「蟷螂の斧となろうとも」 by 元外資系証券マン

クレディ・スイス証券集団申告漏れ事件(http://goo.gl/v0xQYP)において、国税局査察部告発、検察特捜部起訴の事案で史上初の無罪判決。 著書『勝率ゼロへの挑戦 史上初の無罪はいかにして生まれたか』(光文社)。 ツイッター(@thatta0529)で「#検察なう」の情報発信を続けます。

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#検察なう (365) 「検察の見せかけだけの完璧主義、あるいは「検察無謬神話の虚構性」」 1/23/2014 

#検察なう (365) 「検察の見せかけだけの完璧主義、あるいは「検察無謬神話の虚構性」」 1/23/2014

(強制捜査から1864日、控訴審判決まで8日)

冤罪が生まれる一因を捜査・司法当局の「必罰主義」に求めることがあります。それは一面正しいのですが、検察が「必罰主義」であるということには若干の違和感を覚えます。

「必罰主義」は「無辜の不処罰」に対する概念と捉えることができ、「無辜の不処罰」が「十人の罪人を逃すとも一人の無辜を罰するなかれ」であるのに対し、「必罰主義」は「一人の無辜を罰するとも十人の罪人を逃すなかれ」というものです(「必罰主義」をただ単に「犯罪者は必ず処罰する」と解するのは、犯罪者を間違いなく特定できるという前提がない以上、片手落ちなものだと思います)。

推定無罪原則は刑事司法の鉄則ですが、世の中には少なからずの人が捜査当局の言う「それで治安が悪くなってもいいのか」という扇動に迷わされるのではないかと思います。そして「どうせ自分は冤罪とは関係ないから」と「必罰主義」を擁護するかもしれません。

まずこの「必罰主義」に惑わされてはいけない一つのトリックは、犯人がつかまったとしても、その犯人が真犯人ではなければ、真犯人は罰せられずに却って無罪放免になっているということにあります。犯人検挙の功を焦るばかり、誰でもいいとばかりに「犯人らしい人」を捕まえるという歴史を捜査当局は繰り返しています。これは「必罰主義」の弊害でもあります。冤罪は、冤罪被害者にとっての悲劇であるとともに、事件被害者の悲劇でもあるということを理解するべきです。典型的な例では、殺人事件の裁判で被告人が無罪となった時に、事件被害者遺族が裁判官に怒りを露わにするのを見て、なぜその怒りが捜査当局に向かわないのかと不思議に感じることがあります。真犯人以外を罰しても何ら解決にならないことは、冷静に考えれば明らかなことです。

しかし、私の違和感はそこにあるのではありません。私の違和感は起訴猶予率の異常な高さにあります。起訴猶予とは「被疑事実が明白な場合に、情状により訴追を必要としないと検察が判断し不起訴にすること」です。

『平成25年版犯罪白書のあらまし』(p.13)によれば、それは55.5%にも達します。
ここをクリック→ 『平成25年版犯罪白書のあらまし』

勿論、被疑事実が明らかであっても全て起訴しなければならないというものではありませんが、この起訴猶予率の異常なまでの高さは、検察は公判を勝ち負けのゲームと考え、少しでも負ける可能性があるものは全て不起訴にしていると思われても仕方がない数字ではないでしょうか。つまりここでは、罪人を敢えて処罰せずに、事件被害者の人権を踏みにじる「逆冤罪」が少なからず生じていると言えます。「これで必罰主義はないだろう」というのが私の違和感です。

推定無罪原則を「罪人かもしれない者を逃すとはけしからん」と非難する人は、まず検察の異常な起訴猶予率を非難すべきです。

検察が「必罰主義」でないとすれば彼らの拠るところはなんでしょうか。『検察の理念』を参照してみます。
ここをクリック→ 『検察の理念』

第3項に「無実の者を罰し、あるいは、真犯人を逃して処罰を免れさせることにならないよう」とあります。つまり彼らの目指すところは、いかなる場合も間違いを許さない完璧主義です。

これを『アメリカ人のみた日本の検察制度』の著者D・T・ジョンソン氏は「パーフェクトな司法」と評しました。
ここをクリック→ #検察なう (333) 「日米の検察制度の比較」

彼の指摘は非常に正しいと思いますが、私はその完璧主義はあくまで見せかけのものだと思っています。

神でもなければ達成できない「無実の者を罰しない」と「真犯人を逃して処罰を免れさせることにならない」という二律背反の命題を両立させるにはどうすればよいか。それが今の検察の行動規範となっている「少しでも公判で負ける可能性のあるものは起訴せず、起訴したからには手段を選ばず有罪に追い込む」というものです。そうすることで、見かけ上は彼らの完璧主義を達成できることになります。そこには正義はなく、ただ単に彼らがよく見られたいだけという薄汚い保身の論理です。

検察の無謬神話は、そのような虚構の上に成り立っているものです。

郵便不正事件以降、その無謬神話には大きなほころびが生じ、彼らの虚構が明らかになってきています。その状況を招いたのは、ほかならぬ検察、特に特捜部の奢りによる暴走からです。真実を追求する公僕である立場を見失い、正義は自分たちが作り出すという「検察官司法」の傲慢さがその背景にあります。一部の意識の高い裁判官は、既にその虚構に気付いているのではないでしょうか。

検察制度は、国民の信頼を拠り所として、彼らにフリーハンドの権力を与えて成り立っています。彼らがこれからも自浄作用を見出せないのであれば、その権力にたがをはめ、「いかなる権力も間違いを犯す」ということを前提にした制度作りが必要だと思います。

今が刑事司法の歴史の転換点です。我々国民も刑事司法リテラシーを高めることが必要だと思います。

1/23/2013













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category: 刑事司法改革への道

2014/01/23 Thu. 03:15 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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