「蟷螂の斧となろうとも」 by 元外資系証券マン

クレディ・スイス証券集団申告漏れ事件(http://goo.gl/v0xQYP)において、国税局査察部告発、検察特捜部起訴の事案で史上初の無罪判決。 著書『勝率ゼロへの挑戦 史上初の無罪はいかにして生まれたか』(光文社)。 ツイッター(@thatta0529)で「#検察なう」の情報発信を続けます。

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#検察なう (186) 「キリスト教史観と検察制度及び推定無罪原則」 9/13/2012 

#検察なう (186) 「キリスト教史観と検察制度及び推定無罪原則」 9/13/2012

先日のブログに対して、支援して下さっている方からコメントを頂きました。彼女は、たまたま私のブログで、以前に146通の嘆願書の一部を紹介した際に、その中の一人に知人の名前を見つけ、それ以来状況を深く理解して支援してくれています。

彼女はキリスト教信者であり、日本教信者(日本人はよく無神論者と言いますが、それは大きな勘違いです。冠婚葬祭や初詣のような立派な宗教行事を宗教行為と意識せず行っている程浸透しているだけです。私はそれを「日本教」と呼んでいます)である私とは立ち位置が違うのですが(私は唯一絶対者の存在を容認していません)、彼女が時々送ってくれるメッセージは、いつも卓越した教示と慈しみに富んでいて、勇気をもらっているものです。

先日の私のブログは検察制度の根本的問題に関するもので、検察の暴走を唯一防御するものが司法の推定無罪原則だと述べました。

ここをクリック→ #検察なう (185) 「国民の信頼こそが検察制度の基礎 検察制度の根本的問題 その (2) 」

それに関しての彼女からのメッセージは、いつもながら素晴らしいもので、これを良識ある世の人々と共有しないことは罪悪と考えたので、ブログで取り上げさせてもらうものです。

以下引用します。

「おっしゃる通りだと思います。

私も、かねがね日本の司法には『推定無罪の原則』がない、と思ってきました。 でも、それは、検察だけではなく、私のような司法とは無縁に生きている市井のおばちゃんが、『逮捕されたからには、悪い人なんだろう』と、『おかみのごむりごもっとも』が染みついている国民一人一人の意識に根差している、ともいえると思います。

私は、現在、日本人としては珍しいキリスト教徒になっています。 唯一絶対で全知全能の善き神の存在が確かにあり、すべての人間は不完全である、という世界観の宗教を信じています。

聖書では、自分を神とすることがもっとも罪あることで、人間は誰しも簡単にその罪に陥ることを繰り返し伝えています。 だから私たちは、神を忘れないように、自分が不完全な人間に過ぎないことを確認するために毎週礼拝を守っているようなところがあるように、私は思っています。

私たちは、正義、とか、まったき善を求める性質がそもそも備わっていますが、聖書の神を知らない限り、別のものを神の代わりに全知全能にしてしまいます。 それを偶像と聖書では呼びます。

日本人は、聖書の神を知らないので、自分の属する組織を神の代わりにしがちだと思っています。 それが『日本』という国のこともあれば、卒業した学校や、勤めている企業のこともあるでしょう。 でも、それは本当の神ではないことを皆知っているので、偶像を神にする努力に駆り立てられ、真面目に、その組織が善きものだと証明するために必死になってしまいます。

検察も例外ではない、ということでしょう。

そもそも、日本が近代司法制度を導入したもとは、キリスト教の世界観が色濃くある国々でした。 私がキリスト教徒であるために、キリスト教の肩をもっているように思われるかと思いますが、私は、聖書の世界観は、真理だと思っています。

以前、八田さんが地動説を唱えたお百姓さんの寓話を書かれていました。

神と、人間の組織である教会とは違う、ということ、また、神のことばである聖書と、それを解釈する人間の側の不完全さ(バイアスをかけて読みとってしまう)との違いがあるという問題が、キリスト教の世界にもあり、その区別のないクリスチャンも多々おります。

教会、を個々の組織、解釈する人間を個々の組織に属する個個人と置き換えたら、どのようなケースにもあてはまるように思います。

では、正義はないのか。人間は不完全だから、善き社会は作れないのか。 そんなことはありません。

神は、不完全さを認めた人のところに働かれ、欠けを充たすだけでなく、人間が自力で充たす以上の祝福を与えます。

そのような世界観がもとになっている司法制度を、表面的な言葉と理屈だけ取り入れ、換骨奪胎して、日本流にしてしまうと、どうしても、自力で関係者が『まったき組織』(神のような組織)を作る力が働くのです。

私は、名古屋大学三年時編入学で刑法の平川宗信先生にお世話になりました。平川先生は、キリスト教的な西洋の司法に対して、仏教をもとに刑法を構築しようと、研究者として奮闘されてきました。

私自身は、平川先生の人格や学問を素晴らしいとは思っていますが、やはり、聖書の世界観をもとにした近代刑法以上のものは、ありえないのではないか、と今現在は考えています。

普遍、つまり、時代や文化が違っても、適応できる原則が、聖書にはある、と思うからです。日本には日本にあったものがある、として構築されたものは、たいてい、9割9分のケースにあてはめられても、例外が存在し、『あれは変わり者だから』と排除して終わりで、たったひとりでも、マイノリティでも救いあげる、つまり全ての人にあてはまる普遍のシステムにはならない気がするのです。

『推定無罪』は、日本の文化からは生まれません。 おそらく、検察官の多くは、頭ではこの原則をしっていて、ペーパーテストで一般論、総論としては論じられるのでしょうが、我がこととして、血肉になった原則として心からは受け容れていないのだと思います。

でも、これは普遍の原理だと思いますし、八田さんが今日、ブログに書かれていることは、普遍性のあることを、八田さんの個人的な体験から導きだした素晴らしいものだと思います。

私は、八田さんのように、この世的には、非常に神と勘違いしても不思議はないほど、ほかの人より、さまざまな面で優れた人でさえ、ちょっとした失敗はあるし、ほんとうには完全ではないということや、しかし、その不完全さを認める潔さに神が働かれることを神が示すために、神が、八田さんが冤罪被害者になるように『選んだ』気がしています。

こんな言い方をすると、『選ばれた』のは迷惑な話でしょうし、そんな神、ゼッタイ信じない、と思われそうで、伝道的には損なことを言っているのですが、私は、そんな風に八田さんを見ていたりします。 」

私は、彼女が言うほどには、推定無罪原則が日本でないがしろにされている状況に悲観していません。検察絶対神話の崩壊と歩調を合わせて、日本の司法もより正しい方向に向かっていくと思っています。今はその過渡期です。

ただ彼女の指摘通り、人間は絶対ではないということが既に前提としてあるキリスト教社会の方が、推定無罪原則が人の血肉となっていることはよく理解できます。

「お上のご無理ご尤も」がまかり通る前時代的な社会を変革することが、我々の利益であり使命であると思っています。

私の事件が健全な議論を喚起するきっかけになることで、冤罪も無駄ではないと思えるものです。引き続きご支援の程、よろしくお願いします。

ここをクリック→ Wikipedia 「クレディ・スイス証券集団申告漏れ事件」

9/13/2012






ここをクリック→「20分で分かる『クレディ・スイス証券集団申告漏れ事件』~日本の司法を正す会動画ダイジェスト版」

ここをクリック→ 経緯説明 「真実は一つである」 改訂版

ここをクリック→ 嘆願書まとめ






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category: 刑事司法改革への道

2012/09/13 Thu. 07:00 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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