「蟷螂の斧となろうとも」 by 元外資系証券マン

クレディ・スイス証券集団申告漏れ事件(http://goo.gl/v0xQYP)において、国税局査察部告発、検察特捜部起訴の事案で史上初の無罪判決。 著書『勝率ゼロへの挑戦 史上初の無罪はいかにして生まれたか』(光文社)。 ツイッター(@thatta0529)で「#検察なう」の情報発信を続けます。

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#検察なう (453) 「国税不服審判所に上申書を提出しました」 2/26/2015 

#検察なう (453) 「国税不服審判所に上申書を提出しました」 2/26/2015

国税局は、刑事告発後、重加算税(注1)を賦課し、私は一旦、それを支払いました。これはその後のいきさつです。

2010年4月 重加算税納付
 ↓
2010年6月 異議申立
 ↓
通常、3ヵ月以内に異議決定がなされるが、国税局はこれを放置
 ↓
2010年12月 国税局は決定をすることなく、「審査請求をすることができる旨の教示書」なる文書を送付してくる(注2)
 ↓
2014年2月 控訴審で無罪判決維持後、検察上告を促すべく不服審判請求(注3) 
 ↓
2014年6月 国税局は、重加算税を説明もなく取り消し、過少申告加算税・無申告加算税に変更決定
 ↓
現在、依然、不服審判請求中

ここをクリック→ <国税の不服申立制度の概要図>

国税局には、不服審判所を通して、そもそもの重加算税の賦課理由及び、それを過少申告加算税・無申告加算税に変更決定した理由の説明を求めていますが、国税局はこれを拒否し続けています。その国税局に対して、先週、私は上申書を提出しました。以下がその文面です。

上申書

審判官殿

納税は国家の礎を築くための非常に重要な国民の義務です。その義務を国民に課す作用の反作用として、国家には大きな責任が生ずると思います。一人一人の納税額が異なる以上、なぜその納税額が相応かを納税者に説明する責任です。その説明責任を果たして、初めて「公正」な課税が実現できると信じています。

もし説明責任を果たさず、一方的に義務だけを国民に押し付ける場合、それは圧政であり、民主的な近代国家たり得ないものです。

国税局は、私に対し重加算税を課し、それを一方的に過少申告加算税・無申告加算税に変更しました。私は、その都度、幾度となくその賦課理由及び変更理由の説明を求めてきましたが、いまだかつて一度も国税局はその説明義務を果たしていません。それで、どうしてこの国の徴税権力が「公正」な課税を国民に課していると言えるのでしょうか。

重加算税が取り消され、過少申告加算税・無申告加算税に変更されたとしても、私は、一旦はその重加算税を納入している以上、国税局による説明責任が消滅するものではないと強く思います。

審判官殿におかれましては、そのような徴税権力の恣意的な行使を看過することなく、「公正」な課税を目指して、公平な第三者機関として厳しく徴税権力を監視されることを国民の一人として切に望むものです。

(注1)
重加算税
国税における加算税の一つ。過少申告加算税が課される場合(申告書に記載された金額が過少),または不納付加算税が課される場合(正当な理由なく法定納期限までに納付しない)において仮装隠蔽の事実があるときに基礎となる税額に対し 35%の税率で,無申告加算税が課される場合(正当な理由なく申告期限内に申告しない)において仮装隠蔽の事実があるときに基礎となる税額に対し 40%の税率で課される追加課税。

(注2)
ここをクリック→ 経過報告 (15) 「2011年元日に際し」

(注3)
ここをクリック→ #検察なう (370) 「検察上告を促すべく、不服審判請求をしました」

P.S.
3月7日、愛知県弁護士会の主催で、「『新時代の刑事司法』は?」と題して元特捜検事前田恒彦氏と名古屋でパネルディスカッションをします。お近くの方は是非お越し下さい。

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#検察なう (452) 「#検察なう フェイスブック・コミュニティ」 2/23/2015 

#検察なう (452) 「#検察なう フェイスブック・コミュニティ」 2/23/2015

刑事司法の矛盾や冤罪に関する情報を発信、ディスカッションする場として、フェイスブックのコミュニティを運営しています。

そのコミュニティの管理者に、この度『検事失格』の著者、市川寛氏が加わりました。

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これを機に、カバー写真とプロフィールのサムネイルをリニューアルしましたので、是非ご覧下さい。

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コミュニティの正式名称は、「#検察なう 刑事司法の矛盾、冤罪と戦う八田隆と全ての人を支援する会」という、「山本太郎&フレンズ」のようなダサい名称なので、市川氏の参加を機に変更しようとしました。しかし、「いいね!」が200を越えると、名称変更は1度しかできず(私の無罪判決を機にコミュニティの名称を1度変えているため)、コミュニティの名称はこのダサいままで失礼することになりました。コミュニティ名は、頭を取って「#検察なう フェイスブック・コミュニティ」「#検察なう FBコミュニティ」あるいは単に「#検察なう コミュニティ」と呼んで頂ければと思います。

刑事司法の問題点を指摘し、皆様に考えて頂く題材を提供すべく、今後、更に拡充を図っていこうと思っていますので、是非ともご支援の程よろしくお願いします。

P.S.
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category: 刑事司法改革への道

2015/02/23 Mon. 00:01 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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フィルム・レビュー 『シチズンフォー』 ローラ・ポイトラス監督 

フィルム・レビュー 『シチズンフォー』 ローラ・ポイトラス監督

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映画『シチズンフォー(Citizenfour)』観賞。

エドワード・スノーデンのNSA告発を描いたドキュメンタリー映画。

この映画を観る前の私のスノーデン事件やNSAに関する知識は限定的だった。NSA(National Security Agency)は、同じ諜報機関でも人間を使う有名なCIAより国家予算が多いアメリカ最大の政府機関の電子機器を使う諜報機関とか。セキュリティが厳しいので、職員の間でのジョークはNSAは"No Such Agency"の略だとか。スノーデンはその諜報活動を暴露して、第三国に亡命を希望していたとか。

