「蟷螂の斧となろうとも」 by 元外資系証券マン

クレディ・スイス証券集団申告漏れ事件(http://goo.gl/v0xQYP)において、国税局査察部告発、検察特捜部起訴の事案で史上初の無罪判決。 著書『勝率ゼロへの挑戦 史上初の無罪はいかにして生まれたか』(光文社)。 ツイッター(@thatta0529)で「#検察なう」の情報発信を続けます。

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フィルム・レビュー 『脳内ポイズンベリー』 佐藤祐市監督 

フィルム・レビュー 『脳内ポイズンベリー』 佐藤祐市監督

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主人公は、30歳という女性にとってびみょーな年頃の女性。そして「ときめき」を取るか「安定」を取るか、というその年頃の女性にとっては、ほぼ永遠のテーマが主題。

で当然「安定」を取っては話にならないんであって、この映画でも「ときめき」を取るのだが、この映画が面白くなるのはそれから。つまり映画前半は「はー、やっぱりね」という展開で、それほど面白くもなかったのだが、後半ぐいぐい来た。

やはり恋愛物は、その恋愛観が自分にフィットするかで面白味が違ってくるように思われる。そしてこの映画は、かなり面白かった。それは「ときめき」を取るか「安定」を取るかという二者択一的な命題に、違う視点を与えてくれたという点において。

心の葛藤を「脳内会議」というコミカルな設定にしたのが、作品の面白さにはあると思うが、そうしたテクニカルな部分ではなく、(アラサ―女子という過渡的かつちょー変動的&不安定な状況ではあるが)本質的な恋愛観を表現したのはかなり評価できる。

惜しむらくは真木よう子がかわい過ぎるかなあ。少なくとも赤いニット帽が似合うキャラではないし。脳内会議のメンバーは、西島秀俊はじめ全てよし。

ということで、アラサ―で、結婚に「ときめき」を求めるのか「安定」を求めるのか悩める女子をスイートスポットのターゲット層として、それ以外の人でも、結婚観、恋愛観に迷える男子・女子には楽しめると思われる。「恋愛?どーでもいいわ」という人には金と時間のムダの映画ですな。

ここをクリック→ 『脳内ポイズンベリー』予告編

(Facebook 5/20/2015より転載)










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2015/05/31 Sun. 14:48 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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「死刑制度について考える (16) ~ 青木理氏「死刑制度の圧倒的容認に思う「情」と「理」」」 

「死刑制度について考える (16) ~ 青木理氏「死刑制度の圧倒的容認に思う「情」と「理」」」

このシリーズで、青木理氏著の『絞首刑』から死刑執行の状況の実態を引用しました(注1)。

その青木理氏の近著『青木理の抵抗の視線』に収録されたコラムに『絞首刑』出版の経緯に触れたものがあったので引用します。

青木理 抵抗

「死刑制度の圧倒的容認に思う「情」と「理」」 (『週刊現代』2010年3月13日掲載)

内閣府が2010年2月6日付で発表した世論調査によれば、死刑制度の存置を容認する回答が過去最高の85.6%に達したという。設問方法が恣意的だとの批判は強いし、これまでも「死刑存置」の世論はおおよそ8割」といわれてはいたのだが、それを上回って「過去最高を更新した」と突きつけられれば、あらためて嘆息するしかない。対して死刑廃止を求める声はわずか5.7%だというから、その差異はあまりに圧倒的である。

私は2009年の夏、さまざまな形で死刑と関わらざるを得なくなった人々を追跡したルポルタージュ集『絞首刑』(講談社)を発表した。その取材の過程では、国家の名の下に人間の生命を奪う究極かつ絶対不可逆の刑罰を前にし、想像を絶する苦悩と逡巡に喘ぐ数多くの人々に会った。つまるところそれは、「情」と「理」という相反する思念の激しきぶつかり合いだった。

被害者感情や犯罪行為への憤怒という「情」に寄り添って死刑容認に流れてしまう気持ちも、まったくわからぬではない。今回の内閣府調査でも、死刑を容認する理由のトップは「被害者や家族の気持ちがおさまらない」(54.1%)であり、2番目が「凶悪犯罪は死をもって償うべき」(52.2%)だったという。しかし、徹底して「理」に依って立つならば、死刑制度など即刻廃止すべきものだ。

世界的に見れば、死刑廃止は圧倒的な潮流となっている。すでに国連加盟国の7割が死刑を廃止、あるいは執行の停止に踏み切っているし、欧州連合(EU)は死刑廃止をEU加盟のための条件としている。死刑について「刑罰ではなく、復讐にすぎない」と断じた上で「暴力の連鎖を暴力で断ち切ることはできない」と唱えるEUの理念を読めば、人類社会が目指すべき崇高な理想の一つがそこにある、と心底から思う。

現在、いわゆる先進国で死刑制度を維持しているのは日本と米国のみであり、その米国でも全州の三分の一に近い15州が死刑を廃止し、判決や執行は減少している。日本の周辺では、韓国と台湾が執行を停止しており、明確な存置国は人権面で大きな問題を抱える一党独裁体制の中国と北朝鮮だけだ。

ひるがえって日本では、ここ数年、死刑判決も執行数も急増傾向を示してきた。殺人などの凶悪犯罪がまったく増えていない現実を踏まえれば、国際的にも極めて異常な厳罰化ムードが急拡散してきたといえるだろう。

その上に示された85.6%という数値。だが、これほどに「情」が「理」を圧倒してしまっている現況を前にすると、「ちょっと待ってくれ」と叫びたくなる。

前記した『絞首刑』の取材で私が会った死刑囚や死刑被告人の多くは、自らが犯してしまった罪の重さに押しつぶされそうになりながら、贖罪の方途を懸命に模索していた。被害者遺族にしても、やはり「情」と「理」の狭間で激しく逡巡していた。執行に直接関わった刑務官や教誨師は、一生癒せぬ心の傷に懊悩していた。

にもかかわらず、当事者でもない私たちが「理」を完全に投げ捨てて「情」にのみ寄り添ってしまうのは、あまりにも表層的で、あまりに安逸な偽善に過ぎないように思う。

この2月23日から鳥取地裁では、男女2人が殺害された強盗殺人事件の裁判が始まった。一般市民が参加する裁判員裁判で死刑適用の是非が問われる可能性のある初のケースとなり、今後も同様の裁判員裁判は数多く予定される(注2)。

裁判員裁判をめぐっては、人間の生命を奪う刑罰の宣告に一般市民を直接参加させることへの懐疑もあるほか、急増する死刑判決に歯止めをかけるのか、あるいは逆にそれを加速化させてしまうのか、といった議論もあった。しかし、内閣府調査を見ると絶望的な気分になる。日本社会はこのまま「情」が「理」を呑み込み続け、世界の潮流に背を向けた皮相な厳罰化へとさらに突き進んでいくのだろうか。

(注1)
ここをクリック→ 「死刑制度について考える (13) ~ 「憂鬱な儀式」青木理氏著『絞首刑』より (1) 」

ここをクリック→ 「死刑制度について考える (14) ~ 「憂鬱な儀式」青木理氏著『絞首刑』より (2) 」

ここをクリック→ 「死刑制度について考える (15) ~ 「憂鬱な儀式」青木理氏著『絞首刑』より (3) 」

(注2)
本文に引用された事件で、影山博司被告の裁判員裁判の判決は無期懲役(その後、控訴審でも一審判決維持、上告棄却で確定しています)。しかし、現在まで、裁判員裁判が言い渡した死刑判決は20件を越えています。














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2015/05/28 Thu. 00:01 [edit]   TB: 0 | CM: 1

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#検察なう (469) 「推定無罪原則を理解することの難しさ」 5/25/2015 

#検察なう (469) 「推定無罪原則を理解することの難しさ」 5/25/2015

推定無罪原則を観念的に理解することはできても(注)、真に理解することは、やはり理念と実践の差があり難しいといえます。まず、「お釣り4万5000円多く受け取りそのまま持ち去り逮捕」と題する先週土曜日の以下の報道をお読み下さい。

『スポーツ報知』 5月23日(土)7時4分配信

「店員が誤って多く手渡した釣り銭を受け取ったとして、宮城県警石巻署は21日、詐欺の疑いで石巻市内に住む会社員XX(注:記事は実名)容疑者(47)を逮捕した。

逮捕容疑は3月25日午後6時10分ごろ、石巻市内のコンビニエンスストアで携帯電話の利用料金を支払った際、約3000円の釣りのところを約4万8000円を渡され、それを間違いと知りながら持ち去った疑い。XX容疑者は「気が付かなかった」と容疑を否認している。

同署によると、XX容疑者は約10万2000円の金額に対し、10万5000円を支払った。その際、アルバイト店員がレジに約15万円と誤って打ち込み、釣りが約4万8000円と表示。その金額を手渡したことから、XX容疑者は約4万5000円も多く受け取った。

売り上げとレジの金額が合わなかったため、店で確認をする中で、利用金額の請求書の名前などから、XX容疑者が浮上した。店員は「単純にレジ打ちを間違えた」と話しているという。」

釣り銭が多いことにその場で気付いたけれども、そのまま受け取ってしまえば詐欺罪(刑法第246条)、その場では気付かなかったが、その後別の買い物の時など、財布の中のお金が多過ぎることに気付きながらもそれを返さなければ占有離脱物横領罪(=遺失物等横領罪、刑法第254条)となります。

