害に関しては当初否認していた。

高橋氏本人の言葉で描いた当日の模様を、彼の著書から抜き出してみます。

(以下『「鶴見事件」抹殺された真実』より引用)
当日私は、被害者である梅田商事社長の朴さんから融資を受ける予定になっていました。午前10時30分頃確認の電話を入れ、約25分後に事務所を訪れた時には、社長と奥さんは既に死んでいたのです。

約30分前に電話を入れ、私が来ることは分かっている筈だし、外にも、不意に訪れる客もあろうかと思われるのに、いつも一緒にいる二人の姿が見えない。おかしいな?と思いつつ、座敷に向かって「社長。こんにちは」と声を掛けてみたが応答がありません。急用でもできて二人とも外出したのだろうか。それにしては鍵も掛けずに無用心な、と思いながらも、とにかく待たせてもらおうと思いソファーに座ろうとしたとき、奥の六畳間から、出かかった咳を途中で止めたような、何かにむせたようなくぐもった感じの音(声か)がしたのです。

誰かいるのか?そんな感じがして耳を澄まし、少しのあいだ奥の様子を窺っていたのですがそれっきり何の物音もしません。不審に思い、「社長!」と再度呼んでみたけれど応答はなく、静まりかえったままです。

私は思いきって、事務所と奥の六畳間の仕切りになっているカーテンの裾を少しだけ上げてみると、いきなり人の足の裏が目にとびこんできたのです。びっくりしてカーテンを放しました。

しかし、間もなく私が来ることが分かっていたし、ほかにも来客があるかもしれないこの時間に、まさか昼寝はないだろうと思い、今度はカーテンを上の方まで上げてみました。するとそこには、二人が仰向けの状態で横たわっていたのです。

社長は私がいる方に足を向けて大の字に、その奥に社長とは逆に頭をこちらに向けて奥さんが横たわっていました。

この時点では、異常は感じたもののまさか死んでいるとは思えず、もう一度、「社長!奥さん!」と呼んでみましたが、二人ともまったく反応がないのです。

この時、社長の足を持って揺すったような気がしているのですが定かな記憶ではありません。

とにかく、これは只事ではない!そう感じて靴を脱ぐのも忘れて、咄嗟に一段高くなっている六畳間へ膝から飛び上がり、そのまま四つん這いの格好で社長に近づき、体を揺すったり頬を叩いたりしてみましたが、いくらか体温は残っているものの呼吸は完全に停止していました。

それでも、社長の耳元に口を近づけて大きな声で呼んでみたけれど、びくりとも反応はなかったのです。ただ口の端から細く血が一筋出ているのを見ました。それを見て一瞬、服毒の二文字が頭の隅をかすめました。

これは大変な事だ!と思い奥さんの所に這っていき体を揺すったり頬を叩いたりすることを続けましたが、まったく反応がありません。それでも死んでいることが信じられなくて、更に社長の方へいき、また奥さんのところに戻り、同じことを繰り返したけれど、やはりふたりとも息はしていませんでした。

ふたりとも死んでいる!そう分かった途端、体が硬直し、パニックで頭の中が真っ白になって何がなんだか訳が分からなくなって、這った状態のままふたりを交互に見ながら、なんだか気が抜けてしまった感じでした。

人が二人も死んでいる場所に足を踏み入れてしまったのです。人生で初めての経験に驚きが大きすぎて、ふたりがなぜ一緒に死んでいるのかなどと考える気持ちの余裕などまったくありませんでした。

どうしたらいいのだ・・・・少しの間、呆然自失の状態でしたが、はっと我にかえり、とにかく110番しなければと思い立ちあがったのですが、足腰が萎えてしまった感じで力が入らず、一歩踏みだすと足がもつれて、つんのめるようにパタッと四つん這いの格好で倒れ込んだとき、シャツの胸ポケットからタバコとライターが前方へとびだしました。私は這いずるようにしてタバコを拾い、その先のライターをつかんだとき、目の前の事務机の脚下の少し奥の内側の所に、半透明のビニール袋(当時スーパーなどで使っていた手提げ式のレジ袋)に入っている札束らしき物が目にとまりました(このとき、もしも私が倒れることなく立っていたとしたら、おそらくビニール袋は目に入らず、したがって札束に気付くことはなかったと思います)。這い寄って袋の口を開いて確かめると、それはかなりの量の札束でした。それを見て、夢の中から現実に引き戻されたような感じになり、体がふるえました。その時、社長と奥さんのことは頭から消えていたのかもしれません。

資金繰りに困り、この日、融資を受けることになっていた私は、その札束に目が眩み、110番しようとしていた気持ちはどこかへ飛んでしまい、前後のことも考えずに結果として、そのお金を持ち逃げしてしまったのです。

<裁判経緯>
1988年7月 強盗殺人罪の容疑により起訴
1988年11月 横浜地裁で初公判(杉山忠雄裁判長)
1992年12月 第31回公判以降、杉山裁判長から上田誠治裁判長に交代
1995年6月 第57回公判、結審、上田裁判長の定年退官が8月に迫っていたため、論告求刑と最終弁論が同日に行われた
1995年9月 第58回公判、7年に及ぶ審理を経て判決、死刑宣告(中西武夫裁判長代読)
死刑が言い渡されるときだけは、主文は判決朗読の最後に宣告されるのがならわしだが、本件ではそれを破って主文の朗読が冒頭に行われた、弁護側控訴
1999年6月 4年を経て東京高裁で審理開始(荒木友雄裁判長)
2001年3月 第12回公判以降、裁判長は一審判決を代読した中西武夫裁判長に交代
2002年10月 第24回公判にて控訴棄却(中西武夫裁判長)、弁護側上告
2006年3月 最高裁は上告棄却 死刑判決が確定
現在再審請求中

この事件の裁判で特異なことは、弁護団は弁論で、ほかの二人の人間を名指しで真犯人とし、高橋氏の無罪主張をしていることです。ここではその内容には触れませんが、上記の高橋氏、大河内氏の2冊の著書でも、その二人の真犯人に関する記述に相当量を割いています。

夫婦殺害が高橋氏の犯行であるとすれば矛盾があるというだけではなく、ほかの者にも犯行の可能性があるとなれば、推定無罪原則により無罪が主張できることは当然です。しかしながら、真犯人と考えられる人物を名指しで主張することに、裁判官がどのように感じたかは非常に興味深いところです。

<争点>
主たる争点には2点あります。それは二人の殺害の順序(二人同時なのか、別々なのか、別々とすればその順序)と、凶器です。

高橋氏は逮捕後に、犯行の自供をしています。しかし、その自供で述べられた二人の殺害の順序と凶器は、共に公判で事実とは異なることが明らかにされました。警察の見立て通り(しかし事実とは異なる)自白が強要されたことは言うまでもありません。そして自白が事実とは異なるということを裁判所自身認めながらも、死刑判決を下したのがこの事件です。

犯行現場は、座卓、茶箪笥ほかの什器備品が所せましとあった事務所の奥の狭い六畳間でした。それらが整然としており、争った形跡がなかったため、顔見知りの犯行と推定されました。それでも、もし二人同時に部屋にいるところを襲う場合、部屋を全く荒らすことなく単独犯が二人同時に殺害することは不可能です。

つまり可能性としては、「単独犯の犯行であれば、二人が別々に殺され(これを弁護団は「異時殺」と呼んでいます)、一人が外出している時に一人が殺され、その後、戻ってきたもう一人が殺される」というケースか、「複数の犯人が夫婦それぞれを制圧しながら殺害する二人の同時殺」というケースになります。

警察の見立ては当初、複数犯であり、そのように報道もされましたが、高橋氏が捜査線上に浮かび、共犯の可能性がなかったことから、警察の見立ても単独犯に変わりました。

犯行時間の特定は以下の通りです。

単独犯による二人が別々に殺された「異時殺」となると、夫婦のどちらかが外出をしていることが必要になります。

夫は、事件当日の午前中に、事務所から自転車で10分弱の銀行に行き、1200万円を引き出しています。銀行には10時15分ないし20分頃から5分程度いました。つまり夫は10時5分頃から10時35分頃までの間事務所を空けていました。

しかし、検察はこの間に妻が殺されたという主張はしていません。なぜなら、高橋氏にはその間のアリバイがあるからです(複数の人間と電話で会話)。

夫が最後に目撃されたのは10時40分前後、事務所前の路上で隣人と顔を合わせ、挨拶をしています。

午前11時過ぎ、事務所に書留郵便を届けに郵便配達人が訪れていますが、声がなかったため不在と思い引き返しています。

この約30分前後の間に、夫婦は殺されたとみられています。検察の主張は、夫が事務所に戻った時には妻が外出しており、まず夫が殺され、その後、妻が殺されたとするものです。

この検察主張は、妻が外出していたことを前提にしていますが、妻は脚が悪く、外出も控え気味で、歩く速度も人の半分程度でした。そして近所では顔見知りが多い妻が外出していたとする目撃者はおらず、訪れる可能性のあるところに聞き込みをしても彼女の外出の事実は確認できませんでした。裏付けのない検察の主張に反して、妻は外出していなかった可能性が高いと思われます。

弁護団は、一審においては主に、妻が先に殺害された異時殺の可能性を主張していました。遺体発見時には、妻の遺体は夫と共に部屋の畳上にありましたが、部屋に隣接する便所内に多量の血だまりがあったため、「異時殺の場合、犯人は先に殺された妻を便所内に隠した」としたものです。そして妻が殺害された夫の外出時には、高橋氏のアリバイがあるため、それを無罪主張の理由としたものです。