そして、この映画を観る際、スノーデン事件がいかなるものであったかを解説するヒストリーチャンネルのようなものを期待すると完全に期待はずれとなるだろう。

ちなみにタイトルの"Citizenfour"は、スノーデンがジャーナリストにコンタクトした際のコードネーム。

スノーデンがNSAを告発するまさにその瞬間が、このようにドキュメンタリーに撮られているとは全く知らなかった。映画はいきなり始まる。NSAが何かもスノーデンが誰かも全く説明がない。確かに神経質な雰囲気はあるものの、それでも香港のホテルに缶詰めのスノーデンに、歴史を変える告発をする緊張感は見られない。それでいて、専門的かつ抽象的なことをまくしたてる始まってしばらくは、事前の知識がない自分にとっては、全く何が起こっているかを理解するのも辛いという内容だった。

それが最初は匿名でニュースになり、そしてその後に名前を公表する段階になって、緊張感は一気に加速する。自国政府を敵に回し、生命の危険すら感じるスノーデンと、彼を守ろうとするジャーナリストや人権弁護士の攻防である。
映画は、スノーデンがロシアに亡命し、長年つきあっている彼女も一緒に住み始めるところまで。結局映画では、スノーデンの告発がどれほどすごいものなのか、それが具体的に描かれることなく完結する。

つまりこの映画は、スノーデン事件の内容や歴史的価値を理解した者のみが味わえるもの。それ以外の人間にとっては、歴史的瞬間を共感するという感動は到底得られないだろう。

ただ、映画に描かれたスノーデン事件後の各国の対応の中で、コンファレンスで発言していた匿名化ソフトTorの開発者ジェイコブ・アッぺルバウム(耳を横断するアローのピアスがかっこよかった)の「われわれが過去に自由や解放と呼んでいたものは、いまやプライバシーと呼ばれるようになった。そして今、プライバシーは死んだと言われている」という言葉は現代のまさに危機的な状況を言い表していると感じた。

ここをクリック→ 『シチズンフォー』予告編

(Facebook 12/22/2014より転載)











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category: フィルム・レビュー

2015/02/22 Sun. 00:01 [edit]   TB: 0 | CM: 3

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#検察なう (451) 「森炎氏著『教養としての冤罪論』解題 (8) ~冤罪ライン⑦ 「第三者の証言の虚実をどう見抜くか」」 2/19/2015 

#検察なう (451) 「森炎氏著『教養としての冤罪論』解題 (8) ~冤罪ライン⑦ 「第三者の証言の虚実をどう見抜くか」」 2/19/2015

目撃証言は有力な証拠であることは間違いないと思います。しかし、見間違いということも、当然可能性としてはあり、目撃証言が有罪立証の柱であれば、その冤罪性をどう評価するかは重要です。冤罪ラインの議論の最終章として、第三者の証言に含まれる冤罪性を議論しています。

「純然たる目撃者(虚偽を述べる動機のない者)の証言は、ありのままを述べているわけだから、もちろん、信用できる。他方、信用できるとしても、見間違いということは、これも、もちろん、あり得る。

しかし、見間違いは、それほどはないだろうと、これまでは考えられてきた。ところが、近年になって、それを覆す事実が判明した。」

「DNA鑑定の発展に伴って、前世紀末頃から、アメリカでは、「無辜再発見」のイノセンス・プロジェクトが大々的におこなわれた。DNA鑑定がない時代に有罪判決を受けて拘禁されている死刑囚などに対して、あらためてDNA鑑定による再検証が実施されたのである。その結果、DNA型が合ってないという例が続出した(釈放例は現在までに300を超える)。」

「調査で明らかになった「無辜再発見」事例の79%に目撃証言が存在していたという報告結果が出た。」

その79%のケースで、目撃証言がどれほど有罪立証に決定的な影響があったかはうかがい知れず、他方数多くの正しい目撃証言もあるはずで、79%というのは目撃証言の「はずれ率」ではありませんが、それでも実に驚くべき数字です。

森氏は、目撃証言の確度を測る基準として、2つの条件を述べます。その一つが「汚染された証人かどうか」、もう一つが「既知証人であるかどうか」です。

前回のこのシリーズのブログでは、共犯供述の問題について述べました。

ここをクリック→ 冤罪ライン⑥ 「犯人の知人・友人が共犯者とされるとき」

共犯供述の「問題は、一言で言えば、共犯者が、いわば汚染された証人だからである。共犯者には、一般的に、いま述べたような不純動機の疑いがあり、証人資格(その地位、立場、性質)の点で汚染されていると言える。

そして、これは何も、共犯者の場合に限らない。

たとえば、同房者の証言は、その疑わしさの点では、共犯供述に近い。同房者の証言とは、被疑者同士として同室になった者が、本人から犯行をほのめかされたとか、それに類することを聞いたなどという、かなり胡散臭い事柄である。そのほとんどは、動静を探る警察スパイ活動としておこなわれる。このようなことを法廷で証言した同房者には、多くの場合、起訴が見合わせられたり、起訴されても軽い刑が求刑されたりなどの特典が与えられる。」

「いちがいに、証言内容の真偽をどうこう言うことはできない。それこそ、人により、時と場合により、事件により様々である。しかし、証人の資格(地位、立場、性質)は別である。つまり、証言内容の真偽はわからないとしても、証人の資格から冤罪の危険を推定することはできる。そこから、理念型としての冤罪性をとらえることが可能である。」

もう一つの重要な要素が、目撃証人と被告人が既知かどうかです。

「目撃対象が既知の人物かどうかは、目撃の正確性に大きくかかわる。普段からよくよく知っている人間を犯行現場で見たという場合、見間違いはほとんど考えられないだろう。また、多少面識があるにすぎない程度でも、初見と比べれば見間違いは少ないはずである。」

「イノセンス・プロジェクトであからさまになった意外な結果は、目撃証言には、既知証人でないことから来る限界があったこと、そして、それが予想をはるかに超えて大きかったことを暗示している。

証言一般に関する冤罪性を「①汚染なき証人―②汚染された証人」、「(a)既知証人―(b)未知証人」という道具連関で考えるとき、たとえば、レイプ事件の被害者の(多く)は、①(b)であり、そこには、未知性(初見)の問題がある。

