「蟷螂の斧となろうとも」 by 元外資系証券マン

クレディ・スイス証券集団申告漏れ事件(http://goo.gl/v0xQYP)において、国税局査察部告発、検察特捜部起訴の事案で史上初の無罪判決。 著書『勝率ゼロへの挑戦 史上初の無罪はいかにして生まれたか』(光文社)。 ツイッター(@thatta0529)で「#検察なう」の情報発信を続けます。

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#検察なう (113) 「市川寛氏著『検事失格』」 3/15/2012 

#検察なう (113) 「市川寛氏著『検事失格』」 3/15/2012

市川寛氏の著による「検事失格」が2月下旬に上梓されました。

検事失格

彼の名前を知らない方のために一言紹介しておきますと、彼は元検事。1996年の佐賀市農協背任事件(検察が捏造した不正融資事件)で、彼は事件の捜査を担当するチームの主任でした。そして農協組合長の取調べで、「ふざけんな、この野郎!ぶっ殺すぞ、お前!」と暴言を吐き、自白を強要。その言葉の暴力で作られた自白調書を元に起訴しますが、その調書が公判で任意性を否定され、彼は検察から「厳重注意」を受けて引責辞任します。ここまでは検察の実状を少しでも知れば、それほど驚くことでもないのですが、その10年後、彼はテレビ朝日「ザ・スクープ」の取材で、その組合長の自宅を訪れ、既に鬼籍に入っていた組合長の遺影と彼の息子に土下座謝罪しました。現在、弁護士として活動中で、彼の検事時代を記したものが「検事失格」です。

『検事失格』から印象的な部分を引用してみます。

彼は、司法試験合格後の司法修習生の実務修習から、早くも衝撃を受けます。

― 「検察修習が始まってすぐに、ベテラン副検事による取調べの要領についての講義が行われた。

この講義で、講師の副検事が『被疑者を取り調べるときは、被疑者が有罪だと確信して取り調べるように』と断言したので、僕は頭を殴られるくらいに驚いた。

『取り調べる前からどうして有罪だと確信できるんだ?それに、そもそも被疑者はあくまで無罪だと推定されるはずじゃないか。何を言ってるんだ、この人は』」

検事用語で「自白させる」ことを「割る」と言います。

― 「僕は『割れ!割れ!』という言葉のほかに、もう一つ大きな抵抗を感じた言葉があった。『立てろ!立てろ!(『起訴しろ』)』だ。」

― 「『否認でも起訴できる証拠があるなら自白させろ』『起訴の選択肢があるからには絶対に起訴しろ』

検事が判断に迷った分岐点では、必ず被疑者にとって厳しい方向に舵を切れという指示だった。」

― 「僕は被疑者がどうなろうとどうでもよかった。これこそ『検事』、それも異常な部類の『検事』の発想だ。

今振り返ると、この事件の応援に入っていたときに僕が背負っていた責任感は、検察庁が求める責任感だったのかもしれない。

『(被疑者がどうなろうが)割れ!(被疑者がどうなろうが)立てろ!』

あれほど嫌悪した副部長が連呼していたことを、自らすすんで実行しようとしていたのだ。このときの僕は完全に『検事』になり切っていた。」

市川氏は良心との軋轢で体をこわし、一旦静養しますが、仕事に復活後の一時期、自分の良心に従い、起訴できないと思ったり、起訴する必要がないと思った事件を全て不起訴にします。その当時、後輩検事と飲みに行った時の場面です。

