「蟷螂の斧となろうとも」 by 元外資系証券マン

クレディ・スイス証券集団申告漏れ事件(http://goo.gl/v0xQYP)において、国税局査察部告発、検察特捜部起訴の事案で史上初の無罪判決。 著書『勝率ゼロへの挑戦 史上初の無罪はいかにして生まれたか』(光文社)。 ツイッター(@thatta0529)で「#検察なう」の情報発信を続けます。

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#検察なう (136) 「自白の心理学」 5/20/2012 

#検察なう (136) 「自白の心理学」 5/20/2012

日本国憲法では以下のように定められています(第38条第三項)。

「何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない」

しかし自白は「証拠の女王」(Confessio est regina probationum)と呼ばれ、証拠の中でも証明力が高いとされます。「被疑者が敢えて自分に不利な証言をするわけがない」という前提があるからです。

罪を犯した者も自己の保身のため、「やってない」と嘘をつくことは容易に想像されます。それゆえ、取調べで負荷をかけなければ、誰でも言い逃れられるという思いから、取調べがある程度厳しくなるのは仕方のないところでしょう。実際のところ、自白をさせればほぼ捜査権力の「勝ち」(彼らの目的が真実を追求するのではなく、有罪を得ることであるのは今更言うまでもないことでしょう)であるため、自白を取るため、ある程度どころか相当厳しくなることも想定されます。

しかし、それだけでは、なぜ冤罪被害者が自分に不利な虚偽の自白をするのか腑に落ちないところがありました。過去の冤罪において、虚偽の自白は驚くほど数多く見られます。

その疑問に答えてくれたのが、先日手に取った浜田寿美男著「自白の心理学」(岩波新書)でした。

ここをクリック→ 浜田寿美男著「自白の心理学」

国税局査察部、検察特捜部の取調べで、私は一貫して容疑を否認しましたが、その私でも納得できる部分が多々ありました。

まず前書きに冤罪一般に関して述べられています。私の立場からも強く思っていることが書かれています。

「世に冤罪というものがある。遠い過去の話ではない。たったいま、私たちが生きているこの世の話である。それも数年に一例といった単位で、例外的に起きる偶発的な不運ではない。むしろ世の中の仕組みのなかに根ざした一種の構造的な不幸だといったほうがよい。しかし案外、このことが一般には知られていない。たいていの人は、それをほとんど自分には無縁のことだと思っているのであろう。

自分は絶対に犯罪にかかわるようなことはしないと思っていても、犯罪の被害者になることは自分の意志で避けることができない。それと同じように、冤罪も決意だけでそれを免れることはできない。自分は濡れ衣を着せられるようないかがわしいことをしないとか、たとえ濡れ衣を着せられそうになっても、ちゃんと抵抗してみせるという人もいるかもしれないが、現実に起こる冤罪事件は、それほどなまやさしいものではない。冤罪を作り出す問題の過半は、私たち自身ではなく、私たちを囲む状況の側にあるからである。」

私は、別に清く正しく生きてきたつもりはありません。しかし、手が後ろに回ることだけは全くする気もなければ、していないと思っていたその私ですら、現在冤罪に陥れられています。普通に車を運転していた片岡晴彦氏(高知白バイ事件)、普通に電車に乗っていた小林卓之氏(西武池袋線痴漢冤罪事件)の例を挙げるまでもなく、ごく普通の社会生活をしていても、日本の捜査権力、司法制度の構造的問題は無辜の人であっても冤罪の犠牲になる可能性があるものです。

本論の自白の心理に関する記述です。私が上で述べたことが確認されます。

「実際に罪を犯した人間でも、疑われて尋問を受けたときには、ひとまず否認する。その心理は誰にもわかる。自分が犯人と知れてしまえば、刑罰を逃れることはできない。まして重大な犯罪なら死刑もありうる。そういう立場におかれた人が、否認して、自分の罪だと認めないのは、ごく自然な心理であろう。それゆえうその否認については、あえてその心理メカニズムを説明するまでもなく、誰もが納得する。

