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「蟷螂の斧となろうとも」 by 元外資系証券マン

クレディ・スイス証券集団申告漏れ事件(http://goo.gl/v0xQYP)において、国税局査察部告発、検察特捜部起訴の事案で史上初の無罪判決。 著書『勝率ゼロへの挑戦 史上初の無罪はいかにして生まれたか』(光文社)。 ツイッター(@thatta0529)で「#検察なう」の情報発信を続けます。

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嘆願書 (28/146) 樫山慶子 

嘆願書 (28/146) 樫山慶子

犯罪の契機は、結局動機と人品に関わると思っています。その人品に関して、私の友人・知人に「あなたの知っている八田隆を文章にして下さい」と依頼しました。そして集まったのが146通の「嘆願書」です。検察特捜部に提出したものですが、本人の了承を得て実名公開します。

28通目は私の友人からのものです。

彼女は私がクレディ・スイスに働いていた時、クレディ・スイス担当で営業に来ていた「保険のおばちゃん」です。

私の妹がかつて保険会社に勤めていたこともあり、彼女と初めて会った時には既に私の保険はある程度カバーされていました。また自分でもそれなりに保険の検討をした結果、私に保険は必要ないという結論に達し、彼女にもそのように述べました。

自分も金融という究極のサービス業に従事しており、やはり気持ちのいいお客さんと、失礼なお客さんというのはいました。態度いかんということもありますが、結局ボランティアで仕事をしているのでない以上、商売をくれるかどうか、しかもその関係が長期間に亘って持続できるかどうかが重要な尺度でした。つまり、今商売ができなくても、将来できれば「よし」、どんなに態度が横柄でも、コンスタントに商売をくれれば「よし」というものです。逆に、どんなに話がはずんでも、最終的に商売をくれる気がなければ、それはあまりいいお客さんとは言えません。時間の無駄だからです。

私は、そうした意味では、彼女にとって全くいいお客さんではなく、ビジネスのルールとして、それは最初に明らかにしていたものです。

それで彼女も積極的に営業する必要がないという安心感ができたのか、時々会社に来る度に話をしたのですが、保険以外の話をすることが多かった記憶があります。保険の話をする時も、「今、どんな商品をプッシュしてんの。ちょっと営業してみ」と言って、彼女のセールス・ピッチをチェックするとか、全く見込み客としてではない話だったと思います。私もストレスの多い仕事で、私の方が彼女に癒されていたのかもしれません(あと、歯医者の診療台。#検察なう (80))。

私は無類のロック音楽好きで、それは中学生以来ずっとオーディオにはまっていたこともあって、ほとんど病気でした。大学時代は、渋谷の輸入レコード店(CDがなかった時代です)の新譜の入荷日が毎週水曜と土曜で、その日の夕方にはどうしても行かなければ我慢がならないという感覚でした。デートの途中でもレコード店に入るとなかなか出てこないので、女の子が「外で待ってるから1時間で出てきて」という状態でした。

就職の時も、音楽関係(といっても楽器を演奏したり、バンドをやっていたわけではないので、音楽関係のジャーナリストか、放送局のDJとかそっち方面ですが)に進めばいいのに、と本気で勧めてくれる友人もいました。私は、「趣味を仕事にする気はない」と言って、電通に就職を決めたものです(電通の内定を断ったため、外資しか行くところがなくなった、というのが私の人生の一つのターニング・ポイントでした)。

LP1000枚以上、CD1000枚以上、全て洋楽ロックのコレクションで、引越しの時の一番の大荷物がそれです。

なぜこの話をしたかというと、彼女は私以上に音楽が好きで、後にも先にも同じ感覚で音楽を語れるのは彼女くらいなものだったからです。「おお!同士~!」って感じですね。当時は、ベックやブラ―やレディオヘッドなど、趣味で重なる部分が多かったものです。ちなみに私が好きなアーティストとしてフェイスブックのプロフィールに挙げているのは、ジェフ・バックリィ、マニック・ストリート・プリーチャーズ、コールド・プレイ、ニルヴァーナ、ジョン・フルシアンテ(&その他大勢)です。

ただ最近フェイスブックでつながって、彼女の音楽の傾向をチェックすると、ポスト・ロックの方向を指向してるようで、私の相も変らぬオルタナティブ指向とは方向が違ってきたようです。大人になったなあ(音楽の趣味だけ?)。今、産休で実家に戻っているようですが、子供が生まれるとフジロックは行かないんだろうな。今年はストーン・ローゼズ来んのになあ。