しかし、高橋氏の説明にもあるように、1200万円は部屋の机の下にあり、夫が銀行から帰った後に居間に上がったことを物語っています。それでいながら、その居間でわずかの時間の前に妻が血みどろで殺害され、便所に隠されていたことに夫が全く気付かないというのも不自然です(弁護団は、その場合、犯人はまだ事務所にいて「奥さんは外出した」と言い繕ったと考えました)。

弁護団は、控訴審においては、異時殺の妻先行殺害説を捨て、夫婦が一緒にいるときに殺害された同時殺しか考えられないという主張に変えました。その上で、単独犯による同時殺は、現場の状況に照らして考えられない、ゆえに高橋氏は無罪であると主張しました。

一審裁判体は検察主張の夫先行殺害説を認定しましたが、控訴審裁判体は、異時殺は想定し難く、想定しうる殺害様態は同時殺であると認定しました。しかし、高橋氏の無罪を意味する複数犯の犯行ではなく、妻が便所に入った隙を狙って夫を攻撃したとしたら、「本件犯行が単独犯でも遂行不可能であるとまでは認められない」と判示して、高橋氏を犯人であると判決を下しました。この控訴審の判決は、推定有罪の論理以外の何物でもないことは論を待たないと思います。

凶器に関して、高橋氏は自白時に「バールとドライバーを用いて殺害した」としています。しかし、これは検死段階で検視医が鈍器による打撲はバールによる可能性が高いとしたため、警察はその検死結果に沿うよう自白を強要したものです。また高橋氏が電気工事業だったことから、刺し傷を業務で使うドライバーとしました。

自白の内容は、まさにそうした警察の当初の見立てに沿ったものでした。

しかし、一審が始まり、弁護団の依頼した現場法医学の権威である鑑定医は、凶器がバール及びドライバーであることを否定する鑑定をし、その鑑定が証拠採用されました。判決においても「すべての傷を明快に説明しているとは到底いえない」と、供述とは別の凶器による犯行の可能性を指摘しました。それでいながらも裁判所の判決は、高橋氏の死刑でした。

裁判所が、高橋氏を強盗殺人犯と断定した最大の根拠は、高橋氏が虚偽の融資話を持ち掛けていた点にあります。犯行当日に引き出された1200万円は、その虚偽の融資話のために用意されていたものです。

裁判所の認定は、「初めから大金を奪うつもりで虚偽の融資話をもちかけ、相手に融資金を用意させ、預金を下ろしたところを見計らって襲い、当初の目論見どおり、まんまと大金を現金で手に入れた」というものです。

高橋氏の「融資を受ける予定で訪ねたところ、夫婦が殺害されているのを発見し、融資金として用意されていた現金をとっさに取って逃げてしまった」という供述を、その融資話に虚偽が混じっていることをもって全て虚偽であると裁判所は判断しました。しかしここでの問題は、「融資話に虚偽が混じっていたことをもって、その供述全体が虚偽であり、強盗殺人犯と言えるか」という点にあります。

<論評>
あらためて事件を俯瞰すると、強盗殺人と、強盗と殺人が別々に行われたという認定の差は非常に微妙です。

妻の数多くの刺し傷は、確かに怨恨を思わせるものですが、現場から大金がなくなっている以上、事件の引き金はやはりその現金奪取にあったと考えられます。高橋氏は、当日多額の現金を被害者が持っていたことを知っており、しかもその現金は彼が虚偽の融資話をもって被害者に用意させたものです。つまり動機から言えば、当時事業に行き詰まり資金難であった高橋氏は、事件に一番近いところにいたと言えます。

そして彼が、犯行があったと思われる時間と非常に近接したタイミングで被害者と接触があったことは疑いようのない事実です。状況証拠が揃っており、高橋氏を有罪とする積極証拠だけを評価すれば有罪の可能性は高くなります。しかし私は、それは誤った事実認定だと考えます。

裁判官はいかにして誤った事実認定に陥ったか。

まず、高橋氏は自白をしていますが、その自白に「秘密の暴露」はありません。

「秘密の暴露」とは、自白に含まれる真犯人しか知り得ない事実です。そして、それを裏付ける捜査の結果、事実に間違いない確証が得られれば、自白の信憑性の証しとなる重要な要素です。

事件の犯行現場からは、夫が銀行からお金を入れて戻った黒い鞄と、重要書類や通帳を入れた布袋がなくなっていました。特に、布袋は六畳間の押し入れにいつも納められていましたが、事情に精通していなければ、その布袋の存在や置き場所は知りようがありません。高橋氏は被害者夫婦とは知り合ってわずか1ヵ月程度であり、そうした事情は知ることはなかったものです。

検察による高橋氏の取り調べでは、この黒い鞄と布袋に関して集中し尋問されました。その供述があれば、「秘密の暴露」として高橋氏が犯人であることを立証できるからです。高橋氏は、警察の強要により殺人は認めてしまったものの、この黒い鞄と布袋に関しては一貫して全く知らないと主張し続けました。

もし高橋氏が犯人であれば、核心の殺人に関しては認めているのに、瑣末な事柄である黒鞄・布袋を徹底して知らないと押し通すことは実に不自然です。

また、自白の中の殺害の順序や凶器が事実と異なると認定されたことは、「無知の暴露」に当たります。実際に現場にいなかった捜査官が想像で作ったストーリーは結局のところ現実の状況とは合わず、矛盾する部分が生じます。自白の中にこうした矛盾が含まれていれば、その自白は捜査官の誘導に基づくもので、犯行の現実を知らないという「無知」性が暴露されてしまうものです。これが「無知の暴露」です。

「秘密の暴露」がないことにより、自白の信用性が著しく低下するのみならず、「無知の暴露」により、その自白は高橋氏が犯人ではないという裏付けにすらなります。

そして最大の事実誤認は、犯行様態を、一審では単独犯の異時殺、控訴審では同時殺ながら依然単独犯としたことです。この事件は複数犯の同時殺でしかありえないものでした。

控訴審では、単独犯と同時殺という本来両立しないことを認定するため、「妻が便所に入った隙を狙って夫を攻撃したとしたら」という無理やりな仮定をしなければならず、それが推定無罪原則の無視であることは明らかです。

弁護団は、「妻が便所に入った」という可能性を打ち消すため、上告の際、妻の検死解剖における残尿量を証拠として提出しました。妻の遺体に残された残尿量は50ccで、それは排尿後とすれば多過ぎ(排尿後の平均残尿量は5-10cc)、排尿前とすれば少な過ぎ(尿意を催す「最小尿意」は 100-150cc)です。しかも遺体のズボンのウェスト部のボタン、前ファスナーは完全に閉まっていました。それは、ドアのすぐ向こうで夫が殴打されている異常を感じた気配が全くないものでした。しかし、最高裁は、弁護団の上告は上告理由に当たらないとして、実質的な証拠調べをすることなく上告を棄却しました。

弁護団が主張したほかの真犯人とは、高橋氏以外に、当日現金がその場にあることを知ることができ、動機があり、アリバイはなく、現場から持ち去られたと思われる重要書類や通帳を入れた布袋の存在や置き場所を知っていた人物でした。しかし、高橋氏が現金を持ち去ったことが明らかとなり、強盗殺人犯と目されて以降、彼らに捜査が及ぶことはありませんでした。

無実の罪で死刑宣告を受けた人間の精神状態は、我々の想像を絶するものだと思われます。そして高橋氏は、今も獄中で雪冤を期して臥薪嘗胆の日々を送っています。

彼の著書の末尾に書かれた、彼の魂の叫びをお読み下さい。

(以下『「鶴見事件」抹殺された真実』より引用)
始めに有罪ありきで、裁判では地裁から最高裁までが一貫して、真実を見極めようとする機運もなかった。

権力を握る者には無類の残忍さと狡猾さがある。保身と栄達のためとあれば何人でも死刑にする。最近の死刑執行の事実がそれを証明している。その異様な自己保身への執着が、法と正義をねじ曲げるのだ。

「権力はつねに悪を生み、権力のあるところにはつねに腐敗がある」と言った人がいる。その通りだと思う。

歪んだ正義を振りかざして無辜を断罪し、自らを法の守護神と公言してはばからない司法権力者らのどこに正義があり法の精神があるのか。正義などというものは国家権力の中には存在しないのだと思う。

警察にも、検察にも、裁判所にも、そこにはそれなりの機構というものがある。そうしなければ崩壊しかねないという危惧があるからだろう。

下級審の判断がまちがっていると判っても、それを積極的に正そうとする裁判官が果たして上級審に何人いるだろうか。

検察と裁判。この一つ穴に棲息する権力者たちは、ひとりの人間の魂の叫びなどには洟もひっかけはしない。挫折を知らず、人の心の弱さがわからない裁判官は、「ウソの自白をするはずがない」と単純に考え、目の前で必死に訴える被告人よりも、取調官が、「密室」で作った自白調書を安易に信じてしまう。その方が仕事が楽だからだ。

真実は裁判官が明らかにしてくれるなどというのは幻想なんだということを、この18年間の裁判を通して思い知らされた。

最高裁が棄却し圧殺したのは、「鶴見事件」ではなく、実は司法の正義と独立であり、法曹の良心ではなかったのか。

政治の怠慢と司法の傲慢が、人間と人権を殺し続けている。それがこの国の現実なのだ。

無辜を殺して誰が責任をとるのか。死刑を止めよ!

