「蟷螂の斧となろうとも」 by 元外資系証券マン

クレディ・スイス証券集団申告漏れ事件(http://goo.gl/v0xQYP)において、国税局査察部告発、検察特捜部起訴の事案で史上初の無罪判決。 著書『勝率ゼロへの挑戦 史上初の無罪はいかにして生まれたか』(光文社)。 ツイッター(@thatta0529)で「#検察なう」の情報発信を続けます。

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#検察なう(127) 「木嶋香苗被告連続不審殺人事件を通して思うこと」 5/2/2012 

#検察なう(127) 「木嶋香苗被告連続不審殺人事件を通して思うこと」 5/2/2012

世間をにぎわせた木嶋香苗被告の判決が下りました。

彼女の逮捕は2009年10月でしたが、例によって、テレビも新聞も見ない私は、最近までこの事件のことを知りませんでした。インターネットのみを情報源にしていると、選択的に情報を得ることができる一方、関心のない話題は完全にスルーしてしまいます。

全ての証拠を検証したわけでもなく、本人と直接話したこともないので、有罪判決に関しては全く評価することはできませんが、いくつか考えさせられる点があります。

今回の裁判は、裁判員裁判制度開始以来、最長の審理期間を経ての判決となりました。直接証拠がないという点が、裁判員をしてここまで悩ませたものです。そして彼らが有罪の結論に達したということは非常に重要な意味を持っていると思います。

職業裁判官の場合、刑事裁判の有罪率99.9%が物語っていることは、彼らは経験上、「被告は多分有罪ではないだろうか」という予断を持つ可能性が少なからずあるはずです。彼らは年間約100人の被告を裁きますが、統計上1000人に一人(あるいは10年に一人)の無罪の人間が目の前の被告だとはなかなか思えないというのは、彼らも人間である以上(それが正しくないことは勿論ですが)仕方ないことかと思います。

裁判員たちにはこうした予断はありません。もしかすると彼らは知識としても刑事裁判の有罪率が99.9%ということを知らないかもしれません。そして全く白紙の状態から、検察の立証が有罪に足るかどうかを評価しているものと思われます。

彼らによる審議が有罪に達したということは、十分に慎重な議論がなされた結果であると思われ、「直接証拠がなくてもだからそのまま推定無罪ではない」という結論に達したことは評価に値すると思います。これが職業裁判官の判定であれば、結論ありきの検察ストーリーに裁判官も乗ったのではないか、と思わないこともないところです。

単なる色のことであれば、白と黒の中間色として、グレーという色があります。しかし、裁判においてはグレーというものはありません。いかに微妙な事実認定でも、連続的な濃淡に、びしっと線を引いて白黒を塗り分ける作業が裁判です。そして推定無罪の原則においては、「合理的な疑いが入らない」即ち「誰が見ても黒」でないものは白になります。「グレー=白」というのが司法の大原則です。

「限りなく黒に近いグレー」などといったものは裁判においては存在せず、常に「真っ白」と「真っ黒」に分けられます。その点で、小沢氏の判決後のメディアの論調には非常に違和感を感じます。

また、不十分な証拠をいくら集めても、それで被告を有罪にすることができない比喩として、「グレーをいくら重ねてもグレーにしかならない」と言われます。それは当然のことで、一つ一つの証拠が相当に有罪の立証に足るものだというものが複数あって、初めて有罪の心証が形成されるものです。しょぼい証拠はそれこそ100あっても1000あっても、所詮しょぼい証拠で、有罪の立証足りえません。

その点において、木嶋香苗被告の事件の審理において、若干不安なのは、なぜ一括審理だったかという点です。彼女は3件の殺人罪に問われていますが、もし3件を別個に判断するならば(即ち、「3つの事件の共通点が多い」というファクターを取り除いた場合に)、判断が変わるのかということが十分に議論されたのかは知りたいところです。

検察が今回の裁判に際し、裁判員に説明した「寝る前には晴れていたが、朝起きたら雪が積もっていたという場合、雪が降っていることを直接見ていなくても、それは夜中に雪が降ったと考えられる」というのは、なかなかうまい説明だと思いました。