― 「後日二人の後輩検事と飲みに行ったとき、二人がかりでこの事件のことでさんざんつるし上げられた。

二人の『割れ!立てろ!』検事たちと一人の『割らない(もはや『割れない』ではない)。立てない』検事の衝突だ。

この衝突は僕の方が初めから圧倒的に分が悪かった。なにしろ後輩たちは検察庁の掟を忠実に守っていたのだから。

『市川さん、なんであの事件をつぶしたんですか。しかも支部長から起訴の決裁をもらっていたんでしょう?』

後輩がこう詰め寄ってきたのは今でも覚えている。僕は酔っ払っていたので、どう答えたか覚えていない。だが、最後に二年生の後輩検事から言われた言葉は忘れられない。

『市川さん、検事辞めたらどうですか』」

本では明らかには書かれていませんが、羽賀研二氏の事件に関すると思われる記述もあります。

― 「近時、弁護人が請求した証人がささいな点で真実と違う証言をしたことで、検察庁がその証人を偽証罪で起訴したことが問題になっている。

裁判制度が始まるにあたり、検察庁は『今後は積極的に偽証罪による摘発を進める』と宣言もした。実状は、偽証しているのは検察官が請求した証人が圧倒的多数だ。」

実はこのことは法曹の世界ではあまり驚くことではないようです。しかしなぜか弁護側が、検察側証人を偽証罪に問うことは全くないそうです。

― 「ひとたび事件に手をつけたが最後、『立てろ、立てろ』が至上命題の検察庁は撤退がへたな組織だから、内偵調査の段階で将来引っ込みがつかなくなるかもしれないリスクを感じた事件を無理してやってはいけないと僕は思っていたし、今もそう思ってる。

無罪判決が出たときもそうだが、検察庁はとにかくメンツにこだわる。」

― 「事件の見通しは、捜査が進むにつれて修正されるべきものは修正されなければならない。見通しを越えた『見込み』だけで突っ走る捜査はもはや捜査ではない。事件のでっちあげだ。」

これはもはや驚くべきことではありません。私の事案が雄弁に物語っています。

私が市川氏を初めて見たのは、この本にも紹介されている「ザ・スクープ」でした。それは収録の映像を通しても緊迫感の伝わる番組でした。

そして更に衝撃的だったのは、その「ザ・スクープ」放映のまさに翌日に、「健全な法治国家のために声をあげる市民の会」の協力するシンポジウムに彼が出席し、その模様がインターネット配信でライブ中継されたのを見たときでした。やはり画像を通してであっても生中継は臨場感があります。市川氏の緊張がこちらまで伝わるかのように感じたものです。

先日、友人と会話する中で、「なぜ検察はそもそも犯罪を裁く立場なのに、なんでもかんでも起訴して犯罪を作り出しているんだろう。彼らには、それが冤罪だとしても良心の呵責はないんだろうか」と聞かれました。私は、「もし人間がいかなる状況下においても理性的に行動できたなら、アウシュヴィッツは存在しなかっただろうね」と答えました。

勿論、ヒトラーがいなければアウシュヴィッツはなかったのかもしれませんが、彼がガス室のレバーを引いたわけではありません。そしてそのレバーを引いたナチス党員は、それが正しいことだと信じていたに違いないのです。戦時中とはいえ、別に殺さなければ殺されるというシチュエーションではありません。人間としての良心を失わせる。それが組織の論理の恐ろしさです。

市川氏は結びとして、検事及び検事を目指す人にメッセージをしたためています。

―「僕は検事失格だ。

それでも僕は検事諸君とこれから検事を目指す人たちに声を大にして言いたい。絶対に自分の良心を裏切る処分をしてはいけない。ほんの少しの妥協がじわじわと良心をむしばみ、冤罪を生み出し、やがては自らの心身を引き裂くことになる。そうなってからでは遅すぎる。

検察庁は『犯罪者製造機』ではない。まして『冤罪製造機』であってはならない。これは良心のある検事諸君なら、当然にわかっているはずだ。

では、そんな良心のあるプロの集団が、なぜいつまでもいつまでも同じ過ちを繰り返しているのか?みじめな無罪判決を見ると、決まって無理な自白、無罪に傾く証拠の無視または見落としといった、同じミスばかりが原因だ。

