「蟷螂の斧となろうとも」 by 元外資系証券マン

クレディ・スイス証券集団申告漏れ事件(http://goo.gl/v0xQYP)において、国税局査察部告発、検察特捜部起訴の事案で史上初の無罪判決。 著書『勝率ゼロへの挑戦 史上初の無罪はいかにして生まれたか』(光文社)。 ツイッター(@thatta0529)で「#検察なう」の情報発信を続けます。

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#検察なう (87) 「司法改革 (2) 『二重の危険』」 1/16/2012 

#検察なう (87) 「司法改革 (2) 『二重の危険』」 1/16/2012

前回、裁判官が無罪判決を書くハードルとして、「一生懸命無罪判決を書いても、上級審でひっくり返されるのではないか」との懸念があるのではないかと述べました。

日本では、下級審で無罪となった場合でも、検察は上訴することができます。司法制度に関していろいろな問題点が指摘される中で、もし私の権限で現行司法制度を一つだけ変えることができるとするなら、私はこの点を変革したいと思います。私は、検察の上訴を認める現行制度は憲法違反だと考えています。

皆さんは、法律には大陸法という流れと英米法という流れがあるのはご存知でしょうか。法律にはそれぞれ出自があって、そのオリジンを大きく分けて、ローマ法を起源として西ヨーロッパで発展した大陸法と、英米で発達した英米法(コモン・ロー)とに分かれます。

大陸法と英米法の大きな違いは、大陸法は成文法中心の法体系を取っているのに対し、英米法は判例法中心の法体系を取っていることです。

日本の法律は、いわゆるいいとこ取りで、民法は大陸法の影響を色濃く受け(フランスvsドイツという論議はありますが、いずれにせよ大陸法ですね)、対して憲法はマッカーサーの肝入りで制定されていますから、当然英米法の影響を受けています。この辺りまでは、法律の知識というよりは世界史を履修した人は世界史の知識としてあるのではないのでしょうか。

憲法39条の条文は以下の通りです。
「何人も、実行の時に適法であった行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問はれない。又、同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問はれない」とあります。

いわゆる「遡及処罰の禁止」と、「一事不再理」を定めたものですが、この条文は、アメリカ憲法修正第5条にのっとっています。

一事不再理に関して、アメリカ憲法の原文は
“.....nor shall any person be subject for the same offense to be twice put in jeopardy of life or limb”とあり、日本国憲法第39条とほぼ同じ内容です。

そしてアメリカにおいては、この条文をもって、検察が上訴できない制度となっています。「被告人が際限なく処罰を受けるリスクを負うことになるのは不公正である」という考えで、これを「二重の危険(double jeopardy)」といいます。イギリスにおいても同じく検察は上訴できません。

私は、日本が英米法の流れを汲む憲法を持っていながら、その運営が英米法的でないのはいかにも不自然だと思っています。そしてその解釈が自由度をもつことにより、より効率的に運営されているのであればまだしも、その不自然な運営により結果的に推定無罪という大原則の適用を困難にしているとすれば、それは大きな問題と言えると思います。

そもそもなぜ裁判は一回ではないのでしょうか。間違いがあるといけないため、「もう一度審議してくれないか」というチャンスを残しているわけです。それは無辜の民を冤罪に由って罰してはいけないという精神に基づくものだと思います。検察は捜査・押収など強制権限が与えられ、勾留も相当長期間認められます。つまり検察は、被告に対して圧倒的な優位にあるものです。その検察と一個人の被告が同じチャンスを得るというのはどう考えてもおかしいでしょう。三審制をとるシステムで、一個人は国家に一回勝てば十分のはずです。国家に対して三回勝たないと無実の実証が出来ないかのような今のシステムは、あまりに個人の人権を軽んずるものだと思います。

また裁判のコストも考えるべきなのではないでしょうか。被告が裁判費用を自分で負担して上訴できるのは当然の権利です。検察が上訴することによって追加的に発生するコストは国民の血税です。彼らのメンツのために税金が使われた日にはたまったもんじゃありません。国民がフリーチェックを切っていると思っているのであれば、それは大きな間違いです。