<嘆願書>

私は昨年、八田隆さんが脱税をしたとして所得税法違反の疑いで東京地検に告発されたとの報を受け大変驚きました。即座に「納税システムに何か問題があったに違いない」と思ったほどです。八田さんは、私がかつて生命保険で営業をしている時、大変お世話になったお客様の一人です。社会人の先輩としても大変尊敬しています。その八田さんが故意に脱税をするなど到底考えられません。これは明らかに冤罪だと思います。八田さんに対し、公正かつ適切な判断が下されることを願い、八田さんのお人柄について私の知っている限りを下記に述べさせていただきます。

私は新卒で生命保険に入社してすぐに、クレディ・スイス証券(当時クレディ・スイス・ファースト・ボストン証券)の担当となりました。私の任務はクレディ・スイスに勤める一人でも多くの方に保険契約をいただくことと、既に契約をいただいている方のアフターフォローをすることでした。八田さんは既契約者でしたので、私が担当者としてご挨拶に伺ったことをきっかけに知り合い、以後、私が保険会社を退職するまでの3年間、大変お世話になりました。

多くの方がご想像する通り、「生保の営業」はどこへ行っても歓迎されるということはありません。上司には「保険営業なんてもともと嫌われているのだから、恐れることなく営業活動してきなさい」と言われていたほどです。しかし、わかってはいても人に歓迎されない毎日というのは精神的になかなかこたえるものです。そのため、上司はその対処法も指導してくれました。「営業先に“止まり木”となるお客様を見つけなさい」というのです。その言葉の意味する通り、ほっと一息つけるお客様を見つけなさいと言うことです。

お客様に対して“止まり木”という表現は失礼になるかもしれませんが、正直なところ、私にとって八田さんは、クレディ・スイスにおいて“止まり木”のような存在でした。私に対して「生保の営業」だからといって見下した態度をとるようなことは決してありませんでしたし、他の多くのお客様とは違い、名前で呼んでくれました。

八田さんは正直な方ですので、初めてお会いした時から、ストレートな表現や自信に溢れた態度に圧倒されていたのも事実です。しかしその正直さ故に、かえって嘘のない、裏表のない、真っ直ぐな人だと思えて信頼できましたし、本当はとても温かい人だとわかるのにもそう長くはかかりませんでした。ノルマに追われ、お客様に冷たくされ、疲労困憊していても、八田さんにお会いすることで少し元気を取り戻すことができたのは、そんな八田さんのお人柄故だったと思います。私がめげることなく3年間、クレディ・スイスに通い続けることができたのは、八田さんのようなお客様の存在があったからだと深く感謝しています。

ここからは八田さんのプライベートについて、私が知っていることを少し述べたいと思います。私は仕事上、八田さんが大変多くの収入を得ているということを知っていましたので、プライベートではどんなに華やかで贅沢な暮しをされているのだろうと勝手に想像しておりました。しかし実際に見えてきたプライベートでの八田さんは、どこにでもあるような中華料理店や牛丼屋にも好んで食事に出かけますし、夜な夜な遊びに出るでもなく、ご自宅で熱心に大好きなワインの勉強をされていたりと、想像していたよりもずっと庶民的で親しみの持てるものでした。そして何よりも印象に残っているのは、とても子煩悩な父親としての姿です。息子さんの話をされる時の八田さんの様子を見ていると、息子さんを本当にかわいがっておられて、八田さんの生活は、息子さんの存在ありきで成り立っているように思えるほどでした。

これまで述べてきた通り、八田さんのような正直で嘘のない人が、裏で悪事に手を染めるようなことをするとは到底考えられません。八田さんはそれがどれだけ愚かなことかを知っていますし、そのようなことをするくらいなら、正面衝突をして正々堂々と戦う人です。

また、お金に対して特別に執着していると感じたことはありませんし、正しいお金の使い方を知っている人です。何より、大変子煩悩な父親である八田さんが、大切な息子さんに対して恥じるようなことをするはずがありません。八田さんの自信に溢れた言動や雰囲気は、正々堂々と正直に生きてこれたからこそ、滲み出ているものなのだと思います。そんな八田さんに対して、不適切な判断が下されるようなことは、決してあってはならないことだと思うのです。

