「蟷螂の斧となろうとも」 by 元外資系証券マン

クレディ・スイス証券集団申告漏れ事件(http://goo.gl/v0xQYP)において、国税局査察部告発、検察特捜部起訴の事案で史上初の無罪判決。 著書『勝率ゼロへの挑戦 史上初の無罪はいかにして生まれたか』(光文社)。 ツイッター(@thatta0529)で「#検察なう」の情報発信を続けます。

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#検察なう (425) 「国賠審に当たって~国=被告の主張を記した準備書面に関し」 10/16/2014  

#検察なう (425) 「国賠審に当たって~国=被告の主張を記した準備書面に関し」 10/16/2014

前回のブログで「クレディ・スイス証券集団申告漏れ事件」の発端からこれまでの経緯をダイジェスト版でお届けしました。

ここをクリック→ #検察なう (424) 「「クレディ・スイス証券集団申告漏れ事件」司法手続き、税務手続きそのほかここまでの経緯と現在の状況」

これから起こることは、まず来週10月20日に開かれる、私を原告とする国賠審(国家賠償請求訴訟)の第二回口頭弁論です。

原告の我々の主張は既に、今年5月に「訴状」として書面で東京地裁に提出しています。7月に開かれた国賠審第一回口頭弁論の時点では、被告である国の主張の内容は明らかにされていませんでしたが、9月末に提出された「準備書面」でそれは明らかにされました。

今回及び次回のブログでその解説をしたいと思っていますが、その前に、国賠審に当たっての所感を述べます。

一番感じることは、なぜこれほどまでに国賠審のハードルが高くなければならないのかということです。国賠審の目的は、ざっくり言えば、個人の権利が国の行為によって侵害された場合に、その被害を補償するものです。

個人間であれば、一方に明らかな損害が生じた場合、それを法的にカバーすることは期待されていると思います。また、力が対等な個人間では、喧嘩両成敗ということもあるでしょう。しかし、国対個人の場合、その実力に圧倒的な差があることは説明するまでもないと思います。その強大な権力が個人の生活を脅かしたことが結果として明らかな場合に、その補償をすることにここまでハードルが高いことが果たしてよいことなのだろうかと感じます。権力の濫用を抑止することができなくなることを危惧します。やはりそこには、強い者の道理が通る強者の論理があるのではないでしょうか。

準備書面に関して述べたいと思います。

私の刑事裁判で、検察の主張は、冒頭陳述、論告そして控訴趣意書でなされましたが、彼らの主張の弱さをボリュームでカバーしようとする必死の様相が見て取れました。そして、今回の準備書面もその例外ではありませんでした。83ページという大部の書面ですが、全く内容の薄ーい主張を、ぐだぐだと連呼しているという類のものです。

準備書面を作成したのは、東京法務局訴訟部です。

法務局といってもあまり馴染みがなかったのですが、ググってみると、法務省の地方支分部局の一つで、我々の日常生活のいろいろな局面で関わり合いがある役所のようです。

全国に8ヶ所ある法務局の一つ、仙台法務局が作成した「法務局ってどんなところ?」をご紹介します。

ここをクリック→ 「法務局ってどんなところ?」

この11ページにある「訟務」というのが、今回登場してくる訟務部の仕事です。そこには「訟務とは、国が当事者として争わなければならない場合、法務局の職員が国の指定代理人として、弁護士のような立場で、訴訟活動を行っています。」とあります。

実際の担当者は、訟務部に所属する訟務検事と呼ばれる職員です。彼らの出自の多くは、人事異動で検察庁から配属された検事や判検交流によって裁判所から出向した裁判官のようですが、任期を定めて任用された弁護士といったケースも例外的にあるようです。

失職中の私が国税局査察部の取調べの途中で得た仕事の内定は、私の刑事告発により取り消されました。内定取り消しを通知したメールには、刑事告発が取り消しの原因であることが明記されています。そして信用が第一の金融業界で刑事被告人を雇うところがあるはずもなく、この5年以上に亘るブランクにより、私の業界復帰のチャンスは完全に潰えたものです。そうした被害の因果関係が明らかであるにも関わらず、準備書面においては、その評価は言及すらされていません。

