「蟷螂の斧となろうとも」 by 元外資系証券マン

クレディ・スイス証券集団申告漏れ事件(http://goo.gl/v0xQYP)において、国税局査察部告発、検察特捜部起訴の事案で史上初の無罪判決。 著書『勝率ゼロへの挑戦 史上初の無罪はいかにして生まれたか』(光文社)。 ツイッター(@thatta0529)で「#検察なう」の情報発信を続けます。

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#検察なう (435) 「森炎氏著『教養としての冤罪論』解題(5) ~冤罪ライン④ 「DNA鑑定は信頼できるか」」 12/1/2014  

#検察なう (435) 「森炎氏著『教養としての冤罪論』解題(5) ~冤罪ライン④ 「DNA鑑定は信頼できるか」」 12/1/2014

DNA(型)鑑定は、科学捜査の手法として今日では一般的になっています。犯罪の立証には、「誰が、いつ、どこで、誰に対して、どのような行為をしたのか」ということを証拠で裏付ける必要がありますが、DNA鑑定により、「誰が」「どこで」という「現場存在証明」が可能となります。また採取された体組織の状態から、ある程度「いつ」ということの絞り込みも可能です。

このDNA鑑定はアメリカにおいては、非営利活動機関「イノセンス・プロジェクト」(注1)によって活用され、数多くの冤罪証明に役立っています。

しかし、我が国においてDNA鑑定が「無罪立証」のためにアメリカほどダイナミックに活用されてはいないようです。それは捜査機関と弁護側の圧倒的な経済格差、証拠収集力の差によるものと思われます。

森氏は「DNA鑑定の高度専門性」と題して、DNA鑑定が「有罪立証」に用いられる危険性の一端を示しています。

(以下、抜粋引用)
「現在は、DNA鑑定はかつてのような間違いはないと言われている。しかし、実際に鑑定に当たるごく一握りの専門家以外にそれを確かめ得る者はいない。「専門家鑑定の批判的検討」の必要性が言われることがあるが、DNA鑑定ほど、その言葉がむなしく響く場面はない。

現実には、われわれは、細胞核DNAの「二重らせん構造」を追体験することもできなければ、塩基対を分離するための電気泳動法を追試することもできない。最終的には、電気泳動法による塩基配列の繰り返し回数はコンピューターで読み取られているが、そのコンピューター・プログラムを検証することもできない。ここでは、専門家システムによる高度の社会的分業を認めるしかない。現実的には、そうするほかない。

しかし、他方では、裁判史を見ればわかるように、われわれは、DNA鑑定を絶対視することなどできない。裁く者は、鑑定が間違っているリスク(抽象的可能性)を常に念頭に置きながら、それでも鑑定を前提にせざるを得ないのである。結局、証拠としてのDNA鑑定には、そのような宿命的アンビバレンツがある。」

ここで「裁判史を見れば」という例として、超ド級冤罪で有名な足利事件と、隠れた超ド級冤罪の飯塚事件(注2)を森氏は挙げています。

そして、この指摘はDNA鑑定だけではなく、全ての科学捜査に当てはまることです。その例として著名事件で思い出されるのは和歌山毒物カレー事件です。林眞須美死刑囚の有罪立証の決定的証拠とされたのは、自宅から押収されたヒ素とカレーに混入されたヒ素が同一のものであったという科学鑑定でしたが、今日ではそれが否定されています(注3)。

また森氏は「DNA証拠限界」と題し、DNA鑑定は「閉鎖空間性や接触制限性が、その効力の前提となる」と論じます。被害者が不特定多数の人間と身体的接触を有し、現場が閉鎖空間ではなく、半開放空間である場合にはDNA鑑定が本来の効果を発揮しえない例として東電OL殺害事件を例に挙げています。

一審無罪判決を覆した控訴審での有罪の証拠とされたものの一つに、殺害現場に残されたコンドーム内に残留していた精液のDNA型が冤罪被害者のゴビンダ氏のものと一致したということがあります。これはDNA鑑定が「現場存在証明」として「誰が」「どこに」という有力な証拠となり得ながら、「いつ」という時間の絞りこみには不完全であることを示しています。

森氏は東電OL殺害事件の冤罪証明に、当時の鑑定技術では困難であった微量の体液のDNA鑑定が功を奏したと述べていますが、それは東電OL殺害事件の冤罪の原因を見誤ったものです。事件当時から、捜査当局はゴビンダ氏が犯人ではないと分かった上で、悪質な証拠隠しを行っていました。冤罪が晴れる契機となったのは「(血液型鑑定の)証拠の開示」です。ゴビンダ氏以外の犯人の存在を証明したとされるDNA鑑定はあくまでダメ押しであり、証拠隠しを隠蔽する捜査当局のメディア操作を森氏は(意図的でないのであれば)見落としています(注4)。

この章の最後では、森氏は「飛翔する市民裁判」と題し、科学捜査に対する市民による評価が、職業裁判官の常識を覆すこともあり得ることを論じています。先のDNA証拠限界により、「疑わしきは罰せず」と無罪判定となった例として、鹿児島高齢者夫婦強盗殺人事件(2009年)を挙げています。

この事件では、裁判員裁判として初の死刑求刑事件の無罪判決が出されました。その無罪判決の報道を私も驚きを持って接したことを覚えています。

この事件は高齢者夫婦が自宅で顔面をスコップで多数回(合計100回以上)殴りつけられて殺されていた事件で、犯人として起訴されたのは当時70歳の男性でした。

起訴された男性は被害者と面識がなく、一貫して犯行を否認していましたが、有罪立証の証拠とされたのは、侵入口と見られた網戸から体組織片が検出され、DNA鑑定の結果、被告人のDNA型と一致したことです。また、物色された部屋の整理ダンスの引き出しなど数か所から、被告人の指紋も検出されました。

しかし、裁判員裁判の結論は無罪。それは二重犯罪の可能性を認めたからです。殺害行為の様態から怨恨を思わせ、70歳の被告人では体力的にも無理があって、犯人像が合っていないとしました。また、殺害に用いられたスコップからは被告人の指紋や体組織片は発見されなかったことから、殺人に関する限り、被告人の関与は証明されていないと判じられました。

結局、被告人は、現に殺人が行われたのと近接した時間帯に現場に侵入し、物色行為もしていましたが、それとは異なる時刻において、別人によって殺人が行われた可能性があるということです。

森氏は述べます。
「この裁判員裁判の判断は、これまでの職業裁判官制度では、考えられない判決内容と言えるだろう。鹿児島の裁判員裁判は、まさに、これまでの治安維持の重しを突き破り、市民の新しい考え方を示したものと言える。」

元判事の森氏が、市民感覚=「疑わしきは罰せず」による無罪と、治安維持的考慮を対比していることは非常に重要な点だと私は読み解きました。

(注1)
ここをクリック→ #検察なう (146) 「イノセンス・プロジェクト」

(注2)
ここをクリック→ 冤罪ファイル その3 「飯塚事件」

(注3)
ここをクリック→ 冤罪ファイル その10 「和歌山毒物カレー事件」

(注4)
ここをクリック→ #検察なう (294) 「犯人血液型当てクイズ」

教養としての冤罪論

12/1/2014











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category: 冤罪事件に関して

2014/12/01 Mon. 00:32 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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