八田隆さんに対し、公正かつ適切なご判断が下されますよう、切に願い、ここに嘆願書を提出させていただきます。

樫山慶子

<以上>

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2012/02/06 Mon. 15:30 [edit]   TB: 0 | CM: 1

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嘆願書 (27/146) 長裕陽 

嘆願書 (27/146) 長裕陽

犯罪の契機は、結局動機と人品に関わると思っています。その人品に関して、私の友人・知人に「あなたの知っている八田隆を文章にして下さい」と依頼しました。そして集まったのが146通の「嘆願書」です。検察特捜部に提出したものですが、本人の了承を得て実名公開します。

嘆願書の27通目はベアー・スターンズ証券の元部下からのものです。

以前のブログで、ベアー・スターンズ証券の半年は、私の人生において、この事件に巻き込まれるより辛い経験だったと書きました。しかし、ただ単に辛いだけではなく、私の仕事人としてのキャリアで最も充実していた半年でもありました。

ここをクリック→ #検察なう (100) 「人生の試練」

私の仕事をする上でのインセンティブは、会社からいかなる評価を受けているか(端的にはそれは給与の数字で表されますが、私にとってはその数字は経済的な意味よりは、通信簿の「5」とか「4」という評価としての意味の方が圧倒的に大きいものでした)、そしていかにハッピーにしたい上司と働いているか、というものでした。そしてベアー・スターンズ証券では東京及びニューヨークの上司の十分な信認を得、彼らと一緒に東京オフィスをほかの有力証券会社に伍することができるよう全力を尽くせたことが喜びでした。

そのベアー・スターンズ証券は、サブプライム危機の影響でJPモルガン証券に吸収合併されることになりました。

私はJPモルガン証券にはプレイヤーとして移籍を請われましたが、部下のほとんどがJPモルガン証券に再就職叶わない中、上司の私がのうのうと移籍するわけにもいかず、私と、同じく共同営業部長であったもう一人もその時点で勇退の道を選んだものです。

長は、会社が突然消滅する直前に新卒内定者として会社に来ていた者です。4月から入社という直前に会社がなくなったわけですから、相当不安だったと思います。私たち部下の中でも彼ともう一人の内定者の再雇用確保が私たち共同営業部長の最重要プライオリティーでした。それに関しては、私よりはもう一人の共同営業部長の尽力が大きく(JPモルガン証券は彼の古巣でした)、なんとか彼らの内定取り消しという最悪の状況は脱することができたものです。

彼はかなりハードコアなサーファーらしいのですが、実に真面目な奴で、これからの人生でも最初の蹉跌を糧に頑張って欲しいと思います。

<嘆願書>

八田氏は、私が2008年4月に新卒社員として入社を予定しておりましたベアー・スターンズ(ジャパン)証券会社東京支店での上司に当たる方でした。同社は2008年3月に消滅いたしますが、私は2007年5月より内定者インターンシップとして同債券本部にて業務のサポートのため勤務しておりました。

2007年9月に営業部長として同社にいらっしゃった八田氏と初めてご挨拶をいたしました。その際の印象は豪快な気質である一方自他ともに厳しい方のように思えましたが、雲の上のような存在で高く鎮座しているという部長ではありませんでした。

八田氏は、営業部長という高い職責にも関わらず、内定者という立場の私に対してもコピーのとり方から、Bloombergという情報端末システムの使い方、Microsoft Excelの関数といった社会人としての基本的な作業に至るまで、部長御自身自らご指導くださいました。そのことは、外資系の個人プレー集団を想像していた当時の私にとって非常に驚きであったと同時に、同氏に対して大変感謝したことを覚えています。

私自身、このころよりしばらくたった後に、八田氏が日本のモーゲージ債市場における第一人者であり、市場のプロが多く集まる各方面から意見を求められるような人物であることを知り、そのような方から直接ご指導いただけることに驚きと感謝を新たにしておりました。八田氏の人となりをご理解いただく上でのエピソードを以下に2点記させていただきます。

(エピソード1)
初めて、新聞記事のクリッピングの依頼をされた時のことです。新聞をそのままの印刷設定でコピーし、八田氏へお持ちしたところ早速ご指導を受けることとなってしまいました。