ただ釣り銭間違いの場合、店側の落ち度もあるため、被害弁償によって起訴猶予となることが多いようです。

突っ込みどころは、「携帯電話料金に10万円ってどういうことよ?」ではありません。私は、この記事を自分のフェイスブックにアップしながら、次のようなコメントをつけました。

「うーむ、これで逮捕+実名報道か。金額が金額だけにねえ。店員が間違えなかったら、そんなことは起こらなかったのに、酷っちゃ酷だけど、仕方ないのかな。」

すかさず、FBつながりの弁護士の方から、コメントがありました。

「まさに否認したから逮捕という人質司法の典型の事件でしょうか。お釣りを受け取ってそのまま財布に入れてしまって増減が分からないこともあると思うけどな。」

まさにこれが推定無罪原則を理解しているかどうかの分かれ目です。冤罪被害者の私としたことが、かなりセンスのないコメントだったと理解しました。

この容疑者の方は否認しています。否認しているからこそ、逮捕され実名報道までされています。これがもし(虚偽自白でも)認めてしまえば、起訴猶予で全くおとがめなしという可能性すらある程度の事件性です。少なくとも、犯罪行為が事実であった場合、嘘をついてやっていないとすることにはかなりメリットが少ないように思えます。痴漢冤罪と似通った構図です。

お釣りの3000円と4万8000円を間違って受け取り、気付かなかったという弁明を、「千円札3枚のお釣りと、1万円札4枚+5千円札1枚+千円札3枚のお釣りを取り違えるなんて言い訳は不合理極まりない」と排除することは、推定無罪原則を理解していないからこその思い込みです。「言い訳としては、余りにもお粗末過ぎて、むしろ真実だからこそそのように語っているのでは」と推定すべきでした。

ここまでは推定無罪原則に則った記事の読み方ですが、もう一歩進んで弁護する立場になってみると、事件の違った見方ができます。その弁護士の方が更に示唆したのは、コンビニ店員横領の可能性でした。

「4万5000円はどうなったかですね。わざわざ店員が打ち間違えをしてそれを盗るとは考えられないとも言えるけど断定できないよね(飽くまで報道事実からの推理です)。」

なるほど、10万円札が日本で流通していない以上、現金払いのお釣りに1万円以上ということはあり得ません。「単純にレジ打ちを間違えた」として漫然と4万8000円のお釣りを払ったというコンビニ店員の主張も検討する余地があるように考えられます。これが「弁護士脳」かと感じました。

やはり事件の報道は、捜査当局の発表を元に作られているため一面的な部分がありますが、実は、かなり多面的な見方ができ、それはそもそも推定無罪原則が理解されていなければできない、ということがよく分かりました。

皆さんも、事件報道をお読みになる際の参考にして頂ければと思います。

(注)
ここをクリック→ #検察なう (159) 「疑わしきは被告の利益に」

5/25/2015














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2015/05/25 Mon. 00:01 [edit]   TB: 0 | CM: 3

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フィルム・レビュー 『イマジン』 アンジェイ・ヤキモフスキ監督 

フィルム・レビュー 『イマジン』 アンジェイ・ヤキモフスキ監督

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この映画は掘り出し物だった。「反響定位(エコーロケーション)」という視覚障害者の特殊技術(動物ではコウモリやイルカが使う、音の反響で物の位置を知る方法)には全く予備知識がなかったのだが、「科学ドキュメンタリー」物ではないにも関わらずそれ自体にかなり興味深くひきつけられた。

舞台はポルトガルのリスボンにある視覚障害者施設。ここでは視覚障害者に生活する技術を身につけさせる指導をしていた。新任の教師は、「反響定位(エコーロケーション)」の技術を用いて、杖を持たずに歩くことができた。最初、半信半疑だった子供たちの驚きは、観客の我々も同じく感じるであろう。

映像は全てを映し出さず、我々観客も音からイメージを得ることを強いられるが、ただの風の音、雑踏の音が新鮮に聞こえるから不思議(この映画の鑑賞には、映画館ないしそれと同じレベルの音響設備が必要とされるだろう)。
メインのプロットは、この教師と、障害者と扱われることに嫌気がさして心を閉ざしてしまった女性との恋愛なのだが、描写が控えめで実にいい。

英語、ポルトガル語、フランス語、ドイツ語のセリフが入り混じり、リスボンの異国情緒溢れる風景と相まって、独特の雰囲気を持った映画。「音を観る」詩的な美しい作品は一見の価値あり。

ここをクリック→ 『イマジン』予告編

(Facebook 5/22/2015より転載)










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2015/05/24 Sun. 08:16 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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#検察なう (468) 「早稲田大学大学院法務研究科にて講演してきました」 5/21/2015 

#検察なう (468) 「早稲田大学大学院法務研究科にて講演してきました」 5/21/2015

先週、早稲田大学大学院法務研究科の授業で講演をしてきました。私の刑事裁判一審・控訴審の主任弁護人で、国賠審の代理人チームにも入ってもらっている小松正和弁護士が以前所属していた森・濱田松本法律事務所の先輩、児島幸良弁護士の授業です。

これまでにも2度お邪魔していますが、これで3度目です(注1)。


Waseda Univ

授業は、私の著書『勝率ゼロへの挑戦』をテキストとし、取調べから公判に至る一連の流れの中で、児島先生がポイントであると考えるところをピックアップし、それに対して、小松先生と私に質問を振るという形式で進められました。

法科大学院生といえども、なかなか裁判実務を経験することも、ましてや取調べの実態を知る機会もないと考えられ、とかく民事志向が強くなりがちな学生にも刑事の関心を持ってもらおうと児島先生の肝煎りで行われているものです。

私自身も、法曹界の卵相手に話すのはいい刺激で、いつも楽しみにしています。

今回、児島先生から振られた質問の一つが、私のSNSの活用に関して。

私は、検察特捜部の取調べの頃から、その時の心境をツイートし始めました。また、支援者へメールで送っていた「経過報告」を、起訴を覚悟して以降、ブログに転載し、一般公開に切り替え、それもツイッターで拡散を図りました。

それを産経新聞記者が記事にしてくれたのが、「検察なう」の原点です。

ここをクリック→ 産経新聞記事「「検察なう」取り調べをツイッターで速報・・・元外資系証券マンの“奇計”に特捜部は苦虫」

ちなみにこちらが、その頃のツイートを友人がまとめてくれたトゥギャッター。

ここをクリック→ #検察なう 八田隆 検察取調中のツイート ( セルフ可視化)

その意図を問われて、私が答えたのは、郵便不正事件の主任弁護人「無罪請負人」弘中惇一郎弁護士の無罪判決後の言葉でした。

「村木さんの主任弁護人だった弘中弁護士が記者の質問に答えてるんですよね。「無罪を取る秘訣は」という問いに、「メディアコントロールです」と。それを聞いたときに、なぜ検察が「劇場型捜査」をするのかを理解しました。それであれば、検察のお株を奪うべく、「『逆』劇場型捜査」を被疑者の私が演出してやれって。ま、「セルフ可視化」ってことですかね」

懇親会で、学生の一人から質問されました。

「八田さんのブログ拝見してるんですけど、八田さん、「#検察なう Tシャツ・プロジェクト」ってやってるじゃないですか(注2)。あれも、やはり世間の注目を集めるためにやってたんですか」

「いや、あれは違うんだよね。あれは、支援者のため。冤罪被害者っていうとなんか特殊だけど、例えば闘病してる人って結構近いと思うんだけど、本人が「辛い」ってばかり言ってると周りの人が疲弊しちゃうじゃない。「看護疲れ」っての?冤罪と戦うでも、病魔と闘うでも、絶対周りの人の支援は必要なんだけど、伴走してる方が疲れちゃうとダメなんだよ。だから、彼らにも楽しんで支援してもらうようにしたのが、あのアイデアなんだよね」

それを同じテーブルで聞いていた児島先生が言ったのは、次の言葉でした。

「病気と闘っている人でも、なかなかそのように考えられないのが普通じゃないでしょうか。刑事裁判で、もし他が同じ条件でも、被告人がどうかで結果が大きく違うってこともあり得ると、八田さんを見ていて思います。最近、よく「~力」って言われるじゃないですか。例えば「社長力」とか。被告人にも、「被告人力」ってのがあって、それが高くないと、刑事裁判で無罪を取るってのは難しいんじゃないかと感じます。八田さんは、「被告人力」が相当高いですよ」

プロに「被告人力」の高さを評価されたのは、「元」被告人としては最大の賛辞だと感じました。次回以降のブログで、この「被告人力」について論じてみたいと思います。

(注1)
1度目
ここをクリック→ #検察なう (345) 「早稲田大学大学院法務研究科訪問記」 

2度目
ここをクリック→ 無罪を勝ち得るために~冤罪と戦う方法 その9 「早稲田大学大学院法務研究科授業より 『調書を問答形式で逐語的に作成させる』」

ここをクリック→ 無罪を勝ち得るために~冤罪と戦う方法 その10 「早稲田大学大学院法務研究科授業より 『調書の署名を拒否する』」

ここをクリック→ 無罪を勝ち得るために~冤罪と戦う方法 その11 「早稲田大学大学院法務研究科授業より 『嘆願書を集める』」

ここをクリック→ 無罪を勝ち得るために~冤罪と戦う方法 その12 「早稲田大学大学院法務研究科授業より 『有能な弁護士に依頼する』」

(注2)
ここをクリック→ #検察なう Tシャツ・プロジェクト

5/21/2015














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2015/05/21 Thu. 00:01 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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「死刑制度について考える (15) ~ 「憂鬱な儀式」青木理氏著『絞首刑』より (3)」 

