「蟷螂の斧となろうとも」 by 元外資系証券マン

クレディ・スイス証券集団申告漏れ事件(http://goo.gl/v0xQYP)において、国税局査察部告発、検察特捜部起訴の事案で史上初の無罪判決。 著書『勝率ゼロへの挑戦 史上初の無罪はいかにして生まれたか』(光文社)。 ツイッター(@thatta0529)で「#検察なう」の情報発信を続けます。

07« 2017 / 08 »09
1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.

#検察なう (434) 「森炎氏著『教養としての冤罪論』解題(4)~冤罪ライン③ 「毒殺のアポリア」」 11/24/2014 

#検察なう (434) 「森炎氏著『教養としての冤罪論』解題(4)~冤罪ライン③ 「毒殺のアポリア」」 11/24/2014

一般に、毒殺事件は殺人事件の中でも、特に冤罪率が高いと言われています。「アポリア」(ギリシア語の「行き詰まり」「困惑」)は、哲学的難題または問題の中の一見解明できそうにない行き詰まりのことで、もっともらしいが実は矛盾している前提の結果として生じることが多いことを言います。

以下、(一部抜粋しつつ)引用します。

「一般的に毒殺事件に冤罪率が高いのは、それが特殊な証明論的構造を持っているからである。毒殺事件では、もともと、科学的には、事故と事件の区別はつけられない。

死体の司法解剖や薬学的理学的鑑定によって判明するのは、毒物を摂取したかどうか、それがどのような種類の毒物かということだけである。死亡が犯罪によるものかどうかは判別できない。その限りでは、科学的証拠も意味をなさない(なお、物理力の行使を伴う殺人の場合は、事故死か他殺か法医学鑑定で判明することも多い。たとえば、首吊り自殺かそれを装った絞殺かは法医学鑑定で判定し得る)。

次に、毒殺事件では、直接証拠が得にくい。それはなぜかと言えば、毒殺事件は、他の殺人事件と比べて、密かに秘密裏におこなわれるからである。陰に隠れて密かに毒を盛り、被害者が死亡した時には、もうその場から去っているというのが常である。そのため、犯行の直接的目撃者がいることはまずない。

物的痕跡も残りにくい。通常の殺人事件では、殺害のために物理力の行使や身体的接触を要するが、毒殺ではこれらなしで済ませることができる。それが毒殺の「利点」でもある。そのため、現場指紋や体組織DNAが残っていることも期待できない。つまりは、これらの最も重要な科学的証拠が得られない。

結局、状況証拠で判断するか、さもなくば、自白に頼ることになり、いずれにしても誤りを生みやすい。とくに後者の場合は、弊害が顕著である。」

この章で、森氏は、「状況証拠による立証」に関して、非常に重要な指摘をしています。それが「『中心証拠』及び『逆真証拠』の存在が必要とされる」というものです。

まず「中心証拠」に関して。

「状況証拠と言えば、決まり文句のように「状況証拠の積み重ねによる立証」などと言われる。どこか地道に懸命に努力したようなニュアンスの言い方であるが、その言説は、亡霊のような曖昧さと怖さを宿すアフォリズムでもある。

状況証拠は、もともと曖昧で弱い証拠であるから、いくつも積み重ねることが必要なのは、当然である。問題は、曖昧で弱い証拠の単なる寄せ集めで、いわば「塵も積もれば山となる」で有罪になるのかということである。実体があるかどうか定かでない亡霊のごとき曖昧な証拠にまとわりつかれて、いつしか有罪とされてしまうとすれば、そして、それで死刑にされることもあるとすれば、他人ごとでは済まされない。

積み重ねによる立証が出来たと言えるためには、まず核(中心)になる証拠がなければならない。この場合の積み重ねとは、単なる集積ではなく、中心証拠を起点にして他の状況証拠を有機的に積み重ね、全体立証を構成していくことを言う。

中心証拠がない事件は、所詮は、高度の冤罪性を免れない。だから状況証拠に関して重要なのは、「積み重ね」を可能にする中心証拠とは何なのか、それが明かされることである。」

状況証拠によっての立証を余儀なくされることが多い毒殺事件において、森氏が考える中心証拠の典型的なものとして、同一毒物の所持がその中心証拠となることが多いことを指摘しています。