チーム全員が見やすいように、一度コピーをしたもので該当記事のみを切り取り日付と出所を補記したうえで再提出するようやり直しを命じられました。私は、言われた通りにやり直し、八田氏のもとへ再提出をいたしました。そうしたところ、文書・写真の別や濃度・明度等の印刷設定を工夫したかと問われました。私は言われたとおりにしか動いておらず、何も設定せずにそのままコピーした旨を伝えました。そうすると八田氏は従事されていたお仕事を一度中断され、私をコピー機の前まで導き、コピー機の設定をはじめ、チーム全員が見やすいような資料をつくるための方法を御自らご指導くださったのです。

多忙を極める部長というお立場にも関わらずこの際実に30分以上の時間を私に割いていただいたと記憶しております。

私は、八田氏に対して、立場・役職、単純作業・複雑な作業の別に関わらず、作業をきちんと処理するためには労を惜しまない方なのだろうと感じました。

(エピソード2)
在職中とその後も含め、八田氏と何度か食事会の席で同席させていただく機会がありました。八田氏は、仕事においては常に強いリーダーシップのもと、社員を率いている印象であった一方、酒宴の席では自分が中心ではなく常に聞き役に近い存在であったこともまた印象的でした。

新人・若手の宴会芸というものは多くの会社で一般的なイベントとしてあるかと思いますが、八田氏は上席者でありながら率先して滑稽な格好をして私たちを楽しませてくれたこともありました。結果、八田氏にお誘いいただく食事会ではいつも若手からベテランまで多くが参加し、全員が楽しい時間を過ごせたと口々にしておりました。

八田氏の価値観というものは、ご自身に対して以上に周りを楽しませる、喜ばせるということにあったのではないかと思います。そのスタイルこそが八田氏を業界での成功に導いたものであると感じております。

上述のとおり、私が考える八田氏という人物は、①どのような仕事・作業に対しても手を抜かず正しく処理することを重視しており、②自身の利益以上に他人の利益を優先することが全体の利益に繋がることを知っている方です。それは個人資産の取り扱いに対しても、私腹を肥やすために八田氏が故意に嘘や妥協を以て手続きを行ったとは考えにくいという小生の所感に繋がるものです。

常に正しさを求め、勤勉に生きてこられた八田氏にどうか寛大な処置をいただけますようここにお願い申し上げます。

長裕陽

<以上>


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2012/02/05 Sun. 10:57 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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嘆願書 (26/146) 永井恵子 

嘆願書 (26/146) 永井恵子

犯罪の契機は、結局動機と人品に関わると思っています。その人品に関して、私の友人・知人に「あなたの知っている八田隆を文章にして下さい」と依頼しました。そして集まったのが146通の「嘆願書」です。検察特捜部に提出したものですが、本人の了承を得て実名公開します。

26通目の嘆願書は小学校の同級生のものです。私はなぜか小学校、それに中学校のクラス同窓会幹事なのですが、彼女は私と一緒に小学校の同窓会幹事です。

同窓会というと恩師を呼んで、ということになるのでしょうが、私は親に反抗する反抗期が全くなかった反動なのか、とにかく先生というのは嫌いでした。高校の亀田先生は例外中の例外で、「先生といっても文字通り先に生まれただけのことで何を威張ることがあるんだ」と子供の頃からずっと反発していました。今でも、「先生」と呼ばれてふんぞり返っている人に対して、そう呼ぶことで人間関係を円滑にすればいい、という処世訓はあるのでしょうが、私はそれに従うことが全くできません。プロフェッショナルな関係で、資格試験を通った医師、弁護士、会計士の方を先生と呼ぶことには勿論抵抗はありませんが、ことプライベートな関係でも、そうした職業にある人を「先生」と呼ぶ感覚が私には理解できません。多分、小学生の頃が一番、先生とバトルしたかなあ。向こうもこちらをガキだと思って高圧的な態度を取ることが多かったですから。

彼女は嘆願書に、紙相撲大会の思い出として「彼は力学を駆使した素晴らしい紙力士を作り上げ、勝ち進んでいった」と書いていますが、よく覚えていたなあと思います。自分でもこの嘆願書を目にするまで忘れていました。紙で作った力士を戦わせ、といってもただ周りをとんとん叩いて倒れた方が負け、という昔ながらの単純な遊びでした。そこで私が参考にしたのは1972年(昭和47年)初場所の北の富士vs初代貴乃花戦です。とりあえずその対戦をビデオで観て下さい。

