「蟷螂の斧となろうとも」 by 元外資系証券マン

クレディ・スイス証券集団申告漏れ事件(http://goo.gl/v0xQYP)において、国税局査察部告発、検察特捜部起訴の事案で史上初の無罪判決。 著書『勝率ゼロへの挑戦 史上初の無罪はいかにして生まれたか』(光文社)。 ツイッター(@thatta0529)で「#検察なう」の情報発信を続けます。

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#検察なう (351) 「冤罪の定義」 12/2/2013 

#検察なう (351) 「冤罪の定義」 12/2/2013

(強制捜査から1812日、控訴審判決まで60日)

多くの人にとって縁遠いと思われる「冤罪」。その言葉の定義も人によって微妙な差があるようです。最近偶然にも、複数(3人)の友人・知人から「あなたのケースはいわゆる冤罪とは違うんじゃない」と立て続けに言われ驚きました。彼らは私の無実を信じてくれているので、「本当はやってんじゃないの」的なレベルの発言ではありません。少し考えてみたいと思います。

まず広辞苑を紐解くと(電子辞書ですが)、「冤罪」の説明はいたってシンプルです。

「無実の罪。ぬれぎぬ。」

それ以上でもなく、それ以下でもない、まさにその通りです。

無実であるにもかかわらず裁判所の判断が有罪であったものだけを「冤罪」と狭く定義している人もいるかもしれません。そのように考える人でも、例えば「(まだ公判すら始まっていない)PC遠隔操作事件は冤罪だと思う」と聞いて、その言葉の使い方に違和感は持たないのではないでしょうか(あの事件が冤罪かどうかは分かりませんが)。

Wikipediaの説明はもう少し詳しくなっています。

「捜査や裁判の過程に問題が指摘されている刑事事件を表現するために用いられることが多い。無実の者が裁判において有罪とされその判決が確定した場合や、再審で証拠不十分(「疑わしきは被告の利益に」)により無罪となった場合のほか、無実の者が逮捕され被疑者として扱われたり、起訴され刑事裁判を受けたりした場合も冤罪事件と呼ばれる。」

私のケースはまさに最後の「起訴され刑事裁判を受けたりした場合」です。説明の後半部分は、社会の実態が「推定有罪」をディフォルトとしていることを表しています。「推定無罪」とか「推定有罪」と言うと、法律用語のような気がしますが、何のことはありません。私たちも普通の感覚として持っています。

例えば、私のケースで言えば、内定していた就職を国税局告発後に取り消されたり、無実を訴えても関わり合いになりたくないと人が遠ざかっていくことはまさに彼らが有罪を前提にしていることを意味しています。それが「推定有罪」です。

もし「推定無罪」の本来意味する「刑事上の罪に問われているすべての者は、法律に基づいて有罪とされるまでは、無罪と推定される権利を有する(国際人権規約B規約14条2項)」ことが遵守されていれば、私が就職を取り消されることや、友人を失うことはないはずです。

社会が「推定有罪」をディフォルトとしていることはかなり根深い問題だと言えます。

ケンカをしている二人の一方だけの言い分を聞いて、もう一方の者に「お前が悪い」と言うことは間違っているとは誰もが認めるところだと思います。しかし、事件報道では、捜査当局のリークに基づく一方の当事者の言い分だけを取り入れて、被疑者を犯人視することが常態化しているようです。捜査当局のリークは、立派な違法行為であるにも関わらず(国家公務員法第100条、地方公務員法第34条「職員は、職務上知ることのできた秘密を漏らしてはならない」)、法を順守すべき捜査当局が厚顔無恥にもリークを日常的に行っていることはゆゆしい問題です。

重大な冤罪事件を非難する際に、「被告人の言い分を裁判官は真摯に聞くべき」とはよく耳にします。それは、通常の事件報道の我々の理解の仕方にも当てはまります。事件報道では、メディアが被疑者の主張を報道しているかどうかにも十分注意してほしいものです。それによって我々のメディア・リテラシーが高められるのではないでしょうか。

一歩進んで「量刑不当」は冤罪でしょうか。私は、ケース・バイ・ケースで冤罪と言ってもいい場合もあると思っています。

本来、罰は罪に相応してあるべきです。その罪に比して罰が著しく苛烈であれば、それは人権を不当に侵害・抑圧していると言えます。ケース・バイ・ケースと言ったのは、その状況が国家権力の恣意的な行使に基づく場合、冤罪と言ってもいい状況が生まれていると思っています。

私のブログをお読みの方はご存知の佐藤真言氏・朝倉亨氏の粉飾決算の事案がそれに当たると私は感じてます。彼らは実刑判決を受け、現在収監中です。

私が、朝倉氏の収監前に新宿の喫茶店ルノワールでお会いした時、ひとしきり話した後で、彼が「八田さんのお気持ちよく分かります」と言った後、「あ、すみません。八田さんは冤罪で、私とは違いますね」と申し訳なさそうに言いました。私は、「いえ、私は、朝倉さんも佐藤さんも冤罪被害者だと思っています。国家権力が作った犯罪で、本来受けるべきでない扱いをされているわけですから」と言いました。その時の彼のほっとした様子が私の記憶に残っています。

逆に、いかに言葉の定義のテクニカルな議論だったとしても、「冤罪ではない」と言われることが、「なぜこのような仕打ちを受けなければいけないのか」と思っている者に与える精神的ダメージを是非考えてほしいと思います。それは当事者にとっては「それは因果応報でしょ。そうした状況を招いた責任の一端はあなたにあるでしょ」と聞こえるからです。言っている者の真意はそうではないと分かっていても、疑心暗鬼になり、不安感をいつも抱えているのが冤罪被害者だと思います。

私は、「国家権力の恣意的な行使により、著しく不当な刑罰を与えられた場合」も特殊な「冤罪」の一類型であると考えます。

但し、全ての捜査の過ち、例えば全ての「誤認逮捕」がいけないわけではないという点は強調したいと思います。捜査当局も過ちを犯すこともあります。そしてそれが適法かつ人道的であれば、それは許容されるべきです。それを何でもいけないとすれば、彼らはそれを隠蔽するようになります。過ちを認めず、「引く勇気」を失うことにつながります。

私のケースでも、国税局査察部の取調べは(異様な程、長期間に亘ったことを除けば)問題なかったと思っています。そして彼らが私の無実を知りながら私を刑事告発した時点で、既に私は冤罪被害者になったと思っています。

私は、自分が冤罪被害者であると訴えて憐れみを乞うつもりは一切ありません。私が挑戦しているのは、推定有罪をディフォルトとする社会構造です。冤罪はそうした社会の構造的問題が背景であると思っています。その挑戦者の立場を表明するために、胸を張って「私は冤罪被害者である」と言っています。是非、考えてみて下さい。

12/2/2013
















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category: 冤罪事件に関して

2013/12/02 Mon. 09:57 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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