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「蟷螂の斧となろうとも」 by 元外資系証券マン

クレディ・スイス証券集団申告漏れ事件(http://goo.gl/v0xQYP)において、国税局査察部告発、検察特捜部起訴の事案で史上初の無罪判決。 著書『勝率ゼロへの挑戦 史上初の無罪はいかにして生まれたか』(光文社)。 ツイッター(@thatta0529)で「#検察なう」の情報発信を続けます。

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#検察なう (510) 「東住吉放火殺人事件に思うこと Part2」 10/26/2015 

#検察なう (510) 「東住吉放火殺人事件に思うこと Part2」 10/26/2015

東住吉放火殺人事件について思うことを書いてみます。Part2の前篇であるブログを書いたのは2012年3月のことですから、それから既に3年半が経過しています。

ここをクリック→ #検察なう (112) 「東住吉放火殺人事件に思うこと」

実に長い時間(勿論、事件からは更に長い長い時間)が経過していますが、その間、実の娘を殺したとされた青木惠子氏や、その出自から依然罵詈雑言を浴びせられている朴龍ひろ氏、そして更に彼ら家族はさぞかし辛く悔しかったことだろうと思います。

事件は火の気のない場所での火災がきっかけになっています。そして入浴中の小6女児が、不幸にもその火災で命を落としました。

火災そのものには事件性(=放火)の可能性があると、捜査機関が推定したことは当然のことだと思います。実際に起こったであろう、駐車中の車のガソリンキャップからガソリンが漏れ出したことなど、誰が想像し得たでしょうか。

女児の死とその火災に関連があるのかどうか、それが事件と事故の見極めの分かれ目でした。

火の気のないところでの火災と女児の死を結び付ける想像力は、時には、犯罪を見出すことにもつながる捜査機関の重要な能力だと思います。そうした「嗅覚」を私は個人的には高く評価します。

そしてその見極め、筋立ての元に被疑者に自白を求めるというのは「残念ながら」今日の事件捜査では、至極当然のことです。

「残念ながら」と敢えて述べたのは、それが間違いであったと後講釈で批難することは簡単ですが、自白偏重主義の日本の刑事司法においては、それが最も有効な捜査手段と認められているからです。

今後、この事件が冤罪と明らかにされた時の議論として、なぜ虚偽自白が起こったかが問題とされるでしょうが、問題にすべきは、なぜ虚偽自白がなされたかではなく、もう一歩進んで、虚偽自白は回避できないという前提で、自白を偏重することの問題意識を持つ必要があります。

この事件の捜査においては、青木氏と朴氏の自白が取れた時点で、警察は大手柄だったと思われます。それは事故を偽装した保険金殺人という憎むべき犯罪を見出すことができたと思われたからです。いかに暴力的、高圧的な取調べがあったにせよ、あるいはなかったかにせよ(取調べ可視化がなされていない以上、それは永遠に闇の中です)、取調官は、冤罪と分かっていながら、シロと分かっていながら虚偽自白を強要したという可能性はゼロであるということを理解すべきです(注)。

彼らは、(物的裏付けがなかったにせよ)真正、彼ら二人を保険金殺人の犯人だと思って、「正義」のために取調べを行ったのだと私は信じています。憎むべき犯罪を摘発すべく、誠意と熱意を持って取調べを行った結果、虚偽自白が生まれたということは重要視されるべき事実です。

そしてこの冤罪が裁判所によって明らかにされたのは、科学実験によってアナザ―ストーリーが認められたからではないことも重要です。

科学実験は、火災が自然発火である可能性を示しましたが、それだけでは裁判所は動かなかったであろうと思われます。それが、日本の刑事司法の限界です。つまり、「疑わしきは罰せず」では無罪はありえないということです。科学実験により、朴氏の自白通りの犯行様態は不可能であるという、無罪の立証責任が依然弁護側には課されているということが、日本の刑事司法の問題点として依然挙げられるものです。

もう一度言います。この事件では、「自然発火という可能性がある」という疑わしきは罰せずという刑事司法の大原則に基づいてのみでは無罪とは成りえず、「自白通りの犯行様態は科学的に不可能である」という無罪立証がなされたことにより、ようやく再審開始(=事実上、無罪判決)が実現したということです。

この事件に関する私の以前のブログにも、冤罪説を否定するコメントは多く書き込まれています。それに対するリアクションとして、この「Yahoo!知恵袋」の回答は相当イカしています。