それとちょうど裏返しの関係で、無実の人が自分のやっていない罪をみずから認めて、うそで自白することなど、およそありうることではないと思う人が多い。もしうその自白があるとすれば、過酷な拷問があって耐えきれなかったか、あるいは被疑者が知的能力が低くて自分の身さえ守れなかったか、どちらかだろうと考える。また刑事取調べの実情をある程度知っている人なら、長期の勾留や厳しい取調べの結果、被疑者が精神に変調をきたして、うそで自白するというケースがあると論じるかもしれない。いずれにせよ、多くの人々の意識のなかでは、うその自白は例外的な事態でしかない。

うその否認は自然、うその自白は例外的という素朴な思い込みでみれば、よほど特別な事情がないかぎりは、自白を真実のものとして信用することになる。日々、事実認定の仕事に迫られている裁判官や検察官の意識も、大半はその域を出ない。うその自白を見破ることができず、冤罪をとめどなくくりかえす原因の一つがここにある。」

浜田氏は、無実の人々が虚偽の自白をしてしまう心理メカニズムを以下のように説いています。

1. 取調べの場の圧力

「取調べの場には被疑者を有罪方向に引きよせる強い力が働いている。その力にさらされた被疑者がその内面において感じている辛苦は、第三者にはなかなか見えない。

一つは、身柄を押さえられて日常生活から遮断されただけで、人は心理的な安定を失うという事実である。私たちはふだん、日常を自分一人の力で生きているかのように思っているが、実際には自分を囲む関係のネットワークに支えられてはじめて心理的平衡を保っている。そのことは関係のネットワークから一人引き抜かれて、孤立無援の状況に追いやられればすぐにわかるのだが、人がそうした体験を味わう機会はまれで、それゆえ多くの人はその深刻さになかなか気づかない。

さらに被疑者は取調べの場で、自白を迫る取調官によってその罪を非難され、ときに人非人として罵倒される。無実の人間にとってはお門違いの非難なのだが、だからといってこれに平然と対応することは難しい。私たちも日常生活のなかで、ときに他者と衝突し、相手から強く非難されたり、あるいは罵倒されたりすることがまれにはある。それだけで十分ショックなのだが、しかしそれはせいぜい数分ですむ。一時間あるいは二時間と持続して、相手から非難され、あるいは罵倒されつづけるという経験はまずないだろう。取調べの場ではそれが何日もつづくことがある。そうした目にあえば、ただことばだけであっても、人は立ち直れないくらいに傷つく。それは肉体的な暴力に匹敵する。

被疑者は事件にからんで何らかの負い目を感じていることが少なくない。また事件に関連のない事柄まで取り沙汰されて、罪悪感を募らせることもある。長期にわたる取調べの場では問題の事件を越えて、しばしば被疑者の人生そのものが問われる。人は長く生きていれば、他者からとやかく言われたくない傷の一つや二つは抱えるもの。その傷が執拗にほじくりかえされれば、それだけで十分にめげる。」

ここで述べられている点に関しては、取調官の資質によるところが大きいと思います。有り体に言えば、取調べ能力の低い取調官ほど、無理強いするのではないかと思います。私の取調べを担当した検察特捜部の検事は、記者から「五反田のエース」(東京地検特捜部財政経済犯担当はその所在地から隠語で「五反田」と呼ばれます)と言われている方で、二人で怒鳴り合うことはありましたが、一方的に恫喝されることはありませんでした。ただ勿論、その「狡猾、巧妙な」取調べに対しては、こちらも知力・気力全開で立ち向かわなければならない程の迫力に満ちていました。

2. 弁解の空しさ

「被疑者には、もちろん自分の身を守るためのいくつかの権利が認められている。それをうまく行使すれば耐えられるはずだといわれるかもしれない。取調べに対して黙秘する権利も認められている。