参考文献
高橋和利氏著『「鶴見事件」抹殺された真実 私は冤罪で死刑判決を受けた』
大河内秀明氏著『無実でも死刑、真犯人はどこに』
森炎氏著『教養としての冤罪論』












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category: 冤罪ファイル

2015/01/28 Wed. 11:19 [edit]   TB: 0 | CM: 1

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#検察なう (447) 「齋藤隆博氏、東京地検特捜部長に就任」 1/26/2015 

#検察なう (447) 「齋藤隆博氏、東京地検特捜部長に就任」 1/26/2015

私が巻き込まれたクレディ・スイス証券集団申告漏れ事件は、大阪地検特捜部が関与した郵便不正事件、及び東京地検特捜部が関与した陸山会事件に係る虚偽報告書問題とタイミングを同じくしています。

つまり東の陸山会事件に係る虚偽報告書問題の責任者は、私の起訴の判断をした人間であり、具体的には当時の特捜部長佐久間達哉氏(注1)、そして先日特捜部長就任が報道された当時の特捜部副部長の齋藤隆博氏(注2)がそれに当たります。

この度東京地検特捜部長に昇進した齋藤氏は、陸山会事件に係る虚偽報告書問題により、八木啓代氏が主宰する「健全な法治国家のために声をあげる市民の会」に告発された人物です(検察が起訴するはずもなく、不起訴処分)。

ここをクリック→ 佐久間達哉・木村匡良・齋藤隆博告発状

齋藤氏は、特捜部から一旦は外に出たものの、ほとぼりが冷めた頃に特捜部に復活という按配です。

この人事の報道を目にして、彼らにすれば私の一件は蚊に刺されたほどしか思っていないと分かっていたものの、やはり役人というのは国民の一人一人の痛みなどは屁とも思わないのだろうということを改めて思い知らされる機会となり、やはり心落ち着かないものを感じます。

私の件を置いても、佐久間氏といい齋藤氏といい、陸山会事件(及びそれに先立つ西松建設事件)をフレームアップすることにより、一国の宰相になっていたであろう人物を政治の一線から退かせるクーデターを起こした責任を全く取っていないというのも、正義を守るべき国家組織の一員としていかがなものかと思います(注3)。

西の郵便不正事件は、政治家がらみである以上、村木氏の訴追そしてその先のターゲットとして石井一議員がいたことは、現場の特捜部だけではなく、高検、最高検まで了承事項だとしか考えられません。それを、判決に直接影響することがなかったフロッピーディスク改竄をむしろこれ幸いとばかりに当事者の前田恒彦氏と、その上司の大坪弘道特捜部長・佐賀明元副部長両名の首を差し出し、事態の矮小化を図ったものが事件の背景です。

これに対し、東の陸在会事件に係る虚偽報告書問題は、検察組織全体としては小沢氏の不起訴を決定していたにも関わらず、現場の特捜部が報告書を捏造して検察審査会を誘導しようとしたものでした。この現場急進派の暴走をもってして、郷原信郎氏は「平成の二・ニ六事件」と評価しているものですが、その処遇は二・ニ六事件とは大きく異なります。ご存知の通り、昭和の二・ニ六事件では、首謀の陸軍皇道派青年将校らは死刑に処せられています。しかし、「平成の二・ニ六事件」では、首謀者はむしろ栄転、昇進しているという有様です。

こうした身内に甘い処遇、また西と東の特捜部がらみの事案での明らかに不公平な処分に、内部のモラルがどのように影響されるのか、非常に興味のあるところです。3月に前田恒彦氏とお会いする際に、オフレコでじっくり伺ってこようと思っています。

(注1)
ここをクリック→ #検察なう (311) 「佐久間元東京地検特捜部長、佐賀地検検事正に栄転」

(注2)
ここをクリック→ 齋藤隆博 Wikipedia 

(注3)
ここをクリック→ #検察なう (134) 「郵便不正事件より重大な検察の犯罪 田代検事報告書の検証」 

P.S.
3月7日、愛知県弁護士会の主催で、「『新時代の刑事司法』は?」と題して元特捜検事前田恒彦氏と名古屋でパネルディスカッションをします。お近くの方は是非お越し下さい。

ここをクリック→ 愛知県弁護士会「取調べの可視化市民集会」

1/26/2015













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category: 刑事事件一般

2015/01/26 Mon. 00:01 [edit]   TB: 0 | CM: 2

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フィルム・レビュー 『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』 アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督 

フィルム・レビュー 『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』 アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督

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映画『バードマンあるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』観賞。

この映画を観て、浮かんだ言葉は"improvisation(インプロビゼーション・即興)"。テンポよくラストシーンまで全く予想できない展開は、高度に構築されたフリー・ジャズの楽曲のようにスリリングな緊張感を観客に与える。「一発撮り」を意識したであろうカメラワークによる構成の新しさは非常に興味深かった。

監督は『21グラム』『バベル』といったシリアスな人間ドラマで高い評価を得ているメキシコのアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ。彼がブラック・コメディに挑戦ということで大いに期待して観に行った。そしてそれは期待に沿うどころか、期待を上回る出来だった。

マイケル・キートン演じる主人公は、かつて『バードマン』というスーパーヒーロー映画で一世を風靡した落ち目の俳優。彼が再起を賭けたのが、全財産を投資して、自ら脚本、監督、主演を演じるブロードウェイの舞台だった。プレヴューの後、バーで彼は影響力の大きい著名な舞台評論家を見かけ、社交的に挨拶するが、彼女は「本物の役者ぶる映画スターは軽蔑している。明日の初日後のレビューではこきおろすつもり」だと宣言する。そして初日の公演で彼が取った行動は.....

笑えるシーンは多いが、コメディはあくまで「糖衣」であって、中身はビター。離婚して引き取った薬物依存症との娘との関係がうまくいかない父親、共演の役者との才能の差にプレッシャーを感じる役者、といった主人公の苦悩がテーマになっている。

既に多くの映画賞を受賞し、オスカーの呼び名も高い作品。カナダでも公開9週目ながら、私が観た回はほぼ満席という状況が評価の高さを物語っている。主演男優賞に、『博士と彼女のセオリー』のエディ・レッドメインの強力なライバル現るといったところだが、むしろ助演のエドワード・ノートンの演技を評価したい。映画ファンなら見逃せない作品であることは間違いない。


ここをクリック→ 『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』予告編

(Facebook 12/28/2014より転載)











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category: フィルム・レビュー

2015/01/25 Sun. 01:25 [edit]   TB: 0 | CM: 1

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#検察なう (446) 「森炎氏著『教養としての冤罪論』解題 (6) ~冤罪ライン⑤ 「自白したから犯人と言えるか」」 1/22/2015 

#検察なう (446) 「森炎氏著『教養としての冤罪論』解題 (6) ~冤罪ライン⑤ 「自白したから犯人と言えるか」」 1/22/2015

犯罪の立証には、「誰が、いつ、どこで誰に対して、どのような行為をしたのか」ということを証拠で裏付ける必要があることはこれまでも述べました。しかし、これらを裏付ける証拠を完全に揃えることは容易ではありません。犯行の一部始終を映した防犯ビデオでもあればよいのですが、そんなものがおいそれと存在するはずもありません。

ところが、いかなる事件においても、捜査のやり方次第で得られる、立証すべき事実のすべてを一挙に証明する証拠があります。それが自白です。

それが「自白は証拠の女王(Confessio est regina probationum.)」と言われるゆえんです。

しかし、周知されているように、自白には大きな弊害があります。自白は全立証対象を一挙に、直接証明することができるほとんど唯一の証拠であるために、何が何でも自白を取ろうということになりがちだからです。

そして森氏は「すべての自白は強要である」と指摘します。以下、抜粋引用します。

「実際問題、社会生活上の儀礼のような丁重なやり取りをしていたのでは、自白する者など出るはずもない。取り調べで容疑者を追い込まなければ、自白など得られない。その意味では、自白には必ず強要の要素が入っている。

日本国憲法は、「強制、拷問・・・・による自白・・・・は、これを証拠とすることができない」と定めている。が、逆に、それ以外の自白は証拠とすることができると読める。つまり、「強制、拷問」に至らなければ、少々厳しい取り調べであっても何ら差し支えないことになる。

そのような理解のもとに、裁判実務では、理詰めで容疑者を追い込んでいくことはもちろん、家族の立場などに言及して精神的・心理的に揺さぶりをかけることなども適法とされている。

さらに、日本国憲法に言う「強制」とは、事実概念ではなく評価概念とされていて、裁判所は、多少の強要の要素ぐらいでは、最終的に「強制」と評価することはない。こうして相当に厳しい取り調べまでが容認される。

逆に言えば、ここから自白のすべての問題が生ずる。自白内容をそのまま容疑者が真情を吐露したものとみなすことはできないのである。それは、多かれ少なかれ、強要の要素のもとに、不本意にも供述させられたものとみなければならない。」

そして森氏は、「自白の冤罪性を減少させるものとして「秘密の暴露」が必要である」と指摘します。抜粋引用します。

「自白の第一性質は、強要の要素と不本意供述性である―にもかかわらず自白を有罪の資料とするのであれば、当人が不本意に述べたものであっても、また、多少の強要によるものであっても、それに影響されずに認め得るような不動の根拠がなければならない。

たとえば次のような事柄である。

容疑者が死体を埋めた場所を自白し、その通りの場所から死体が発見されたとなると、どうか。当人が犯人であることがほとんど確実となる。犯人以外の者が死体の埋められた場所を言い当てられるとは思えない。この場合、当人が殺人犯でない可能性は何かあるだろうか。考えられる他の可能性としては、死体を捨てた死体遺棄の犯人にすぎないことぐらいである。それも、背後関係を調べれば、別の殺人犯人に頼まれて死体を捨てに行った単なる死体遺棄の犯人か、それとも他ならぬ殺人犯それ自身であるかは、自ずと判明し得る。