「貴方のお部屋で再現実験したら如何でしょうか」

ここをクリック→ Yahoo!知恵袋 「東住吉放火殺害事件、なんで冤罪にされたのですか」

この事件が冤罪であることが立証できたのは、幸運にも警察・検察の捜査官がガソリン燃焼に関する知識がなかったためです。もし捜査官にガソリン燃焼に関する科学的知識(密閉された車庫でガソリンを撒けば、車庫そのものが爆弾となる)があり、「朴氏は、(7.3リットルではなく)1リットル程度の少量のガソリンに着火して放火を図った」という自供を取ったなら、この冤罪は発覚しない完全犯罪ならぬ「完全冤罪」であったということは銘記すべき点です。

この事件の経緯を見ても、明らかにされた冤罪は氷山の一角であり、解明されていない冤罪の暗数は相当なものであると思われます。冤罪が国家の犯す絶対悪であることは、議論の余地がないことです。そしてその「国家の絶対悪」を減らすために、我々国民ができることは何かを日々意識する必要があるのではないでしょうか。日々とは言わないまでも、こうした事件が注目されたこの時だけでも。一緒に冤罪のない社会を目指しましょう。是非お願いします。

弁護団の再現実験に関しては、『季刊 刑事弁護 第71号』に詳説記事が掲載されています。
ここをクリック→ 『季刊 刑事弁護 第71号』特集「使おう!科学的証拠」事例報告 燃焼再現実験 東住吉事件

百聞は一見にしかず。テレ朝『ザ・スクープ』による再現実験を見て、あなたが裁判員だとして有罪を言い渡すことができますでしょうか。また、少なからずの人が疑問を持った「なぜ子供にそれだけの生命保険を掛けていたか」にも、担当保険外交員が直接取材に答えています。
ここをクリック→ 『ザ・スクープ』「「ママは犯人じゃない~火災実験が語る“放火殺人”の真相~」

(注)
その点では、捜査の早い段階からゴビンダさんが犯人ではないという証拠(遺体の乳房に付着していたゴビンダさんの血液型=B型とは違う血液型=O型の唾液)がありながら、それを隠して冤罪を作った東電OL殺人事件や、やはり捜査の早い段階で大越美奈子さんのアリバイが成立することが分かっていながら、それを示す証拠を隠して冤罪を作った恵庭OL殺人事件とは異なると言えます。

但し、この時点では検察も青木さんや朴さんが犯人ではない、そして事件そのものがないことは重々知っているはずで、この期に及んでの刑の執行停止に対する異議申立、再審開始決定に対する異議申立は犯罪行為以外の何物でもないものです。

東電OL殺人事件→ 
ここをクリック→ #検察なう (294) 「犯人血液型当てクイズ」

恵庭OL殺人事件→
ここをクリック→ #検察なう (489) 「恵庭OL殺人事件再検証 (4) ~アリバイ」

10/26/2015


















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2015/10/26 Mon. 00:01 [edit]   TB: 0 | CM: 1

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#検察なう (451) 「森炎氏著『教養としての冤罪論』解題 (8) ~冤罪ライン⑦ 「第三者の証言の虚実をどう見抜くか」」 2/19/2015 

#検察なう (451) 「森炎氏著『教養としての冤罪論』解題 (8) ~冤罪ライン⑦ 「第三者の証言の虚実をどう見抜くか」」 2/19/2015

目撃証言は有力な証拠であることは間違いないと思います。しかし、見間違いということも、当然可能性としてはあり、目撃証言が有罪立証の柱であれば、その冤罪性をどう評価するかは重要です。冤罪ラインの議論の最終章として、第三者の証言に含まれる冤罪性を議論しています。

「純然たる目撃者(虚偽を述べる動機のない者)の証言は、ありのままを述べているわけだから、もちろん、信用できる。他方、信用できるとしても、見間違いということは、これも、もちろん、あり得る。

しかし、見間違いは、それほどはないだろうと、これまでは考えられてきた。ところが、近年になって、それを覆す事実が判明した。」

「DNA鑑定の発展に伴って、前世紀末頃から、アメリカでは、「無辜再発見」のイノセンス・プロジェクトが大々的におこなわれた。DNA鑑定がない時代に有罪判決を受けて拘禁されている死刑囚などに対して、あらためてDNA鑑定による再検証が実施されたのである。その結果、DNA型が合ってないという例が続出した(釈放例は現在までに300を超える)。」