無実の人が黙秘して、取調官と対決する気持ちになるのは容易なことではない。なにしろ、自分はやっていないのである。そのことを弁解してわかってもらおうとするのが、無実の人の素朴な心情である。

真犯人なら弁解してもその弁解に自信はもてまいが、無実の人は、自分は無実だと知っているだけに、わかってもらえるはずだとの思いが強い。しかしその弁解をそのまま素直に聞いてはくれない。逆に取調官からは、おまえが犯人だという証拠があると言われる。そうして空しい応酬がつづく。これが日常生活のなかでのことならば、『もうわかっていただかなくても結構です』といって、席を蹴って出ていくこともできようが、被疑者は自分の方から取調べの場を去ることができない。やがて激しい無力感におそわれる。それだけで、『もうどうでもいい』と思う人がいておかしくない。」

ここで述べられていることは逆に被疑者の資質によるところのものです。私は、告発まで国税局査察官に対して、また起訴まで検察特捜部検事に対して、諦めることなく自分の無実を訴え続けました。長期間のインターバルの中では、徒労に感じることも勿論ありましたが、取調べに臨んで放り出すことは一切ありませんでした。自分でコントロールできないことの見極めは早い方ですが、人に対して諦めることができないというのは私の性分だと思います。

3. 時間的見通し

「取調べの場で味わう辛さも、いついつまで我慢すれば解放されるとわかっていれば耐えることができる。しかし否認しているかぎり何時間でも何日間でも取調べはつづく。時間的な展望が見えないとき、人は自分を支えられなくなってしまう。

人間は時間の生き物である。どんなに不安な毎日を送っていても、明日への希望があれば、いまをどうにか穏やかに過ごすことができる。たったいま耐えがたい苦悩におそわれていても、それがいつ終わるとわかっていれば、そのときまでと思ってどうにか我慢ができる。しかしその見通しをもてないとき、どうしてこれを耐えることができるだろうか。

人は苦痛にそのものによって落ちるというより、その苦痛がいつまでつづくか見えないという、その見通しのなさによって落ちるのである。」

ここでは、特に逮捕・勾留された方に関する記述です。私は「奇跡的に」逮捕・勾留されることはありませんでした。しかし、時間というファクターは私にとっても一番辛いところです。もう税務調査開始から3年半も経っています。同じ申告漏れのクレディ・スイス証券のほかの職員が2-3ヶ月で修正申告で終わっていることを考えると、運命というのは酷なものだと思います。

4. 否認することの不利益

「被疑者は否認しつづけるうちに、取調官からむしろ自白したほうが有利ではないかと思わされていく。否認してがんばっても無実だとわかってもらえる可能性はない、それどころかこのままだと取調べの場から逃げられないし、いつまで警察に留め置かれるかわからない、そうだとすれば否認しつづけるほうがよほど危険にも見える。ここで、否認することの利益が不利益に、自白することの不利益が利益に逆転する。

あるいは、被疑者は、自分を責めている当の取調官にむかって救いを求める気持ちにすらなる。このことも一般には知られていない事実である。どんなに弁解しても耳を貸してくれない取調官に苛立ちを覚えながら、それでもなお対決するのは容易ではない。それどころか理不尽で、嫌悪感をすら覚えるその相手に、自分の処遇が握られているのである。その相手に迎合し、またときおり見せる温情にすがってしまうことがあったとして、それを責められるだろうか。敵とすべき相手に籠絡されるなんて、という人がいるかもしれない。しかし、そんなふうにいえるのは第三者の後知恵でしかない。無実の被疑者にとって取調官は敵ではなく、良くも悪くも自分の処遇を左右する絶対的な支配者なのである。」

これは取調べの最中ではなく、告発された直後に、随分悩んだことです。やはり人質司法は冤罪の温床となるものです。私は、そこで覚悟を決めたため、逮捕・勾留に臆することなく取調べに臨むことができました。