以上は何を意味しているかと言うと、直接的には、死体遺棄場所についての自白が真実だったことを示しているが、それにとどまらず、犯人としての体験を客観的にたどることができたことをも意味する。

そのため、以上の証明力は、後になって容疑者が「やはり、あの供述はちがう」と言い出したとしても揺るがない。そのとおりの場所から死体が発見されたことは事実であり、犯人としての体験を客観的にたどることができたことは、自白の撤回によっても何ら変わらない。また、たとえ不本意に供述したものであっても、その効果(犯人としての体験を客観的にたどれたこと)は影響を受けない。

上記の点に関する限りは、自白も裁判上極めて重要である。あらためて物証との関係から考察する。発見された死体、凶器、被害品などは物的証拠と言われるが、証拠物そのものとしては、それほど大きな意味を持つわけではない。犯人が誰かという最も肝心な点については、何も語るものではない。

ところが、これが容疑者の自白と結びつくと、前述のような大きな効果を生ずる。容疑者が死体を埋めた場所、凶器を捨てた場所、被害品を隠した場所を自白し、そのとおりの場所から死体や凶器や被害品が発見されたとなると、当人が犯人であることが大きな確実性をもって示されることになる。

このようにして、自白によって物証が生きてくる。自白があることによって、それまで物証だけでは到達できなかった「犯人性」まで立証の効果が伸びてくるのである。

以上のような効果に着眼して、死体、凶器、被害品などの在りかを明かすことは、「秘密の暴露」と呼ばれる。

自白の中の「秘密の暴露」とは、大まかには「犯人しか知らない事柄の暴露」であり、より厳密には「被疑者が供述したことが、捜査官があらかじめ知らなかった事項に属し、それによって真実が判明した場合を指す」と定義されている。

こうして、秘密の暴露は冤罪性を減少させるということができる。」

更に森氏は、「秘密の暴露」にも証明力の違いによって強弱が生じるとします。端的に言えば、捜査側の作為の余地が全くなければ「強い秘密の暴露」と言えるのに対し、捜査側の作為の余地があれば「弱い秘密の暴露」となります。更に、その捜査側の作為が、弁護側の立証活動によって明らかとされた場合、それは「見せかけの秘密の暴露」となり、捜査全体についての不当捜査の推定が働きます。したがって、「見せかけの秘密の暴露」があった場合、犯罪立証は大きく崩れ、冤罪性の減少ではなく、逆に増加の局面になります。

そしてこの章の一番重要なことが最後に述べられています。

「市民裁判論としては、虚偽自白かどうかにこだわるのではなくて、秘密の暴露があるかどうかに着眼し、「弱い秘密の暴露」すらない場合は、自白をすっぱりと捨てるべきなのである。そうしなければ、冤罪性はいつまで経っても解決されない。」

つまり表題の「自白したから犯人と言えるか」に森氏はノーといい、自白に「秘密の暴露」がなければ一切採用しないことが、自白が冤罪につながることを防ぐ方法だと述べています。至言だと思います。

教養としての冤罪論


1/22/2015












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category: 冤罪事件に関して

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「死刑制度について考える (6) ~無期懲役刑の「終身刑」化」 

「死刑制度について考える (6) ~無期懲役刑の「終身刑」化」

以前このシリーズで、法制化されていない終身刑を運用上科すことができることを述べました。

ここをクリック→ 「死刑制度について考える(2)~日本における終身刑」

日本の刑罰では、有期刑と死刑の間に無期懲役刑があります。無期懲役刑と終身刑の違いは仮釈放があるかどうかです。

先日読んだ記事の中に、無期懲役刑が終身刑化している実態が記載されていました。救援連絡センター(注)の機関誌『救援』の記事を全文引用します。

『救援』 第547号(2014年11月10日発行)より

「無期刑の「終身刑」化を許すな」

無期懲役刑が「終身刑」化していると言われて久しい。日本では死刑を頂点に、次に無期懲役刑があり、有期刑の上限は30年とされている。裁判員制度の下、刑法改悪や犯罪被害者等基本法でどんどん厳罰化が進み、安倍政権の治安強化策でこの傾向はさらに加速された。

獄中者「救援」読者の中でも無期懲役囚が増えている。仮釈放されるにはどうしたらいいのかという切実な相談も多い。

昨年末の無期懲役囚は全国で1843人、91年には870名だった。この22年間で毎年増加の一途をたどり、ついに二倍に増えたのである。昨年、仮釈放された無期懲役囚は8人、死亡した無期懲役囚は14人にも上る。仮釈放がこの8年連続して一桁であるのに対し、死亡は5年連続で二桁である。無期懲役囚が高齢化している現実の中では、この現実は一層激化することは間違いない。仮釈放になった人の平均在所期間も長期化し、昨年仮釈放で出所した8人の平均は31年2ヶ月であった。出所した人の平均在所期間が31年2ヶ月ということは40年も50年も受刑している人が相当いるはずだ。20年前の出所者の在所平均が18年2ヶ月だったことからもこの数値は驚異的である。よく無期懲役でも10数年服役すれば、仮釈放で出てこられるという俗説が流布されているが、現実はほど遠いのだ。

04年の刑法改悪で有期刑の上限が20年から30年に引き上げられた。有期刑の上限が30年なのだから、無期懲役はそれ以上でなければならないということで、仮釈放までの期間が延びた。その上に、同年に犯罪被害者等基本法が成立し、加害者の仮釈放について被害者(遺族)が意見を述べることができるようになったため、仮釈放の条件はさらに厳しくなった。

長期刑の受刑はそれだけ、釈放時の生活環境がなくなることを意味する。受刑者が高齢化すれば、家族もまた高齢化し、身寄りも少なくなるので身柄引き受け条件はどんどん失われる。

無期懲役囚も出所の見込みが遠のけば遠のくほど、あきらめが強くなる。高齢である、身寄りがない、病気を抱えているなどで仮釈放の期待は少なくなっていく。社会に出ても就職難や生活していく条件がないと思うと、不安も大きくなる。長期の受刑は拘禁症状も引き起こす。

運よく条件が整って、仮釈放をかちとっても本人の働く意欲があるにもかかわらず、就職できないなど、社会に受け皿はない。生活手段が保障されないのだ。

無期懲役の実態がますます「終身刑」化している現状をこれ以上放置してはならない。

死刑廃止と「終身刑」化する無期懲役の現実を変えていく闘いが問われている。監獄とは何か、社会全体で考えていかねばならない重大な問題である。
(引用以上)

運用上も終身刑を科すことができ、無期懲役刑も実質終身刑化しているケースも見られる現状、より健全なのは終身刑の法制化だと思われます。オウム真理教事件以来、厳罰化の傾向にあり、光市母子殺害事件以来、死刑求刑が「やむなき場合」という例外ではなくなっているようです。死刑判決の一部及び無期懲役の一部が終身刑となることで、死刑が本来の「やむなき場合」にのみ科される極刑という位置づけに戻り、無期懲役囚にも更生の機会を与えることができると思われます。

(注)
救援連絡センター(きゅうえんれんらくセンター)は、主に「被逮捕者の救援を通じ、公権力による弾圧に反対する」という活動目標を掲げる日本の人権団体である。日本共産党系の日本国民救援会に対抗すべく、新左翼や労働運動、市民運動関係の救援を目的に結成された。

ここをクリック→ Wikipedia「救援連絡センター」

P.S.
3月7日、愛知県弁護士会の主催で、「『新時代の刑事司法』は?」と題して元特捜検事前田恒彦氏と名古屋でパネルディスカッションをします。お近くの方は是非お越し下さい。

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category: 死刑制度について考える

2015/01/19 Mon. 00:01 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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フィルム・レビュー 『ザ・インタビュー』  エヴァン・ゴールドバーグ/セス・ローゲン監督 

フィルム・レビュー 『ザ・インタビュー』  エヴァン・ゴールドバーグ/セス・ローゲン監督

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フランス「シャルリー・エブド」襲撃事件の直後だけに、風刺について考えながら観ることになった。金正恩、北朝鮮という実在の人物、国家をコケにするというリスクを敢えて取るだけのものがあったとは思えないが、それは「北朝鮮の人がこれを観て、気に障ることがあるのだろうか」というほどアホらしいものなので、リスクもないとの計算だったのだろう。

それは、北朝鮮からサイバーテロを受けたとの報道も、ソニーの自作自演なのではと思わせるほど。民衆を餓えさせる北朝鮮と同じくらい、国外首脳の暗殺を企てるアメリカのレベルも低く描かれているからである。

つまりこの映画に政治的な風刺を求めて観るべきではなく、ただ単におバカなあまり笑えないハリウッド・コメディとみるべきだろう。

もう少しまじめに論じれば、金正恩のキャラクターより、TVキャスターを演じるジェームズ・フランコのキャラクターの方がグロテスクなカリカチュアを感じさせ、要人暗殺ですらネタにしようというアメリカ・メディアの風刺と捉えるべきかもしれない。

一番笑えたのが、この映画ではロブ・ロウほか大物スターが劇中のトーク番組でスクープ発言をするのだが、その中でもエミネムがゲイであることをカミング・アウトするシーン(元々、エミネムのクレバーな毒舌は好きなので)。