「調査で明らかになった「無辜再発見」事例の79%に目撃証言が存在していたという報告結果が出た。」

その79%のケースで、目撃証言がどれほど有罪立証に決定的な影響があったかはうかがい知れず、他方数多くの正しい目撃証言もあるはずで、79%というのは目撃証言の「はずれ率」ではありませんが、それでも実に驚くべき数字です。

森氏は、目撃証言の確度を測る基準として、2つの条件を述べます。その一つが「汚染された証人かどうか」、もう一つが「既知証人であるかどうか」です。

前回のこのシリーズのブログでは、共犯供述の問題について述べました。

ここをクリック→ 冤罪ライン⑥ 「犯人の知人・友人が共犯者とされるとき」

共犯供述の「問題は、一言で言えば、共犯者が、いわば汚染された証人だからである。共犯者には、一般的に、いま述べたような不純動機の疑いがあり、証人資格(その地位、立場、性質)の点で汚染されていると言える。

そして、これは何も、共犯者の場合に限らない。

たとえば、同房者の証言は、その疑わしさの点では、共犯供述に近い。同房者の証言とは、被疑者同士として同室になった者が、本人から犯行をほのめかされたとか、それに類することを聞いたなどという、かなり胡散臭い事柄である。そのほとんどは、動静を探る警察スパイ活動としておこなわれる。このようなことを法廷で証言した同房者には、多くの場合、起訴が見合わせられたり、起訴されても軽い刑が求刑されたりなどの特典が与えられる。」

「いちがいに、証言内容の真偽をどうこう言うことはできない。それこそ、人により、時と場合により、事件により様々である。しかし、証人の資格(地位、立場、性質)は別である。つまり、証言内容の真偽はわからないとしても、証人の資格から冤罪の危険を推定することはできる。そこから、理念型としての冤罪性をとらえることが可能である。」

もう一つの重要な要素が、目撃証人と被告人が既知かどうかです。

「目撃対象が既知の人物かどうかは、目撃の正確性に大きくかかわる。普段からよくよく知っている人間を犯行現場で見たという場合、見間違いはほとんど考えられないだろう。また、多少面識があるにすぎない程度でも、初見と比べれば見間違いは少ないはずである。」

「イノセンス・プロジェクトであからさまになった意外な結果は、目撃証言には、既知証人でないことから来る限界があったこと、そして、それが予想をはるかに超えて大きかったことを暗示している。

証言一般に関する冤罪性を「①汚染なき証人―②汚染された証人」、「(a)既知証人―(b)未知証人」という道具連関で考えるとき、たとえば、レイプ事件の被害者の(多く)は、①(b)であり、そこには、未知性(初見)の問題がある。

共犯供述は、②(a)であり、汚染(不純動機)の問題がある。

結局、証人が①(a)(「汚染なき既知証人」)でなければ、有力証人とは言えないとみるべきなのだろう。」

そして、「実験心理学の知見」と題されて述べられる、以下の事柄は、裁判員裁判制度の下で、人を裁く可能性のある我々は、広く共有すべき知識だと思います。

「被害者(あるいは被害者家族)に限らず、重大事件の目撃者は、目撃している間、驚愕・恐怖・嫌悪・憎悪等の大きな心理的動揺を免れない。実験心理学の知見によれば、強度のストレスのもとでは記銘力や記憶の保持が低下することが認められている。

また、鈍器や刃物が凶器として用いられた場合、それらに目を奪われてしまうことで、人物に対する記銘力がぼやけてしまう「凶器注目効果」も言われている。さらに、別の場所や写真で見ただけの人物を実際に犯行現場で見たと思い込んでしまう「無意識的転移」現象もあるという。

これらのメカニズムは、過去の確固たる記憶と照らし合わせる既知証人では生じにくい。が、通常の目撃者にとっては「記銘―保存―想起」の過程において、多かれ少なかれ、かかる障害を免れない。

したがって、初見の目撃者にあっては、特別な事情がない限り、その目撃情報に有罪方向への大きな牽引力を認めることは躊躇される。特別な事情とは、犯人の容貌が特異であるとか、顕著な身体的特徴があるとか、あるいは、例外的に冷静な状況下で犯人と接していた(たまたま、犯行を目の当たりにする前に日常的状態において接する時間帯があった)などの事柄である。

目撃証言の評価が問題となるのは、多くは、科学的証拠や客観的証拠など、他に有力な証拠がない場面である。

つまりは、目撃証言だけでは、理念型としての冤罪性は減少しない。冤罪性減少を認めることができるのは、「汚染なき既知証人」や、いま述べた特別事情がある場合に限られるとみるべきだろう。