「死刑制度について考える (15) ~ 「憂鬱な儀式」青木理氏著『絞首刑』より (3)」

ここをクリック→ 「死刑制度について考える (13) ~「憂鬱な儀式」 青木理氏著『絞首刑』より (1)」

ここをクリック→ 「死刑制度について考える (14) ~「憂鬱な儀式」 青木理氏著『絞首刑』より (2)」

絞首刑

両脇を刑務官に抱えられた男が執行台へと近づいてくる。それを執行台の脇で待ち構えていた二人のベテラン刑務官のうちの一人は、つくづくと思った。

何度関わっても、本当に嫌な仕事だ・・・・。

連行されてきた死刑囚が1メートル四方の縁取りの中に立たされると、一人の刑務官がその両足を白い布で縛り、今度は自分が首に素早くロープをかけねばならない。

天井から垂れ下がった白いロープの太さは約2センチ。丸い輪になった部分には皮革が巻かれ、輪の根元には鉄製の鐶が取り付けられている。死刑囚の首にロープをかけ、鉄の鐶を首の後ろ側にきっちりとあて、ギュッと押し締めねばならない。落下の衝撃でロープが外れてしまうような失敗は、万が一にもあってはならない。

執行器具の点検と準備は、前日から入念に行った。絶対に失敗の許されぬ執行に不安を感じたのか、着任して間もない拘置所長の命令で、執行の手順をいちいち確認するリハーサルも行った。しかし、死刑囚が突然抵抗して暴れ出すこともある。不測の事態が起きることもある。だから自分のようなベテランが任務に当たる。それでも緊張で脚が少し震えている。

この刑務官がこれまで何度か関わった執行の際、暴れ出すような死刑囚は一人もいなかった。むしろ怯え切ったような表情で、抵抗する気配すらなく執行台に立ち、轟音とともに落下していった。

今回の死刑囚もやはり、静かに執行台の上に立たされた。ただ身体全体がガタガタとひどく震えている。それでも別の刑務官が両足首を縛るのとほぼ同時に、首にロープをかけ、鉄の鐶をしっかりと首の後ろで締めた。すべては定められた手順通りだった。アコーディオン・カーテンが開かれて男が刑場に足を踏み入れてきてから、ここまでに数分とかかっていないだろう。

すべての準備は整った。刑務官は、男の立たされた執行台から素早く離れ、1メートル四方の縁取りの中央に立つ男の姿をもう一度確認すると、執行ボタンのある部屋に向けて合図を送った。

「なむ・・・・あみだ・・・・ぶつ」

その瞬間、刑務官の耳には小さく、乾いた声が確かに聞こえた。男がこの世で最後に発した言葉―。教誨師の僧侶が懸命に唱える読経の声も、ひと際大きく刑場内に響いていた。

「押せっ!」

指揮官役の刑務官の低く鋭い指示が、薄暗い小部屋の静寂を破った。執行を告げるランプも、鮮やかな赤色に変わっている。壁に向かって屹立していた刑務官たちは、一斉に目の前の赤いボタンを押した。緊張が頂点に達していた若き刑務官も、無我夢中でボタンを押す。もう頭の中は真っ白だった。

プシューッ。

瞬間、空気の抜けるような音が耳に響いた。油圧装置の作動音だったのだろうか、刑場では同時に執行台の床が「バタンッ!!」という激しい音とともに開き、男は真っすぐ下へと落下していった。滑車が激しく回転し、白いロープが軋む。最後の経を大きな声で唱えていた僧侶の耳にも、男の足下の床が開く「バタンッ!!」という激しい音が届いた。

最後まで静かだったのは、検事の立会い席だった。男が首にロープをかけられている間も、男の身体が「舞台の下」へと落ちていく瞬間も、すべてが現実感のない流れ作業を見ているかのようだった。

「彼には今日の朝、直前に執行を言い渡したんですが、特に動揺した様子はありませんでした」
「そうですか」
「落下してからも、30分ほどは吊るしたままにしておかなければいけない決まりになっているのです」
「なるほど」
「検事さんは、初めての立ち会いですか」
「ええ」
「実は、私も所長としての立ち会いは初めてなんです」
「そうなんですか・・・・」

沈黙が堪え難かったのか、それとも気を遣っていたのか、拘置所長は検事と会話を交わし続けようとした。だが、所長の説明に相づちを打つ検事の目は、分厚いガラス越しの「舞台」の中央にポッカリ開いた四角い穴に吸い寄せられていた。その中心を貫くように白いロープが真っすぐ下へと伸びている。かすかに揺れ続けるロープの先を目で追うと、男の身体がダラリとぶら下がっていた。死刑の執行は、あっという間に終わっていた。

刑場の階下にあるコンクリート敷きの薄暗い部屋には、首に深々とロープを食い込ませた男の身体が宙に浮いていた。白衣姿の医務官が、それをじっと見上げている。

男の首にロープをかけたベテラン刑務官も、目の前のボタンを無我夢中で押した若き刑務官も、自分に与えられた任務を終えて階下の部屋に降りてきた時、男の身体をはっきりと見た。宙に浮かび、わずかに揺れる身体。しかし、若き刑務官はそれを正視し続けることができず、すぐに目をそらした。

強烈な力で一気に首が絞め付けられ、舌骨が圧迫されたためだろう。男の口からは舌の先端が飛び出し、全身は細かく痙攣を繰り返していた。伸び切った首は、異様なほど長く見えた。よだれなのか吐瀉物なのか、口元からは少量の液体が顎の辺りまでツーッと伝い落ちていた。

階下の部屋には、執行の瞬間に男の身体を受け止める役の刑務官もいた。男の身体を落下するままにまかせれば、反動で身体が跳ね上がり、上下左右に大きくバウンドしてしまう。だから、タイミングを見て抱きとめ、身体の揺れを止めねばならない。

「執行に携わる任務の中でも、もっとも嫌な役回りだ」
若き刑務官は、そんな話も先輩から聞かされていた。執行の前、受け止め役を命じられたベテラン刑務官が「勘弁して下さい。もう孫のできる齢なんです!」と幹部に懇願していたこともあったという。

男の身体はまだ痙攣しているが、次第にそれが収束していく。場合によっては、下半身から糞尿が漏れ出ているだろう。足元の排水溝は、その処理のためにある。

空中にぶらさがったままの男の足先から、決して届くことのない床までの距離は約30センチ。これもベテラン刑務官たちが事前に男の身長なども勘案してロープの長さを調整していた結果だった。すべては計算通りだった。

時の流れが、異様に遅く感じる。
1分。2分。3分・・・・。

医務官が空中にぶらさがる男の脈を取り始めた。その時、立ち合い席で執行を見守っていた拘置所長と検事も階下の部屋に姿を見せた。

所長に促されながら地階に降りてきた検事にも、宙に浮かぶ男の姿がはっきりと見えた。それは、もうほとんど痙攣も止まってダラリとぶら下がっているだけの屍体だった。

「おそらくは瞬間的に意識を失うはずです」
立ち会い席で拘置所長は、検事にそう強調していた。

数メートルもの急落下による加速度と男自身の体重。そのすべてが一瞬にして首に集中する。通常の首吊り自殺でも折れることのあるという甲状軟骨や舌骨は瞬間的に砕け、首を支える筋肉がぶち切れ、7つの頸部脊椎が離断する。同時に脳と身体の神経をつなぐ頸髄も断裂してしまう。だから、おそらくは瞬時に意識を失ってしまうはずだ―と。

しかし、真実など誰にも分からない。誰にも確かめようがない。

医務官は、まだ男の手首を取って脈をみていた。死刑囚が落下してから最終的に心臓が停止するまでの「平均時間」は、おおよそ13~15分。すでに痙攣はほとんど収まっている。だが、階下の部屋に集まった誰もが一言も発しようとしない。医務官が今度は男の胸に聴診器をあてて時計を睨む。首に深々とロープの食い込んだ男の身体を、刑務官も拘置所長も検事も、息を詰めて凝視し続けるしかない。

「心臓停止っ」

そんな医務官の一言が「絶命宣告」だった。しかし、それでもあと5分はこのままの状態にしておかなければならない。法の定めは、どこまでも冷酷に「確実なる死」を求めている。

5分が経過すると、医務官に促された刑務官たちが男の身体を降ろし、首のロープを外し、服を脱がせた。直ちに検視が始まった。

仰向け。横向き。うつ伏せ。医務官が身体の隅々までチェックするのを検事が黙ってじっと目視する。それが終われば、検事と拘置所長らは引き揚げていってしまう。身体はきれいだったが、首に太い索条痕がくっきりと残っていたのが、検事の脳裏にはいまも鮮やかに焼き付いている。

だが、刑務官たちの仕事はまだ残されている。男の身体をきれいに湯灌し、白装束を着せ、白木の寝棺に納めるのも刑務官たちの役目だからである。そうした作業がすべて終わると、若き刑務官は、あらかじめ準備してあったわずかばかりの花を棺の中に入れてやった。