ということで、下ネタ満載のくだらないハリウッド・コメディが好きならビデオでどうぞという程度の出来。

ここをクリック→ 『ザ・インタビュー』予告編

(Facebook 1/12/2015より転載)

P.S.
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category: フィルム・レビュー

2015/01/18 Sun. 00:30 [edit]   TB: 0 | CM: 1

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#検察なう (445) 「冤罪被害者=Expendable Casualtiesという考え」 1/14/2015  

#検察なう (445) 「冤罪被害者=Expendable Casualtiesという考え」 1/14/2015

今日1月14日は、名張毒ぶどう酒事件の冤罪被害者奥西勝氏の89歳の誕生日です。彼は今日も、八王子医療刑務所で命の最後の灯を点し冤罪と戦っています。

ここをクリック→ 東京新聞記事「奥西死刑囚 小康状態保つ 特別抗告にうなずく」

先週の第8次再審請求棄却に先立つ第7次再審請求においては、一旦再審開始が決定されながら、検察異議申立により決定が取り消されています(注)。

この国の司法が、人の命と引き換えにしてまで守ろうとするものは何でしょうか。私は司法のインサイダーではないものの、冤罪被害者の端くれとして、その答えを求めてきました。まだまだ深淵の極みまで到達できないものの、現時点における私の理解する端緒をシェアさせて頂ければと思います。

人が裁く以上、冤罪を完全になくすことは不可能ですが、それを減らすことはできるはずです。しかし、我が国の司法制度はその努力を完全に放棄しています。

ここをクリック→ #検察なう (364) 「なぜ冤罪はなくならないか」

なぜこのようなことが起こり得るのか。その鍵は、そうでなければ何が起こり得るか、捜査当局・司法当局は何を怖れているかを考えることにあります。

短絡的には彼らの保身と考えがちですが、私はそんなつまらないものではないと感じています。人一人の命よりも崇高なものがあると信じているからこそ、検察官や裁判官は個人の良心を殺しても組織の論理を貫くのだと思います。

それが何かを一言で表すのは難しいのですが、それは彼らの利益というより、彼らの信ずる我々国民のため、この国のためのものだと思います。「正義」「治安維持」「国益」「法制度の安定」といった大きなものを、自分たちが支えているという意識だと思います。

そこでの冤罪被害者は、戦争におけるExpendable Casualtiesと同じだと彼らは考えているのではないでしょうか。Expendable Casualtiesとは、「戦略のために犠牲に供せられるべき戦死者」のことです。言うなれば冤罪被害者は、国家権力にとっての大義名分のための殉死者です。

冤罪被害者の利益は一旦置き、それは社会にとって有益な必要悪でしょうか。それを考えるために、捜査当局・司法当局の目指すところをもう少し噛み砕いてみます。

卑近な例として「検察の理念」を取り上げます。その第三項に

「無実の者を罰し、あるいは、真犯人を逃して処罰を免れさせることにならないよう、知力を尽くして、事案の真相解明に取り組む」

とあります。

「無実の者を罰することなく、真犯人を逃して処罰を免れさせない」というそもそも矛盾律であり、神でもなければ不可能なことを彼らには可能だと国民に信じさせることが、彼らの目指しているところです。つまり、「正義」「治安維持」「国益」「法制度の安定」といった彼らの大義名分は、捜査当局・司法当局の無謬性を国民が盲信することによって成り立っていると彼らは考えていると思われます。

ここには、自由と権利を自ら勝ち取るのではなく、常に上から与えられてきた日本の文化・国民性が大きく影響しているものです。

この捜査権力・司法権力の無謬性という共同幻想が、冤罪被害者というごく一部の人々の犠牲のもとに成り立っているのが、冤罪の構図です。そしてそれは、自分は冤罪とは無関係だと(愚かにも、自戒を込めて)思っている大多数の人々に安心感を与えるものです。

彼らの無謬性、パーフェクトな司法の共同幻想に一役買っているのが、既存メディアです。彼らにとっては刑事司法、捜査当局・司法当局を正面切って批判することはタブーです。本来、ジャーナリストとして権力には批判的であるべきはずなのに、社会の木鐸としての使命を放棄して、権力の広報になり下がっていることは国民にとっての悲劇です。

この状況が社会にとって有益であり、必要悪であるとは私には到底思えません。それは捜査当局・司法当局が過ちを犯した場合において、彼らがそれを自ら正す機会を奪っているからです。これが「引き返す勇気」の欠如の最大の要因だと思います。

非常に大きいテーマです。じっくり考えてみたいと思っています。

(注)
ここをクリック→ #検察なう (339) 「司法の自殺~名張毒ぶどう酒事件で第7次再審請求棄却」

P.S.
3月7日、愛知県弁護士会の主催で、「『新時代の刑事司法』は?」と題して元特捜検事前田恒彦氏と名古屋でパネルディスカッションをします。お近くの方は是非お越し下さい。

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1/14/2015








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category: 刑事司法改革への道

2015/01/14 Wed. 02:48 [edit]   TB: 0 | CM: 2

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#検察なう (444) 「美濃加茂市長事件 弁論を読み解く Part2 『藤井氏の無罪性』」 1/12/2015 

#検察なう (444) 「美濃加茂市長事件 弁論を読み解く Part2 『藤井氏の無罪性』」 1/12/2015

前回ブログでは、美濃加茂市長事件の藤井弁護団の弁論を読み解くとして、最大の鍵である贈賄供述の信用性にフォーカスして述べました。

ここをクリック→ #検察なう (443) 「美濃加茂市長事件 弁論を読み解く Part1 『贈賄供述の信用性』」

今回は「藤井氏の無罪性」と題して、そのほかの論点を拾ってみたいと思います。

この事件が贈収賄事件として非常に特殊であるのは、金銭授受が行われたとされる現場が、ファミリーレストラン(ガスト)や炉端焼き店(山家)といった公共の場であり、しかもその会食に第三者が同席しているという点です。

贈賄者としては勿論、収賄する者も、当然金銭授受の場は人目を避けるのが常識であり、そうした状況を作ることに何ら制約がなかったにもかかわらず、衆人環視の状況を選んだというのは異常であり、それ自体がそもそも無理筋と私は感じます。

2回の金銭授受があったとされた場に同席した、第三者T氏の供述は非常に重要です。彼は公判ではっきりと、金銭授受の現場は見ていないし、会食の間離席もしていないと証言しています。これは藤井氏の無罪性を証明するアリバイのようなものです。

彼の公判における供述は以下の通りです(弁論より)。

① 2回の会食で席を外したことはない。この点については、一貫して「席を外してない」と言ってきている。
② 会食の場で席を外す可能性としては、携帯電話がかかってきたり、トイレに行くであったり、ファミリーレストランであれば、ドリンクバーというのがあったりするが、2回の会食の際、いずれの理由でも席を外したことはない。
③ もともとトイレには余り行かない体質で、トイレに行くのは、平均して1日に2回か3回である。また、一般的に、大事な話の前にトイレに行く癖があることを理解したが、山家ではトイレに行っていない。山家には、5、6回行っているが、山家のトイレの位置を初めて知ったのは、平成26年8月頃のことである。
④ 被告人と一緒にいる時間は、Tにとって貴重な時間であるので、仮に大事な電話がかかってきたとしても、その場で出て、後でかけ直すことを伝えるまでで、電話を持って席を外してまでして、携帯電話での会話を被告人との会話より優先することはない。
⑤ 他人の分までドリンクバーに飲み物を取り に行ったことはない。4月2日に3人でガスト美濃加茂店に行った時も、最初に3人でドリンクバーに取りに行って、その後は取りに行ってない。

これは藤井氏の公判における以下の供述とも一致しています(弁論より)。

ファミレスに行った際に、ドリンクバーの飲み物を誰かに取りに行ってもらうとすれば学生時代の後輩と行ったときぐらいで、それ以外は自分で取りに行く。Tと一緒のときは、私が年上の Tの分を取りに行くことはあっても、Tが私の分を取りに行くということはあり得ない。

T氏は10歳以上年下の藤井氏を「藤井君」と呼んでいました。

これに対し、検察官は、1年以上前の会食に関し記憶と推測が混同されており、T氏が「席を外してない」と述べるのは、記憶でなく推測なのではないかと反論しますが、T氏は、「記憶というものは曖昧であろうとも、論理的にもそれであると、基本的に記憶があるというのは変わっていません」、推測ではなく「記憶に基づいた論理的な説明です」「記憶に基づいて、記憶の裏付けでトイレの場所すらも知らなかったということです」と公判で明確に述べています。

弁論でも、T氏の供述の信用性が高いことを評価しています(弁論より)。

Tとしては、限られた短い時間の中で、特に、山家に関しては、被告人と政策論議等を行うという重要な目的を有しつつ、被告人と会っているのであって、会食の際に Tが席を外していないとするのは、当時の状況からして、客観的にも主観的にも、至極当然の言動である。

公判では、離席したことを明確に否定したT氏でしたが、警察・検察の取り調べ段階では、T氏が「金銭授受の現場を目撃していない」と否認を貫いたことから、そのターゲットは離席したかどうかにシフトし、その可能性があったかのような供述調書を取られています。これに関して、弁論は以下のように述べます。

(以下抜粋引用)
検察官としては、Tの取調べを通じて、T自身より「Tが現金授受の現場を見た」という供述ではなく、「会食の際に、席を外した」という供述を引き出すことが最大の目的であったことは明白である。それ故、6月26日の取調べの際、検察官からTに対し「会食の際に、席を外したことがあるか」といった内容の質問自体がなされていないとは到底考えることはできない。にもかかわらず、同日取られた検察官調書には、これに真正面から回答する記載は存在せず、離席に関する記載としては、誤導紛いの卑劣な聴取方法を用いた結果得られた「仮に、Nが藤井にお金を渡しているとするなら、私がトイレや電話などで席を外した際に渡しているのではないかと思います」との記載のみである。