共犯供述にあっては、共謀者間の人的関係、組織内における地位、組織・集団自体の特性などから、証人の「汚染」が払拭される場合に限られることになる。」

教養としての冤罪論

P.S.
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2015/02/19 Thu. 01:53 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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#検察なう (449) 「森炎氏著『教養としての冤罪論』解題 (7) ~冤罪ライン⑥ 「犯人の知人・友人が共犯者とされるとき」」 2/12/2015 

#検察なう (449) 「森炎氏著『教養としての冤罪論』解題 (7) ~冤罪ライン⑥ 「犯人の知人・友人が共犯者とされるとき」」 2/12/2015

『教養としての冤罪論』のこの章では、「犯人の知人・友人が共犯者とされるとき」と題して、先に逮捕された犯人の供述により犯人の知人・友人が共犯者とされる場合の冤罪リスクを論じています。

ここでの問題は、犯人がいて、その犯行があり、それらを前提としたうえで、外側にいる無実の者が、そこに引きずり込まれる危険性です。捜査側から見れば、真犯人自身は捕捉でき、事件自体も一応は解明できたのですが、プラスαとして共犯者がいるかどうかという場面です。

どうして犯人による共犯者に関する供述が危険かといえば、それが目撃証言の一つとして扱われるためです。「〇〇と一緒に犯行を行った」という供述は、たとえ「(嘘の)自白」であってもその供述の性格は自白ではなく、目撃証言とみなされます。

森氏は以下のように述べます。

「結局、供述(=「供述証拠」)の法的性質としては、目撃証言と同じ扱いになる。供述の動機や意図あるいは真意は別にして、性質論としてはそうならざるを得ない。

つまり、共犯者とは、一部始終を見ている目撃者である。また、犯人を間近で見ている目撃者である。かつまた、一見の目撃とは異なり、見間違いなど考えられない目撃者である。」

勿論、共犯者は特別な利害関係を持っています。しかし、それだけでは目撃証言者たることの妨げにはならない、ということです。

そうした共犯供述の問題性は、実質的に見れば、その供述の動機、意図、真意には不純なものが大いに疑われるのに、立証すべき「誰が、いつ、どこで、誰に対して、どのような行為をしたのか」の全てが直接立証されたことになってしまう点にあります。

虚偽の共犯供述の動機には、以下のようなものが考えられます。

①  罪の軽減を図るために、主犯を仕立てる(このタイプの不純動機は、捜査側が複数犯説を取っている場合に、とりわけ問題となります。捜査側の思惑と結びついて、共犯冤罪危険を高めることになります)。
②  親族などの真の共犯者をかばうために、別の他人を共犯者に仕立てる
③  恨みをもった者に濡れ衣を着せる

このような共犯供述による冤罪パターンとして、森氏は八海事件(1951年)と梅田事件(1950‐51年)を挙げます。そして森氏は、真犯人が不純な動機をもって「〇〇も現場にいて一緒に犯行を行った」とする共犯供述によって冤罪が生み出されるパターンを「古典的共犯冤罪性」と名付けています。

それらは、DNA鑑定などの科学捜査時代への過渡期に起こった事件で、犯罪立証を関係者の供述に頼らざるを得なかった時代であったために共犯冤罪が生じたものです。

そして現代における共犯冤罪の重点は、別のところにあると森氏は指摘します。現代的共犯冤罪は、「共謀共同正犯」という「先進諸外国にはない日本特有の法理」にあるとするものです。

「共謀共同正犯」というのは、我々一般人にはなじみの薄い言葉で、私もこの本を読んで初めて意識した法律用語でした。森氏の解説を引用します。

「数人で犯行を一緒におこなうことを共同正犯と言うが、犯行を一緒におこなったと言えるためには、共謀(共同謀議)が必要である(単なる同時犯との区別のため)。そして、それこそが共同正犯の本質とされる。数人の者が共謀し、全員で一緒に殺人を実行した場合は、もちろん共同正犯であるが(実行共同正犯)、数人の者が共謀し、そのうちの一部の者が殺人を実行したにすぎない場合でも、共謀がある以上、共同正犯となる(共謀共同正犯)。つまり共謀に加担しただけの者も殺人罪に問われるし、殺人を実行しなくとも、結局は殺人犯そのもの(=正犯)になる。そして、その共謀において主導的役割を果たしたと見られれば、犯行を少しも分担実行していなくとも主犯とされる。共謀こそが、この場合の本質だからである。