そして、そのたびに誰かが責任を問われて処分されたり、あるいは僕のように検察庁から追放されて、そもそもいなかったことにされる。

僕は良心を捨てた検事だから「いなかった検事」にされて当然だが、僕のような罪人が駆除されてもなお、検察庁で同じ過ちが繰り返されるのは異常だ。

検察庁は、なぜ、検事の良心をすり減らせ、あるいは奪い取っていくのだろうか。検事は、なぜ、バッジを初めてつけたときに抱いていた良心をすり減らし、あるいは検察庁に売り渡すのだろうか。」

Twitterで「検事失格」と検索してみるとお分かりになりますが、相当な注目度です。

そして時代を変革しようとする者の例にもれず、彼に石を投じる批判も少なからずあります。検事として罪を犯した者が、同じ法曹の世界で身を立てようとするのはけしからん、というものです。

私はこうした意見には同調しかねます。

私は、概ね、ヤメ検の天下り的構造には否定的なのですが、彼はそうした検察機構にパラサイトするヤメ検とは一線を画しています。また、検察庁を「愛しい母校」と呼びながらも、その体質を批判し、そしてその批判したことに対する一部世間の反発を気に病む心優しい(むしろ弱虫な)男なのです。

もし彼の弁護士としての資格が問われるのであれば、それは弁護士会や日弁連が判断することであり、そのほかの者がとやかく言うことではないと思います。また彼が弁護士として看板を掲げて営業している以上、結局は彼に弁護活動を依頼するかどうか、それはクライアントが決めることであり、世間からパージされるというのであれば、そのリスクは彼が自ら選択して背負ったものだというだけのことです。

そして、私の、冤罪に巻き込まれた当事者という稀な立場から意見させてもらえば「よくぞ言ってくれた!ありがとう!」と、彼の勇気を称える賛辞の言葉を贈りたいと思います。

本の中に、組合長の息子の言葉として「私はあなたのことを殺してやろうとずっと思っていました。でもそんなことをしても何も意味がないとわかったんです。もう前を向いていかないといけないと思ったんです。冤罪というものが家族にまでどんな思いをさせるか、よくおわかりになったでしょう。これからは、ぜひ弁護士として冤罪と闘って下さい」とありました。

私も、冤罪を生む国税局や検察という組織(あるいは「組織の論理」)には憎しみを感じないわけにはいきませんが、取調べを担当した捜査官、検事には全くと言っていいほどそうした気持ちはありません。冤罪は国家の犯罪ですが、「罪を憎んで、人を憎まず」、あるいは「組織を憎んで、人を憎まず」と思っています。

私は、私の取調べを強制捜査から最後の取調べまで担当した国税局査察部の捜査官にこの本を贈りました。その際に沿えた手紙が以下のものです。

「xxさん、ご無沙汰しております。

報道等でご存知かと思われますが、私の冤罪との闘いは依然継続しています。昨年12月の起訴後、初公判がこの2月にあり、これからも相当期間出口は見えないものと思われます。

数多くの方々にご支援頂き、メディア各社にもフォローして頂いております。クレディ・スイス証券集団申告漏れ事件を扱った、田中周紀氏の『国税局 実録マルサの世界』は既にお読みになったことだと思います。

同封した本は、ヤメ検の市川寛氏が検察の体質を自らの経験を基に書き、この2月に上梓されたものです。

この本を読んで、取調べの際のxxさんの『上司が納得してくれないのです』という言葉を思い出しました。多分、xxさんも市川氏同様に苦しまれたのではないかと思います。

市川氏は著書の中で『自己の良心に反する処分は、絶対してはならない』と自戒の念をこめて言っています。xxさんも、人の人生を左右する重大な責務に就かれていることを常に心に置かれて、正義を遂行して下さい。

この本をxxさんに読んで欲しくて贈らせて頂くものです。

趣味の野球頑張って下さい。」

是非、この本を手にして下さい。裏表紙折り返しの市川氏の笑顔だけでも見る価値があります。

3/15/2012

category: 刑事事件一般

2012/03/14 Wed. 22:52 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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