これでようやく、すべてが終わる。死刑執行という“厳粛”な、しかし、限りなく“憂鬱”な作業のすべてが―。

執行後、任務にあたった刑務官たちがいつも使っている待機部屋に戻ると、仕出し屋から取り寄せたらしき弁当が置かれていた。執行に携わった刑務官の人数分が用意されているようだった。肉や魚が使われていない精進料理だったが、随分と高級な弁当なのは一目で分かった。

他の刑務官たちが椅子に座って弁当を食べ始めたのを見て、若き刑務官も箸を手に取って弁当を開けた。腹などまったく空いていなかったが、これを食べるのも任務の一つのように思え、一つ一つの食材を口の中に押し込むようにして顎を動かした。いつもは剽軽なことを言って笑わせてくれる先輩刑務官も、お喋りなことで知られる同輩の刑務官も、誰もが押し黙ったままだった。高級なはずの弁当なのに、いくら顎を動かしても味などせず、まるで砂でも噛んでいるようだった。

死刑執行に携わった刑務官には、わずかだが特別の手当が支払われる。現在はもう少し金額も増えているが、この時に若き刑務官が受け取ったのは数千円だった。弁当を食べ終わると、そのまま帰宅を許され、拘置所の近くにある官舎に戻ったものの、何も知らない妻や子供と顔を合わせているのが辛かった。

かといってじっとしている気分にもなれず、刑務官は黙って再び自宅を出ると、普段はやらないパチンコ屋に入った。数千円の手当は、あっという間に消えてなくなった。それでも家に帰る気がせず、駅近くの安居酒屋に入ると、ろくにつまみも食べぬままビールや焼酎を呷った。しかし、いくら呑んでもまったく酔えなかった。

この時、一緒に執行に携わった先輩や同輩の刑務官たちとは、さまざまな形で職場での付き合いが続いた。もちろん何度か酒を飲みに行ったこともあったし、所内の行事などで遊びに行ったことだってある。だが、執行のことが話題になったことは、一度もない。まるで「なかったこと」であるかのように、誰もが決して触れようとしなかった。

男の母は、執行直後に拘置所からの電話連絡を受け、息子の刑死を知らされた。

「拘置所ですが、今朝、刑を執行いたしました・・・・」

いつか必ずくるだろうと覚悟していた連絡だった。しかし、できることならきてほしくないと思っていた連絡だった。いくら世間では凶悪犯でも、被害者と遺族には心から申し訳ないと思っても、母にとってはかけがえのない息子なのである。

事件直後は夥しい数のマスコミの記者たちが自宅に押し掛け、深夜まで幾度も幾度も呼び鈴を押されておののいた。その後の何年間も、イタズラ電話や脅迫まがいの手紙に悩まされ続けた。しかし、息子のやってしまったことを思えば、それも仕方ないことなのだと自分に言い聞かせ、必死に耐えた。

女手一つで育てた息子の凶行に、自身の責任も逃れられぬと思い詰めた。自ら死んでしまおうと考えたのも、一度や二度ではない。しかし、国選でついてくれた弁護士は若く熱心な先生で、「親御さんにも見捨てられてしまう死刑囚が圧倒的に多いんです。お辛いでしょうが、最後まで支えてあげてください」と幾度もアドバイスされた。地元の公立図書館に行って死刑関連の書籍を何冊か読んでみると、親兄弟や親族との縁が切れた死刑囚は、執行後に無縁墓地へ葬られるらしいことも分かった。

ならば、いくら辛くとも支え続けるしかない。そう思って必死に耐えてきた。そんな息子の刑死を告げる連絡。受話器を握りしめながら、膝がガクガクするほどの衝撃で崩れ落ちそうになった。しかし、とにかく息子の遺体を引き取りにいかねばならない。激しく動揺する気持ちを何とか抑えつけ、随分前から痛みで不自由になってしまった脚を懸命に動かし、電車で3時間はかかる拘置所へと向かった。

夕方になってようやく拘置所に着くと、古びた応接室に通され、制服姿の二人の刑務官が対応してくれた。息子との面会のため月に一度は訪れるようにしていた拘置所だったが、この二人は初めて見る顔だった。しかし、親切で丁寧な言葉遣いで対応してくれたことに、母は心の底から「ありがたいことだ」と思った。

二人の話から察するに、執行後に息子の身体を納棺してくれたのは、この二人の刑務官のようだった。息子の身体を湯灌してくれた、とも言っていたから、おそらく刑の執行にも関わったのではないだろうか。

拘置所内の一室で対面した息子の遺体は、真新しい白木の寝棺に納められていた。その様子を一目見ただけで、拘置所が遺体を丁寧に扱ってくれたのがよくわかった。母は溢れる涙を拭いながら、ふたたび「ありがたいことだ」と思って二人の刑務官に礼を言った。

ただ、息子の首元は布で覆い隠されていた。その布をめくってみると、首筋には青黒い痣がくっきりと残り、口は歯を剥き出すように開いたままだった。このままでは可哀想だ。そう思って母は、時間をかけて息子の口を閉じさせてやった。いくら拭っても、涙がとめどなく溢れてきた。

遺体を引き取るすべての手続きが終わり、そろそろ拘置所を後にしようとした時、二人の刑務官のうちの一人がこう漏らすのを母は聞いた。

「本当に嫌な仕事です。私たちもつらいんです。何か祟りのようなものでもあるんじゃないか、なんて思ってしまうこともありましてね・・・・」

思わず母は「祟りだなんて、そんなことはありませんっ!」と強い声で言い返し、「本当に・・・・、ありがとうございました。長い間、お世話をかけました」と最後の礼を述べた。息子と同じ年くらいの二人の刑務官は、痛む脚を引きずりながら拘置所をあとにする母を、会釈をして見送ってくれた。その表情は、最後まで沈鬱だった。

(了)
















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2015/05/18 Mon. 00:28 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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フィルム・レビュー 『Mommy/マミー』 グザヴィエ・ドラン監督 

フィルム・レビュー 『Mommy/マミー』 グザヴィエ・ドラン監督

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現代のアンファン・テリブルは、フランス語圏でもカナダから生まれた。監督のグザヴィエ・ドランはカナダのケベック州モントリオールの出身。

恐るべき才能。注目の監督グザヴィエ・ドランの新作は期待を裏切らない出来だった。

舞台は近未来のカナダ。医療制度の改正で、新しい法案が可決する。発達障害を抱える児童の親が、養育に困難な場合、養育を放棄し児童を施設に入れる権利を保障する、というものである。

ダイアン(通称ダイ)は、3年前に夫と死別、15歳になる息子スティーヴが収容先の施設で問題を起こし引き取ることに。元高校教師でストレスから吃音障害に悩む隣人のカイラとの触れ合いが、お互いのいい方向に作用すると思われていたが....。

主人公のスティーヴが多動性障害という設定であり、何が起こるか分からない緊張感が常にある。そして、映画のテーマはただ単に障害を抱える子供をもつ母の愛に留まらない。そうした定義付けを許さない、観客との距離の置き方がこの監督の流儀だと感じた。

昨年カンヌで、この作品がゴダールと審査員特別賞を分け合ったということも意識の片隅にあったのだろうか、観終わった印象はゴダールの『気狂いピエロ』のような鮮烈さ。

そのカンヌでのドランのスピーチ。

「誰しも自分が好むことをする権利があるにも関わらず、あなたのやることを嫌悪し、あなたを忌み嫌う人たちもいるでしょう。でも夢を持ち続けてください。そうすることで一緒に世界を変えられるからです。人々を感動させ、笑わせ、泣かせることで、人々の意識や人生を、ゆっくり変えていくことができるのです。政治家や科学者だけでなくアーティストも世界を変えられるのです。

望むことに限界はなく、夢を抱き、挑戦し、努力し、あきらめなければ、どんなことでも実現可能なのです。僕がこの賞を受賞したことこそが、その証にほかなりません。」
特にラスト20分間の疾走感はかっこよすぎる。今観るべき監督の一人であることは間違いない。

ここをクリック→ 『Mommy/マミー』予告編












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2015/05/17 Sun. 09:29 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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「死刑制度について考える (14) ~「憂鬱な儀式」 青木理氏著『絞首刑』より (2)」 

「死刑制度について考える (14) ~「憂鬱な儀式」 青木理氏著『絞首刑』より (2)」

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絞首刑

いま、僧侶の前では、法務大臣の発した死刑執行命令書を拘置所長が読み上げ、その紙を男の目の前に掲げて文面を確認させている。所長の形式張った動作と口調は、僧侶の目に「まるで重要な証文を突きつけるかのような儀式だな」と映った。しかし、間もなく自分が最後の説教を行わねばならない。夜遅くまで気持ちを込めて綴った最後の説教を、精一杯の別れの言葉を、男に語りかけるのである。

そう気持ちを固めた矢先、全身を小刻みに震わせた男は、僧侶の方に向かってよろよろ歩み寄ると、法衣にしがみついてきた。喉の奥から絞り出すような声を漏らしながら、そして嗚咽しながら。

「先生・・・・。せん、せぃぃ・・・・」

瞬間、僧侶が頭の中に諳んじていたはずの言葉など、跡形もなく消し飛んでしまった。男は間もなく強制的な死を迎える。縊り殺されるのである。僧侶の心に同じ自問が再び、だが今度は激しく湧き上がってきた。

この男にいま、何と語りかけたらいいのだろう。僧侶として、宗教を奉ずる者として、いったい何を説くことができるというのだろう・・・・。

もはや言葉など見つからなかった。法衣にしがみついて嗚咽する男の背を、ゆっくりとさすってやることしかできなかった。執行前に食べることを許される菓子や果物も用意されていたが、男は手をつけようともしなかった。