その趣旨は、自分では手を下さずに、背後で実行者を操る者に厳罰を加えることにある。一言で言えば、黒幕を重罰に処するためである。」

先に述べたように、この「共謀共同正犯」という考え方は、先進諸外国にはない特殊なもので、諸外国では、共謀共同正犯に相当する共謀者は、教唆犯または幇助犯とされ、あくまで実行犯とは区別されます。その結果、共犯者=主犯という構図にはなりにくいものです。対して日本では、犯行を少しも分担していない共謀者について、その刑が、死刑までの青天井となることが特色です。

この共謀共同正犯という考え方が、共犯冤罪に暗い影を落としたケースとして、本書では「富山・長野連続女性誘拐殺人事件」が紹介されています。その事件は次のようなものでした(注)。

1980年、富山県と長野県にまたがる連続女性誘拐殺人事件が起きました。

まず、富山で女子高生が外出して戻らず、家に女の声で「娘さんを預かっている。相談したい」という電話がありました。しかしその後は連絡がなく、女子高生の消息も途絶えました。

10日後、今度は、長野で信用金庫の女子職員が勤め先から戻らず、自宅に女の声で身代金3000万円を要求する電話があり、家族が受け渡し場所に赴いたものの、犯人は現れず、こちらもそれっきりになりました。

その後、行方不明となった二人の女性は、絞殺死体となって見つかりました。

この二つの事件のそれぞれの行方不明地点付近で「赤いフェアレディZに乗ったトンボメガネの女」が目撃されていました。警察の捜査ですぐにギフトショップを経営する30代の容疑者の女が浮上し、その女の声紋と身代金交渉の電話の声紋が一致したことなどから逮捕に至りました。

動機は、ギフトショップが経営難に陥り、サラ金に手を出して数千万円の借金を負っていたことです。そして、返すあてのないローンをしてフェアレディZを購入し、誘拐で大金を得ることを考え、実行に至ったとされます。

その女には、死刑判決が下り、控訴、上告いずれも棄却され、1998年死刑が確定しました(女性死刑囚としては連合赤軍事件の永田洋子以来、戦後7人目)。

この事件では、共犯者とされた男性がいました。犯人の女と愛人関係にあった20代の男性で、ギフトショップの共同経営者でした。最初の富山の事件では、男性に関する目撃証言がありました。地元のレストラン従業員によれば、店内で、犯人の女と被害者と思しき若い女性、それに、この男性が一緒にいるところを目撃したとされます。

二番目の長野の事件では、この男性は、足掛け6日間、犯人の女と行動を共にしていました。女が殺害現場の下見をしたときには車の運転をし、女が人質の家族に身代金要求の電話をかけたときには傍らにおり、指定した身代金受け渡し場所にも女と一緒に向かっていました。そして、警察官の気配に気づいて女とともにそこから逃げ出していました。

検察は、この20代の男性を共犯として起訴しました。しかも、「男が犯行を主導し、女がこれに従った」として男性を主犯と断じました。富山・長野の両事件とも、肝心の殺害行為をおこなったのは男性の方であるとしました。これらは、女の供述に依拠したものでした。

裁判では、この男性は冤罪を訴えました。「事件は女の単独犯で、自分は全くあずかり知らない」と申し立てました。

裁判の審理が進むにつれて、次のような意外な事実が明らかになっていきました。

二人の男女関係は常に女の主導で、男性はすでに家庭があるにもかかわらず半同棲生活に引きずり込まれるなど、年下の男性が年上の女にいいように振り回されている構図が浮かび上がりました。それとともに、最初の富山の事件の殺害時には自宅にいたこと、二番目の長野の事件の殺害時にはホテルでテレビを見ていたことが判明しました。

これらの事実が明白になったため、男性が殺害行為を実行したとは言いがたくなりました。検察の構図は崩れたのです。

しかし、それでも、検察は「男性が共犯として責任を負うことは何ら変わりがない」としました。なぜか。それは、たとえ誘拐、身代金要求、殺害、死体遺棄などの行為を全部、女がおこなったとしても、男性は共謀共同正犯として、これらのすべての刑事責任を免れないと検察は主張したからです。

以上の経過のうち、男性が共犯者として殺人を実行したという嫌疑を受け、しかし、アリバイによってそれが違うことが判明するまでは、共犯の古典的冤罪性の範疇です。しかし、それで冤罪という結論にはならずに、続きがあるところで現代的冤罪性に切り替わるものです。検察が「共謀した以上は、依然、共犯である」として、なおも罪に落とそうとするところに、それが見て取れます。

