「蟷螂の斧となろうとも」 by 元外資系証券マン

クレディ・スイス証券集団申告漏れ事件(http://goo.gl/v0xQYP)において、国税局査察部告発、検察特捜部起訴の事案で史上初の無罪判決。 著書『勝率ゼロへの挑戦 史上初の無罪はいかにして生まれたか』(光文社)。 ツイッター(@thatta0529)で「#検察なう」の情報発信を続けます。

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#検察なう (449) 「森炎氏著『教養としての冤罪論』解題 (7) ~冤罪ライン⑥ 「犯人の知人・友人が共犯者とされるとき」」 2/12/2015 

#検察なう (449) 「森炎氏著『教養としての冤罪論』解題 (7) ~冤罪ライン⑥ 「犯人の知人・友人が共犯者とされるとき」」 2/12/2015

『教養としての冤罪論』のこの章では、「犯人の知人・友人が共犯者とされるとき」と題して、先に逮捕された犯人の供述により犯人の知人・友人が共犯者とされる場合の冤罪リスクを論じています。

ここでの問題は、犯人がいて、その犯行があり、それらを前提としたうえで、外側にいる無実の者が、そこに引きずり込まれる危険性です。捜査側から見れば、真犯人自身は捕捉でき、事件自体も一応は解明できたのですが、プラスαとして共犯者がいるかどうかという場面です。

どうして犯人による共犯者に関する供述が危険かといえば、それが目撃証言の一つとして扱われるためです。「〇〇と一緒に犯行を行った」という供述は、たとえ「(嘘の)自白」であってもその供述の性格は自白ではなく、目撃証言とみなされます。

森氏は以下のように述べます。

「結局、供述(=「供述証拠」)の法的性質としては、目撃証言と同じ扱いになる。供述の動機や意図あるいは真意は別にして、性質論としてはそうならざるを得ない。

つまり、共犯者とは、一部始終を見ている目撃者である。また、犯人を間近で見ている目撃者である。かつまた、一見の目撃とは異なり、見間違いなど考えられない目撃者である。」

勿論、共犯者は特別な利害関係を持っています。しかし、それだけでは目撃証言者たることの妨げにはならない、ということです。

そうした共犯供述の問題性は、実質的に見れば、その供述の動機、意図、真意には不純なものが大いに疑われるのに、立証すべき「誰が、いつ、どこで、誰に対して、どのような行為をしたのか」の全てが直接立証されたことになってしまう点にあります。

虚偽の共犯供述の動機には、以下のようなものが考えられます。

①  罪の軽減を図るために、主犯を仕立てる(このタイプの不純動機は、捜査側が複数犯説を取っている場合に、とりわけ問題となります。捜査側の思惑と結びついて、共犯冤罪危険を高めることになります)。
②  親族などの真の共犯者をかばうために、別の他人を共犯者に仕立てる
③  恨みをもった者に濡れ衣を着せる

このような共犯供述による冤罪パターンとして、森氏は八海事件(1951年)と梅田事件(1950‐51年)を挙げます。そして森氏は、真犯人が不純な動機をもって「〇〇も現場にいて一緒に犯行を行った」とする共犯供述によって冤罪が生み出されるパターンを「古典的共犯冤罪性」と名付けています。

それらは、DNA鑑定などの科学捜査時代への過渡期に起こった事件で、犯罪立証を関係者の供述に頼らざるを得なかった時代であったために共犯冤罪が生じたものです。

そして現代における共犯冤罪の重点は、別のところにあると森氏は指摘します。現代的共犯冤罪は、「共謀共同正犯」という「先進諸外国にはない日本特有の法理」にあるとするものです。

