「蟷螂の斧となろうとも」 by 元外資系証券マン

クレディ・スイス証券集団申告漏れ事件(http://goo.gl/v0xQYP)において、国税局査察部告発、検察特捜部起訴の事案で史上初の無罪判決。 著書『勝率ゼロへの挑戦 史上初の無罪はいかにして生まれたか』(光文社)。 ツイッター(@thatta0529)で「#検察なう」の情報発信を続けます。

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#検察なう (185) 「検察制度の根本的問題 その (2) ~国民の信頼こそが検察制度の基礎」 9/8/2012 

#検察なう (185) 「検察制度の根本的問題 その (2) ~国民の信頼こそが検察制度の基礎」 9/8/2012

皆さんはこの記事(9月2日付 神戸新聞)を読んでどう思うでしょうか。

「盗撮などで19人処分 神戸地検職員」

ここをクリック→ 神戸新聞記事

「けしからん!」という方も勿論多いでしょうが、「検事も人間だから」と思われる方もいると思います。

「人間は誰しも間違いを犯すものである。完璧な人間などいない」というのは、太陽が東から昇るのと同じくらい自明の理のような気がします。

しかし、私が気付いた検察制度の根本的な問題が何かとは、

「検察制度は『検事も人間である』ということを前提としていない」

ということです。つまり、検事も間違いを犯すとするならば、検察制度は成り立たない建て付けになっているということです。

説明します。

前回のブログでは、「相対的特信状況」の議論をしました。場合によっては(そしてそれは往々にして)、検察取調べの検面調書が、法廷での証言よりも正しいとされる、一般人の感覚からは到底合理的でないことが司法では起きます。

検面調書は、証言を録取したものですが、それは検事の手によって一人称で書かれます(但し、私の検面調書は例外中の例外で「問答形式」でした)。「誰々は何々をした」ではなくて、「私は何々をした」という、あたかも本人がそのまま書いたかのような文章は、書かれた内容の信憑性を増すギミックです。しかし、そこには作成者である検事の恣意的な作文が入ることは明らかです。ニュアンスの違いの訂正をどれだけ求めても、検事が応じることなく、証人が根負けするという話は山ほどあります。その調書が、法廷での本人の口から出る言葉より重要視されるとはどう考えても理解できません。

そのほか、検察に与えられたアドバンテージは、枚挙にいとまがありません。日本国憲法には基本的人権の尊重が謳われていると小学校で習ったような気がしますが、それがまるで絵空事のような実情が、検察の問題にはあります。

人質司法などはその最たるものです。「逮捕」と簡単に言いますが、ある瞬間から突然社会生活から遮断されるということが、どれほどとんでもないか、自分をその身に置いて見ればよく分かります。「会社はどうなるんだろう。学校はどうなるんだろう。家に置いてきたネコには誰が餌をあげるのか。コインパーキングに車停めっぱなしなんだけど。そう言えば炊飯器のスイッチ入ったままだ。」全ての自由が取調べのために奪われてしまうことの異常さを、もっと理解すべきだと思います(「罪証隠滅、逃亡の惧れあり」などはこじつけもいいところです)。

ここをクリック→ #検察なう (85) 「人質司法」

検察に与えられたアドバンテージは、強大な捜査権だけではありません。当事者主義を隠れ蓑に、証拠の全面開示をしないという、これまた一般常識ではありえないことがあります。弁護側に同じだけの証拠収集能力がないことは明らかです。なぜ検察が自分たちに都合のいい証拠だけを裁判に提出してよしとするのでしょうか。

ここをクリック→ #検察なう (110) 「証拠開示」

ここをクリック→ #検察なう (111) 「証拠開示 Part 2 『当事者主義』」

また、諸外国では認められていない検察の上訴権の問題もあります。これだけハンデキャップがありながら、弁護側はなおかつ地裁、高裁、最高裁と勝ち続けなければならないというのは、三審制とは被告人保護ではなく、検察のためのものだと思われても仕方ないと思います。

ここをクリック→ #検察なう (87) 「司法改革 (2) 『二重の危険』」

これらのことは、通常の感覚、一般市民の感覚で考えると実に不合理なことですが、ある前提を持ち込むと、その不合理さが雲散霧消します。

その前提とは

「検察は決して間違いを犯さない」

です。

もし検察が常に正しく、彼らがターゲットに定めた被疑者が必ず悪人であるならば、その悪人たちが法の網をくぐり抜けないよう、必ず最後には検察が勝つように、あらゆる権限を認めればいいということになります。

つまり、これだけ検察にアドバンテージを与えている検察制度の大前提とは、「検察は完全無謬で、過ちを犯すことなどありえない」という虚構なのです。

郵便不正事件は、その前提が虚構であることを世に知らしめた出来事であったと位置づけることができます。

もし完全でない者が、完全であることを強いられた場合の行く先は常に同じです。それは事実の隠蔽です。郵便不正事件でのバッシングの大きさに怖れおののき、これ以上、国民が検察問題に関心を持たぬよう、「臭いものにフタ」をしたのが、陸山会事件の捜査報告書捏造問題の本質です。

ここをクリック→ #検察なう (134) 「郵便不正事件より重大な検察の犯罪 田代検事報告書の検証」

その意味では、検察の 捜査報告書捏造問題の対応も、3.11における東京電力の対応や、大津のいじめ事件での教育委員会の対応と、発想は全く同じものです。

不完全なシステムが完全であるという幻影を維持できるのは、人々の信頼(=盲信)があって初めてなしうることです。

そして、国民が懐疑心をもつことにより、早晩、検察制度の矛盾に気づくのは時間の問題です。つまり、検察制度に関し、「これはフェアではない」と国民が思い始めているということ自体、検察制度の崩壊を意味するものです。彼らに「全権委任」するのは、国民が彼らを信頼してこそなしうることだからです。

それだけの権限が与えられるからには、非常に大きな責任が伴いますが、検察はその権限を当然のことだと勘違いしているようです。そして、一部の事件で、恣意的にその権限を悪用しているものです。

全ての事件、全ての検事がそうであるというものではありません。そこが巧妙かつより悪質とも言えるものなのですが、99%の事件において、99%の検事は正しくあるのですが、そこで築き上げた信用を、残りの1%の事件において、残りの1%の検事がそれを利用・消費しているものです。あたかも、いつもはよい子の優等生が、「彼はそんなことはしない」という信用の裏で、こっそりいたずらをするようなものです。

その1%は、彼らがある政治的意図をもって真実を曲げようとするもので、典型的には一部の特捜部の事件がそうです。郵便不正事件しかり、陸山会事件しかり。それらはその1%の氷山の一角で、国税局のメンツを保つために起訴をした私の事案もまさにその1%です。

そこまで知ると、あまりの問題の奥深さに暗澹とならざるを得ませんが、暴走する現代のリバイアサンに歯止めを掛けるものがあります。

それが「推定無罪の原則」だと、私は思います。この司法の大原則が遵守される限り、正義は守られるものです。そしてその責任を担うのがまさに裁判所の存在意義です。

ここをクリック→ #検察なう (159) 「疑わしきは被告の利益に」

但し、刑事裁判の有罪率が99.9%という現状を考えると、推定無罪原則がうまく機能していないということが分かります。検察が99%にうまく滑り込ませた1%に、裁判所が気付かないということがなぜ起こるのか。もう少し時間をかけて考えてみたいと思っています。

9/8/2012






ここをクリック→ Wikipedia クレディ・スイス証券集団申告漏れ事件

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category: 刑事司法改革への道

2012/09/08 Sat. 10:44 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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