5. いまの苦痛と遠いさきの悲劇

「人は時間のなかで、いつもいまを生きている。現在の苦痛を回避するために、その結果として将来の重大な苦痛を予想しても、あえてそれから目をつむってしまい、あとでしまったと思うことがしばしばある。取調べを受ける被疑者たちもまた、将来これが死刑につながりかねないということが理屈でわかっていても、いまのこの苦痛を逃れるためには、ここはもう自白をする以外にないと思ってしまう。そういう瞬間がある。じっさいここで自白しても、裁判所でちゃんと弁明すればわかってもらえるはずだという気持ちになる。」

これも被疑者の資質によるところが大きいものです。人生一般においてはキリギリス的な発想はむしろ肯定的ですが、こと困難に対しては自ら向かって行く性格なので、私には全く当てはまりませんでした。ただ「裁判所を信じて」というのは、冤罪被害者から非常に多く聞かれることであることを付け加えておきます。

6. 無実の人は刑罰に現実感をもてない

「虚偽自白をめぐって、ごく単純な、しかし見逃しやすい盲点がある。それは『予想される刑罰』についての現実感の問題である。

真犯人ならば、自分のなかに犯行体験の記憶がしっかりと刻まれている。そのなかで自分のところに捜査の手がおよぶか恐れつつどうにか逃れていたものが、とうとう捕まってしまった。そうして取調べを受けたとき、ここで自白をすれば、あのときのあの自分の犯行の結果が刑罰として自分にかかってくるのだということを、文字通り実感をもって感じることになる。

ところが無実の人ならばどうであろうか。ごく身近で犯罪のあったことは知っていても、やったのは自分ではない。たとえ多少は警察に疑われたとしても、まさか自分が逮捕されるなどとは思わない。ところがその自分が現実に逮捕され、厳しい取調べを受けているのである。そのこと自体が、無実の被疑者には考えられない非現実的な話である。そうして取調べのなかで苦しくなって、追及されるままに罪を認めてしまったとする。しかしそのことが実際の刑罰につながるとの現実感はもてない。なにしろ自分はやっていない。やっていない人間が、たとえことばのうえで自白したとして、どうしてそれでもって刑罰にかけられることになるだろうか。そんなことはおよそ信じられないというのが、彼らの偽らざる心境である。」

この本の中で一番、納得できた部分がこの論でした。私も、特に、国税局査察部の14ヶ月に亘る取調べにおいては、まさか自分が告発されるなどとは全く想像もしていませんでした。まさか国家権力が不正な行為を働くなどという常識は私の中にはなかったからです。勿論、その前提には、日本の捜査機関は優秀だということがあります。私の無実を見抜けない程、彼らは無能ではありません。

無実の者は、自分が無実であることを一番知っているがゆえに、自分が罪に問われるという現実感が非常に希薄なものです。私が、税務調査開始直後から査察部強制捜査が入るまで、全く緊張感のないメールのやり取りを税理士や近い友人としていたり、告発まで弁護士を雇うことなど思い付きもしなかったということがそれを表しています。

「自白の心理学」を読んで、虚偽の自白は別に特別なことではなく、また冤罪の大きな原因になっていることがよりよく理解できました。

これを防ぐにはどうすればよいのでしょうか。答えは一つ、取調べの全面可視化です。日本が先進国であるというためには、このような前時代的な旧弊は即刻改善しなければならないものです。それに関しては、私の以前のブログをご参照下さい。

ここをクリック→ #検察なう (114) 「可視化について」

5/20/2012













ここをクリック→ 経緯説明 「真実は一つである」 改訂版

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category: 刑事司法改革への道

2012/05/19 Sat. 15:00 [edit]   TB: 1 | CM: 0

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まとめwoネタ速neo | 2012/05/20 11:47

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