「共謀共同正犯」というのは、我々一般人にはなじみの薄い言葉で、私もこの本を読んで初めて意識した法律用語でした。森氏の解説を引用します。

「数人で犯行を一緒におこなうことを共同正犯と言うが、犯行を一緒におこなったと言えるためには、共謀(共同謀議)が必要である(単なる同時犯との区別のため)。そして、それこそが共同正犯の本質とされる。数人の者が共謀し、全員で一緒に殺人を実行した場合は、もちろん共同正犯であるが(実行共同正犯)、数人の者が共謀し、そのうちの一部の者が殺人を実行したにすぎない場合でも、共謀がある以上、共同正犯となる(共謀共同正犯)。つまり共謀に加担しただけの者も殺人罪に問われるし、殺人を実行しなくとも、結局は殺人犯そのもの(=正犯)になる。そして、その共謀において主導的役割を果たしたと見られれば、犯行を少しも分担実行していなくとも主犯とされる。共謀こそが、この場合の本質だからである。

その趣旨は、自分では手を下さずに、背後で実行者を操る者に厳罰を加えることにある。一言で言えば、黒幕を重罰に処するためである。」

先に述べたように、この「共謀共同正犯」という考え方は、先進諸外国にはない特殊なもので、諸外国では、共謀共同正犯に相当する共謀者は、教唆犯または幇助犯とされ、あくまで実行犯とは区別されます。その結果、共犯者=主犯という構図にはなりにくいものです。対して日本では、犯行を少しも分担していない共謀者について、その刑が、死刑までの青天井となることが特色です。

この共謀共同正犯という考え方が、共犯冤罪に暗い影を落としたケースとして、本書では「富山・長野連続女性誘拐殺人事件」が紹介されています。その事件は次のようなものでした(注)。

1980年、富山県と長野県にまたがる連続女性誘拐殺人事件が起きました。

まず、富山で女子高生が外出して戻らず、家に女の声で「娘さんを預かっている。相談したい」という電話がありました。しかしその後は連絡がなく、女子高生の消息も途絶えました。

10日後、今度は、長野で信用金庫の女子職員が勤め先から戻らず、自宅に女の声で身代金3000万円を要求する電話があり、家族が受け渡し場所に赴いたものの、犯人は現れず、こちらもそれっきりになりました。

その後、行方不明となった二人の女性は、絞殺死体となって見つかりました。

この二つの事件のそれぞれの行方不明地点付近で「赤いフェアレディZに乗ったトンボメガネの女」が目撃されていました。警察の捜査ですぐにギフトショップを経営する30代の容疑者の女が浮上し、その女の声紋と身代金交渉の電話の声紋が一致したことなどから逮捕に至りました。

動機は、ギフトショップが経営難に陥り、サラ金に手を出して数千万円の借金を負っていたことです。そして、返すあてのないローンをしてフェアレディZを購入し、誘拐で大金を得ることを考え、実行に至ったとされます。

その女には、死刑判決が下り、控訴、上告いずれも棄却され、1998年死刑が確定しました(女性死刑囚としては連合赤軍事件の永田洋子以来、戦後7人目)。

この事件では、共犯者とされた男性がいました。犯人の女と愛人関係にあった20代の男性で、ギフトショップの共同経営者でした。最初の富山の事件では、男性に関する目撃証言がありました。地元のレストラン従業員によれば、店内で、犯人の女と被害者と思しき若い女性、それに、この男性が一緒にいるところを目撃したとされます。

二番目の長野の事件では、この男性は、足掛け6日間、犯人の女と行動を共にしていました。女が殺害現場の下見をしたときには車の運転をし、女が人質の家族に身代金要求の電話をかけたときには傍らにおり、指定した身代金受け渡し場所にも女と一緒に向かっていました。そして、警察官の気配に気づいて女とともにそこから逃げ出していました。

検察は、この20代の男性を共犯として起訴しました。しかも、「男が犯行を主導し、女がこれに従った」として男性を主犯と断じました。富山・長野の両事件とも、肝心の殺害行為をおこなったのは男性の方であるとしました。これらは、女の供述に依拠したものでした。