共犯供述は、②(a)であり、汚染(不純動機)の問題がある。

結局、証人が①(a)(「汚染なき既知証人」)でなければ、有力証人とは言えないとみるべきなのだろう。」

そして、「実験心理学の知見」と題されて述べられる、以下の事柄は、裁判員裁判制度の下で、人を裁く可能性のある我々は、広く共有すべき知識だと思います。

「被害者(あるいは被害者家族)に限らず、重大事件の目撃者は、目撃している間、驚愕・恐怖・嫌悪・憎悪等の大きな心理的動揺を免れない。実験心理学の知見によれば、強度のストレスのもとでは記銘力や記憶の保持が低下することが認められている。

また、鈍器や刃物が凶器として用いられた場合、それらに目を奪われてしまうことで、人物に対する記銘力がぼやけてしまう「凶器注目効果」も言われている。さらに、別の場所や写真で見ただけの人物を実際に犯行現場で見たと思い込んでしまう「無意識的転移」現象もあるという。

これらのメカニズムは、過去の確固たる記憶と照らし合わせる既知証人では生じにくい。が、通常の目撃者にとっては「記銘―保存―想起」の過程において、多かれ少なかれ、かかる障害を免れない。

したがって、初見の目撃者にあっては、特別な事情がない限り、その目撃情報に有罪方向への大きな牽引力を認めることは躊躇される。特別な事情とは、犯人の容貌が特異であるとか、顕著な身体的特徴があるとか、あるいは、例外的に冷静な状況下で犯人と接していた(たまたま、犯行を目の当たりにする前に日常的状態において接する時間帯があった)などの事柄である。

目撃証言の評価が問題となるのは、多くは、科学的証拠や客観的証拠など、他に有力な証拠がない場面である。

つまりは、目撃証言だけでは、理念型としての冤罪性は減少しない。冤罪性減少を認めることができるのは、「汚染なき既知証人」や、いま述べた特別事情がある場合に限られるとみるべきだろう。

共犯供述にあっては、共謀者間の人的関係、組織内における地位、組織・集団自体の特性などから、証人の「汚染」が払拭される場合に限られることになる。」

教養としての冤罪論

P.S.
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category: 冤罪事件に関して

2015/02/19 Thu. 01:53 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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#検察なう (450) 「『週刊東洋経済』記事「マルサの憂鬱」 2/15/2015 

#検察なう (450) 「『週刊東洋経済』記事「マルサの憂鬱」 2/15/2015

『週刊東洋経済』最新号(先週月曜日発売)の特集は、「税務署が来る」です。

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ここをクリック→ 『週刊東洋経済』

いかにも性格の悪そうな税務署員が、身分証明書を差し出しながら「ガッポリ税金いただきます」と言っている表紙のデザインはかなりインパクトがありますが、当事者にとっては、あまり愉快ではないブラックなユーモアです(と言いながら、個人的には結構ウケてましたが)。

特集は東洋経済らしい経済ネタですが、「国税庁の正体」と題する一節では、「最強の調査部隊 マルサの憂鬱」と題して、私の巻き込まれた「クレディ・スイス証券集団申告漏れ事件」を扱った田中周紀氏(注)による記事が4ページに亘って掲載されています。

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「(査察部)発足から2013年2月まで、脱税の指南役が無罪になるケースがほんの数件あったものの、脱税した本人が無罪になることは一度もなかった。マルサは発足から65年の長きにわたって「不敗」を続ける、絶対的な存在だった。」

「だが、その不敗神話もついに崩れ去る時が来た。クレディ・スイス(CS)証券の八田隆・元外国債券営業部長(当時49)に対する所得税法違反容疑事件だ。今も国税関係者の間で'八田ショック"と呼ばれるこの歴史的な事件は、査察部だけではなく「徴税権力」全体に計り知れない衝撃をもたらすことになった。」

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私の無罪判決を受けて、国税局、検察及び裁判所の最近の動向の変化までカバーした記事を、明日の次号発売前に是非、書店等でお手に取ってご覧下さい。

(注)
田中周紀氏 『国税記者 実録マルサの世界』の著者
ここをクリック→ Amazon 『国税記者 実録マルサの世界』

P.S.
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2/15/2015












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2015/02/15 Sun. 01:15 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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#検察なう (449) 「森炎氏著『教養としての冤罪論』解題 (7) ~冤罪ライン⑥ 「犯人の知人・友人が共犯者とされるとき」」 2/12/2015 

#検察なう (449) 「森炎氏著『教養としての冤罪論』解題 (7) ~冤罪ライン⑥ 「犯人の知人・友人が共犯者とされるとき」」 2/12/2015

『教養としての冤罪論』のこの章では、「犯人の知人・友人が共犯者とされるとき」と題して、先に逮捕された犯人の供述により犯人の知人・友人が共犯者とされる場合の冤罪リスクを論じています。

ここでの問題は、犯人がいて、その犯行があり、それらを前提としたうえで、外側にいる無実の者が、そこに引きずり込まれる危険性です。捜査側から見れば、真犯人自身は捕捉でき、事件自体も一応は解明できたのですが、プラスαとして共犯者がいるかどうかという場面です。

どうして犯人による共犯者に関する供述が危険かといえば、それが目撃証言の一つとして扱われるためです。「〇〇と一緒に犯行を行った」という供述は、たとえ「(嘘の)自白」であってもその供述の性格は自白ではなく、目撃証言とみなされます。

森氏は以下のように述べます。

「結局、供述(=「供述証拠」)の法的性質としては、目撃証言と同じ扱いになる。供述の動機や意図あるいは真意は別にして、性質論としてはそうならざるを得ない。

つまり、共犯者とは、一部始終を見ている目撃者である。また、犯人を間近で見ている目撃者である。かつまた、一見の目撃とは異なり、見間違いなど考えられない目撃者である。」

勿論、共犯者は特別な利害関係を持っています。しかし、それだけでは目撃証言者たることの妨げにはならない、ということです。

そうした共犯供述の問題性は、実質的に見れば、その供述の動機、意図、真意には不純なものが大いに疑われるのに、立証すべき「誰が、いつ、どこで、誰に対して、どのような行為をしたのか」の全てが直接立証されたことになってしまう点にあります。