結局、判決は一審無罪。検察はそれでも引き下がらず、あくまで件の男性は共謀共同正犯だとして争いました。二審でも男性無罪の結論は変わりませんでしたが、この事件の経緯は、共謀共同正犯という考え方の微妙さ、つまりは現代的共犯冤罪性を露わにしています。

森氏は次のように述べます。

「共謀共同正犯では、犯行を少しも分担しなくとも、共謀に加担すれば罪に問われる。その結果、必然的に次のようなことにならざるを得ない。

共犯の嫌疑をかけられた者は、「自分は全然手を下していない」と主張し、たとえ、それを立証したとしても、罪を免れない。また、犯行時間帯のアリバイを立証したとしても無効である。ここでは、共謀のみが問題だからである。

客観的証拠も必ずしも要求されない。「共謀」の有無は、言葉の問題であり、その立証に客観的証拠を求めること自体が無理だからである。

逆に言えば、冤罪の証を立てることはそれだけ難しくなる。共謀共同正犯という考え方自体に冤罪性が含まれているとも言える。まさに、現代的共犯冤罪性は、共謀共同正犯という特殊法理と表裏一体である。」

要するに、関係者の間に共謀があったかどうかという事柄は、外部からは曖昧模糊としていて、最終的には裁く者の評価に大きく依存せざるを得ないものです。そこでは、単に共犯者の供述するところではなく、言うような共謀の客観的な素地があるかどうかを確かめる必要があります。人間関係がどうであったかという、刑事裁判らしからぬ社会的な見方が求められ、裁判員裁判において市民感覚が発揮されるべきシチュエーションではないでしょうか。

(注)
富山・長野連続女性誘拐殺人事件の詳細はこのサイトに紹介されています。
ここをクリック→ 宮崎知子の生い立ち [富山・長野連続女性誘拐殺人事件]

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2015/02/12 Thu. 00:01 [edit]   TB: 0 | CM: 1

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#検察なう (446) 「森炎氏著『教養としての冤罪論』解題 (6) ~冤罪ライン⑤ 「自白したから犯人と言えるか」」 1/22/2015 

#検察なう (446) 「森炎氏著『教養としての冤罪論』解題 (6) ~冤罪ライン⑤ 「自白したから犯人と言えるか」」 1/22/2015

犯罪の立証には、「誰が、いつ、どこで誰に対して、どのような行為をしたのか」ということを証拠で裏付ける必要があることはこれまでも述べました。しかし、これらを裏付ける証拠を完全に揃えることは容易ではありません。犯行の一部始終を映した防犯ビデオでもあればよいのですが、そんなものがおいそれと存在するはずもありません。

ところが、いかなる事件においても、捜査のやり方次第で得られる、立証すべき事実のすべてを一挙に証明する証拠があります。それが自白です。

それが「自白は証拠の女王(Confessio est regina probationum.)」と言われるゆえんです。

しかし、周知されているように、自白には大きな弊害があります。自白は全立証対象を一挙に、直接証明することができるほとんど唯一の証拠であるために、何が何でも自白を取ろうということになりがちだからです。

そして森氏は「すべての自白は強要である」と指摘します。以下、抜粋引用します。

「実際問題、社会生活上の儀礼のような丁重なやり取りをしていたのでは、自白する者など出るはずもない。取り調べで容疑者を追い込まなければ、自白など得られない。その意味では、自白には必ず強要の要素が入っている。

日本国憲法は、「強制、拷問・・・・による自白・・・・は、これを証拠とすることができない」と定めている。が、逆に、それ以外の自白は証拠とすることができると読める。つまり、「強制、拷問」に至らなければ、少々厳しい取り調べであっても何ら差し支えないことになる。

そのような理解のもとに、裁判実務では、理詰めで容疑者を追い込んでいくことはもちろん、家族の立場などに言及して精神的・心理的に揺さぶりをかけることなども適法とされている。

さらに、日本国憲法に言う「強制」とは、事実概念ではなく評価概念とされていて、裁判所は、多少の強要の要素ぐらいでは、最終的に「強制」と評価することはない。こうして相当に厳しい取り調べまでが容認される。

逆に言えば、ここから自白のすべての問題が生ずる。自白内容をそのまま容疑者が真情を吐露したものとみなすことはできないのである。それは、多かれ少なかれ、強要の要素のもとに、不本意にも供述させられたものとみなければならない。」

