「蟷螂の斧となろうとも」 by 元外資系証券マン

クレディ・スイス証券集団申告漏れ事件(http://goo.gl/v0xQYP)において、国税局査察部告発、検察特捜部起訴の事案で史上初の無罪判決。 著書『勝率ゼロへの挑戦 史上初の無罪はいかにして生まれたか』(光文社)。 ツイッター(@thatta0529)で「#検察なう」の情報発信を続けます。

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#検察なう (357) 「『凡庸な悪』が冤罪を造り出す」 12/23/2013 

#検察なう (357) 「『凡庸な悪』が冤罪を造り出す」 12/23/2013

(強制捜査から1833日、控訴審判決まで39日)

人は誰しも「冤罪」がありうるということは頭では理解していると思います。捜査当局や司法当局もパーフェクトではなく、人間である以上間違いを犯すということもそれほど常識外れということではないと思います。

しかし、彼らが自らの間違いに気付きながらも、確信犯的に無辜の人を罪に陥れるということは一般の方はなかなか信じ難いと思います。

私も、査察部の強制捜査では「十分に調べてもらえば真実は明らかにされる。彼らもプロなのだから、私が嘘をついているかどうかは分かるはずだ」と思っていました。

それから刑事告発報道までの1年2か月は、「彼らは私が無実であることを知りながら罪に陥れようとしているのでは」という不安を押し殺して、「まさかそんなことはあるはずがない」と信じたい気持ちでした。

それゆえ国税局による刑事告発は少なからず驚きましたが、「やはり」という思いも同時にあり、やっとゲームのルールを飲み込んだ気がしました。

検察特捜部の取調べが始まった時は、「検察特捜部は国税局査察部とは違う。彼らは真実を見出してくれる」という期待を完全には捨てきれませんでした。しかし、特捜部の取調べが進むにつれ、そうした期待が裏切られることを覚悟しました。

無能であればまだしも、真実にたどりつくだけの能力のある彼らがなぜ私の無実を知りながらも告発や起訴ができるのか、この5年間考えてきました。最初は、私の理解を越えたことであったため、「彼らの頭はおかしいんじゃないか」としか思えなかったのですが、時間を掛けて考えるうちに、「彼らも家に帰れば、家族のいる普通の人間であり、仕事だから仕方ないと考えているのだ」と思い至りました。

そこまではなんとか理解したものの、「仕事の義務感と自分の良心との折り合いはどうやってつけているのだろう」という疑問は難題でした。5年間考えた結果、ようやくその答えに到達したような気がします。

その答えは「思考停止」です。

目の前の被疑者・被告人が無実であるという可能性を考えず、組織の決めた方針に忠実に従うことだけを意識すれば、自分の良心との葛藤は生まれません。彼らは、被疑者・被告人を「それぞれの人生を送る生身の人間」であるとさえ考えていないと思います。余計なことを考えず、役人として与えられた責務を淡々とこなしているという感覚だと思います。

その答えを確認するいい機会がありました。それは映画『ハンナ・ハーレント』を観たことです。10月末に封切り以来、連日満員の話題作です。

ハンナ・ハーレントは1900年代に生きた、ハイデッガーやヤスパースに師事するドイツ系ユダヤ人の哲学者です。彼女はナチスのユダヤ人迫害により収容所を経験し、脱走後アメリカに亡命しました。1960年代初頭、ナチス戦犯の一人アドルフ・アイヒマンが逃亡先で逮捕。彼女はイスラエルで行われた歴史的裁判を傍聴し、その傍聴記を雑誌『ザ・ニューヨーカー』に掲載します。

ナチス保安警察(ゲシュタポ)のユダヤ人課課長であったアイヒマンはユダヤ人の移送先の責任者でした。ホロコーストの最大級の犯罪者に人々はメフィストフェレス像を期待しますが、アーレントはアイヒマンの犯した罪を「凡庸な(あるいは「陳腐な」)悪」 “Banality of Evil”として根源的・悪魔的な悪ではないと主張し、世間の大批判を浴びました。