虚偽の共犯供述の動機には、以下のようなものが考えられます。

①  罪の軽減を図るために、主犯を仕立てる(このタイプの不純動機は、捜査側が複数犯説を取っている場合に、とりわけ問題となります。捜査側の思惑と結びついて、共犯冤罪危険を高めることになります)。
②  親族などの真の共犯者をかばうために、別の他人を共犯者に仕立てる
③  恨みをもった者に濡れ衣を着せる

このような共犯供述による冤罪パターンとして、森氏は八海事件(1951年)と梅田事件(1950‐51年)を挙げます。そして森氏は、真犯人が不純な動機をもって「〇〇も現場にいて一緒に犯行を行った」とする共犯供述によって冤罪が生み出されるパターンを「古典的共犯冤罪性」と名付けています。

それらは、DNA鑑定などの科学捜査時代への過渡期に起こった事件で、犯罪立証を関係者の供述に頼らざるを得なかった時代であったために共犯冤罪が生じたものです。

そして現代における共犯冤罪の重点は、別のところにあると森氏は指摘します。現代的共犯冤罪は、「共謀共同正犯」という「先進諸外国にはない日本特有の法理」にあるとするものです。

「共謀共同正犯」というのは、我々一般人にはなじみの薄い言葉で、私もこの本を読んで初めて意識した法律用語でした。森氏の解説を引用します。

「数人で犯行を一緒におこなうことを共同正犯と言うが、犯行を一緒におこなったと言えるためには、共謀(共同謀議)が必要である(単なる同時犯との区別のため)。そして、それこそが共同正犯の本質とされる。数人の者が共謀し、全員で一緒に殺人を実行した場合は、もちろん共同正犯であるが(実行共同正犯)、数人の者が共謀し、そのうちの一部の者が殺人を実行したにすぎない場合でも、共謀がある以上、共同正犯となる(共謀共同正犯)。つまり共謀に加担しただけの者も殺人罪に問われるし、殺人を実行しなくとも、結局は殺人犯そのもの(=正犯)になる。そして、その共謀において主導的役割を果たしたと見られれば、犯行を少しも分担実行していなくとも主犯とされる。共謀こそが、この場合の本質だからである。

その趣旨は、自分では手を下さずに、背後で実行者を操る者に厳罰を加えることにある。一言で言えば、黒幕を重罰に処するためである。」

先に述べたように、この「共謀共同正犯」という考え方は、先進諸外国にはない特殊なもので、諸外国では、共謀共同正犯に相当する共謀者は、教唆犯または幇助犯とされ、あくまで実行犯とは区別されます。その結果、共犯者=主犯という構図にはなりにくいものです。対して日本では、犯行を少しも分担していない共謀者について、その刑が、死刑までの青天井となることが特色です。

この共謀共同正犯という考え方が、共犯冤罪に暗い影を落としたケースとして、本書では「富山・長野連続女性誘拐殺人事件」が紹介されています。その事件は次のようなものでした(注)。

1980年、富山県と長野県にまたがる連続女性誘拐殺人事件が起きました。

まず、富山で女子高生が外出して戻らず、家に女の声で「娘さんを預かっている。相談したい」という電話がありました。しかしその後は連絡がなく、女子高生の消息も途絶えました。

10日後、今度は、長野で信用金庫の女子職員が勤め先から戻らず、自宅に女の声で身代金3000万円を要求する電話があり、家族が受け渡し場所に赴いたものの、犯人は現れず、こちらもそれっきりになりました。

その後、行方不明となった二人の女性は、絞殺死体となって見つかりました。

この二つの事件のそれぞれの行方不明地点付近で「赤いフェアレディZに乗ったトンボメガネの女」が目撃されていました。警察の捜査ですぐにギフトショップを経営する30代の容疑者の女が浮上し、その女の声紋と身代金交渉の電話の声紋が一致したことなどから逮捕に至りました。

動機は、ギフトショップが経営難に陥り、サラ金に手を出して数千万円の借金を負っていたことです。そして、返すあてのないローンをしてフェアレディZを購入し、誘拐で大金を得ることを考え、実行に至ったとされます。

その女には、死刑判決が下り、控訴、上告いずれも棄却され、1998年死刑が確定しました(女性死刑囚としては連合赤軍事件の永田洋子以来、戦後7人目)。

この事件では、共犯者とされた男性がいました。犯人の女と愛人関係にあった20代の男性で、ギフトショップの共同経営者でした。最初の富山の事件では、男性に関する目撃証言がありました。地元のレストラン従業員によれば、店内で、犯人の女と被害者と思しき若い女性、それに、この男性が一緒にいるところを目撃したとされます。

二番目の長野の事件では、この男性は、足掛け6日間、犯人の女と行動を共にしていました。女が殺害現場の下見をしたときには車の運転をし、女が人質の家族に身代金要求の電話をかけたときには傍らにおり、指定した身代金受け渡し場所にも女と一緒に向かっていました。そして、警察官の気配に気づいて女とともにそこから逃げ出していました。

検察は、この20代の男性を共犯として起訴しました。しかも、「男が犯行を主導し、女がこれに従った」として男性を主犯と断じました。富山・長野の両事件とも、肝心の殺害行為をおこなったのは男性の方であるとしました。これらは、女の供述に依拠したものでした。

裁判では、この男性は冤罪を訴えました。「事件は女の単独犯で、自分は全くあずかり知らない」と申し立てました。

裁判の審理が進むにつれて、次のような意外な事実が明らかになっていきました。

二人の男女関係は常に女の主導で、男性はすでに家庭があるにもかかわらず半同棲生活に引きずり込まれるなど、年下の男性が年上の女にいいように振り回されている構図が浮かび上がりました。それとともに、最初の富山の事件の殺害時には自宅にいたこと、二番目の長野の事件の殺害時にはホテルでテレビを見ていたことが判明しました。