震える男の背をさすりながら、僧侶は心の中で詫びた。

最後にこうして触れ合う人間が、体の温もりを感じさせてやる人間が、私などになってすまないな・・・・。

僧侶の腕の中で、男は嗚咽し続けた。

「では、そろそろ」
数分ほど経ったろうか。いや、数十秒程度だったかもしれない。拘置所長が事務的な口調でそう告げると、執行にあたる刑務官が素早く作業に取りかかった。

一人の刑務官が細長い白布で男の顔に目隠しをし、別の刑務官が両手に手錠をかける。作業終了を確認すると、片側の壁に設置された巨大なアコーディオン・カーテンがほとんど音も立てずに中央から左右に割れた。その先に、刑場が広がっていた。

こちら側と同じベージュ色のカーペットを敷き詰めた空間。広さは十五畳ほどだろうか。意外に広いと僧侶は感じた。天井の中央には滑車が取り付けられ、先端が丸い輪になった真っ白いロープが真っすぐに垂れ下がっていた。

ロープの真下の床は、約1メートル四方だけカーペットが四角く切り取られ、周囲が赤色で縁どられていた。中央には小さな四角い目印も赤色で描かれている。男はそこに立たされ、最期の瞬間を迎える。しかし、すでに目隠しをされてしまった男は、その光景を目にすることができない。

刑場の壁はやはり無機質な木目調パネルで統一されていたが、正面だけは一面がガラス張りになっていた。透明なガラスの向こう側には、バルコニーか観客席のような監視台。こちら向きに並べて据えられた椅子には、しかつめらしい顔をしたスーツ姿の男たちが座っていた。刑事訴訟法の定めに従い、死刑執行に立ち会う検察官と検察事務官であろう。

すでに着席していた検察官らしき人物の隣の椅子に、先ほど男に執行を言い渡したばかりの拘置所長も遅れて着席した。これですべての準備は整った。

刑場では、目隠しをされた男が両脇を再び刑務官に抱えられ、数メートル先にある四角い縁取りに向けて歩かされていった。男の全身の震えがさらにひどくなったように見えた。

僧侶は意を決し、刑場の片隅で経を唱え始めた。男の背に向け、刑場中に響くほど大きな声で―。

男のために僧侶ができるのは、もはやそれだけだった。

刑場の隣には、もう一つの小さな部屋があった。わずか数畳ほどの薄暗い小部屋。制服と制帽に身を包んだ若き刑務官も、胃液が逆流してきそうなほどの緊張に耐えながら、小部屋の壁に向かって立っていた。

隣に並んでいる同僚の刑務官たちも、どうやら同じ心境のようだった。みな一様顔が極度にこわばり、緊張と静寂に支配された室内は咳払いの音一つ聞こえない。

刑務官たちの目の前の壁には、複数のボタンが横一列に並んでいた。5センチ四方の枠に囲まれた大型のボタン。古い拘置所の刑場なら5つ、新しい拘置所の刑場なら3つ。このボタンのうちどれか一つが、死刑囚の立たされる1メートル四方の床を開閉する油圧装置に連結されている。

バタンコ―。死刑執行装置のことを、先輩の刑務官たちはそう呼んでいた。1メートル四方の床が開く瞬間に発する激しい音に由来する言葉だという。その装置に誰のボタンがつながっているのかは分からない。だが、誰か一人のボタンは間違いなくつながっている。

ボタンから少し離れた位置の壁には、金庫のダイヤルのようなものが見えた。どのボタンを油圧装置に連結するかは、そのダイヤルによって決められる。事前にベテランの刑務官がセットしておくのだという。しかし、ボタンの前に立つ刑務官たちは、ダイヤルが導き出した結果を永久に知らされることはない。

ボタンの前で緊張に耐えながら直立していた若き刑務官は心の底からこう思った。
いったい誰が、こんな装置を考え出したのだろう―。

死刑の執行といっても、すべては命ぜられた職務に過ぎない。しかし、自らの手で一人の人間の命を絶ちたいと思う刑務官などいるはずがない。そんな心情を慰めようと考案された装置。人間の命を「殺めたかもしれない」と思ってしまっても、「殺めていないかもしれない」と思い直すことを可能にするシステム。しかし、「殺めてしまったのではないか」という気持ちが消えることなどない。

かつては、刑場の床から突き出た一本の手動式レバーが死刑囚の足元の床を開く唯一の装置だった、と先輩刑務官から聞かされたことがある。刑場の片隅には、今も同じようなレバーが備えられてはいる。だが、それはもはや、ボタンによって油圧装置が作動しなかった際に使う「緊急用の予備」に過ぎない。

若き刑務官は、拝命からまだ数年しか経っていない新米だった。もちろん拘置所に配属された以上、死刑の執行に関わらざるを得ない日々がくる可能性は、いつも頭の片隅にあった。しかし今朝、夜勤明けの疲れ切った状態で命令を告げられた際は、目の前が真っ暗になった。

いかに凶悪な罪を犯した死刑囚とはいえ、公判時から数えれば何年間も、場合によっては10年以上も、拘置所の刑務官達は死刑囚と顔を突き合わせ、日々の世話をする。「情」が湧いたからといって、何の不思議があろう。

「随分前の話だけどな、死刑の執行に携わった時、死刑囚が泣きながら『お世話になりました』って握手を求めてきたことがあってな。あん時は、こっちも涙が止まらなかったなぁ・・・・」
そんな話を先輩刑務官から聞かされたこともあった。

執行に関わる刑務官の選抜に際しては、拘置所長も「それなりの配慮」をしてくれる。幹部だけが持つ特殊な職員名簿を開き、当日が誕生日にあたる者や妻が出産を控えている者、あるいは近親者が重い病を患っていたり、親族の喪中である者などを除外し、最終的に10人ほどのメンバーを慎重に選ぶ。

冷静に考えてみれば、ほとんど迷信のような話である。しかし、それが死刑という刑罰の特殊性と異様性を浮き彫りにしているようにも思う。それでも、一般の刑務官と同様、命令に従うしかない拘置所長としても、部下たちに示してやることのできる最大限の「配慮」ではあるのだろう。

執行に携わるよう命じた直後、拘置所の幹部は、選抜された刑務官たちを集め、男の判決謄本をあらためて読み聞かせた。男の犯した罪の大きさを再認識させようとしたに違いない。確かにその犯行は陰惨で凶悪そのものだったが、いずれにしても指名された刑務官に「拒否」という選択肢などない。そして失敗は、絶対に許されない。

薄暗い小部屋で眼前のボタンを見つめていた若き刑務官は、男が引き起こした犯罪の凶悪さを心の中で反芻し、必死に気持ちを奮い立たせた。

ここからは刑場が見えない。室内の赤いランプが点灯し、刑場と小部屋をつなぐ戸口に立つ指揮官役の刑務員が合図をしたら、一斉にボタンを押す。胃液が逆流するような緊張が再び襲ってきた。すべての神経がボタンを押す指先に集中していく。いったい誰のボタンが男の足元の床につながっているのか。若き刑務官はもう一度、目の前のボタンをじっと見つめた。

まるで「能の舞台」でも眺めているみたいだな・・・・。
分厚いガラス越しに刑場全体を見渡すことのできる立ち合い席に座った時、その検事は奇妙なほどの“清浄”を感じさせる情景に軽い驚きを覚えた。

それに、意外なほど静かだった。防音工事でも施されているのだろうか、拘置所内はもちろん、刑場からの音もまったく聞こえてこない。どこからか低く流れてくる読経の音色は、恐らくテープか何かの音だろう。

拘置所長や検察事務官らと並んで椅子に座った検事にとっても、死刑の執行に立ち会うのは初めての経験だった。

刑事訴訟法には次のような定めがある。
<第477条 死刑は、検察官、検察事務官及び刑事施設の長又はその代理者の立会いの上、これを執行しなければならない>

法務大臣による死刑執行命令書は、当該死刑囚の刑が地方裁判所の段階で確定した場合はその地の地方検察庁(地検)に、高等裁判所か最高裁判所で確定したならば当該地の高等検察庁(高検)の長に向けて発せられ、最終的に死刑囚を収容する拘置所長に伝えられる。

立ち会い検事は当該の検察庁から選ばれるわけだが、死刑に関わるような重要事件の判決が地裁の一審段階で確定してしまうことはほとんどない。だから大抵の場合、高検に所属する検事が立ち会いの任に当たることになる。

この日の執行に立ち会うこととなった検事が高検幹部から執行予定を知らされたのは、前日のことだった。幹部は恐らく何日か前までには法務省から執行予定を伝えられていたはずだが、前日になって立ち会い検事をどうするか、幹部から相談されたのである。

執行への立ち会い検事をどのように決めるかは、各地の高検によってさまざまだという。着任順に若手検事を選ぶケースが多いようだが、この高検ではこれまで「あみだくじ」で決めてきたと、幹部からはそう教えられた。

死刑執行に立ち会う検事は、いわば執行の“見届け役”といえる。まして死刑は、人間の生命を奪い去る究極の刑罰である。事の持つ重大さと、「あみだくじ」の軽さ。随分いい加減な話だと思って呆れたが、誰もが嫌がるであろう役目を自分より若い検事にやらせることはない。

