「蟷螂の斧となろうとも」 by 元外資系証券マン

クレディ・スイス証券集団申告漏れ事件(http://goo.gl/v0xQYP)において、国税局査察部告発、検察特捜部起訴の事案で史上初の無罪判決。 著書『勝率ゼロへの挑戦 史上初の無罪はいかにして生まれたか』(光文社)。 ツイッター(@thatta0529)で「#検察なう」の情報発信を続けます。

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#検察なう (75) 「高知白バイ事件で思うこと」 12/18/2011 

#検察なう (75) 「高知白バイ事件で思うこと」12/18/2011

本題に入る前に。

Twitterで私をフォローされている方から、以下のようなコメントを頂きました。

「ブログ読ませていただきました。黒地白文字の頃から思ってましたが、CSに明らかな落ち度が有ると思います。源泉徴収か確定申告の指導を、コンプライアンスの観点だけではなく、社に功績が有った社員への報酬が真の意味で感謝のリワードになるように徹底しないと本末転倒。」

「ただ、八田さんが、CSと同じ認識の誤りをしていると感じる点があります。今回『個人の脱税という余り社会的に意義も高くない事案』と書かれていますが、それは金額の多寡で一般的な受け止め方が違ってきます。このケースは、所得の低い方の生涯賃金を上回っています。」

「そのレベルの額を社会的に意義が無いと言ってしまっては、八田さんの行為に犯罪性は無いと思う方も、眉を顰めてしまう。CSの行動の根底には、いわゆる金銭感覚の麻痺の様な遵法意識の低さが有ったはずです。 長くなりましたが、これからも注視させていただきます。」

これは多分、私を直接知らない方の最大公約数的な感想なのではないでしょうか。私は以上のコメントをリツイートして公開した上で、以下のように返信しました。

「全くおっしゃる通りです。税務に関しては完全に会社任せ、税理士任せでした。当時は給与天引きという『効率的な徴税システム』を過信し、節税にも全く興味がありませんでした。そうした態度が今回の原因の一つであるというご指摘は当を得ています。」

「『社会的意義がない』という表現に関しては、自分を卑下したものだとご理解下さい。私の人生です。私にとっては死ぬほど重要です。ただ『冤罪だ。苦しい。助けてくれ』と言ったところで皆さんの関心は得られないと思ったものです。」

「犯罪性に関して1億円の過失過少申告と1千万円の故意脱税とでは、どちらの方が断罪されるべきでしょうか。捜査権力の論理は、金額のみで前者を罰しようとするものです。そしてこれは私の後も繰り返されるものです。ご批判本当にうれしく思います。」

やはり友人・知人以外の方から忌憚ない意見が聞けるというのがソーシャル・ネットワークの強みの一つです。身の引き締まる思いでした。

高知白バイ事件に関して、香川県・岡山県をサービスエリアとするTV局記者(なぜ高知県の報道関係者ではないのかというのも事件を理解する一つの鍵なのですが)山下洋平氏の著書「あの時、バスは止まっていた」を読了しました。あまりに有名な冤罪事件ですので知っている方も多いと思いますが、もしご存知でなければアマゾンでこの本を検索して頂ければ、本の紹介欄に事件及びこの本の紹介の2分程度の動画があり、非常によくまとまっています。

ここをクリック→ Amazon 「あの時、バスは止まっていた」

私はこの本を読みながら、大げさではなく何度も涙を流しました。そして気付いたことがあります。

冤罪の本は売れないと言われます。その理由がよく分かりました。普通の人にとっては、冤罪という問題は感情移入しにくい問題なんだということです。

高知白バイ事件の冤罪被害者片岡さんは車を運転していただけ、西武池袋線痴漢冤罪事件の冤罪被害者小林さんは電車に乗っていただけという普通の生活をしていながら、冤罪が身に降りかかっています。つまり冤罪は誰の身にも起こりうることであるのに、そうした実感が非常に希薄です。勿論、冤罪は特殊な事象であり、また事前に避けることができる性格のものではないという考え方もできます。それは、東北大震災を目の当たりにしながら、地震・津波への対策を講じず毎日生活していることと似ているのかもしれません。