ただこれだけでは当然不十分で(今は雪が降らないゲレンデでも、人工降雪機で雪を降らせてスキーやスノーボードができるのは誰でも知っています)、「相当広範囲に亘って降りつもっている」であるとか、「誰かが持ってきてどさっと置いたのではない積もり方をしている」とかの判断が必要です。さらに天然の雪の場合には、チリ等の空中浮遊物が核となって結晶ができるのに対し、人工降雪機では圧縮空気と水を空気中に噴霧して結晶を作るので、科学的に分析すれば、それが空から降ったものかどうかは分かるはずです。

これを私の事案にあてはめると、「過少申告の事実があった」「会社は指導をしていたらしい」程度の立証は、「朝、地面が濡れていた。昨晩はかなり冷え込んだらしい。だから雪が降ったに違いない」といったようなもので、推認の仕方としては「荒唐無稽」と言えるものです。

話を裁判員裁判に戻します。

私は裁判員裁判の精神には基本的に賛同しています。それは裁判員経験者の統計でも、70%を超える人が「参加してよかった」と答えているように、市民の司法に対する関心を高めることに寄与しているからです。

検察の暴走は、国民の無関心(その背景にはメディアの黙認)が助長していると思っています。それを変えるためにも、司法の市民参加は絶対必要なものです。

ただ方法論にはいくつか大きな過ちがあると思っています。私が裁判員裁判制度の欠陥と思っている点は、次の3点です。

1) 職業裁判官が評議に参加する
2) 職業裁判官が評議において投票権を持っている
3) 裁判員が量刑も決定する

1) 評議の場において、職業裁判官が意見を言えば、それに引きずられない一般人はいないと思います。勿論、裁判員は法律に関しては素人なので、法的なことで分からない場合に聞ける体制が必要ですが、その際にアドバイスをするのは、当事案を担当する裁判官以外の者であるべきです。

2) 評議は、職業裁判官が3人、裁判員が6人の合計9人で行われます。職業裁判官が3人とも有罪に投票すると、過半数の5票を得るためには、裁判員6人のうちわずか2人を有罪の意見にすればそれで有罪となってしまいます。

先進国の中で、市民参加の陪審員制度(評議は陪審員のみ)ないし参審員制度(評議に職業裁判官が参加するのが一般的)を採る国で、民間陪審員・参審員の過半数を得ることなく判決が決まる国は日本以外ないはずです。

これでは、「裁判員制度は、単に職業裁判官の判決に市民が『お墨付き』を与えて、批判を避けるためだけのものである」と非難されても仕方ないシステムです。

3) 私は本来、死刑廃止論者です(主な理由は2つ。「裁判にコストがかかり過ぎる」と、「死刑に殺人の抑止効果はないことが実証されている」です)。ただ制度として存続している以上、裁判員の立場からすれば、これを選択する必要もありえます。その結果、市民が合法的な殺人である死刑を選択した今回の裁判のような状況は、必要以上に裁判員の精神的負担になることは明らかです。

私が裁判員だったとすれば、絞首刑のシーンを想像して、「無理!」と放り出してしまいそうです。

また量刑に関しては、無罪・有罪の事実認定より、判例に基づくかなりテクニカルな要素が多く、その判断は職業裁判官に任せるべきだと思います。

裁判員裁判制度実施に際しては「メディアの影響を一般人は排除できないため、予断が入り公正な判断ができない」とする批判もあったようですが、それを言うなら陪審員制度や参審員制度を採る諸外国でも、事情は全く同じです。それは裁判員裁判制度の問題というより、メディアの問題なので、分けて考える必要があります。

今回も、木嶋被告の公判での服装や、事件の審議とは直接関係のない私生活まで報道されていることは残念に思います。外資の企業で働いていた感覚からすると、これら報道はセクハラ以外の何物でもないのですが、有罪確定までは無罪であるはずの被告にはそうした基本的人権すら認められないかのような報道に、メディアとしての品格の欠如を感じます。

「この程度の話題を面白がるんだろ」と一般市民を蔑んだ態度が見えるようです。明らかに叩く相手を間違っています。例えば小沢裁判においては、政治の問題と検察の違法捜査の問題を峻別し、社会の木鐸として、正しく検察批判をするくらいの矜恃を保って欲しいと思います。国民が真に知る価値のある報道をしてこそ初めてメディアの責任が果たせるのだと思います。




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category: 刑事事件一般

2012/05/01 Tue. 11:16 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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