ここをクリック→ 昭和47年初場所 北の富士vs貴乃花戦

結果は行司差し違えで、先に手をついた北の富士の勝ちというものです。これは投げを打つ貴乃花に北の富士が浴びせ倒して対抗しますが、北の富士は先に手をついています。しかし、それは下になった貴乃花をかばうためであったという物言いの結果の判定でした。「かばい手」というものです。

私が作った紙力士は腕が異様に大きく相手に寄りかからせないと立たないものでした。そして、勝負が始まるとそのまま相手を押し倒しますが、自分の手が先に着きます。それを「かばい手!」と言って、勝ちを宣言したものです。今思えば、それでよく相手が文句を言わなかったな、と思いますが、あまりの奇策と私の勢いに押されたんでしょう。とにかくそれが彼女の記憶に残っていたほどだったということです。

ちなみに私の祖父母が大の相撲好きだったので、私も自然と好きになり、「相撲」や「大相撲」といった月刊相撲専門雑誌を買うほどでした。郷土力士の輪島が全盛の頃で、今でも金沢の自分の部屋の鴨居の上には、輪島と初代貴乃花の手形を額装して飾っています。

私の彼女の当時の印象といえば、色白で細くて、ほかの女の子のようにがさつではなくて、とにかくかわいいという感じでした。遠足の日の朝、髪をばっさり切って現れた時は、6年2組のクラス男子全員が恋に落ちたものです。私はその時彼女が背負っていたてんとう虫のリュックを今でも覚えています。

<嘆願書>

私は八田君と小・中学校で同級生だった者です。中学卒業後は、小学校のクラスの同窓会役員同士というご縁のためか、電話で数回話したことのあるお付き合いです。

先日八田君からの電話で今回の話を知ったのですが、ニュースで時々耳にする申告漏れと同様に、追加納税で解決する問題だと思っていました。しかし現状が厳しいことを知り、少しでもお力になれればと思い、八田君について書かせていただきます。

少年時代の彼は、スポーツマンで話術があり、がり勉ではない明るい天才というイメージです。

ある日突然電話がかかってきた時も、金沢弁が抜けていた以外は昔と変わらず、小学校時代の様に会話がはずみました。東大を卒業し外資系企業で難しい仕事をしているということでしたが、特に自慢話をするわけでなく、今回の話を聞くまでこんなに大きな仕事で高収入を得ていたとは知りませんでした。

人生を楽しんでいる様な話はありましたが、家族をおいてサーフィンを楽しんで帰宅した時家事が残されていて、それは自分のすべき仕事と察してしていた、という話もありました。

また、今回の話を聞いて思ったのは、もし仮に彼に脱税の意思があったとしても、今回の様な調べてすぐわかる方法をとるだろうか?ということです。

小学校で紙相撲大会があった時も、各自好きなキャラクター等それぞれの思いで紙力士を作った中、彼は力学を駆使した素晴らしい紙力士を作り上げ、勝ち進んでいったと記憶しています。

最後に、八田隆という人間を少しでも理解していただき、公正な判断をしていただけることを願っております。

永井恵子

<以上>


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2012/02/04 Sat. 10:49 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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嘆願書 (25/146) 金山順子 

嘆願書 (25/146) 金山順子

犯罪の契機は、結局動機と人品に関わると思っています。その人品に関して、私の友人・知人に「あなたの知っている八田隆を文章にして下さい」と依頼しました。そして集まったのが146通の「嘆願書」です。検察特捜部に提出したものですが、本人の了承を得て実名公開します。

25通目の嘆願書はスノーボードつながりの友人のものです。

知り合うきっかけとなったのは、私が白馬に住んでいた頃、彼女の息子が同じスノーボード・キャンプに参加したことでした。まだ奴は小学生で、その頃は私もさすがにガキんちょには負けないつもりでした。

彼女の息子がその後、オリンピックを目指すようになったとは聞いていました。カナダのバンフにスノーボード・キャンプに行った際、偶然に同じゲレンデで滑っている彼とばったり会いました。最初に会ってからわずか2年でしたが、その頃にはオリンピックを目指して外人ライダーとがんがん滑ってました。目標はバンクーバー・オリンピックということで、私も応援し資金的な援助もしたものです。

彼は、結局オリンピックには出場叶わず、今は役者を目指して頑張っているようです。人とは違う道を選んで大変だとは思いますが、親子共々根性のある人たちですので、なんとかなると期待しています。