これらの事実が明白になったため、男性が殺害行為を実行したとは言いがたくなりました。検察の構図は崩れたのです。

しかし、それでも、検察は「男性が共犯として責任を負うことは何ら変わりがない」としました。なぜか。それは、たとえ誘拐、身代金要求、殺害、死体遺棄などの行為を全部、女がおこなったとしても、男性は共謀共同正犯として、これらのすべての刑事責任を免れないと検察は主張したからです。

以上の経過のうち、男性が共犯者として殺人を実行したという嫌疑を受け、しかし、アリバイによってそれが違うことが判明するまでは、共犯の古典的冤罪性の範疇です。しかし、それで冤罪という結論にはならずに、続きがあるところで現代的冤罪性に切り替わるものです。検察が「共謀した以上は、依然、共犯である」として、なおも罪に落とそうとするところに、それが見て取れます。

結局、判決は一審無罪。検察はそれでも引き下がらず、あくまで件の男性は共謀共同正犯だとして争いました。二審でも男性無罪の結論は変わりませんでしたが、この事件の経緯は、共謀共同正犯という考え方の微妙さ、つまりは現代的共犯冤罪性を露わにしています。

森氏は次のように述べます。

「共謀共同正犯では、犯行を少しも分担しなくとも、共謀に加担すれば罪に問われる。その結果、必然的に次のようなことにならざるを得ない。

共犯の嫌疑をかけられた者は、「自分は全然手を下していない」と主張し、たとえ、それを立証したとしても、罪を免れない。また、犯行時間帯のアリバイを立証したとしても無効である。ここでは、共謀のみが問題だからである。

客観的証拠も必ずしも要求されない。「共謀」の有無は、言葉の問題であり、その立証に客観的証拠を求めること自体が無理だからである。

逆に言えば、冤罪の証を立てることはそれだけ難しくなる。共謀共同正犯という考え方自体に冤罪性が含まれているとも言える。まさに、現代的共犯冤罪性は、共謀共同正犯という特殊法理と表裏一体である。」

要するに、関係者の間に共謀があったかどうかという事柄は、外部からは曖昧模糊としていて、最終的には裁く者の評価に大きく依存せざるを得ないものです。そこでは、単に共犯者の供述するところではなく、言うような共謀の客観的な素地があるかどうかを確かめる必要があります。人間関係がどうであったかという、刑事裁判らしからぬ社会的な見方が求められ、裁判員裁判において市民感覚が発揮されるべきシチュエーションではないでしょうか。

(注)
富山・長野連続女性誘拐殺人事件の詳細はこのサイトに紹介されています。
ここをクリック→ 宮崎知子の生い立ち [富山・長野連続女性誘拐殺人事件]

教養としての冤罪論

P.S.
3月7日、愛知県弁護士会の主催で、「『新時代の刑事司法』は?」と題して元特捜検事前田恒彦氏と名古屋でパネルディスカッションをします。お近くの方は是非お越し下さい。

ここをクリック→ 愛知県弁護士会「取調べの可視化市民集会」

2/12/2015














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category: 冤罪事件に関して

2015/02/12 Thu. 00:01 [edit]   TB: 0 | CM: 1

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外資系証券なるもの (19) 「戦士の休息」  

外資系証券なるもの (19) 「戦士の休息」

私が社会人になって最初に入り14年間勤めたソロモン・ブラザーズ証券でも仕事は忙しかったのですが、クレディ・スイス証券に移ってからの仕事の量はその比ではありませんでした。

印象としてはクレディ・スイス証券では、ソロモン・ブラザーズ証券にいた頃の倍は働いたような気がします。勿論、一日の時間が限られている以上、倍ということはありえないのですが、それだけクレディ・スイス証券では忙しかったし、働くのが楽しかったものです。そして、これが不思議な事に、この後ベアー・スターンズ証券に移籍した後は、クレディ・スイス証券の更に倍とは言わないまでも五割増しで働いたような印象でした。昇進して会社でのランクが上がれば上がるほど忙しくなるのが外資系証券の世界です。

その忙しさの感覚はボクサーの減量のように、ぎりぎりまで体重を落とすとそれからの数百グラムの減量が大変なことと近いものです。それでも最終的にはそれを可能にするのですから、人間のポテンシャルというのは自分で限界を決めているように感じます。

一口に忙しいといっても、私が従事していたトレーダーという仕事は、一日の中でその忙しさに波があります。取り引きの瞬間は、否応なくそれに集中せざるをえないのですが、それ以外の時間も暇ということではなく、自分で考えて有効に使わなければなりません。それはあたかも狩猟で、獲物が現れた瞬間は目の前の獲物に集中しますが、それ以外の時間は槍を研いだり、けもの道を研究したりすることに似ています。

一日の中でも精神的にもいつも緊張しているわけにはいかず、弛緩する時間も必要でした。私の最高の気分転換が仕事中の歯医者通いでした。ソロモン・ブラザーズ証券のオフィスと同じ赤坂のビル内にオフィスを構えていた歯医者に私は毎週のように通い、会社を変わっても同じ歯医者に通い続けました。歯医者というのは、問題が生じたから行くわけでなくとも、日頃のメンテナンスや、噛み合わせの調整など案外通う理由があるものです。

香港ノワール映画の代表作の一つに『インファナル・アフェア』があります。ハリウッドでもマーティン・スコセッシ監督によりリメイクされた映画です(オスカーを受賞したハリウッド・リメイク版の『ディパーテッド』はひどい出来でしたが)。マフィア組織に潜入捜査していたトニー・レオン演じる捜査官が、ケリー・チャン演じるセラピストに、極度の緊張から逃れるつかの間の休息のために通うというシーンが出てきます。毎週通った歯医者の診療台は、私にとってはまさに映画のセラピストのベッドでした。ドリルの振動が心地よいバイブレーションとなって響き、診療台に備えられたテンピュールの枕が頭の中の澱を吸い取ってくれるかのように深い眠りに落ちるのです。

院長の福田原先生(今は私のゴルフの好敵手)も最初の頃は「八田さん、頑張って起きていて下さい」と言っていたのですが、そのうち心得たもので、私の診療の時は口を開けたままにしておくマウスピースをつけてくれるようになりました。