裁判では、この男性は冤罪を訴えました。「事件は女の単独犯で、自分は全くあずかり知らない」と申し立てました。

裁判の審理が進むにつれて、次のような意外な事実が明らかになっていきました。

二人の男女関係は常に女の主導で、男性はすでに家庭があるにもかかわらず半同棲生活に引きずり込まれるなど、年下の男性が年上の女にいいように振り回されている構図が浮かび上がりました。それとともに、最初の富山の事件の殺害時には自宅にいたこと、二番目の長野の事件の殺害時にはホテルでテレビを見ていたことが判明しました。

これらの事実が明白になったため、男性が殺害行為を実行したとは言いがたくなりました。検察の構図は崩れたのです。

しかし、それでも、検察は「男性が共犯として責任を負うことは何ら変わりがない」としました。なぜか。それは、たとえ誘拐、身代金要求、殺害、死体遺棄などの行為を全部、女がおこなったとしても、男性は共謀共同正犯として、これらのすべての刑事責任を免れないと検察は主張したからです。

以上の経過のうち、男性が共犯者として殺人を実行したという嫌疑を受け、しかし、アリバイによってそれが違うことが判明するまでは、共犯の古典的冤罪性の範疇です。しかし、それで冤罪という結論にはならずに、続きがあるところで現代的冤罪性に切り替わるものです。検察が「共謀した以上は、依然、共犯である」として、なおも罪に落とそうとするところに、それが見て取れます。

結局、判決は一審無罪。検察はそれでも引き下がらず、あくまで件の男性は共謀共同正犯だとして争いました。二審でも男性無罪の結論は変わりませんでしたが、この事件の経緯は、共謀共同正犯という考え方の微妙さ、つまりは現代的共犯冤罪性を露わにしています。

森氏は次のように述べます。

「共謀共同正犯では、犯行を少しも分担しなくとも、共謀に加担すれば罪に問われる。その結果、必然的に次のようなことにならざるを得ない。

共犯の嫌疑をかけられた者は、「自分は全然手を下していない」と主張し、たとえ、それを立証したとしても、罪を免れない。また、犯行時間帯のアリバイを立証したとしても無効である。ここでは、共謀のみが問題だからである。

客観的証拠も必ずしも要求されない。「共謀」の有無は、言葉の問題であり、その立証に客観的証拠を求めること自体が無理だからである。

逆に言えば、冤罪の証を立てることはそれだけ難しくなる。共謀共同正犯という考え方自体に冤罪性が含まれているとも言える。まさに、現代的共犯冤罪性は、共謀共同正犯という特殊法理と表裏一体である。」

要するに、関係者の間に共謀があったかどうかという事柄は、外部からは曖昧模糊としていて、最終的には裁く者の評価に大きく依存せざるを得ないものです。そこでは、単に共犯者の供述するところではなく、言うような共謀の客観的な素地があるかどうかを確かめる必要があります。人間関係がどうであったかという、刑事裁判らしからぬ社会的な見方が求められ、裁判員裁判において市民感覚が発揮されるべきシチュエーションではないでしょうか。

(注)
富山・長野連続女性誘拐殺人事件の詳細はこのサイトに紹介されています。
ここをクリック→ 宮崎知子の生い立ち [富山・長野連続女性誘拐殺人事件]

教養としての冤罪論

P.S.
3月7日、愛知県弁護士会の主催で、「『新時代の刑事司法』は?」と題して元特捜検事前田恒彦氏と名古屋でパネルディスカッションをします。お近くの方は是非お越し下さい。

ここをクリック→ 愛知県弁護士会「取調べの可視化市民集会」

2/12/2015














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category: 冤罪事件に関して

2015/02/12 Thu. 00:01 [edit]   TB: 0 | CM: 1

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この記事に対するコメント

去年の法制審議会で司法取引が盛り込まれましたので、巻き込まれ型の冤罪事件は今後増えていく様に思えます。

検察は特に政治案件に興味が有りますから、嫌疑をかけている政治家周辺で何かありそうな人間を任意取調べで引っ張って、司法取引での軽減をちらつかせて本命の標的についての不利な証言を取る、程度の事は軽くやりそうです。

Tri #6Aros7K. | URL | 2015/02/12 Thu. 05:44 * edit *

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