仮に、同日の取調べにおいて、Tが検察官に対し「席を外した」もしくは「席を外した可能性はあります」といった供述をしていたのであれば、それこそ、検察官がまさに獲得しようとしていた供述そのものであるから、そのままを検察官調書に記載したはずである。しかしながら、同調書にそのような記載が存在しないことからすれば、同取調べにおいて、Tは検察官に対し「席は外していない」と答えていたと考えるのが自然である。
(引用以上)

贈収賄の金銭授受現場に同席した第三者に離席の供述を迫るのは、郷原氏がペンネーム由良秀之で著し、WOWOWでドラマ『トクソウ』として放映された『司法記者』の内容を彷彿とさせるものです。未来を予見していたかのような一致ですが、これはつまり、「金銭授受の現場で、第三者に目撃の供述を得られないのなら、離席していたことにすればいい」という検察マインドにおける常套パターンであることを意味していると思います。

あくまで「可能性」の議論ですが、「困難ではあるが、不可能とまでは言えない」という認定を裁判官にしてもらうためには、とにかくゴール前にパスだけは出すという発想です。パスを出さなければ、いかに検察に肩入れする裁判官であってもゴールできないためです。

そのほかの論点として、私は、藤井氏が請託の対象とされる浄水プラントにそもそも積極的であったことは重要だと考えます。藤井氏が、浄水プラントは市にとって有益であると理解し、その設置を働きかけていたということは、賄賂を渡す必要がないことを意味します。

藤井氏が中林氏と初めて会った時の記憶に関する弁論の記述です。

(以下抜粋引用)
被告人は、Nと最初に会った木曽路錦店でのことを比較的明確に記憶している。それは、大学時代から環境を専門分野とし、防災対策にも強い興味関心を持っていた被告人にとって、Nが提案する浄水プラントの性能や効果は興味を引くもので、高い関心を持ったからである。

そして、N から、浄水プラントがすでに岐阜県で2か所取り入れられていることを知って、当時、教育・地方活性化と並んで防災を市議の活動方針としていた被告人は、美濃加茂市でもこの浄水プラントを取り入れることが十分可能なのではないか、それを検討すべきでは
ないかということを、自身の議員活動として主体的に考えた。
(引用以上)

また、もし中林氏が賄賂を贈っていたのであれば、賄賂を贈りっぱなしということはなく、その見返りを求めて、藤井氏に積極的に働きかけるのがあるべき状況ではないでしょうか。

しかし、中林氏は藤井氏が市長に当選して以降、彼がより権限を持つ立場になったにもかかわらず、全く接触した形跡がありません。

(以下抜粋引用)
結局、Nは、浄水プラントの導入に関して、被告人が美濃加茂市会議員であったころには2回にわたって合計30万円を渡しているが、市長就任後にはほとんど接触すらなかったことになる。

Nがめざしていた美濃加茂市への浄水プラントの導入というのは、同市と水源との間でレンタル契約を締結し、同社が安定的な収入を得ることができるようにすることだったのであり、実験プラントを設置しただけでは、水源は先行投資しただけでほとんどメリットがない。

市議時代に、人に知られないように賄賂として30万円の現金を渡した目的が、市長就任後に浄水プラントの導入について便宜を図ってもらうことにあったのだとすれば、Nとしては、賄賂を受け取っていることの弱みに付け込んで様々な要求を行っていくのが当然であり、特に、市当局から、当面は水源がすべて費用を負担する実証実験しかできない、と言われた際には、何とかしてレンタル契約が締結できるよう被告人に働きかけるはずである。ところが、Nはそのような動きは全く行っていない。
(引用以上)

弁論は以下のように結ばれます。

結語
本件は、すべてが作り上げられた犯罪である。Nが被告人に30万円の賄賂を渡したという事実が作り上げられたことのみならず、N が贈賄を自白した動機について、「ゼロになって社会復帰するためにすべてを話そうと思った」などという話が作り上げられて法廷で涙ながらに語り、贈賄供述の経過については、客観的証拠との辻褄合せではなく、自ら記憶を喚起して供述したかのような話が作り上げられ、贈賄立証の支障になる賄賂授受の現場の同席者については供述の変遷が作り上げられ、被告人が行っていない市議会での議会質問が、検察官調書によって作り上げられたのである。

そして、具体的かつ自然で関係証拠と整合するとの贈賄供述の信用性は、連日朝から晩までの取調べや証人テストという、検察官と Nの異常な関係の中で作り上げられたものなのである。

こうして作り上げられた現職市長の収賄事件である本件に対して、裁判所の公正な判断が下され、被告人に対して無罪の判決が言い渡されることを確信するものである。

1/12/2015






















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category: 美濃加茂市長事件

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フィルム・レビュー 『アンブロークン』 アンジェリーナ・ジョリー監督 

フィルム・レビュー 『アンブロークン』 アンジェリーナ・ジョリー監督

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映画『アンブロークン』観賞。

この映画の後半約2/3が、主人公が日本の捕虜強制収容所での過酷な処遇を耐え抜いた経験を扱っているがゆえに、「反日」とレッテルを貼られるであろうことは容易に想像できる。

そして日本人の自分がこの映画を観て「反日」作品だと感じたかと問われれば、definitely NOである。むしろ日本に対してリスペクトすら感じる作品であった。

これは是非本作品を鑑賞して自らの価値観で評価してほしいが、この時点では日本での公開があるかでさえ決まっていないので、私の個人的評価を述べる。

主人公が捕虜収容所で非人道的な扱いを受け、それに対し毅然と立ち向かい人間の尊厳とは何かを問うことがこの映画のメインのテーマである。それがもし「反日」の意図をもって描かれたのであるならば、その目的とするところは、この映画を観た人の少なからずが日本を嫌悪することであろう。そしてこの主人公がもし自分の受けた処遇から、日本に憎悪を持つならば、観客はそれに同調して、日本に対して同じ感情を持つことは想像に難くない。ところがこの映画のエンディング・クレジットには、実在の主人公が、戦争によって中止(延期)となった東京オリンピックで走れなかった夢を実現すべく、長野オリンピックで聖火ランナーとなった実際の映像が流れる。その主張するところは「憎しみ」ではなく「赦し」である。

アンジェリーナ・ジョリーが意図するところは、この映画を観て、もし日本を憎む気持ちが起こったのであれば、主人公が赦していることを考えてみよという強いメッセージだと私は感じた。

私の隣で観賞していた初老の女性は、映画のシーンで度々涙を流していた。そして主人公が強制収容所の所長と再会するシーンで、"Kill him."とつぶやいたことが私の印象に残っている。それほど強制収容所の所長役のMiyaviは、最近の映画ではこれほどまでの悪役はいなかったというほどの悪役振りである。そして彼の演じる役が狂気じみればじみるほど、人の憎しみは彼個人に集約していく。そしてその狂気は戦争が産み出したものだと思い至るのである。絶対に助演男優賞を取ることはないが、彼の演技にはその価値はあった。

この強制収容所の所長→主人公という嫌悪のベクトルが集約すればするほど、「反日」といった一般化したモチーフとかけ離れていくことをアンジェリーナ・ジョリーは計算していたと思う。それが理解できないのであれば、それはただ単にこの映画を観る受け手が鈍感なだけである。

この映画は、人間が過酷な環境も意志の強さで耐え抜き、はね返すことができるということを見せてくれる。

日本人がともすると嫌われ役で描かれているからこそ、日本人には観てほしい映画。そしてこれが「反日」映画だと受け取ったなら、その感性には大いに疑問を問いかけるべき映画である。I guarantee.

ここをクリック→ 『アンブロークン』予告編

(Facebook 1/2/2015より転載)























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2015/01/11 Sun. 00:54 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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#検察なう (443) 「美濃加茂市長事件 弁論を読み解く Part1 『贈賄供述の信用性』」 1/8/2015 

#検察なう (443) 「美濃加茂市長事件 弁論を読み解く Part1 『贈賄供述の信用性』」 1/8/2015

前回のブログ「美濃加茂市長事件の構図」(注1)で、贈賄供述の信用性が最大のポイントであることを述べました。

それを弁論から読み解いてみたいと思います。弁論の全文は、郷原総合コンプライアンス法律事務所のHPに掲載されています。

ここをクリック→ 郷原総合コンプライアンス法律事務所HP <弁論>

もし私が裁判官であれば、是非とも検察にクリアにしてほしい点がありました。それは、贈賄供述者中林氏が、贈賄供述に至るまでの状況、彼の心理に関してです。なぜなら、贈賄供述は非常に特殊な状況でなされていると考えるからです。

通常自白は、嫌疑をかけられた被疑者が、捜査当局の取調べにおいて追及された結果なされるものです。誰しも、嫌疑もかけられていないことを自発的に暴露することは考えにくいものです。

勿論、罪の意識に苛まれ自首するというケースもありますが、それは大概、犯罪行為自体は明らかになっていて、逃亡に疲れたとか、(殺人などの)あまりに重大な罪を犯したことに対する自責の念が背景にあることが普通だと思われます。

贈賄供述者の中林氏は、4億円近い融資詐欺を働いており、その取り調べの過程で、追求されてもいない30万円の贈賄の供述を行ったとされています。この、「取調べ対象の罪状を追求されて自白した」のか、「取調べ対象外の罪状を問われてもいないのに自発的に自白した」のかは、重大な差であると考えます。

