「蟷螂の斧となろうとも」 by 元外資系証券マン

クレディ・スイス証券集団申告漏れ事件(http://goo.gl/v0xQYP)において、国税局査察部告発、検察特捜部起訴の事案で史上初の無罪判決。 著書『勝率ゼロへの挑戦 史上初の無罪はいかにして生まれたか』(光文社)。 ツイッター(@thatta0529)で「#検察なう」の情報発信を続けます。

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#検察なう (302) 「検察が正しくなければいけないという共同幻想を捨ててみるというのはどうでしょうか」 6/10/2013 

#検察なう (302) 「検察が正しくなければいけないという共同幻想を捨ててみるというのはどうでしょうか」 6/10/2013

(強制捜査から1637日、検察控訴から90日)

2011年9月に最高検察庁が策定し公表した検察の基本規定であるところの「検察の理念」。一度じっくり読んでみて下さい。

ここをクリック→ 「検察の理念」

具体的な運用が担保されていない(「取調べの全面可視化」「証拠の全面開示」「取調べに弁護士の同席許可」といった施策が言及すらされていない)といった批判もありますが、これはあくまで理念であり、もしこの理念が正しく遂行されれば、そうしたテクニカルなことは問題にならないと言えます。

これがあるべき姿だとして、実際にはどうでしょうか。ツイッターで「検察」を検索ワードに検索してみて下さい。悲しいことに、検察が「人権を脅かす恐怖集団」であるかのような非難に満ち溢れています。

このギャップはどうしたら埋めることができるのでしょうか。

もう一度「検察の理念」に戻ってみます。

例えば「あたかも常に有罪そのものを目的とし、より重い処分の実現自体を成果とみなすかのごとき姿勢となってはならない」とあります。最高検察庁が高らかに謳う「検察の理念」で、我々国民にとっては当たり前のことを敢えて書かなければならないということは、現実では検察の意識がそうではないということの表れです。

非難はそうしたギャップを、我々国民の論理に合わせるべきだということが前提になっています。「検察は正しくないから、正しくあるべきだ」ということです。

なぜ非難が検察に届かないかを問い直す視点がこれまで欠けていたのではないかと思います。あるいはその「正しい」という定義が、我々国民と検察ではそもそも違うと考えることも必要かと思います。「検察は我々国民の考える尺度からすると正しくないから、我々国民の考える尺度に合わせて正しくあるべきだ」という非難が届いていないと考えると違った視点も生まれるのではないでしょうか。

検察は、彼らが正しくないとは思っていないからこそ聞く耳を持たないのではないでしょうか。先の例で言えば、「あたかも常に有罪そのものを目的とし、より重い処分の実現自体を成果とみなすかのごとき姿勢」であっても、彼らがそれでいいと思っていれば、非難も彼らにとってみれば「何を言ってるんだ。全く分かってないな」とされて終わりだということです。

どうしてこうしたことが起こるのでしょうか。例を挙げます。

利潤追求型のモーレツ企業があったとします。それがある日突然、「利潤ばかり追求していては、将来生き残っていけない。これからは消費者優先型の企業モデルが必要だ。我々は顧客第一をモットーにしなければならない」と社訓が出されたとします。対外的には実に心地よく響くメッセージですが、現場の社員はそれをどう受け止めるでしょうか。そして顧客の求めていることが「もしあなたの会社の製品がほかの会社の製品に劣るのであれば、それを言うことが顧客の利益だ」とすれば、社員はそれを受け入れることはないと思います。自社の製品を売ることで会社が儲からなければ、自分たちの給料が出ないということを彼らが思い続けている限り、何も変わらないということがお分かり頂けるかと思います。

「検察の理念」は検察官にとってはまさにそういったものではないでしょうか。

検察官は検察組織のことを「うちの会社」と呼びますが、その社訓は「起訴してナンボ、有罪にしてナンボ」というもので、その社訓の下、長年粉骨砕身働いてきました。それが彼らにとっての正義であり、国是だと信じてきたものです。それをいきなり180度変えられて、対応しろという方が無理なのかもしれません。

少なからずの国民が依然、「検察は常に正しい」と信じています。それは「検察は正しくあるべき」であり、そうである以上、「国家権力が誤っているはずがない」から、「検察は常に正しい」という三段論法の下に成り立っているものです。

そうした人たちに、いかに現実がそうではないと説いても理解できないと思います。前提から180度変え、一旦その是非を置いて「検察は起訴してナンボ、有罪にしてナンボの組織でも仕方ない」としてみると、より現実的な理解ができるのではないでしょうか。「検察は正しくあるべき」とは単なる共同幻想であり、それを捨ててみることで新たな視点も生まれてくると思われます。

「検察の理念」は理想論だが、その実現は難しいと認めると、実際の運用が随分と変わってきます。

まず裁判官の意識がそれに則したものにならなければいけないということが言えます。あくまで検察は当事者の一方であり、被告人と相対する存在だということを理解する必要があるということです。それは「検察が常に正しくなくてもいい」ということの当然の帰結です。

また「検察が常に正しくなくてもいい」とすれば、「取調べの全面可視化」「証拠の全面開示」「取調べに弁護士の同席許可」の導入に疑問を挟む余地も全くないということになります。それらは「検察が常に正しい」からこそ不要なものであり、検察が常に正しくなくてもいいのであれば、ない方がおかしいという当然の帰結です。

国民の検察に対する非難も、「検察が常に正しくなくてもいい」ということを前提にすれば全て的外れなわけですから、検察もプレッシャーを感じなくていいはずです。メディア・コントロールによって自分たちの不正を隠蔽する必要もなくなります。メディアが報じても、それは「検察が常に正しくなくてもいい」ということからすれば、特に指弾されるべきことではないからです。

国民の意識も、盲信型多数派と非難型少数派とのギャップが埋められ、同じ立ち位置からより建設的な議論ができるのではないでしょうか。現状は、盲信型の人々に実態を伝えることに相当エネルギーを取られ、そこから先になかなか議論を進めることができていないのではないでしょうか。

こうした発想の転換がより現実的な解決につながることもあるのではないかという一つの提案です。勿論、理想を追求することも大切です。しかし、検察がそれを受け入れることがなければ、永遠に平行線です。検察の定義する正義が必ずしも我々国民の考える正義と同じとは限らない、そしてそれでも仕方ないと考える柔軟性が、硬直化した状況を打破するスタートになるかもしれません。

6/10/2013














ここをクリック→ Wikipedia クレディ・スイス証券集団申告漏れ事件

ここをクリック→ 「20分で分かる『クレディ・スイス証券集団申告漏れ事件』~日本の司法を正す会ダイジェスト版」(動画)


ここをクリック→ 経緯説明 「真実は一つである」

ここをクリック→ 被告人最終陳述

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category: 刑事司法改革への道

2013/06/10 Mon. 03:48 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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