「蟷螂の斧となろうとも」 by 元外資系証券マン

クレディ・スイス証券集団申告漏れ事件(http://goo.gl/v0xQYP)において、国税局査察部告発、検察特捜部起訴の事案で史上初の無罪判決。 著書『勝率ゼロへの挑戦 史上初の無罪はいかにして生まれたか』(光文社)。 ツイッター(@thatta0529)で「#検察なう」の情報発信を続けます。

03« 2017 / 04 »05
1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.

#検察なう (421) 「森炎氏著『教養としての冤罪論』解題(2)~冤罪ライン① 「犯人と第一発見者はどうやって区別するか」」 10/2/2014 

#検察なう (421) 「森炎氏著『教養としての冤罪論』解題(2)~冤罪ライン① 「犯人と第一発見者はどうやって区別するか」」 10/2/2014

森炎氏著『教養としての冤罪論』解題として、その1回目は概論的な紹介をしました。

ここをクリック→ #検察なう (404) 「森炎氏著『教養としての冤罪論』解題(1)」

これから、各論として、森氏が「冤罪ライン」と名付ける、冤罪リスクが高いパターンを個別に検証していきたいと思います。

今回のお題は「犯人と第一発見者はどうやって区別するか」。

刑事裁判では「誰が、いつ、どこで、誰に対して、どのような(犯罪)行為をしたのか」が立証される必要があります。そしてこれらがすべて証拠により立証されなければならないというのが建前です。

DNA型鑑定や現場指紋は、現代の刑事裁判では最も客観的でかつ証拠価値が高いとされますが、それは「誰が、どこで」という、立証に非常に重要な意味をもつ「現場存在証明」だからです。

しかし、それらDNA型鑑定や現場指紋が全く意味を持たなくなる場合があります。それが第一発見者のケースです。

現場から容疑者の体組織DNAや指紋が見つかったとしても、容疑者が「自分は第一発見者だ」と主張する場合には、犯人との区別はつかなくなります。第一発見者であれば、その場にいたことは当然だからです。

容疑者の衣服等から返り血と思しき血痕が検出され、DNA型鑑定の結果、それが被害者のDNAの型と一致したとしても同じです。たまたま現場を訪れた第一発見者が、死亡している被害者を揺り動かしてしまったら、当然そうなるからです。

では、同じ第一発見者でも、その場から黙って立ち去ってしまった第一発見者はどうなるでしょうか。第一発見者であれば、通常は、すぐに警察に届けたり近隣の者に知らせたりするのでしょうが、かかわり合いを恐れて黙って立ち去ることもあり得ます。そのとき、簡単に警察の嫌疑を晴らすことができるかどうかは保証の限りではありません。

さらに、その場から金品を取って去ってしまった第一発見者はどうなるでしょうか。第一発見者が、その場で金品を見つけて出来心で持ち去ってしまうということもないとは言えません。その場合は、もう警察の嫌疑を晴らすのは絶望的になるにちがいありません。

『教養としての冤罪論』で森氏は、捜査側から見た事件発生から落着までの流れを次のようなシーンとして表しています。

「ある場所で他殺死体が発見され、殺人事件の発生が認知された。

臨場した警察の捜査によって、その殺害現場から現金がなくなっていることが判明した。さらに捜査を進めた結果、それを持ち去った人物が特定された。

警察では、その人物を強盗殺人犯として手配し、居場所を見つけ出して逮捕した。そうしたところ、その者は、自分は現金を持ち去った第一発見者だと申し立てた。「窃盗罪になるのはヤマヤマだが、強盗殺人など断じてやっていない」と言う。

もちろん、警察では、そんな抗弁をすぐに信用するわけにはいかない。自白を迫る厳しい取り調べをおこなった。それまで取り調べを受けた経験のない容疑者は、警察の取り調べに耐えかねて強盗殺人を自白した。

その場合、警察から見れば、ハナから強盗殺人犯にちがいなく、ホシは見込みどおり自白し、事件は一件落着したとなる。」

森氏は続けます。

「ここで考えなければならないのは、もし真実が容疑者本人の此岸にあるとしても、彼岸の警察からは、どう見ても強盗殺人犯に見えてしまうということである。

証拠の観点から言えば、容疑者が現金を持ち去ったことは、それだけでは、何ら強盗殺人の根拠にはならない。それは窃盗の証拠であり、もとより、その事実自体は容疑者も自認するところである。しかし、それが何ら証拠にはならないにもかかわらず、殺人事件の発生直後から逐次捜査してきた側からすれば、強盗殺人にしか見えない。そういう事象なのである。

つまりは、捜査側にとっての真相はそれ以外にない。

問題は、裁判所はどうかである。捜査側と何らかちがう観点を提示できるかどうかである。「ちがいのわかる」裁判所であるかどうかである。裁判の意義が問われる。そこで上塗りしかできないようでは、裁判の名が泣く。」

『教養としての冤罪論』では、具体的なケースとして3つの事件を挙げています(注)。注記すべきは、森氏はこれらの事件を冤罪としているわけではなく、森氏が「冤罪ライン」と呼ぶ冤罪リスクの高いパターンに該当するとしているものです。この『教養としての冤罪論』が通常の冤罪本(「~の事件は冤罪である」という類の書)と一線を画しているのは、個別の事件が冤罪かどうかを議論するのではなく、冤罪の可能性を内包した要素を抽出して類型化している点です。

教養としての冤罪論

(注)
鶴見事件 (神奈川鶴見の金融業夫妻強殺事件、1988年、死刑確定後再審請求中)

三崎事件 (神奈川三崎の一家三人殺害事件、1971年、死刑確定後獄死)

熊本事件 (熊本・農道の婦女暴行殺人事件、1979年、死刑確定後再審請求中)

10/2/2014














ここをクリック→ Amazon 『勝率ゼロへの挑戦 史上初の無罪はいかにして生まれたか』 カスタマーレビュー


表紙1

<






ここをクリック→ Wikipedia クレディ・スイス証券集団申告漏れ事件

ここをクリック→ 八田隆ツイッタ―

ここをクリック→ #検察なう 刑事司法の矛盾、冤罪と戦う八田隆と全ての人を支援する会






TwitterやFacebookでの拡散お願いします。

category: 刑事事件一般

2014/10/02 Thu. 00:02 [edit]   TB: 0 | CM: 0

go page top

この記事に対するコメント

go page top

コメントの投稿

Secret

go page top

トラックバック

トラックバックURL
→http://fugathegameplayer.blog51.fc2.com/tb.php/762-049c592a
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

go page top