公判における中林氏の証言は以下のようなものでした(弁論より)。

「被告人に現金を渡したこと」を警察官の取調べで話した動機について、「本当の反省をするためには全部話さなきゃいけないし、ゼロになって社会復帰ということになるんだったら、やっぱり全てを話さないといけない」と思ったなどと涙ながらに語った。

これは、検察側の証人である中林氏が、検察主尋問で答えたものです。証人テストで検察官が用意したと考えられるこの回答が、どれだけ迫真の様子で語られたのかは傍聴していなかったため不明ですが、内容自体は、いかにも捜査当局が考えそうな、しかも売れないテレビのシナリオライターのような陳腐さがあります(注2)。

そして弁論には、中林氏が「ゼロになって社会復帰」を目指すような人物でないことが公判で露呈したことが書かれています。

中林氏は、勾留時に隣房に収監されていた者とその後文通をしていました。そして、その文通相手が、手紙の内容を藤井氏に宛てた手紙に書き綴り、弁護団の知るところとなったものです。

(以下、弁論より抜粋引用)
「ゼロになって社会復帰する」ために、被告人に対する贈賄の自白をしたと供述したことに関して、当時から考えていた仕事の内容について質問され、N は、「実家に帰って訪問介護の仕事を手伝って給料を得て、返済に回そうと考えていた」などと、正業に就くことを考えていた旨述べたが、それも全くの嘘であることが明らかになる。

Nは、中村警察署在監時に隣房に在監していた O(以下、「O」)が名古屋拘置所移監になった後も、Oと文通を続けていたものであるが、O宛の手紙で、勾留中の身でありながら、「人材派遣の仕事」と称して「韓国のプロモーターと店との間で、毎月の給料から上りをはねる仕事」をしようと考え、そのための資金管理をOの内妻に手伝わせることを、再
三にわたって、手紙でOに依頼をしていた。

N の考えていたことは、証言していた、「ゼロになって社会復帰するため、罪を償った後に正業に就いて真面目に働く」といったことを真剣に考えている人間とは凡そかけ離れたものである。

本件とは全く無関係であり、自らには何の利益にもならないOが、Nの詐欺師的なやり方と検察官との関係に憤りを感じ、美濃加茂市長の被告人に手紙を書いて、Nが詐欺師であることや被告人がNにはめられようとしていることなどを美濃加茂市役所宛てに送付した。

Nは、弁護人から、前記Oの手紙の中で書いていたことに関連して質問を受けたのに対して、次のような供述を行った。
① 検事とはほとんど毎日のように朝から晩まで打合せをしている。
② 藤井市長の公判では相当なことを言われるが、(Nの公判では)検察官は批判めいたことは言わず、すんなり終わらせると検察官から言ってもらっているということを手紙に書いた。
③ 検事から、「絶対に負けないから一緒に頑張ろう」と言われた。
④ 検事から、「絶対藤井には負けないから、Nさん最後まで一緒に闘ってくださいね」というようなことを言われた。
⑤ 告発の件も今後どうするか検察庁で協議中だということを、弁護人から聞かされた。
⑥ 藤井市長の弁護人から告発が出たことを受けて弁護人と話したら、服役だと言われたので、O宛の手紙の中で「どういうことですかぁぁぁ??執行猶予はぁぁぁ??」と書いた。
⑦ O宛の手紙に、「藤井弁護団から、私の事を悪く言えば言う程、検察は私を守りに入ります。もちろんこれが公判では私に有利に働くでしょうし、検察側からの情状も出てくることになります」と書いた。
⑧ O宛の手紙に「10月1日、2日の証人尋問が終わるまでは必至にやっていかなければならないから大変です。失敗は許されないので」と書いた。「弁護団から聞かれることに対して私が答えられないこと」が失敗だと思っていた。
(引用以上)

この手紙の内容(しかもそれは中林氏本人が公判で証言)だけで、「アウト!」という感じですが、弁論では、更に贈賄供述の不合理性を指摘します。

検察のストーリーでは、金銭授受は2回に亘って行われたとしていますが、初めて賄賂を渡したガストでの会合に第三者の同席があったことを中林氏は失念していました。それはあまりにも不合理です。

(以下、弁論より抜粋引用)
被告人に現金を渡す目的だったのであれば、Tの同席に有無によって状況は全く異なったものになるのであり、そのいずれであったのか、記憶が曖昧であることは考えられない。3月27日の警察官調書作成時にT同席の有無についての記憶が曖昧であったのは、被告人に現金を渡そうという目的で会おうとしたのではなく、実際に渡した事実もないからにほかならない。
(引用以上)

しかも、その第三者の同席者は中林氏が声をかけて同席することになったものです。これまた極めて不合理です。

(以下、弁論より抜粋引用)
被告人に現金を渡す目的で会おうとしているのに、なぜ、それを知られたくない T に知らせたのかという点について、同調書では、「私は、Tさんには知らせずに藤井さんと 2 人で会おうかと思いましたが、2人で会ったことをTさんが後で知れば何か言われるかもしれないと考え、藤井さんと会うことはTさんに伝えておくことにしました。」

4月2日に N が被告人に会うことをTに事前に知らせ同行させたNの行動を、その日被告人に会おうとした目的が賄賂を渡す目的だったの前提で合理的に説明することは困難である。その場で被告人に賄賂を渡したとのNの供述自体の信用性に重大な疑問を持たざるを得ない。
(引用以上)

また現金授受の場所にガストを選択することも、ほとんどありえない状況です。

(以下、弁論より抜粋引用)
ガスト美濃加茂店は、国道41号線名濃バイパスと同41号線美濃加茂バイパスとの接続地点である美濃加茂インターチェンジを降りた場所で、美濃加茂市役所から約500~600メートル程度の距離にあるファミリーレストランである。そのような位置関係から、平日のランチタイムには美濃加茂市民はもちろん、美濃加茂市役所職員が利用することも十分に考えられる。当時、美濃加茂市議会議員であり、市役所関係者等多くの人に顔を知られている被告人にとって周囲の目が気になる場所で、被告人に現金を渡そうと考えること自体が極めて不合理である。

しかも、被告人らが着席したとされる席は、客が近づくことが多いドリンクバー付近であり、さらに店員が頻繁に利用する客席と厨房との出入口の真横の席である。このような席で市議会議員である被告人が、見知らぬ人間と同席して大きな封筒のやり取りをしているというだけで、周囲の客から見られたら怪しまれるのは当然であり、このような場所で、被告人に現金封筒を見せて確認させて渡したとのNの供述は明らかに不合理であり、信用できないものである。
(引用以上)

即ち、中林氏と藤井氏の会合は、賄賂の授受のためといったものではなく、単なるビジネス・ミーティングのためだったということです。それであれば、共通の知り合いである第三者の同席も、藤井氏の利便を考慮して市役所近くのガストを会合場所に選ぶことも何ら不自然ではありません。

中林氏の贈賄供述が不合理であり、信用性が全くないとするならば、なぜ彼は自ら贈賄の罪を着てまで何の恨みもないはずの藤井氏を罪に陥れようとするのでしょうか。

(以下、弁論より抜粋引用)
Nと検察官との間に、融資詐欺の起訴を最小限にとどめることの見返りに、贈賄自白を維持し藤井公判での検察官立証に協力するとの明示又は黙示の約束があり、弁護人の告発によって、4000万円の告発事実についての起訴は行なわざるを得なかったものの、さらに5700万円の追起訴を行えば、量刑が、N が許容できる限度を超え、N が当初の約束を覆し、検察官立証に協力しなくなることを恐れたものとしか考えられない。
(引用以上)

中林氏が合計3億7850万円の融資詐欺を働きながら、検察が当初立件したのは2100万円分だけでした。藤井弁護団の告発を受け、4000万円分は追起訴したものの、その後の5700万円分の告発に関しては、検察は追起訴を見送っています。

弁論の主張する「闇取引」は、不合理な贈賄供述がなされた背景を論理的に説明するものです。またそれ以外の状況では、中林氏の贈賄供述のメリットを説明することは難しいと考えられます。

この弁論での中林氏の贈賄供述の信用性をつき崩す論調は、容疑者を訴追する検察官そのものであり、さすが主任弁護人郷原信郎氏の自家薬籠中の物という印象を受けました。

次回はPart2として、弁論から「藤井氏の無罪性」を読み解きたいと思います。

(注1)
ここをクリック→ #検察なう (442) 「美濃加茂市長事件の構図」

(注2)
この検察主尋問の台本を作成した検察官は、かなりの確率で「隠れホリエモン・ファン」だと見ました。
ここをクリック→ ブック・レビュー 『ゼロ』 堀江貴文著

1/8/2015

















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2015/01/08 Thu. 02:32 [edit]   TB: 0 | CM: 6

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#検察なう (442) 「美濃加茂市長事件の構図」 1/5/2014 

#検察なう (442) 「美濃加茂市長事件の構図」 1/5/2014

前回のブログでは、藤井浩人氏の最終陳述の全文を掲載しました(注1)。次回以降のブログで、最終弁論を読み解こうと思いますが、その前に、美濃加茂市長事件の構図をおさらいします。

贈収賄罪は、贈賄と収賄がセットとなった対向犯ですが、検察の狙いは勿論、収賄側の検挙です。金欲政治家を検挙するということは、通常の犯罪の検挙とは世間の受けに差があると彼らは考えているからです。この、世間から正義の味方と思われたいという欲求は、検察官個人レベルではどこまで意識されているかは分かりませんが、組織の行動原理には宿痾のように染みついているものです。この事件の深層を読み解くには、ロッキード事件の幻影ともいえる、彼らの行動原理をまず理解する必要があります。(注2)