また読みながら、私の脱税と片岡さんの業務上過失致死という全く性格の異なる冤罪でも冤罪被害者当事者の考えることは全く同じなんだということです。本の中に、高裁で控訴審の始まる前の片岡さんの言葉が記されています。「不安はもう全然ありません。真実のみです。真実は一つですから、それを分かってくれたら、それでいいです」。私が経緯説明として書いた文書のタイトルを覚えていらっしゃる方には、私の言っていることの意味が分かって頂けると思います。

高知白バイ事件の事件及び裁判経緯に関して言うと、弁護側にとって決定的な敗因は言うまでもなく、スリップ痕の鑑定(一審有罪後、プロの鑑定により、検察側の最重要証拠「時速10KmのABS付バスが停止してできた1m以上のスリップ痕」が捏造の可能性が高いことを示す検証結果)という証拠を高裁に提出できなかったことだと思います。

高裁では、その決定的な証拠を検察側は「不同意」(裁判では検察側、弁護側双方が「同意」したもののみが証拠提出されます)、これは弁護側も想定内だったと思いますが、続いて証人喚問(物証を提出できなくても、その証拠に関係する人を証人として裁判で証言させることで同等の効果があります)も検察側は「不同意」。そして証拠採用は裁判官の裁量に任されたわけですが、裁判官は「必要がないので却下します」。証拠を提出しようとしているのに、その審理すらされないというのは本当に悔しかったことだろうと思います。

なぜ、こうしたことが起こるのかということを調べてみると、刑事事件においては、高裁でなされる控訴審は「事後審」といって下級審での原判決の当否を審査するだけなのだそうです。最高裁は憲法違反や判例違反のみを審議する「法律審」であり、地裁・高裁は事実を審議する「事実審」であることは知っていましたが、高裁が新たな証拠の評価をすることは裁判所の裁量であり、多くが認められない「事後審」であるとは知りませんでした(民事事件では、控訴審も事件の審理を続行する「続審」なのだそうです)。世の中知らないことが一杯あります。

現在、片岡さんは服役出所後、再審請求活動をしています。私も署名させて頂きました。フェイスブックにネット署名のリンクも貼り、何人かの友人も署名してくれました。再審請求は「針の穴にラクダを通す」ほど厳しいものと言われていますが、私はこの事件では大きな可能性があると思っています。それは、先日、西武池袋線痴漢冤罪小林事件の集会に出席した際、担当弁護士の一人の方が言っていたことが「再審請求が通るには、あるパターンがある。それは科学的証拠の存在だ」ということです。

高知白バイ事件では、片岡さんに有利な証言は、バスに乗っていた20人以上の中学生、バスの後ろに車で止まっていた校長、白バイの後ろを走っていた第三者という30人近いの証言がありますが、それはたった一人、対向車線を走っていた死亡した白バイ警官の同僚の証言でひっくり返されています。裁判では、前者を「不自然不合理な点もあり、正確性は低い」とし、後者を「単に被害者と同じ白バイ隊員というだけで、その供述の信用性がないと断じることは相当ではない」としました。世の中不合理なこともまかり通るものです。そして、そうした証言よりも、証拠の証明力は、科学的証拠の方が圧倒的に強いのが裁判というものらしいです。

片岡さんが繰り返し悲しい、辛いと言っていることが「それでも人が死んでるんですよ。あなたはその責任を逃れようとしているのですか」と言われることだと書かれています。原状回復できない人の死と、原状回復以上を償っている過少申告を同じレベルで語ることは適当ではありませんが、私も「でも払ってなかったんでしょ」と言われているので、痛いほど分かります。

片岡さんには、機会があれば私のメッセージを伝えたいと思っています。それは、「『もし真実を分かってくれる』ということがあなたの勝利であるなら、あなたは既に勝っています。再審請求の成否はあなたの人生にとって重要ではなく、既におさめている勝利の味を十分に味わって下さい」というものです。

なんか冤罪ブロガーとなりつつあるような今日この頃でした。

12/18/2011

category: 冤罪事件に関して

2011/12/17 Sat. 20:20 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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