そうして一時間近くぐっすり休んで英気を養って、私はまた仕事ができるのでした。













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category: 外資系証券なるもの

2015/02/09 Mon. 00:01 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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フィルム・レビュー 『2つ目の窓』 河瀬直美監督 

フィルム・レビュー 『2つ目の窓』 河瀬直美監督

2つ目の窓

遅ればせながら『2つ目の窓』鑑賞。恥ずかしながら、これが河瀬直美初体験。

圧倒的な奄美の自然を背景に、人間の死生観をメインテーマとして、少年少女の大人への成長をモチーフとして描くこの映画はあまりにも完璧。河瀬直美のこの作品との邂逅は、是枝裕和の『幻の光』や西川美和の『ゆれる』に匹敵するもの。

ユタ(民間信仰の巫女)が祭祀を司り、自然との一体感、神への畏敬の念を抱きながら人々が暮らす奄美。神々は草木や石にも、水にも宿るという穢れなき神の島。それを磁場とした死生観を描く映画には、テレンス・マリックの作品に通ずる哲学を感じた。

しかし、その作品はあまりに完璧ゆえに、是枝や西川の作品を「抱きたい」と感じさせるのに対し、神棚に供えたい感じ。

高校一年生の杏子(吉永淳)が恋慕の気持ちや性衝動をストレートにぶつけるのに対し、界人(村上虹郎)は母親の女性としての部分を見出して動揺し、杏子を受け入れられずに葛藤する。二人の瑞々しい演技は秀逸で、特に自転車で転んで「大丈夫か」「......心が......痛い」というシーンは特筆もの。

敢えて欠点を見出すとすれば、自然なセリフの中に、時折ふっと衒学的な匂い(杉本哲太の「波」のセリフとか)があるが、ケチをつけるほどではない。

邦画のレベルは格段に上がっているが、この作品も名作の一つに数えられるべきだろう。ブラヴォー!

ここをクリック→ 『2つ目の窓』予告編

(Facebook 2/7/2015より転載)












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category: フィルム・レビュー

2015/02/08 Sun. 00:01 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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#検察なう (448) 「郷原信郎氏、森炎氏共著『虚構の法治国家』を読んで」 2/5/2015 

#検察なう (448) 「郷原信郎氏、森炎氏共著『虚構の法治国家』を読んで」 2/5/2015

私の国賠審代理人チーム(注)の二人がこの度共著を上梓しました。タイトルは『虚構の法治国家』。

虚構の法治国家

そのメインテーマは、森炎氏によるまえがきに高らかに謳われています。抜粋引用します。

「本書は、郷原信郎さんと私が、それぞれの古巣である検察と裁判所を批判したものであるが、ただ検察批判と裁判批判の合作というにとどまらない。

日本の刑事司法は、きわめて特殊なあり方をしているので、検察と裁判所、両者を一つの有機体としてとらえないと、本当の意味での批判は成り立たない。たとえば、裁判所だけを取り上げて論じても、実際には日本の刑事司法の主役は検察で、裁判所は検察に大きく依存しているので、批判はおろか、実像さえ十分には明らかにできない。

検察=裁判所を渾然一体となった一つの「法権力」として把握する必要がある。

それは、有罪率99.57%(1997年度「司法統計年報」)、勾留決定率99.9%(同年度「検察統計年報」などの統計数字が証明している。そして、そこには大きな矛盾が隠されている。

本書は、検察と裁判所が一体化した「法権力の城」に対する批判書であり、その意味では、日本ではじめての試みと言っても誇張ではないと思う。

日本の刑事司法は、法制度上の区別を無化するほどに、検察庁と刑事裁判所が一つに溶け合った壮大な権力メカニズムとして存在している。そこには「人質司法」(罪を認めない限り身柄を拘束し続けるという扱い)に代表されるような種々の無情なカラクリが隠されていて、完全有罪率や完全勾留率の中に国民を無理矢理に押し込めようと強力に作動している。正義や真実を標榜する司法の水面下では、矛盾を含んだ複雑怪奇な仕組みが外からは見えにくい形で詐術的に作用している。そのために、逆説的に完全有罪率や完全勾留率に限りなく近づくというみせかけの現象が生じているにすぎない。

もし、何の矛盾も仕組みもなく、文字通り、それらの数字が刑事司法の真実を表しているとすれば、日本の検察権力は、他の先進国には類を見ないほど超絶的に公正無私であるということになる。検察の起訴には99.75%間違いがなく、検察官が行う勾留請求(身柄拘束請求)は99.9%正当であるならば、検察組織と検察官はほとんど神的に完璧である。そして、それが、自ら「精密司法」を名乗る裁判所によって公証されていることになる。日本では、完璧な検察と正確無比な裁判所によって世にも稀な素晴らしい刑事司法が実現している―そんなはずはない。

本書を最後まで読んでもらえれば、日本の法権力は、司法の正義どころか、不正の原理で動く巨大な虚構であることがわかるだろう。」
(引用以上)

裁判官が検察官寄りだとか、裁判官は検察官の言いなりになっていると批判されることがあります。しかし、こうした見方も森氏によれば、むしろまだ「好意的な見方」だと本書では指摘されています。裁判官は消極的に言いなりになっているだけではなく、もっと積極的に検察に寄りかかっているとするものです。そこでは無罪判決を書くことが裁判官のモチベーションとはなり得ず、「微妙な事件や検察が十分に法律構成し切れなかった事件を証拠評価上あるいは法律構成上、うまい理屈をつけて「見事な」有罪判決を書くこと」が、検察官に優ったと裁判官のプライドを満足させるのであるという森氏の指摘は、刑事司法がどういったものかを当事者の立場からかじった私をしても震撼せしめるものです。

また郷原氏の、検察の判断が「事実上の司法判断」として機能し、人質司法は被疑者に「犯罪者の烙印」を押すことで容認されているとする指摘は、非常に納得のいくものです。

郷原 「刑事事件について刑事裁判手続きを開始させる行政上の判断に過ぎないはずの検察判断が、実際には、「事実上の司法判断」として機能し、裁判所は検察の司法判断に対するチェック機能を果たしているに過ぎない、というのが有罪率99.9パーセントの日本の刑事司法の現状ですが、それは、日本の刑事司法が社会において果たしてきた、「犯罪者」の烙印を押し「悪者」を社会から隔離する機能と密接な関係があるように思います。