なぜこのようなことがあるのでしょう。それは過去の最高裁判例によるものです。1950年(昭和25年)9月27日の最高裁判例で、確定するまでは上級審も含めて一つの手続きだとして、下級審の無罪判決の上訴や、上級審が無罪判決を破棄し有罪とすることを合憲としています。

60年以上前にそうなったからといって、それ以来、日本では何ら疑問を挟まず判例主義に縛られて、検察の無罪に対する上訴を許しています。しかも60年以上前のその判例の事案は、量刑不当による上訴に関してのものでした。つまり、同じ有罪ですが、「もうちっと重い刑が適当でしょ」ということを議論できるかどうかということに関する判例です。その判例をもってして、無罪を有罪にひっくり返す可能性がある上訴に適用するというのは拡大解釈ではないかと素人感覚としてはあります。

そして検察の上訴は被告の迅速な裁判を受ける権利(憲法第37条第1項)の侵害でもあると思います。

そもそも下級審で無罪になったということは、その時点で有罪求刑に関し「合理的な疑いがはいる」ことが実証されているわけですから、検察がそれをとやかく言うのは全くナンセンスだと感じます。確定するまでは上級審も含めて一つの手続きだという考えは、下級審における主張立証の充実振りや重要性を軽視したものです。

もし諸外国並みに無罪判決に対して検察上訴が許されないならば、もっと裁判官は勇気をもって良心に従って無罪判決を出せると信じています。推定無罪の原則がもっと実効的になると信じています。

これから、私の公判が始まりますが、もし一審無罪となり、そこで検察が控訴してきたならば、私は弁護士に「検察上訴は憲法違反であり、判例変更を求める」という論点を加えてもらうつもりです。

私の批判が机上の空論ではなく、実際に司法改革につながるとすれば、素晴らしいことです。もし判例変更ということにでもなれば、本当に日本の歴史は大きく転換します。刑事裁判の有罪率99.9%という異常な事態の是正に寄与することができるかもしれません。私が、無実でありながら告発・起訴されてしまい、それと戦う社会的意義・使命はこれだったかと納得しています。そのためにも何としても一審で無罪を取らなくてはなりません。気合い入りまくりです。

1/16/2012


category: 刑事司法改革への道

2012/01/16 Mon. 17:26 [edit]   TB: 0 | CM: 2

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この記事に対するコメント

頑張ってください

昭和25年の最高裁判決文を読んでも意味不明ですね。三審全て含んでひとつの手続きとしていますが、その主張の根拠が何かについては触れいません。法律家とも思えぬ弁論の展開です。つまり主張だけして立証していません。要するに「自分がそう考えるから違憲じゃないんだよ」と言っているに過ぎません。悪しき権威主義そのものですね。最高裁の裁判官がこの調子なのに、その判決にもとづいて60年も運用されている刑訴法の罪深さに溜息がでます。無罪判決受けながら検察官上訴で有罪となり最悪死刑となった方々を思えば溜息どころではなく、明日は我が身。身に覚えのない罪で起訴され人生を棒に振る可能性を考えれば、蟷螂の斧でもよいから八田さんとにかく頑張ってください。

gigoogig #- | URL | 2012/03/16 Fri. 16:59 * edit *

メッセージありがとうございます

こちらは素人ですが、その素人感覚でおかしいと思うことが多々あります。それを当事者の立場から発信できればと思っています。応援ありがとうございます。

八田


> 昭和25年の最高裁判決文を読んでも意味不明ですね。三審全て含んでひとつの手続きとしていますが、その主張の根拠が何かについては触れいません。法律家とも思えぬ弁論の展開です。つまり主張だけして立証していません。要するに「自分がそう考えるから違憲じゃないんだよ」と言っているに過ぎません。悪しき権威主義そのものですね。最高裁の裁判官がこの調子なのに、その判決にもとづいて60年も運用されている刑訴法の罪深さに溜息がでます。無罪判決受けながら検察官上訴で有罪となり最悪死刑となった方々を思えば溜息どころではなく、明日は我が身。身に覚えのない罪で起訴され人生を棒に振る可能性を考えれば、蟷螂の斧でもよいから八田さんとにかく頑張ってください。

八田隆 #- | URL | 2012/03/16 Fri. 18:44 * edit *

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