ちなみにアイヒマンが公判で語った「一人の死は悲劇だが、集団の死は統計上の数字に過ぎない」という言葉はあまりに有名です。

アーレントの寄稿した『ザ・ニューヨーカー』誌の記事は、『イェルサレムのアイヒマン~悪の陳腐さについての報告』で読むことができます。

ここをクリック→ Amazon 『イェルサレムのアイヒマン~悪の陳腐さについての報告』

私も一読しましたが、さすがに哲学者の文章とあって骨が折れました。それに比して映画はそのエッセンスをよくまとめ、明快にその主張を映像化しています。

そのシナリオから主題部分を拾ってみます。

(アイヒマンの公判のシーン)
裁判官 「葛藤は感じましたか?義務と良心の間で迷ったことは?」
アイヒマン 「両極に分かれていました」
裁判官 「両極?」
アイヒマン 「つまり、意識的な両極状態です。義務感と良心の間を行ったり来たりで」
裁判官 「個人の良心をやむなく捨てたと?」
アイヒマン 「そう言えます」
裁判官 「『市民の勇気』があれば違ったのでは?」
アイヒマン 「ヒエラルキー内にあれば違ったでしょう」

(アーレントがユダヤ人旧友のクルトと議論するシーン)
アーレント 「移送先など関心ないのよ。人を死に送り込んだけど、責任はないと考えてる。貨車が発車したら任務終了」
クルト 「奴によって移送された人間に、何が起きても無関係だと?」
アーレント 「そう、彼は役人なのよ」

(哲学者友人ハンスと議論するシーン)
ハンス 「アイヒマンは怪物だ。悪魔とは言わないよ。でも平凡な人間だって怪物になりえる」
アーレント 「そう単純じゃない。今回分かったわ。彼はどこにでもいる人よ。怖いほど凡人なの」
ハンス 「国家保安本部ではユダヤ人課のトップだ。ただの凡人に務まるのか?」
アーレント 「確かにね。でも彼は自分を国家の忠実な下僕と見てたの。『忠誠こそ名誉』。総統の命令は法律よ。彼に罪の意識は全くない。法に従ったからよ」

(『ザ・ニューヨーカー』誌に寄稿された一文)
『彼は思考不能だった。これは愚鈍とは違う。彼が20世紀最悪の犯罪者になったのは、思考不能だったからだ』

(大学講師としての講演のシーン)
アーレント 「世界最大の悪は、平凡な人間が行う悪なのです。そんな人には動機もなく、信念も邪心も悪魔的な意図もない、人間であることを拒絶した者なのです。そしてこの現象を私は『悪の凡庸さ』と名付けました」

「ソクラテスやプラトン以来私たちは『思考』をこう考えます。自分自身の静かな対話だと。人間であることを拒否したアイヒマンは、人間の大切な質を放棄しました。それは思考する能力です。その結果、モラルまで判断不能となりました。思考ができなくなると、平凡な人間が残虐行為に走るのです」

「『思考の嵐』がもたらすのは、知識ではありません。善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける力です。私が望むのは、考えることで人間が強くなることです。危機的状況にあっても、考え抜くことで破滅に至らぬよう」

ナチス親衛隊を国税局査察部、検察特捜部に、アイヒマンは一人一人の査察官、検察官だと読み替えれば、冤罪がいかに生み出されるかということも理解できるのではないでしょうか。人間は歴史から学ぶことができます。

アーレントも言っていることですが、思考停止した人間は人間の大切な質を放棄しています。是非とも彼らには思考することで、人間としての自分、人間の良心を取り戻してほしいと思います。そして我々、被疑者・被告人も一人の人間だと理解してほしいと思います。

ここをクリック→ 『ハンナ・アーレント』予告編

12/23/2013
















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category: 刑事司法改革への道

2013/12/23 Mon. 00:04 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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