日本では、被疑者が逮捕され身柄を拘束されることや起訴されることによる「犯罪者の烙印」のほうが、裁判所の判決という司法判断より社会的には大きな意味を持ちます。逮捕というのは、刑事訴訟法上は、逃亡のおそれや罪証隠滅のおそれがある場合に、それを防止するための措置に過ぎないはずですが、実際には、身柄を拘束され留置場に入れられることで「犯罪者」というレッテル付けが行われます。そこには、犯罪者である以上、社会から隔離しておくことも致し方ないという判断が含まれています。

「犯罪者の烙印」に関して大きな機能を果たす逮捕・起訴について、全面的に判断権を持っているのが検察です。」
(引用以上)

本書では、こうしたメインテーマに関する概括的な対談の後、章を分けて、過去の冤罪事件、そして最近の郵便不正事件から「検察 vs 小沢一郎の5年戦争」に係る検察批判を論じています。その後に、章を独立して、検察暴走の現在形として美濃加茂市長事件が取り上げられています。

これまでの冤罪を論じる書物では、冤罪被害者の人権救済を主眼として、いかに事件が無罪であるべきかについて語られることが多く、対して、刑事司法の矛盾を論じる書物では、制度論に終始して、生身の事件が見えないことが多かったように思われます。しかし本書は、森氏がまえがきで「日本で初めての試み」と宣言したように、検察=裁判所を渾然一体となった一つの「法権力」として捉え、その弊害を批判した画期的な書だと言えます。

冤罪被害者としては、暗澹とせざるを得ない冷徹な現状ですが、まずは世の多くの人がこの現実認識を共有する必要があると強く感じます。

私の無罪判決は、この書に書かれている状況からは、生まれるはずがないものです。それでは、その差はどこから生まれたか。そこに思いを至らせれば、この「虚構の法治国家」を変えていくヒントが見つかると思います。私は、その鍵は、自由心証主義により、この渾然一体となった法権力からの飛翔が可能とされる裁判官の変化だと感じています。

是非、本書をお読みになり、現状を認識した上で、私の考えに耳をお貸し頂ければ幸いです。その端緒を示しておきます。

ここをクリック→ #検察なう (279) 「時代が判決を導き、判決が実務を変える」

(注)
ここをクリック→ #検察なう (393) 「国家賠償訴訟に関して (2)~代理人ドリーム・チーム結成!」

P.S.
3月7日、愛知県弁護士会の主催で、「『新時代の刑事司法』は?」と題して元特捜検事前田恒彦氏と名古屋でパネルディスカッションをします。お近くの方は是非お越し下さい。

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2/5/2015















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category: 刑事司法改革への道

2015/02/05 Thu. 08:01 [edit]   TB: 0 | CM: 5

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「死刑制度について考える(7)~死刑の法的正当化根拠」 

「死刑制度について考える(7)~死刑の法的正当化根拠」

死刑に関して最近読んだ『いま死刑制度を考える』(慶應大学出版会)に、興味深い論考がありました。

ここをクリック→ 『いま死刑制度を考える』

椎橋隆幸氏の「日本の死刑制度について考える」と題された論考に、死刑の法的正当化根拠が論じられていました。存置・廃止論者共に、この論考を踏まえ、更に思索を深める必要がありそうです。

(以下引用)
「死刑の法的正当化根拠」

1 死刑の是非と刑事司法制度の在り方・運用の問題

アムネスティが死刑に反対する理由として次の点が主張されている。①死刑は「生きる権利」を侵害する、残虐で非人道的な刑罰である。②罪のない人を処刑する危険性は決して排除できない。③死刑になるのは、どこの国でも、貧困層やマイノリティなど、社会的弱者に偏っている。④死刑は政治的弾圧の道具として、政敵を永久に沈黙させたり、政治的に「厄介な」個人を抹殺する手段とされてきた。この中、②誤判の危険性、③弱者に対する差別的捜査・起訴・裁判・刑罰の発動、④政治的弾圧のための死刑の利用の各問題は、刑事司法制度の在り方と運用の問題である。死刑が歴史上、国によって、上述のような使われ方をしたことは事実である。しかし、これらの問題を解決するためには刑事司法制度の在り方と運用を改革するのが正しい処置の仕方である。死刑を廃止したからといって死刑廃止によって直ちに違法・不当な刑事司法の運用が正される訳でもないし、死刑以外の刑罰は違法・不当な刑事司法の運用に任せておいてよいということも許されない。他方、違法・不当な刑事司法の運用は永久に改革できるものではないとの絶望感に陥ることも正しくない。国によってその進度は違うが、誤判の危険性を減らす手続的な方策は充実してきているし、差別的な捜査・訴追・裁判を監視・是正する制度も創設されてきている。政敵を弾圧するために死刑を利用するような政治体制は国民が選挙等の方法によって変革しなければならない。また、違法・不当な刑事司法制度や運用は改正されなければならない。弾圧、抑圧の刑罰は正義に反するが、正義に適った刑罰が否定される理由はない。

