「蟷螂の斧となろうとも」 by 元外資系証券マン

クレディ・スイス証券集団申告漏れ事件(http://goo.gl/v0xQYP)において、国税局査察部告発、検察特捜部起訴の事案で史上初の無罪判決。 著書『勝率ゼロへの挑戦 史上初の無罪はいかにして生まれたか』(光文社)。 ツイッター(@thatta0529)で「#検察なう」の情報発信を続けます。

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「死刑制度について考える (12) ~冤罪問題で死刑を廃止するか」 

「死刑制度について考える (12) ~冤罪問題で死刑を廃止するか」

冤罪死刑は「絶対悪」であり、いかなる殺人の被害よりも峻烈です。それは理由もなく命を奪われるだけではなく、犯罪者としての汚名を着せられ、人間的尊厳まで奪われるからです。

死刑廃止論の理由として冤罪の可能性が挙げられることはよくあります。私は自らの経験から、冤罪は偶発的なものではなく、その発生は構造的な要因により起こり、世の中の人が認識しているよりはるかに多くの冤罪が今日もなお生み出されていることを理解しています。

しかしながら、冤罪の問題が死刑廃止論に直結することには違和感を覚えます。冤罪を防ぐ努力を全くしていない状況で(注)、冤罪を理由に死刑制度の廃止を論じることに、論理の飛躍、ねじれを感じていたからです。それは冤罪を防ぐ努力を最初から放棄しているという印象です。

勿論、絶対悪である冤罪死刑を防ぐために、冤罪をなくす努力では、既に冤罪で死刑判決が確定している死刑囚を救えないということは理解します。そのため、私は冤罪の可能性を理由にした死刑の即時執行停止は全面的に支持しますが、それと制度としての死刑を廃止するということとは次元が違うと思っています。

具体的には、アメリカオレゴン州、ワシントン州は死刑存置州ですが、州知事により公式に死刑執行が停止されています。両州では、今後、制度の存廃を議論することになると思われますが、私が現時点志向しているのはそうした方向性です。

最近、手に取った文献にこの問題を論じたものがあり、個人的には腑に落ちたので引用します。

森炎氏著『死刑肯定論』(ちくま新書)より

死刑肯定論

(以下引用)
「冤罪で死刑」という事態は、無条件でわれわれに衝撃を与える。無実の罪で死刑にされるのが絶対的不正義であることは、何人も否定しようがない。しかし、それが絶対的不正義であるとしても、結論として死刑廃止につながるというのは、はたして絶対的かどうか。

死刑冤罪という不正義を避けるためには死刑廃止がどうしても必要であるというのは、制度の直接存在を形式論理的に把握する場合の立論である。人間の現実存在のありようと意志的秩序の次元において死刑制度や裁判制度を考えるならば、必ずしもそうはならないかもしれない。その意味で、冤罪問題を根拠とする死刑廃止論は一面的である。

冤罪主根拠廃止論は、死刑冤罪防止と死刑制度廃止、その二つの事柄の必然性を自然法則としての因果性(「あれなければ、これなし」)に負っている。両者の間には、自然科学的な意味での因果関係は、たしかに否定できない。しかし、もともと、裁判制度や死刑制度が対象としているのは、「責任」「自由」「良心」「償い」等々の規範的世界の諸事情である。なぜ、ここで、自然科学的な発想が急に出てこなければいけないのか、十分に理解できない。言ってみれば、冤罪主根拠廃止論の言う「必然性」の主張には、必然性がない。規範的世界では、別の関係が成り立つかもしれない。

アナロジーを用いて、もっと具体的に言えば、次のようなことである。

正当ならざる死を帰結する社会制度は、航空機、鉄道の運行、自動車の使用等、決して少なくない。航空機や鉄道の運行、自動車の使用が常態化した現代社会では、それによって、必ず統計的に一定数の死者を生ずる。が、それでも、われわれの社会は、航空機や鉄道の運行をやめたり、自動車の製造・使用を禁止することはない。それはどうしてなのか。

「利便性のためには、多少の死者を出すことはやむを得ない」では、理由にならないだろう。むしろ、単なる利便性のために死者を出すことは、現代社会においても絶対に認められないはずである。われわれの社会は、単なる利便性のために死者を出すことは認められないはずなのに、当の制度を続けている。この場合、逆に、制度の直接存在からは、その事態を正当化することはできない。

この種の社会制度にあっては、「利便性ために死者を出すことは認められない。したがって、それを極小化すべく努力しなければならない。他方では、それがゼロとなることはないとしても制度として続行する」という考えが紛れもなく、まともなはずであるが、それが正当化されるのは、ただ物事の根拠を事実的な因果の系で問い詰めるのではなく、意志による秩序の意味として探る場合である。人類史における交通手段の発達の意義、文明や文化の展開過程と高速度交通の関係、現代社会における市民の日常生活の形態変化、個人の幸福追求や精神的自由度への寄与、あるいは人為的事故に対する人間社会の現実的倫理などの考察を抜きには考えられない。

死刑と航空機事故の類を同列に論じるわけにはいかないが、結局、死刑冤罪について、事実の因果性として「いくら努力してもゼロとなることはないのだから、それを絶つためには制度自体を廃止するほかない」と言うべきなのか。それとも、意志的な可想的秩序として「冤罪で死刑にすることは絶対に認められない。したがって、それを極小化すべく努力しなければならない。他方では、それがゼロになることはないとしても裁判制度として続行せざるを得ない」と言うべきか。それが問題である。死刑制度賛成85.6%というのは、後者の行き方を社会が選んでいるということではないのか。それが現在の日本の法的確信にほかならないとも見られる。

その法的確信は、「冤罪があってもよい(ないしは、やむを得ない)」というのではなくて、「冤罪で死刑にすることは絶対に認められない」「しかし、それがゼロとなることを目指す極小化努力の中でならば、死刑制度は制度として続行することが許される」という確信だろう。
(引用以上)

核心部分では全面的に首肯できるものの、その「法的確信」の正当性を死刑制度の支持率に求めているところは、少し議論を急いた感じがします。それは日本の国民の多くが、法務官僚の思惑により、死刑制度が何であるかということを知らされず、議論の根拠となる事実認識が決定的に欠如している「雰囲気論」に支配されていると感じるからです。

裁判員制度がある以上、我々国民の一人一人が人を裁き、死刑を宣告する立場に置かれる可能性があります。雰囲気に流されるのではなく、真摯な態度で死刑制度を考察する必要があると考えます。

(注)
ここをクリック→ #検察なう (364) 「なぜ冤罪はなくならないか」












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category: 死刑制度について考える

2015/05/04 Mon. 00:01 [edit]   TB: 0 | CM: 1

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この記事に対するコメント

ちょっと酷すぎる

だったら冤罪死刑が起きたとき遺族や支援者の憂さを晴らせる生贄としてあなたのような連中の命を登録して殺せばいいんじゃないでしょうか。
話の初めから滅茶苦茶すぎて失笑してしまいました。

冤罪の意味を理解しない馬鹿を嫌う人間 #uaCDpVoY | URL | 2016/10/04 Tue. 15:28 * edit *

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