「毒殺事件では、通常、用いられた毒物(と同じ成分のもの)を容疑者が所持していることが重要な物証になる。死体の司法解剖と薬学的理学的鑑定によって確定されたところと同じ毒物を所持しているかどうかである。もし、押収時に所持していない場合には、過去の入手歴を調べることになる。容疑者側の証拠隠滅工作によって押収できないことも考慮しなければならないが、最低限近い過去における入手の事実は確かめられることを要する。

毒物を所持していなければ、その者による犯行の現実的可能性が認められないのであるから、これは理屈上の当然のことである。

他方、毒物を所有している場合には、その毒物が特殊なものであればあるほど(水銀、鉛毒、ヒ素、青酸化合物、サリン・・・・)、犯人像との一致が明確になり、証拠としての重要性が増す。

結局、同一毒物の所持こそが、「状況証拠の積み重ね」を可能とする中心証拠となる。直接証拠や科学的証拠が期待できない毒殺事件の場合、それは必須条件と言ってもよい。」

同一毒物の所持という「中心証拠」が欠落した事件の例として、森氏は帝銀事件を挙げ、説明を加えています。

毒物の所持が確かめられたとしても、それが農薬や練炭などのありふれた物だったらどうでしょうか。その場合、森氏は、「逆真証拠」の存在が必要とされるとしています。

「名張毒ぶどう酒事件は、毒物の所有は一応確かめられていたが、対象物は農薬だった。木嶋裁判(婚活連続殺人事件)では、中毒死に用いられたとされたのは練炭だった。農家から農薬を押収し、あるいは一般家庭から練炭とコンロを押収して、「殺人の動かぬ物的証拠」と言うとすれば、それは半ば以上滑稽である。

厳密に言えば、中心証拠としての「毒物の所持」とは、容疑の範囲を「同種の毒物の所持者」という一定の人的集合に絞り込むものである。

ここではその集合の大きさが厳密にはわからないのだから(もしかしたら、それは巨大かもしれない)、逆方向の証拠が必要となる。つまり、「それ以外の者に犯行機会がない」(あるいは「その者が犯人でないとすれば説明がつかない」)ことが示される必要がある。

いわば「逆真」証拠(「逆もまた真なり」に関する証拠)が必要となる。

具体的な事件で見ていくとどうなるか。

前出の名張毒ぶどう酒事件では、毒物(農薬)の所持は、一応は確かめられていた。容疑者の元からは農薬自体は押収されなかったが、過去の近い時点において農薬を購入していた事実は明らかになっていた。しかし、他にも同一の農薬を所持していた人は地域農村には少なからずいたから、それだけでは極めて不十分だった。

そのため逆真証拠があるかどうかが問題になった。つまり、「他者に犯行動機がない」と言えるか、その証拠があるかどうかが検討されたが、無罪判決を言い渡した一審判決は、それを示す証拠はないとした(別の住人にも犯行の機会があったということ)。

他方、死刑判決を言い渡した二審は、関係者の証言から、問題のワインへの毒物混入機会は、被告人が公民館で一人になった約10分間のほかには考えがたいとした。他者の犯行機会は乏しいと判断したのである。

この事件については、これら以外にも、多々論点があった(歯で開けたとされるワインの瓶の王冠の歯型の鑑定結果、犯行時間の限定方法など)。また、再審段階では、そもそも、被告人が所持していた農薬とワインに混入された農薬がちがうのではないかとの懸念も出されている。ここで述べたのは、それらを捨象した、名張毒ぶどう酒事件の証明論的な基本構造である。」

教養としての冤罪論

11/24/2014













ここをクリック→ Amazon 『勝率ゼロへの挑戦 史上初の無罪はいかにして生まれたか』 カスタマーレビュー


表紙1




ここをクリック→ Wikipedia クレディ・スイス証券集団申告漏れ事件

ここをクリック→ 八田隆ツイッタ―

ここをクリック→ #検察なう 刑事司法の矛盾、冤罪と戦う八田隆と全ての人を支援する会






TwitterやFacebookでの拡散お願いします。

category: 冤罪事件に関して

2014/11/24 Mon. 00:21 [edit]   TB: 0 | CM: 0

go page top

この記事に対するコメント

go page top

コメントの投稿

Secret

go page top

トラックバック

トラックバックURL
→http://fugathegameplayer.blog51.fc2.com/tb.php/785-6fd8a414
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

go page top