それに「死刑の執行というものを、この目で一度は見てみたい」という気持ちも、この検事には確かにあった。だから「明日執行があるんだが、今回の立ち会い検事はどうしようか?」と幹部から相談された時、「いや、私が行きますよ」と、とっさに答えてしまった。

その話を後輩の検事にすると、信じ難いというような顔をされた。しかし、検事という仕事柄、これまで陰惨な事件の現場や死体は何度も目にしてきている。それに、見たくないと思えば目をつぶってしまえばいいし、下を向いていたって構わない。そう思いながら朝、相方の検察事務官とともに公用車で拘置所にやってきた。

着席した立ち合い席からは、まさに刑場の全体を見渡すことができた。男が首にロープをかけられる場所も、これから男が落下していくであろう階下の部屋も、上下左右すべてが見渡せる。

いま、白い布で目隠しをされた男が「舞台の上」に現れた。屈強な刑務官に両脇を抱えられ、「舞台の中央」に向かって歩いている。間もなく首にロープをかけられ「舞台の下」へと落下していくはずだ。しかしどうだろう、このあまりに現実感のない情景は・・・・。

きれいなもんだな。

分厚いガラスの向こう側の「舞台」を眺めながら、検事の心中にはそんな感慨すら浮かんでいた。

(続く)










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category: 死刑制度について考える

2015/05/14 Thu. 00:01 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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「死刑制度について考える (13) ~ 「憂鬱な儀式」 青木理氏著『絞首刑』より (1)」  

「死刑制度について考える (13) ~ 「憂鬱な儀式」 青木理氏著『絞首刑』より (1)」

私たちは死刑制度について感情に任せて語りたがる割に、その実態を知らなすぎるようです。それは、日本の死刑が、世界でも類を見ないほど徹底した密行主義の壁に覆われ、刑場でどのような光景が繰り広げられるのか、公の職務として執行に携わっている人々がどのような想いを抱えながらそれに関わっているのか、そうした事柄自体が闇の奥に隠されていて見えないからです。

死刑囚を悪の「記号」として捉えるのではなく、あくまで生身の人間であり、死刑執行とはその命を奪うことであると理解して、初めてその是非の議論の端緒につけると感じています。

青木理氏著の『絞首刑』は、浅薄な存置・廃止論に与することなく、当事者に肉薄したルポルタージュです。この書が、裁判員制度施行の今日、多くの人に読まれるべきであることは、彼の当事者意識を共有すれば当然のことにように思えます。

そのプロローグは、「憂鬱な儀式」と題され、死刑執行の実態を生々しく私たちの前に「再現」しています。

あとがきから引用します。

「(死刑執行に関わる人々の)心象風景を、私は、可能な限りリアルに再現し、生々しい形で読者に提示してみたかった。そして何よりも、死刑執行に携わった人々の苦悩や逡巡を「他人事」ではなく、私たち自身の事柄として捉え返してみたかった。だから証言を羅列して構成するのではなく、私の中でいったん咀嚼し、一人称の視座で紡いでみたいと考えた。

極論を言えば、私自身が死刑囚の首に絞縄をかけ、執行ボタンを押し、宙吊りの遺体を処理する視座に立ってみたかった。でなければ、死刑問題の本質は決して見えてこないと思った。執行ボタンを押しているのは若き刑務官だが、その指を動かしているのは私たち一人ひとりの暗黙の意思なのだから。」

「死刑制度について考える」のシリーズでは、今回より3回に亘ってこのプロローグの全文を紹介します。「日本の司法を正す会」で三度お会いする機会のあった青木氏には、手紙でその旨を通知しています。

絞首刑

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「憂鬱な儀式」

ある元刑務官は、拘置所内にある地下室のような部屋に足を踏み入れた瞬間に感じたゾッとするほどの薄気味悪さを、いまも忘れることができない。刑務官になって数年目、まだ駆け出しの若手だったころの記憶である。

その部屋は、特別な日を除けば一般の刑務官が近寄ることは決して許されていなかった。おそるおそる足を踏み入れてみると、内部の空気が湿っていたわけではないし、もちろん不衛生なわけでは決してなかった。むしろ、隅々まで徹底して掃除が行き届き、ゴミなど一片たりとも落ちていなかった。

しかし、薄気味悪い冷気が足下から這い上がってきて身体が硬直した。あの雰囲気を、どう評すればいいのだろうか。

妖気。あるいは霊気・・・・。

つまらぬ迷信や霊感などといった類のものを信じているわけではない。けれど、そんなふうに形容するしかない冷え冷えとした空気。敢えて譬えるなら、病院の霊安室にも似たような空気。

広さは十数畳くらいだろうか。床は一面が剝き出しのコンクリート敷きだった。中央部には、鉄製の網で覆われた排水溝があった。垂れ流された汚物や体液を洗い流すための排水溝。そこで行われる「作業」に必要なもの以外には何もない空間。

床から天井までの高さは約4メートル。コンクリートの床に立ち、天井を見上げてみる。間もなくやって来るだろう「その時」、あの天井の真ん中が轟音とともにきっちりと四角く割れ、首にロープをかけられた身体が真っすぐに落下してくる。瞬間、首の骨は砕け、意識を失って絶命する。直ちに衣服が脱がされ、その場で検視が行われ、遺体は棺に納められる。徹底して秘密裏に、そして確実に営まれる、刑の執行。

部屋の片隅には、大きな箱が置かれていた。いったい何が入っているんだろう。そう思ってこっそり開けてみると、中には太いロープが納められていた。刑の執行に使われるロープだった。丸い輪になった部分には皮革が巻かれ、そこだけが妙に黒ずんでいたのは、死刑囚たちの末期の体液を吸ったためだったのだろうか。

再びゾクッとするような寒気が足元から這い上がってきた。あの部屋にはもう二度と足を踏み入れたくない。

無機質な鉄製の扉が開き、屈強な刑務官に両脇を抱えられた死刑囚の男が、ゆっくりと目の前に連行されてきた。

顔面は蒼白だった。辛うじて自力で歩を進めているが、顔も足も手も、身体中のすべての部位が小刻みにブルブルブルと震えていた。その男と目の前に相対した僧侶は、胸の奥底から深い自問の念が湧き上がってくるのを抑えることができなかった。

宗教家である私が、ここで男に何をしてやればよいのだろうか。いったい何を、してやれるというのだろうか・・・・。

薄いベージュ色のカーペットが敷き詰められた拘置所内の一室。四方の壁は木目調のパネルに覆われていたが、僧侶から見て左側の壁だけは、一角が大きなアコーディオン・カーテンになっていた。背後の壁には、簡素な仏像が飾られた祭壇もしつらえられている。連行されてくる死刑囚がキリスト教に帰依しているのなら、それに合わせて簡単に置き換えられる仕組みになっているのだと、僧侶は拘置所幹部から聞かされたことがあった。

僧侶の脇では、拘置所の所長や幹部、刑務官らも並んで立って男を迎えていた。こちらを向いてブルブルと震える男の目は、緊張と恐怖で怯え切っている。だが、脇に立つ拘置所長も、拘置所の幹部も、刑務官も、全員が極度に緊張しているのが僧侶には手に取るように感じられた。死刑囚に最後の儀式を施す空間では、それも無理のないことのように思えた。僧侶自身にしても、ひどく緊張していたのだから。

教誨師―。そう呼ばれる仕事を僧侶が引き受けたのは、もう何年も前のことになる。長く世話になっていた先輩僧侶が老齢となり、「私の後任を務めてくれないだろうか」と頼み込まれたのがきっかけだった。

判決の確定した死刑囚が収容されているのは、北は札幌から南は福岡まで全国7ヵ所の都市に置かれた拘置所である。拘置所といえば本来、未決の刑事被告人を暫定的に収容する刑事施設であり、裁判で有期刑が確定すれば各地の刑務所等に移監される。だが、死刑囚にとっては死刑こそが刑の執行にほかならない。だから刑務所ではなく、拘置所で「その時」を待つ。そして刑場も、拘置所内の一角に付設されている。

死刑囚たちは、本人が希望すれば定期的に「宗教教誨」を受けることができる。拘置所側は「心情の安定に寄与する」として死刑囚にこれを勧め、あらかじめ登録された篤志家の僧侶や牧師、神父たちがそれを引き受けている。あくまでもボランティアであり、報酬は交通費程度しか与えられないのだが、僧侶に後任を務めるよう求めてきた老僧も長年その役目を担ってきていた。

「しかし、死刑囚の教誨を担当するとなれば、死刑の執行にも立ち会わねばならないのではないですか?」

そう言っていったんは固辞したが、最終的には引き受けざるを得なかった。

「たしかにそうだが、死刑執行への立ち会いなんて、そう滅多にあるものじゃないよ。私も長いこと死刑囚の教誨を担当してきたが、実際の立ち会いは一度もなかったから。それに、こんなことを頼めるのは君ぐらいしかいないんだ。何とか引き受けてくれないかね」

いろいろと世話になってきた老僧の頭を下げて頼まれたら、断りきれない。そうして始まった拘置所通いだった。

僧侶や拘置所長の前で激しく身体を震わせている男とは、刑の確定から数年間、月に一度ほどのペースで教誨の時間を持ち続けてきた。といっても、与えられる時間は、毎回30分程度しかない。最初のころは経を唱え、男に宗教的な教えを語りかけようとしていたが、いつのころからか、僧侶が男の話に耳を傾ける時間のほうが圧倒的に多くなっていった。

