「蟷螂の斧となろうとも」 by 元外資系証券マン

クレディ・スイス証券集団申告漏れ事件(http://goo.gl/v0xQYP)において、国税局査察部告発、検察特捜部起訴の事案で史上初の無罪判決。 著書『勝率ゼロへの挑戦 史上初の無罪はいかにして生まれたか』(光文社)。 ツイッター(@thatta0529)で「#検察なう」の情報発信を続けます。

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「死刑制度について考える(1)~森達也氏著『死刑 人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う』」 

「死刑制度について考える(1)~森達也氏著『死刑 人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う』」

普段生活している上で、自分が人を殺すことをイメージしている人は間違いなくいないと思います。しかし、有権者である以上、その可能性はあります。それは、重罪のみを対象とする裁判員裁判制度の裁判員になりうるからです。

裁判員になることは、市民が司法に参加する権利ですが、その権利を遂行するために、死刑制度を理解することは義務といえます。しかし、死刑制度についての情報開示は限定的で、なんとなくあった方がいいとか、ない方がいいという感覚的な選好はあっても、深く考えたことがない人がほとんどではないでしょうか。

裁判員になって「人を殺す」立場となってから慌てないように、死刑制度に関する「food for thought」を提供したいと思います。非常に重要なテーマだと思いますので、「死刑制度について考える」という新たなシリーズとして論じたいと思います。

その第一回は、森達也氏著『死刑 人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う』の私のブックレビューを再掲します。

(以下、ブックレビューより)
裁判員裁判制度における裁判員になる可能性がある以上、誰しもが人の命を奪う可能性がある。命を粗末にしたくないと考えれば、死刑制度についてはよほど慎重に日頃から考察する必要があろう。

私は「死刑制度について存置派か廃止派か」という尋ね方は正しくないと思っている。死刑制度に対する姿勢を問う正しい尋ね方は「冤罪で罪を犯していない人を殺してしまうことと引き換えにしてでも死刑制度を維持する必要があると考えるか」であるべきだ。しかも、今日の刑事司法の状況が冤罪の「可能性がある」などと生易しいものでないことは、冤罪被害者の当事者である私は身をもって感じている。

死刑囚はいつも大体100人程度であるが(100人を越えると「在庫整理」のように立て続けに死刑が執行されるのが傾向として顕著である)、今日現在の死刑囚でも、私が冤罪死刑囚と考える人の名前は3人挙げられる。そして私がその100件内外の死刑事件の全てに精通しているわけではない。それだけ冤罪で死刑になる人は多いのである。つまり、冤罪で人が死刑になっていることは可能性論ではなく厳然たる事実である。

それでは私は死刑制度廃止派かと言うと、実はそうではない。制度としてはむしろあった方がいいのではと考えている。しかし、今日の刑事司法のシステムでは、構造的に冤罪が生み出され、とてもではないが、死刑制度をまともに論じることはできないというのが私の考えるところである。冤罪を生み出さないシステム構築までは、一切の死刑執行を停止すべきである。つまり、私の死刑制度に対する姿勢は「制度存置、執行停止派」である。

しかし、死刑の執行を停止すべきということに関しては、全くの揺るぎもないが、制度として存置すべきかどうかに関しては、常に逡巡しているのが正直なところである。そのため、何とかその逡巡の霧を晴らしてくれはしまいかと、死刑制度に関する書を渉猟するのだが、依然、深い森の中に踏み込むばかりという気分である。

この森達也氏の『死刑 人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいと思う』を読んだのも、死刑制度に対する世の中の風潮を一変させたオウム事件のドキュメンタリーを撮り続けた映画監督であれば、何らか方向性を示唆してくれるのではないかという期待感があったからである。しかし読み終えて、ほっとした自分があった。死刑に関して深く洞察したであろう森氏も、逡巡の中にあり、論理的な結論に至ることを自ら放棄していることを知ったからである。

森氏は廃止派であるが、結局のところ、その理由は情緒である以外のものを見つけられなかったことをこの書で吐露している。

「仕事柄おおぜいの悪人と言われる人たちと僕は会ってきた。短気な人はいる。思慮が浅い人もいる。他人の痛みを想像することが下手な人はいる。自己中心的な人もいる。粗野な人はいる。失敗を他者になすりつける人もいる。

でも生きる価値がない人などいない。生きる価値がないと思えるような人はひとりもいない。死んで当然の命などない。どんなに汚れようと、歪んでいようと、殺されて当然の命などない。僕は彼に会った。そして救いたいと思った。そこに理由はない。今現在の確定死刑囚の数は109人(2007年11月28日現在)。この109人すべてにもしも会ったとしたら、きっと僕は全員を救いたいと思うだろう。そしてきっとそれは僕だけじゃない。目の前にいる人がもしも死にかけているのなら、人はその人を救いたいと思う。あるいは思う前に身体が動くはずだ。その気持ちが湧いてこない理由は、今は目の前にいないからだ。知らないからだ。でも知れば、話せば、誰だってそうなる。それは本能であり摂理である。

ぼくらはそういうふうに生れついている。」

最終章に書かれたこの文章が結論といえば結論(但し、森氏も死刑制度是非の論議には終着駅はないことを自覚している)であり、タイトルの意味である。

死刑廃止派の「そもそも人が他人(たとえそれが殺人犯であっても)の命を奪うことは許されない」とする主張は、私個人には相当の説得力を持っている。しかし、毎日のように地球上のどこかで民族紛争や宗教紛争で人が人を殺している現状があり、それに対して全くプロテストしないで、死刑制度に対してだけそうした論理を持ち出すのも自分で納得がいかない部分がある。

逆に死刑存置派の被害者感情論=国家による仇討論は、全く心に響かない。単純に「ある人が誰かを殺せというだけで、その誰かを殺していいのか」と感じるからである。「ある人」が殺人事件被害者遺族であり、「誰か」が殺人犯であったとしても。

「それなら、自分の愛する人が殺されても、死刑にしたいと思わないのか」という問いに対しても、そうした経験はないため、「そう思いたくないと考えるだろう」と想像するのみである。

自分が死刑制度に関して考える時のスタンスは、加害者の人権や被害者の人権も一旦は置いて、当事者以外の絶対多数である社会の成員の利益はどこにあるかということを前提にしたいというものである。

当事者以外の我々の利益とは、「殺人のような凶悪犯罪がなくなる」ことに尽きる。そのために我々が考えることは、死刑制度はそのメリットに供することができるのか、という命題である。そして私はまだその答えを見出せずにいる。

死刑制度に関して、日本は先進国の中では突出して存置派が多いとされる。それは死刑制度について語ることがタブーであり、世の中の少なからずの人が深く考えていないからということはあるであろう。そしてその存置派の多くの理由は、この書に引用された本村洋氏(光市母子殺害事件の被害者遺族)の手紙の次の一文に端的に表されているであろう。

「犯罪被害者が声高に死刑を求めている」からではなく、「社会全体が漠然と不安である」から死刑は廃止できないのだと思います。

死刑がなくなることは「何となく不安だ」と感じることが存置派の本音ではないだろうか。そしてその不安を煽っているのが、法務・検察官僚と、彼らの意向を忖度して被害者感情を常に大きく報道するメディアであることは論を待たない。なぜ法務・検察官僚がそこまで死刑制度存続にこだわるのか、そして、それならばそれを利用して刑事司法改革のバーターの材料として使えないであろうかと想像を巡らせるのである。

ここをクリック→ ブック・レビュー 『死刑 人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う。』 森達也著

8/11/2014


















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category: 死刑制度について考える

2014/08/11 Mon. 00:53 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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