収賄罪の立証は、贈賄側の自供さえ取れればほぼ完成です。裁判官は、自分の罪を認める者の自供は信用するのに対し、自分の罪を否認する者の自供は「自己保身のため嘘をついている」として排除するパターンが出来上がっているからです。

「賄賂を贈った」「いや、受け取っていない」という供述が真っ向から対立しても、前者は自分の罪を認めており、収賄側を敢えて罪に陥れる特段の事情がないと認定されがちであるのに対し、後者は自分の罪を逃れようと反省もせず信用ならんと認定されがちだということです。

美濃加茂市長事件も着手段階では、まさにこのパターンを踏襲していたと思われます。しかし、事件着手後、検察側に誤算というべきことが3つ起こりました。

1) 2回の金銭授受があったとされた現場に、2回とも(同じ)第三者の同席が発覚したこと

2) その第三者同席者の取調べにおいて、彼に「金銭授受を見た」という供述をさせられなかったこと

3) 贈賄供述者の勾留中の隣房者が手紙を藤井市長宛てに送ったこと

→ 1)
事件の取調べ当初には、2回目の金銭授受があったとされる現場(4月25日、炉端焼店『山家』住吉店)に第三者の同席があったことは、贈賄供述者中林氏のメールから確認されていたものの、1回目の金銭授受の現場(4月2日、ファミリーレストラン『ガスト』美濃加茂店)に第三者の同席があったことは確認されていませんでした。

しかし、クレジットカード会社の照会回答で、レストランのレシート記録から、利用人数が2人ではなく3人であったことが分かると、贈賄供述者の供述はそれに合わせて変遷します。

→ 2)
しかし、その段階でも収賄の有罪立証に赤信号というわけではありません。その第三者に、「金銭授受を見た」という供述をさせれば、同席した3人のうち2人までが贈収賄の事実を証言していることになり、その時点で勝負は決します。

その同席者に対する警察・検察の取調べは過酷を極め、取調べ5日目には身体が痙攣を始め、椅子から転げ落ちて意識を失うほどの状況にまで追い込まれたといいます。それでも彼は金銭授受を見たとの供述はしませんでした。捜査当局が彼からかろうじて引き出した供述は、

「仮に、中林が藤井にお金を渡しているとするなら、私がトイレや電話などで席を外した際に渡しているのではないかと思います。」

「1年前のことですから、検事から途中で席を立ったことが絶対に無いかと言われれば、そうははっきりとは言い切れません」

という、立席の「可能性」に言及したものです。検察のストーリーは、同席者の存在が明らかになり、かつ彼が金銭授受目撃を否定し続けた時点で、この同席者が席を立った際に、金銭授受が行われたというものに変わっています。

→ 3)
これはかなり衝撃的なものです。公判が始まってから、贈賄供述者中林氏の詐欺師的なやり方と検察官との関係に憤りを感じた中林氏の勾留中の隣房者が、藤井氏に手紙を書いて、贈賄供述者の中林氏が詐欺師であることや、藤井氏が中林氏にはめられようとしていることなどを美濃加茂市役所宛てに送付したものです。

これらの誤算があっても、検察は結論ありきで突き進んだというのが美濃加茂市長事件の構図です。検察の「引き返す勇気」の欠如が、またもや露呈したと言っていいと思います。

推定無罪原則がことごとく軽視され、現実的には結局のところ、無罪の立証責任が弁護側にあるような日本の刑事司法において、藤井弁護団は、贈賄供述者の中林氏の証言の信用性をつき崩す必要があります。もし彼の供述が虚偽であるならば、なぜ、自ら贈賄罪という罪を着てまで、藤井氏を罪に陥れる必要があったのか。それが弁論の最大のポイントです。

次回以降のブログで藤井弁護団の弁論を読み解いていきたいと思います。

(注1)
ここをクリック→ #検察なう (441) 「美濃加茂市長事件~藤井浩人氏公判結審」

(注2)
ここをクリック→ #検察なう (308) 「吉永祐介元検事総長死去、東京新聞コラム『筆洗』」

1/5/2014













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category: 美濃加茂市長事件

2015/01/05 Mon. 00:01 [edit]   TB: 0 | CM: 1

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フィルム・レビュー 『エクソダス:神と王』 リドリー・スコット監督 

フィルム・レビュー 『エクソダス:神と王』 リドリー・スコット監督

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「好きな監督」と「好きな映画の監督」は、必ずしも一致するわけではない。リドリー・スコットはmy all time favoriteの『ブレードランナー』を含む複数の好きな映画(『エイリアン』『ブラック・レイン』『グラディエーター』)の監督。多分、前者と後者の違いは、好きでない映画が多いかどうかかもしれない。リドリー・スコットは、2000年の『グラディエーター』以降、つまらない作品が続き、おととしの『プロメテウス』でようやく"He's back!"と思った「好きな映画の監督」である。

この映画は勿論古代史を題材としていて、『グラディエーター』アゲインの期待も高かったが、映画の出来としては微妙。

かなり丹念に出エジプト記をなぞっているが、逸話として面白みがあるのは「十の災い」と「葦の海の奇跡」であることは間違いない。そこに至るまでの過程が長く、150分という上映時間は、旧約聖書や古代オリエント文化に興味がなければあまりにも長い。

そもそも古代オリエントの話なのに、主要な登場人物が白人で英語をしゃべっているのには違和感を否めなかった。イギリス人のクリスチャン・ベールがモーゼというのはいかがなものか。また、同じヘブライ人の奴隷役でも主要な役柄は白人なのに、セリフのない役者がほとんどカラードというのは人種差別の配慮に欠けた配役だと思われた。

興味深かったのは、出エジプト記を丹念に踏襲しながらも「奇跡」ではなく、実際にあった現実味のあるできごとであることを意識して作られていること。これはもし興味があれば、是非観て私が言っている意味を確認してほしい。

ということで、「好きな映画の監督」のリドリー・スコットの作品だが、合格点はあげることができない出来。但し、旧約聖書や古代オリエント文化に興味があれば、観て退屈しないと思われる。逆に言えば、それ以外の人は終わり30分(45分かな)だけを観に行く感じ。

最近似たジャンルの作品に、『サン・オブ・ゴッド』(新約聖書ネタ)、『ノア 約束の舟』(旧約聖書ネタ)があるが、それらよりよかったことは間違いない。

ここをクリック→ 『エクソダス:神と王』予告編

(Facebook 12/16/2014より転載)









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2015/01/04 Sun. 00:10 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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「死刑制度について考える (5) ~死刑制度維持にかかるコスト」 

「死刑制度について考える (5) ~死刑制度維持にかかるコスト」

「罪人を長期間収監するコストを考えれば、さっさと死刑にした方が安上がりだ」というのは若干乱暴な言い方ですが、そうかもと思われる方もいらっしゃるかもしれません。

それは正しいでしょうか。

実はそれは正しくありません。死刑制度は、存置する方がはるかにコストのかかる刑罰です。アメリカでは実際に、経費削減から死刑を廃止するケースもあります。

ここをクリック→ 『米各州で死刑制度廃止の動き、経費削減のため』

それは、少し考えればすぐに納得がいくことです。死刑制度維持にコストのかかる一番の理由は長期化する公判にかかる訴訟費用です。

死刑という極刑が選択肢にある場合、審理に慎重になり、公判が長期化することは仕方がないことです。中には公判が50回を越える場合もあります。

公判1回ごとにかかる費用を正確に算出することは不可能ですが、裁判官、検察官、(国選)弁護士の人件費は安くはなく、そのほかの経費を含め、一般に公判1回300万円と言われています。それが税金で賄われることになります。

死刑求刑というカードが選択肢になければ、公判を短縮することが可能となり、一審、控訴審合わせて、例えば30回の公判を25回に減らすことが可能であれば、それで約1500万円の節約になります。

対して、年間の収監費用は一人当たり50万円程度です。法務省矯正局は、死刑確定者だけの収監費用は算出していませんが、すべての被収容者の1日当たりの収監費用は約1400円としています(注1)。5回の公判短縮だけで一人約30年分の収監費用がカバーできます。

しかも死刑囚の収監費用は、一般の収監費用の3~4倍と言われます。一般収容者が刑務作業によりある程度自給自足が利くのに対し、死刑囚は刑務作業をさせることができず、食事代、部屋代、被服代、水道光熱費、医療費が100%税金で賄われなければならないからです。死刑確定から執行まで平均5年(注2)、再審請求により、死刑囚の収監がそれよりはるかに長期化するケースもあります。

しかしながら、結論から言えば、100人程度の死刑囚であれば、死刑制度を廃止することによる経費削減は有意なものではなく、日本においては「死刑制度はコストがかかるため、経費削減のために死刑を廃止する」ということにはならない、と考えていいと思われます。

つまり、冒頭の「罪人を長期間収監するコストを考えれば、さっさと死刑にした方が安上がりだ」は少なくとも誤りだ、という理解があればいいものです。

(注1)
ここをクリック→ 「刑務所に収容されている人ひとり当たりの年間経費がわかる資料はあるか。」

(注2)
ここをクリック→ 平成26年6月に行われた死刑執行の際の記者会見で、法務大臣は「平均5年6ヵ月」と答えています。











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category: 死刑制度について考える

2015/01/01 Thu. 00:54 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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