そして森氏は、「自白の冤罪性を減少させるものとして「秘密の暴露」が必要である」と指摘します。抜粋引用します。

「自白の第一性質は、強要の要素と不本意供述性である―にもかかわらず自白を有罪の資料とするのであれば、当人が不本意に述べたものであっても、また、多少の強要によるものであっても、それに影響されずに認め得るような不動の根拠がなければならない。

たとえば次のような事柄である。

容疑者が死体を埋めた場所を自白し、その通りの場所から死体が発見されたとなると、どうか。当人が犯人であることがほとんど確実となる。犯人以外の者が死体の埋められた場所を言い当てられるとは思えない。この場合、当人が殺人犯でない可能性は何かあるだろうか。考えられる他の可能性としては、死体を捨てた死体遺棄の犯人にすぎないことぐらいである。それも、背後関係を調べれば、別の殺人犯人に頼まれて死体を捨てに行った単なる死体遺棄の犯人か、それとも他ならぬ殺人犯それ自身であるかは、自ずと判明し得る。

以上は何を意味しているかと言うと、直接的には、死体遺棄場所についての自白が真実だったことを示しているが、それにとどまらず、犯人としての体験を客観的にたどることができたことをも意味する。

そのため、以上の証明力は、後になって容疑者が「やはり、あの供述はちがう」と言い出したとしても揺るがない。そのとおりの場所から死体が発見されたことは事実であり、犯人としての体験を客観的にたどることができたことは、自白の撤回によっても何ら変わらない。また、たとえ不本意に供述したものであっても、その効果(犯人としての体験を客観的にたどれたこと)は影響を受けない。

上記の点に関する限りは、自白も裁判上極めて重要である。あらためて物証との関係から考察する。発見された死体、凶器、被害品などは物的証拠と言われるが、証拠物そのものとしては、それほど大きな意味を持つわけではない。犯人が誰かという最も肝心な点については、何も語るものではない。

ところが、これが容疑者の自白と結びつくと、前述のような大きな効果を生ずる。容疑者が死体を埋めた場所、凶器を捨てた場所、被害品を隠した場所を自白し、そのとおりの場所から死体や凶器や被害品が発見されたとなると、当人が犯人であることが大きな確実性をもって示されることになる。

このようにして、自白によって物証が生きてくる。自白があることによって、それまで物証だけでは到達できなかった「犯人性」まで立証の効果が伸びてくるのである。

以上のような効果に着眼して、死体、凶器、被害品などの在りかを明かすことは、「秘密の暴露」と呼ばれる。

自白の中の「秘密の暴露」とは、大まかには「犯人しか知らない事柄の暴露」であり、より厳密には「被疑者が供述したことが、捜査官があらかじめ知らなかった事項に属し、それによって真実が判明した場合を指す」と定義されている。

こうして、秘密の暴露は冤罪性を減少させるということができる。」

更に森氏は、「秘密の暴露」にも証明力の違いによって強弱が生じるとします。端的に言えば、捜査側の作為の余地が全くなければ「強い秘密の暴露」と言えるのに対し、捜査側の作為の余地があれば「弱い秘密の暴露」となります。更に、その捜査側の作為が、弁護側の立証活動によって明らかとされた場合、それは「見せかけの秘密の暴露」となり、捜査全体についての不当捜査の推定が働きます。したがって、「見せかけの秘密の暴露」があった場合、犯罪立証は大きく崩れ、冤罪性の減少ではなく、逆に増加の局面になります。

そしてこの章の一番重要なことが最後に述べられています。

「市民裁判論としては、虚偽自白かどうかにこだわるのではなくて、秘密の暴露があるかどうかに着眼し、「弱い秘密の暴露」すらない場合は、自白をすっぱりと捨てるべきなのである。そうしなければ、冤罪性はいつまで経っても解決されない。」

つまり表題の「自白したから犯人と言えるか」に森氏はノーといい、自白に「秘密の暴露」がなければ一切採用しないことが、自白が冤罪につながることを防ぐ方法だと述べています。至言だと思います。

教養としての冤罪論


1/22/2015












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2015/01/22 Thu. 00:02 [edit]   TB: 0 | CM: 2

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#検察なう (437) 「福井女子中学生殺人事件 再審の扉が閉ざされる 「疑わしきは確定判決の利益に」」 12/15/2014 