2 死刑は「生きる権利」を侵害する、残虐かつ非人道的な刑罰か

さて、死刑は「生きる権利」を侵害する、残虐で非人道的な刑罰であるから廃止されるべきとの主張は説得力があるだろうか。この主張においては、例えば、殺人犯人に「生きる権利」があることが自明のこととして前提されている。すべての人間に生きる権利があることは当然である。しかし、他人を殺害した者に「生きる権利」が当然にあるかは自明ではない。人間は生まれながらにして様々の権利を有しているが、同様に生まれながらの諸権利を有している他人の権利を侵害した場合は、侵害者から一定の権利が奪われることは一般に承認されている。契約違反や不法行為を行って他人の財産権を侵害すれば、自分の財産権を奪われることとなっている。また、犯罪を侵せば、その犯罪の種類や程度によって、犯罪に見合った刑罰が科せられ、その結果、犯人の自由権や財産権が奪われることになる。何故、「生きる権利」だけは何をしても奪われることがないのか。論証もなく自明のこととして、どんな凶悪な犯罪を行っても、何人殺害しても、その犯人には「生きる権利」を認めるというのは、論者の希望の表明、独自の見解ではあっても、すべての人に受け入れられる真理ではあり得ない。例えば社会契約論の立場から、死刑廃止論に対する次の反論は分かりやすく、説得力があり、事柄の本質を正当に指摘しているものと思われる。すなわち、「他人からの不侵害の約束を得られるには、先ず自己の側から凡ての他人の生命や自由・幸福を尊重し侵害しない旨の約束と、この約束の遵守を有効に担保する方法とを提供せねばならない」との前提に立つと、死刑廃止論者は、「私はあなたを殺さないことを一応約束する、しかし、この約束に違反して恣意的にあなたを殺すことがあっても、あなた達は私を殺さないことを約束せよ」と要求するものであり、その要求を認める立法は、「違法の殺人犯人の生命は、彼の犠牲となった適法な人間の生命よりも、より厚く保護せられ、より価値高く評価されることを予め法定することになる」。他人の生きる権利を侵害しても自分(殺人犯)の生きる権利だけは保護されるべきとの理屈はあまりにも身勝手で理不尽かつ不平等である。廃止論はこの身勝手で理不尽かつ不平等な理屈を認めることになるのである。この理屈によれば、権力者が政権の政治に反対する民衆を多数殺害してもその権力者の「生きる権利」は奪うことができないので、死刑にはできず、また、ある集団が特定の人種の人々を嫌いだという理由で多数の人々を殺害しても同様の根拠で死刑にはならない。組織的犯罪集団が、犯人をあたかも将棋の駒として使い、組織的に大量殺人を計画し実行し、それを繰り返したような場合、被害者の生命は多く失われるのに対して犯罪集団員の生命は一人たりとも奪われないこととなり、そのような結果を是認する国家は国民からの信頼を失わざるを得ないであろう。生命は人間の尊厳の中核的な価値である。刑罰の基準にある正義は、侵害された人間の尊厳の価値の再確認と可能な限りの原状回復を要請するとも表現される。人間の尊厳の最も中核にある生命を奪われた場合、その価値の再確認・原状回復は損害賠償や自由剥奪等の制裁によって補填できるような価値ではない。「社会における、個人の自己表現の中核である生命への尊厳を再確認する『儀式』として『死刑』という極刑が正当化される」のである。

他人の生命を奪うことは絶対に許されることではない。絶対に許されないことをした場合には自分の死によってしか(でも)その罪は償われないのだということ、つまり、凶悪な犯罪には極刑が科されるという規範を形成し、その規範を内面化するために死刑制度が存在するという意義があると言えるであろう。

3 死刑は「国家による殺人」ではない

死刑廃止論者の中には、死刑は国家による殺人だから許されないとの考え方がある。この言い方は死刑廃止の運動論としては意味(効果)があるかもしれないが、法的正当化根拠としては適切ではない。死刑は人の生命を奪うという点で外形的には殺人との共通性があるが、法的正当化根拠として重要なのは物理的、外形的な共通性ではなく、社会的、法的な意味で決定的な違いがあることである。殺人は正当な理由なく他人の生命を奪うもので殺人罪と評価される。死刑は殺人罪等に対する正当な刑罰という形で法律に定められているものである。仮に、物理的、外形的な共通性で考えると懲役刑という自由剥奪刑は国家による「誘拐」「逮捕・監禁」で、罰金は、国家による「強盗」とも言えそうであるが誰もそうは言わない。同様に死刑についても国家による「殺人」と言うのは正しくないと思う。つまり、殺人とか強盗は違法な犯罪であるのに対して、死刑や懲役刑は違法な行為に対して科される正当な刑罰である点で決定的に違うのである。従って、死刑を国家による「殺人」だから廃止すべきであるとする主張は法的正当化根拠としては成り立たないのである


















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category: 死刑制度について考える

2015/02/02 Mon. 00:23 [edit]   TB: 0 | CM: 1

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フィルム・レビュー 『イミテーション・ゲーム エニグマと天才数学者の秘密』 モルテン・ティルドゥム監督 

フィルム・レビュー 『イミテーション・ゲーム エニグマと天才数学者の秘密』 モルテン・ティルドゥム監督

imitation game

映画『イミテーション・ゲーム エニグマと天才数学者の秘密』観賞。

ベネディクト・カンバーバッチ主演で、第2次世界大戦時、ドイツ軍が世界に誇った暗号機エニグマによる暗号の解読に成功し、連合国軍に勝機をもたらしたイギリスの数学者アラン・チューリングの人生を描いたドラマ。

イギリス軍に、暗号解読チームが編成され、解読不可能と言われたナチス軍の暗号を解読する話...だけかと思ったら、重要なのはそれよりも主人公チューリングの「秘密」の方。その意味では邦題はダイレクト過ぎ、「タイトルでネタばれしてどうすんねん」という感じ。映画の邦題は本当にセンスのないものが多すぎる。

トロント映画祭で観客賞を取るなど、評価は上々の作品。オスカーにも作品賞と主演男優賞でノミネートされるのではないか。

クレバーだが変わり者でナイーブなチューリング役に、ベネディクト・カンバーバッチは好適。非常にいい演技をしている(但し、主演男優賞は『博士と彼女のセオリー』のエディ・レッドメインで決まりだと思っているが)。

暗号解読に成功し、連合国軍の勝利に導いた英雄であるはずだが、(映画に描かれている)複雑な事情により、彼の功績は世の知られるところにはならず、また非業の人生を送る。ストーリーはあまりスカッとしない。しかし、それも現実にあったことだから仕方がない。感情移入しにくいキャラクターだということを承知であれば、題材になっている話やチューリングの人生は興味深い。それゆえ戦争活劇を期待するとはずしてしまうかもしれない。

ここをクリック→  『イミテーション・ゲーム エニグマと天才数学者の秘密』予告編

(Facebook 12/31/2014より転載)





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category: フィルム・レビュー

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