そして、国賠審で原告の主張が認められるには、相当高いハードルが設定されていることが滔々と説明されています。

私のケースを交通事故に例え、私は車に轢かれて大けがをしたとします。普通の感覚であれば、運転者が安全運転をしていようが、そのけがに対する補償をする義務があるように感じます。安全運転をしていれば、運転者が刑事罰に問われることはないにしても、民事補償は生じると思われます。

ところが国賠審では、運転者が違法行為を伴わなければ(言ってみれば、わざと轢こうとしたという立証がされなければ)全くお咎めなしというもののようです。

普通に怪しいと思って、普通に取り調べて、普通に告発・起訴したんだから、それが結果無罪になって間違いであったことが分かったとしても、そんなこと知っちゃこったないというのが準備書面における国の主張のエッセンスです。

それを覆すハードルは、通常であれば相当高いものです。対して、私のケースは勿論、彼らの捜査が「普通ではなかった」「無実の人間を罪に陥れようとした」というところがポイントです。

そして、証拠を正しく評価すれば誰の目にも明らかなものを、「告発ありき」「起訴ありき」と暴走した言い訳として「我々は真実を見抜けない程無能でした」と言っているに等しい主張を認めるかどうかという問題です。私がこれまで何度も言ってきたように、日本の捜査権力は無能ではありません。彼らは誰よりも(もしかすると私以上に)事実を把握・理解しています。

クロっぽい証拠だけを裁判に提出しても裁判官がシロと判断したものを、同程度の知能・判断力を持った彼ら捜査権力が、膨大なそのほかの証拠を評価して「クロだと思ったはず」という方がどうかしています。

結局、裁判所がこの国賠審で何を得たいかということが、この国賠審で出される判決の意味するところだということを、我々は理解しなければならないと思います(ちょっと哲学的な領域ですが)。

次回のブログでは、もう少し具体的な内容に踏み込みたいと思いますが、この準備書面における主張で、一番情けないと思ったことは、検察の起訴の基準に関してです。

日本の刑事裁判における有罪率が99.9%を越えることは広く知られた事実ですが(知られてないかな?)、どうしてそうしたことが起こり得るのかの一番大きな理由は、検察の起訴の基準が裁判官の有罪の基準よりも高いためだと思われます。なぜそうするかに関して、私はその意図するところは二つあると考えています。

一つは、高い有罪率が検察の優秀さを示す一番説得力あるものとして、有罪が取れない可能性があれば、それを全て不起訴にするからだというものです。それは「起訴便宜主義」と呼ばれるもので、検察は恣意的に起訴の基準を決めることが許されています。

そしてもう一つは更に重要なものですが、「検察が起訴をする場合には、厳しいスクリーニングを経て、有罪確実なものだけを起訴している」というイメージを裁判官に与えるという効果です。そしてそれにより検察が期待するところは、有罪・無罪が微妙かつ検察がどうしても起訴したいケースで、有罪を得る可能性を高めたいというものです。

準備書面での主張を引用します。

「公訴の提起において検察官に要求される犯罪の嫌疑の程度は、裁判官が有罪と認定するために要求される合理的な疑いをいれない程度の確信よりも低いもので足りる」

実務と自分たちが言い逃れをする場合の、ダブル・スタンダードがそこにあることは明らかです。

その主張は建前としては真っ当であるとも言えますが、それは是非とも裁判官やメディア関係者に周知徹底してほしいコンセプトです。このことが世の中に正しく理解されれば、推定無罪原則も人々に浸透すると思います。国民の刑事司法リテラシーを高めるためにも、今後は法務省を挙げて、「検察が起訴をしたからといって、裁判官よりもゆるい基準で起訴をしている以上、それは必ずしも裁判で有罪になることを期待されるべきではない」と喧伝してほしいものです。

10/16/2014










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category: 国家賠償請求訴訟

2014/10/16 Thu. 01:15 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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