私の息子と話していると、彼らの年代には権力が必ずしも正義ではないということは比較的容易に理解できるようです。明らかに私たちよりは柔軟な考え方ができるようです。確かに盲信することは危険なのですが、子供の頃から全てに懐疑的なのも少し残念な気もします。正しくあるべきものは正しくあってほしい、それが子供たちの未来のために必要だ、と考えます。仕事に追われた大人たちにはそうした発想は難しいのでしょうか。

<嘆願書>

私、金山順子は、八田隆さんについて嘆願したくお手紙申し上げます。

私が、八田さんと知り合いましたのは、約9年前、当時オリンピックを目指していた息子のトレーニング環境を介して知り合いました。彼にも息子さんがいらっしゃること、地元が金沢であることから友人としてお話するご縁に恵まれました。

その後も、私も東京にて仕事をすることになり、話す機会も増えました。今から5年ほど前です。当時彼は仕事にとても集中していましたし、仕事や部下に対する思い、一般常識的な考えにとても感心させられました。それは、息子にとっても私から聞く話で、将来はそんな人間になって行きたいと思わせてくださるような人柄です。

その後、息子が実際にジュニアの日本代表として海外でトレーニング、参戦するようになり、その資金面での相談や人としての考え方、親としての考え方、社会人としてと言う部分で意見をいただき、更に、資金面での援助もいただきました。その資金は、まだお借りしたままですが、とても誠実な気持ちをこちらが保って行けるような八田さんの人柄に救われています。

この度、嘆願書を出すと言う事情を詳しくは理解できていませんが、私の知る限りの状況の中で、八田さんが故意に社会的な立場を失うようなことは絶対にする人ではないと言うことは解って欲しく思います。

知り合った当時から「息子のために」と言う話の中でできる限りのことを尽くしてやりたいと言う気持ちと、親として子供が何かを負い目に思うようなことは絶対にしてはいけないと言うことを常々感じることが有りました。

八田さんは、正直に真っすぐに生きていらっしゃる方と思っています。

何かの勘違いや見解の違い等で八田さんが悪い状況に置かれているのであればそれをクリアにしていただきたいと思います。社会的なルールを守って生きていらっしゃるとも思います。それでももし、何か知らずに脱することが有ったとするなら、彼の性格上きっとそれを改めて学んでいかれることと思います。

八田さんのお立場について公正な判断をお願いしたいと思います。

金山順子

<以上>


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2012/02/03 Fri. 12:59 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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嘆願書 (24/146) 高島由利 

嘆願書 (24/146) 高島由利

犯罪の契機は、結局動機と人品に関わると思っています。その人品に関して、私の友人・知人に「あなたの知っている八田隆を文章にして下さい」と依頼しました。そして集まったのが146通の「嘆願書」です。検察特捜部に提出したものですが、本人の了承を得て実名公開します。

嘆願書24通目は私の高校後輩からのものです。

私にとって、高校卒業まで生まれ育った故郷金沢は、私のアイデンティティーです。

小学校の時、学校にいつも遅刻しそうになって走り抜けていた兼六園。中学になって、自転車通学が許される範囲外だったため学校まで自転車で行けず、いつも自転車を置かせてもらった金沢神社の木霊がいるような森。高校はバイク通学でしたが、冬にはいつも雪の中1時間近くかけて歩いた通学路の犀川べり。夏のテニスの大会のじりじりする日照りの兼六園コート。高校時代に背伸びしてボトルキープまでして飲み歩いた片町の夜。大学に入って車の免許を取ると、帰省の度に車で行った卯辰山からの夜景やなぎさドライブウェーの夕日。いつも私の心の中には金沢の風景があります。

私が持つ金沢のイメージは「水」です。

私が子供の頃に、百万石祭りの前夜祭の提灯行列で歌いながら歩いた金沢市民の歌は

「二つの流れ遠長く、霊沢澄んで湧くところ、甍の数の日に添いて、自ずからなる大都会」

これが一題目です(歌詞の一番目を「題目」というのは方言らしいですね。私は最近知りました)。この歌詞にもあるように、金沢には二つの川が流れています。犀川と浅野川。そして私が通っていた小・中学校は市のど真ん中の、今は金沢21世紀美術館が建てられた場所にあったのですが、学校の目の前には辰巳用水という名の用水路が流れていました。金沢は海沿いでもあり、水に囲まれたうるおいが豊かな都市です。