#検察なう (437) 「福井女子中学生殺人事件 再審の扉が閉ざされる 「疑わしきは確定判決の利益に」」 12/15/2014

3年前に一旦再審開始が決定されたものの、検察の異議申し立てにより、昨年再審開始決定が取り消され(注)、弁護側は特別抗告していました。先週、最高裁判所第2小法廷(千葉勝美裁判長)は特別抗告を棄却、再審の扉は再び閉ざされてしまいました。

報道はこちら。
ここをクリック→ NHKニュース「福井女子中学生殺害 再審認めず」

冤罪被害者の前川彰司氏、そのご家族、そして支援してきた方々は、この理不尽な判断に、さぞかし悲憤慷慨していることと思います。特に、いつも支援の前面に立たれていた父親の悲しみ、悔しさは計り知れず(母親は失意のうちに他界なさっています)、私も人の子、人の親として心情察するに余りあります。

具体的な事件の詳細を知らずとも、「決定された再審開始が取り消される」ことの重大さを、まずご理解頂ければと思います。

日本の刑事司法においては、有罪率は99.9%を越え、無罪を得ることは非常に困難です。そして三審制を経て確定した判決を覆す可能性のある再審を開始させることは、更に困難です。なぜなら、運用上再審が行われれば、ほぼ無罪となることが決まっているとされているからです。ただでさえ得ることが困難な無罪判決を、三審制を経て有罪が確定した後に得ることになる再審開始は「針の穴にラクダを通す」ほど大変だと言われます。

再審が困難である最大の理由は、再審請求の際に提出される証拠に「新規明白性」を求めるからだと思われます。確定判決に至るまでに、証拠のほとんど全てが検討されつくされていると思われます。それにも関わらず、全く新たな、しかも確定判決を覆すに明白な証拠がなければ、再審は行われないというハードルは非常に高いものです。

福井女子中学生殺人事件においては、再審請求に際して、裁判所からの勧告で検察による新たな証拠開示がなされ、その新証拠を元に再審開始が決定されました。福井女子中学生殺人事件は一審無罪で、控訴審で有罪に覆されましたが、それら証拠があれば一審の無罪はもっと堅固であり、控訴審で覆ることはなかったかもしれません。検察による悪質な証拠隠しは、この事件に限った事ではありません。

しかしながら、再審開始決定を取り消した昨年の名古屋高裁の判断、そして今回の最高裁の判断は、共に、「提出された証拠に新規明白性は認められず、再審開始事由に当たらない」というテクニカルなもので、実質審理がなされたものではありません。

このことは、我々にとってどのような意味をもつのでしょうか、少し考えてみたいと思います。私は、これは前川氏個人の問題ではなく、我々国民全体への脅威だと考えています。

一審無罪、そして再審開始決定という二度の無罪判決(相当)という判断がなされたことは、事件の有罪立証に合理的な疑いがあることは明らかだと言えます。それにも関わらず、無罪になっていないということは、日本において推定無罪原則が機能していない証左です。今回の一連の再審開始決定の取り消しの判断は、日本の裁判所(しかも最高裁判所を含む)が、刑事司法の大原則を蹂躙したという極めて由々しいものだと考えられます。また、その経緯を考えると、検察の証拠隠しという犯罪行為を裁判所が不問にしたということでもあります。これが、我々国民全体に対する脅威でなくして何でしょうか。

そこに見えるのは、「疑わしきは確定判決の利益に」という論理であり、人権よりもシステムの安定や権威の保身を重要視しているものです。

再審開始決定自体まれなので、再審開始決定が取り消されたケースは、極めてレアではありますが、初めてのことではありません。名張毒ぶどう酒事件、大崎事件という超ド級冤罪でも起こったことです。そろそろ我々国民も刑事司法リテラシーを高め、このような国家権力による人権侵害を監視、抑制するだけのパワーを持たなければならないと考えます。

まずは、再審開始決定に対する検察の異議申立は認めない立法化が必要です。その延長線上には、私が刑事司法改革に一番効果的だと考える検察上訴権の廃止があります。

是非とも事件のことを知り、今回のことが持つ意味を考えてほしいと思います。

ここをクリック→ 冤罪ファイル 「福井女子中学生殺人事件」

(注)
昨年、再審開始決定を名古屋高裁が取り消した際の報道。
ここをクリック→ 福井新聞「再審取り消しに「長すぎる冬」前川さん父、女子中学生殺人事件」

12/15/2014













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2014/12/15 Mon. 06:07 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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