確定死刑囚は、親族や弁護士を除けば、事前に許可された数人以外との面会が厳しく制限されている。その親族すら絶縁状態になることがしばしばであり、徹底して孤独な独房で死と向き合う死刑囚にとって、教誨師は外部世界の匂いをまとった数少ない話し相手となる。

だから僧侶は、それも自分の役目だと考え、男の話に相づちを打ち、聞き役に徹するよう心がけた。死に直面しながら日々を送る男に、わずかな時間でも人間らしい会話を、少しでも気晴らしになる会話を、させてやりたいと思ったのである。

そんな男との会話の内容は、実にさまざまだった。犯してしまった罪への悔悟。最近起きた事件や社会事象への感想。いま読んでいる本の話。たわいもない流行歌の話題。その他その他の四方山話・・・・。

男は特に、自らが引き起こしてしまった事件への激しい悔悟と被害者への謝罪の言葉を、いくどもいくども口にした。殺人と現住建造物放火。それが男の犯した凶行だと認定されていた。

「なんであんなことをしてしまったんでしょうか。いくら悔いても悔いたりません」
「被害者の方には、死ぬ瞬間まで懺悔し続けるしかありません」
「でも・・・・」

そう言って男は、時おりこう訴えることがあった。
「でも放火なんてやってないんです」

表情は真剣そのものだった。
「火なんてつけていないんです。絶対に、つけてないんです。自分のやっちゃったことに動転して、あわてて逃げ出したんですが、後で『家が燃えた』って聞いて、オレ、ホントに驚いちゃって・・・・」

男の弁護団は、被害者宅に残されていたストーブが何らかの原因で転倒し、引火したのではないか、と訴えたのだが、公判では認められなかった。もちろん真実は分からないが、僧侶の目には男が嘘を言っているようには見えなかった。

死刑囚という存在と向き合いながら僧侶は、宗教家である自分がなぜこんなことをしているのかと常に悩み続けた。

男はどう考えても許されざる大罪を犯してしまっている。だが、過去の罪を必死で悔い、被害者への謝罪の言葉を繰り返している。そんな男に精神的な支えを施すのは、宗教家としての務めだろうと思った。罪の底で喘ぐ人間を少しでも慰め、救済することも、宗教の役目だろうと思ったからである。

ただ、僧侶は月に一度、それも約30分というわずかな時間、男の話し相手になってやることしかできない。しかも、男はいずれ強制的な死を迎える。そんな男をつかのま慰め、罪に喘ぐ心を救済してやろうと振る舞うことにどのような意味があるのか。表面的な優しい言葉をかけ、ほんの一時だけ人間的な時間をつくってやろうとすることが、果たして宗教家としての仕事なのだろうか。もっといえば、官憲の手先となって罪人の心を慰撫しているに過ぎないのではないか。

それでも男は、苦悩する僧侶に信頼を寄せてくれているようだった。
「先生、オレの最期の時は、先生が絶対に見送ってくださいね。お願いしますよ」

ちょっとおどけた様子で、しかし真剣な眼でそう言われた時は、思わず「分かった」と答えたものの、内心ではひどく狼狽した。それでも、いつのころからか僧侶は、最期まで男と真摯に向き合ってやろうと心に決めた。

当たり前の話とはいえ、男と語らう時間を重ねるにつれ、僧侶の心の中には男に対する「情」のようなものも徐々に積み重なっていった。確かに犯行は凶悪だが、根っからの悪人とはどうしても思えない。「放火はやってない」という男の訴えを裏付ける証拠を探してやることはできないだろうか、などと考えたこともあった。

しかし、一介の僧侶にはあまりにも荷が重すぎる話である。だいたい、どこをどう調べれば男の言っていることが真実だ、などと証明することができるのか。

そうこうしているうちに時は流れ、拘置所からの連絡は突然、やってきた。

僧侶が拘置所の幹部から、男への刑の執行と立ち会いを求める連絡を受けたのは、執行前日のことだった。すでに複数の教誨を担当するようになっていたから、いつか「その時」がやってくる可能性があることは覚悟していた。だが、実際に拘置所からの連絡を受けた際は激しく動揺した。受話器を握る手が震え、喉の奥に胃液がせり上がり、舌が膨らんで気管を塞いでしまったような感覚に陥った。

僧侶の動揺に気づいたのか気づかなかったのか、拘置所の幹部はつとめて事務的な口調で話を続けた。

「明日の朝8時、お寺まで迎えの車を出させていただきます。ただ、執行の件は絶対に秘密です。事前も、事後も、誰にもおっしゃらないようにしてください。もちろん、ご家族にもおっしゃらないでください」

電話でそう告げる拘置所幹部に「無茶なことを言うものではありません」と強く反駁した。早朝に拘置所の車などが迎えに来れば、どう考えても家族が奇異に思う。それ以前に自分の心が耐えられない。

だから僧侶は、妻だけには「明日、死刑の執行に立ち会うことになった」と明かし、深夜、自室に一人籠ってペンを執った。死にゆく男に伝える最後の言葉を考えねばならない。

動揺する気持ちを抑えながら僧侶は、男に語りかける言葉を懸命に紡ぎ、時間をかけて原稿用紙に書き写した。ようやく書き終わると、時計の針は午前零時を回っていたが、何度も読み返して推敲し、暗唱した。だが結局、その言葉を男に伝えることは、できなかった。

(続く)

















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category: 死刑制度について考える

2015/05/11 Mon. 01:25 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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#検察なう (467) 「取調べ可視化が目的化することのリスク」 5/7/2015 

#検察なう (467) 「取調べ可視化が目的化することのリスク」 5/7/2015

先日、「刑事訴訟法等改正法案をどうみるか」院内集会に参加しました。

ここをクリック→ 4・22院内集会チラシ

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(写真は小池振一郎弁護士、郷原信郎弁護士、袴田秀子氏)

取調べ可視化義務付け等を含む「刑事訴訟法等の一部を改正する法律案」がこの3月13日、政府により国会に提出されたことを受けて、その問題点を野党議員にアピールする市民集会です。

この刑事訴訟法等改正法案は法制審議会の特別部会(「新時代の刑事司法制度特別部会」)の審議を経て作成されたものです。

そもそもは郵便不正事件の検察不祥事をきっかけに、冤罪を繰り返さないよう、捜査権力の角を矯めるための議論が始まりましたが、「検察の在り方検討会議」「新時代の刑事司法制度特別部会」の審議を経て、ふたを開けてみると、わずか2-3%の事件の取調べ可視化とバーターに、司法取引の導入や通信傍受の対象拡大という更に強力な武器を捜査権力は手に入れたことになります。さすが法務・検察官僚のしたたかさ、ずる賢さには脱帽せざるを得ません。(注1)

3月13日の法案国会提出を受けて、日弁連会長が改革の前進を評価する声明を出していますが、「は?どうしちゃったの?」というのが正直な感想です。

ここをクリック→ 取調べの可視化の義務付け等を含む「刑事訴訟法等の一部を改正する法律案」に対する会長声明

こうした一連のいきさつを眺めると、法務・検察官僚のいいようにされているのは、取調べ可視化が目的化したことの弊害ではないかと感じます。

取調べ可視化自体は、被疑者あるいは弁護人に一方的に資するものではなく、単に取調べの客観性・任意性を担保する手段に過ぎません。取調べを可視化しさえすれば世の中がバラ色になるかのような幻想を持つ者はよもやいないとは思いますが、それを何とか実現しようとするあまり、狡猾な法務・検察官僚に付け込まれたというのが、私の印象です。この問題に関し、一枚岩でない日弁連と、組織を挙げて保身及び形勢逆転を狙う法務・検察官僚とでは、やはり役者及び気合が違ったというところでしょうか。

先日の集会に参加していて、更に感じたところを述べます。

パネリストは、冤罪界の大立者である布川事件の桜井昌司氏と、西武新宿線痴漢冤罪事件(「西武新宿線第一事件」)被害者の矢田部孝司氏(映画『それでもボクはやっていない』は複数のモデルがいますが、彼はその一人)でした。彼らの実体験に基く取調べ全面可視化の必要性の主張は説得力がありました。しかし同時にふと思ったことは、同じ主張が犯罪者からされたとして同じく心に響くだろうかということでした。

「あまりに取調べが拷問のようで、人権なんてないんです」
「でも、あなたは人を殺したんですよね」
「はい、でも、それって推定無罪原則を無視してませんか?」
「ではその取調べが、それほど過酷でなければ自白しましたか?」
「それは分かりません。嘘をつき通したかもしれません」
「なら仕方ないですね」

否認する被疑者が、真実無実を訴えているのか、あるいは嘘の自己弁護をしているのかは、取り調べ段階では分かりません。犯罪者がひどい取調べを受けるのは仕方ないと思ってしまうとこの問題は迷路に迷い込むことになります。

「十人の真犯人を逃すとも一人の無辜を罰するなかれ」ということが本当に理解できてこそ、取調べの可視化の意義が理解できるように感じました。

また取調べの録音・録画そのものが証拠資料とされた場合の弊害はあまり議論されていないように思います。

先日の愛知弁護士会での講演の際(注2)、コーディネーターであった弁護士と最近の取調べ可視化の状況について会話を交わした時のことです。

私 「取調べの可視化が行われて、何が変わりましたか」
弁 「いやあ、本当に大変なんです。時間が取られて。取調べの録画テープは何十時間分もありますから。反訳があればまだしも、検察に「ない」と言われると本当に困ってしまいます」