私が物心ついて東京に初めて出てきたのは、祖母に連れられ、日立と藤沢に住む叔母たちの家を訪れる途中に寄った、中学1年の春休みでした。夜行寝台列車から山手線に乗り継ぎ、降りた場所は東京駅八重洲口。東京は人が多いと思っていたのに、人っ子一人いないのに大変驚きました。それもそのはず、週末の早朝にそんなところに人がいるはずはないのですが、私も子供だったので、「なんじゃこりゃ」と吹きすさぶからっ風の中、荒涼とした光景に圧倒されていました。全く水がない、緑がない。と思ったものです。夜行列車の中で読んでいたのが、太宰の「人間失格」だったので、どよ~んとした陰鬱な雰囲気がマッチして、それが私の東京の第一印象でした。

高校卒業から東京に出てきましたが、以来住んでいた場所は、千歳船橋→代々木上原→二子玉川→上野毛→用賀→(白馬)→祐天寺→目黒→(バンクーバー)と引っ越しました。二子玉川は好きな街です。あの地下鉄から、がーっと外に出てきた時に多摩川の夕焼けが見えると、車内が「おーっ」というざわめく瞬間は最高です。水の近くというのは落ち着くんだと思います。

高島は高校の一年下のテニス部の後輩でした。私の同級生が下の学年にも声を掛けて嘆願書を頼んでくれたため、彼女と高校卒業以来久しぶりに会うことができて、昔話に花が咲きました。嘆願書の中の「自転車をこぐ」というのは、彼女の自転車を二人乗りしていてお巡りさんにつかまってしまうというオチがあるのですが、そうした反社会的行為は書いてはいけないと配慮してくれたんだと思います。かわいい後輩の一人でした(おっと、女性には過去形じゃいかんな)。

<嘆願書>

八田隆氏は、石川県金沢大学教育学部附属高等学校で私の先輩でした。同校は、1学年3クラスしかない小規模校であったため、学校行事や課外活動でも学年の枠を超えて一緒に活動する機会が多く、先輩後輩の結びつきが大変強い学校でもありました。

私は入学と同時に硬式テニス部に入部しましたが、文武両道の素晴らしい先輩方が揃っている事に驚きを覚えたものです。中でも、八田先輩は私に大きなインパクトを与えた方でした。たった1年しか年上ではないはずなのに、自分よりも数倍大人で、人生を何倍も経験しているような、高校生でありながらすでにしっかりと自己が確立しているという印象でした。八田先輩はいつも友人や後輩に取り囲まれている方でした。お話しの端々から熱心な読書家である事が伺えました。文学作品を通じて人間や世の中について実体験以上に多くの事を学んでいたせいもあり、年齢以上に大人びた印象を醸し出していたのかもしれません。常に、強い意志と信念を持っている方でした。テニスの指導時を含め、話し振りは、常に論理的で明確でしたが、時折発するお茶目な冗談や屈託のない笑顔は、相手への思いやりを忘れない優しい人柄を感じさせる一面でもありました。

社会人になってからは直接お会いする機会もめっきりなくなってしまいましたが、高校時代から常に注目される存在であったため、時々、同級生や共通の知り合いより、八田先輩は華やかで注目を浴びがちな外資系金融業界で活躍しているという事を伝え聞いておりました。しかしながら私の中での八田先輩は、30年前と変わらず遠くに医王山を望み金沢市内を流れる犀川の川原で自転車をこぐ、素朴で誠実な文学青年です。「三つ子の魂百まで」という諺があるように、学生時代にあんなに立派で周りから尊敬されていた八田先輩が、例え社会に出て人生の荒波に揉まれたからといって、人から後ろ指さされるような事を決してするとは思えません。私と疎遠になっていた期間も昔と変わらず、きっと、常に自分にも他人にも正直に真面目に生きてきたのだと確信しております。

今回の脱税容疑のニュースにつきましては、私にとっても青天の霹靂でした。八田先輩に大変お世話になり感謝している後輩の一人として、微力ながら少しでもお力になれないかと思い、このような嘆願書をお送りしている次第でございます。事実が明らかになり、容疑が一刻も早く晴れる事を心底願っております。何卒、公正な調査、判断と寛大なご処置をお願いいたしたく、心よりお願い申し上げます。

高島由利

<以上>


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2012/02/02 Thu. 17:41 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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