員面調書や検面調書の恣意性が「彼らの作文である」と問題にされることがよくありますが、もし彼らが取調べの可視化を利用して、調書の代わりに録音・録画そのものを実質証拠とすれば、刑事弁護人の業務はパンクしてしまうことを意味します。「お前らの望み通り、取調べを可視化してやっただろうが」と肉を切らせて骨を断つ作戦です。

「取調べの可視化」という場合、調書の補助的な位置付けであることをイメージしますが、狡猾な検察官であれば、弁護人いじめとして、膨大な量の録音・録画を実質証拠とすることが考えられます。調書であれば読むのに4-5時間というところが、録画DVDを見るのに100時間ということがあり得るということです。

録音・録画のみを実質証拠とすることは禁止するであるとか、それらのみを実質証拠とする場合には必ず反訳を添付するといった方策が取られるべきだと思います。

いずれにせよ、刑事司法改革の道のりは依然遠くて険しいということが言えそうです。それでも冤罪被害者を生み出さないための改革を進める不断の努力が必要だと感じています。

(注1)
ここをクリック→ 法制審議会の試案を「泥棒に追い銭」と評価する青木理氏(TBSラジオ『デイキャッチ』2014年5月1日放送)

(注2)
ここをクリック→ #検察なう (460) 「愛知県弁護士会主催「3・7取調べの可視化市民集会」講演全文」

5/7/2015













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category: 刑事司法改革への道

2015/05/07 Thu. 00:01 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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「死刑制度について考える (12) ~冤罪問題で死刑を廃止するか」 

「死刑制度について考える (12) ~冤罪問題で死刑を廃止するか」

冤罪死刑は「絶対悪」であり、いかなる殺人の被害よりも峻烈です。それは理由もなく命を奪われるだけではなく、犯罪者としての汚名を着せられ、人間的尊厳まで奪われるからです。

死刑廃止論の理由として冤罪の可能性が挙げられることはよくあります。私は自らの経験から、冤罪は偶発的なものではなく、その発生は構造的な要因により起こり、世の中の人が認識しているよりはるかに多くの冤罪が今日もなお生み出されていることを理解しています。

しかしながら、冤罪の問題が死刑廃止論に直結することには違和感を覚えます。冤罪を防ぐ努力を全くしていない状況で(注)、冤罪を理由に死刑制度の廃止を論じることに、論理の飛躍、ねじれを感じていたからです。それは冤罪を防ぐ努力を最初から放棄しているという印象です。

勿論、絶対悪である冤罪死刑を防ぐために、冤罪をなくす努力では、既に冤罪で死刑判決が確定している死刑囚を救えないということは理解します。そのため、私は冤罪の可能性を理由にした死刑の即時執行停止は全面的に支持しますが、それと制度としての死刑を廃止するということとは次元が違うと思っています。

具体的には、アメリカオレゴン州、ワシントン州は死刑存置州ですが、州知事により公式に死刑執行が停止されています。両州では、今後、制度の存廃を議論することになると思われますが、私が現時点志向しているのはそうした方向性です。

最近、手に取った文献にこの問題を論じたものがあり、個人的には腑に落ちたので引用します。

森炎氏著『死刑肯定論』(ちくま新書)より

死刑肯定論

(以下引用)
「冤罪で死刑」という事態は、無条件でわれわれに衝撃を与える。無実の罪で死刑にされるのが絶対的不正義であることは、何人も否定しようがない。しかし、それが絶対的不正義であるとしても、結論として死刑廃止につながるというのは、はたして絶対的かどうか。

死刑冤罪という不正義を避けるためには死刑廃止がどうしても必要であるというのは、制度の直接存在を形式論理的に把握する場合の立論である。人間の現実存在のありようと意志的秩序の次元において死刑制度や裁判制度を考えるならば、必ずしもそうはならないかもしれない。その意味で、冤罪問題を根拠とする死刑廃止論は一面的である。

冤罪主根拠廃止論は、死刑冤罪防止と死刑制度廃止、その二つの事柄の必然性を自然法則としての因果性(「あれなければ、これなし」)に負っている。両者の間には、自然科学的な意味での因果関係は、たしかに否定できない。しかし、もともと、裁判制度や死刑制度が対象としているのは、「責任」「自由」「良心」「償い」等々の規範的世界の諸事情である。なぜ、ここで、自然科学的な発想が急に出てこなければいけないのか、十分に理解できない。言ってみれば、冤罪主根拠廃止論の言う「必然性」の主張には、必然性がない。規範的世界では、別の関係が成り立つかもしれない。

アナロジーを用いて、もっと具体的に言えば、次のようなことである。

正当ならざる死を帰結する社会制度は、航空機、鉄道の運行、自動車の使用等、決して少なくない。航空機や鉄道の運行、自動車の使用が常態化した現代社会では、それによって、必ず統計的に一定数の死者を生ずる。が、それでも、われわれの社会は、航空機や鉄道の運行をやめたり、自動車の製造・使用を禁止することはない。それはどうしてなのか。

「利便性のためには、多少の死者を出すことはやむを得ない」では、理由にならないだろう。むしろ、単なる利便性のために死者を出すことは、現代社会においても絶対に認められないはずである。われわれの社会は、単なる利便性のために死者を出すことは認められないはずなのに、当の制度を続けている。この場合、逆に、制度の直接存在からは、その事態を正当化することはできない。

この種の社会制度にあっては、「利便性ために死者を出すことは認められない。したがって、それを極小化すべく努力しなければならない。他方では、それがゼロとなることはないとしても制度として続行する」という考えが紛れもなく、まともなはずであるが、それが正当化されるのは、ただ物事の根拠を事実的な因果の系で問い詰めるのではなく、意志による秩序の意味として探る場合である。人類史における交通手段の発達の意義、文明や文化の展開過程と高速度交通の関係、現代社会における市民の日常生活の形態変化、個人の幸福追求や精神的自由度への寄与、あるいは人為的事故に対する人間社会の現実的倫理などの考察を抜きには考えられない。

死刑と航空機事故の類を同列に論じるわけにはいかないが、結局、死刑冤罪について、事実の因果性として「いくら努力してもゼロとなることはないのだから、それを絶つためには制度自体を廃止するほかない」と言うべきなのか。それとも、意志的な可想的秩序として「冤罪で死刑にすることは絶対に認められない。したがって、それを極小化すべく努力しなければならない。他方では、それがゼロになることはないとしても裁判制度として続行せざるを得ない」と言うべきか。それが問題である。死刑制度賛成85.6%というのは、後者の行き方を社会が選んでいるということではないのか。それが現在の日本の法的確信にほかならないとも見られる。

その法的確信は、「冤罪があってもよい(ないしは、やむを得ない)」というのではなくて、「冤罪で死刑にすることは絶対に認められない」「しかし、それがゼロとなることを目指す極小化努力の中でならば、死刑制度は制度として続行することが許される」という確信だろう。
(引用以上)

核心部分では全面的に首肯できるものの、その「法的確信」の正当性を死刑制度の支持率に求めているところは、少し議論を急いた感じがします。それは日本の国民の多くが、法務官僚の思惑により、死刑制度が何であるかということを知らされず、議論の根拠となる事実認識が決定的に欠如している「雰囲気論」に支配されていると感じるからです。

裁判員制度がある以上、我々国民の一人一人が人を裁き、死刑を宣告する立場に置かれる可能性があります。雰囲気に流されるのではなく、真摯な態度で死刑制度を考察する必要があると考えます。

(注)
ここをクリック→ #検察なう (364) 「なぜ冤罪はなくならないか」












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2015/05/04 Mon. 00:01 [edit]   TB: 0 | CM: 1

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フィルム・レビュー 『ディオールと私』 フレデリック・チェン監督 

フィルム・レビュー 『ディオールと私』 フレデリック・チェン監督


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映画『ディオールと私』鑑賞。

監督は、ヴォーグ編集長のダイアナ・ヴリーランドを扱った『ダイアナ・ヴリーランド 伝説のファッショニスタ』のフレデリック・チェン。

個人的には全くモードには興味がないが、なぜかオートクチュールの世界には惹かれ、それを題材とする映画には足を運んでしまう。それは彼らのファッションにかける情熱が私にとっては非日常的であり、かつショーに向けて必ずドラマがあるからに違いない。

この作品では、創始者クリスチャン・ディオールの自伝の朗読が挿入されることで、過去と現在が見事にリンクしている。そして「アトリエにはディオールの幽霊が出る」とお針子が半ば本気で語っていることから、ブランドの精髄はデザイナーが変わったとしても、アトリエが受け継いでいくのだと理解した。

題材は、ディオールの最も新しいデザイナー、ラフ・シモンズのファーストコレクションのショー。彼が着任以来最初のショーを仕切るに当たっての緊張が伝わってくる。彼の感動と緊張ゆえの涙を見れば、なるほどストレスフルなんだろうなと理解せざるを得ない。

映画としては『イヴ・サンローラン』の方が面白いが、こちらは全て生身の人間が演じているドキュメンタリーであるがゆえの差でしかないと感じる。どうしてもこのジャンルの映画には評価が甘めになってしまって同じことしか言えないが、「モードに興味のない私でも楽しめたので、モードに興味のある人は面白いと思うに違いない」。

ここをクリック→ 『ディオールと私』予告編

(Facebook 4/20/2015より転載)












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category: フィルム・レビュー

2015/05/03 Sun. 00:01 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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